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  • 電子書籍の問題点を解消する「電子書籍の保険」システムはいかが?

    私は普段読む本は全て電子書籍です。購入しているのはAmazonの電子書籍サービスであるKindleばかりですが、どうしても読みたい本がKindleで購入出来ない場合は、紙の本を購入して自炊(本を分解してスキャンして電子データ化すること)しています。まあ面倒です。Kindleで買えるのなら紙の本より高くても買います。

    世の中には電子書籍よりも紙の本がいい、と言う人がいます。別にそれを否定するつもりはありませんし、紙の本の良さも分かりますが、個人的には大量に増えていく本を自室に置いておくのが大変なので電子書籍の方がその点では間違いなく便利です。それ以外にも大きな分厚い本でも持ち運ぶのが楽というのもあります。

    電子書籍を買わない人が嫌がる理由の一つに、所有することができず読む権利を買うだけだ、ということがあります。言い換えると、電子書籍のサービスを提供している会社が倒産したり、そのサービス自体が無くなったりすれば、買ったはずの本を二度と読めなくなる、と言うことです。

    実際、これまでいくつかの電子書籍サービスが閉鎖され、利用出来なくなったということがありました。私がKindleでばかり購入しているのは、「自分が生きているうちにAmazonが倒産することはないだろう」と高をくくっているからでもあります。もちろん、IT業界の栄枯盛衰は激しいですし、Amazonだって分かりませんが、まあ他の電子書籍サービスを提供している会社よりは確立が低いかな、と勝手に思っています。ただ、紙の本と比べるとリスクがあるのは確かです。紙の本で購入した本が読めなくなるリスクは紛失や火事で燃えてなくなることくらいでしょう。

    ただ、読んだ本を再び読むケースというのは全体の数パーセントではないかと思います。私自身、何度も読み返す本はこれまで読んだ本の中で1%もありません。本当に何度も読み返す本が読めなくなる問題に対する対策としては、紙の本を購入して「自炊」をすることです。本当に大事な本であれば、紙の本を2冊買う人もいるでしょうし、それと同じような考え方ですね。

    もう一つの解決策としては、他の電子書籍サービスでも購入しておく、ということですが、これはこれで単純に費用がかさんでしまいます。

    そこで、多くの電子書籍サービスを提供している会社にお願いしたいのは、複数の電子書籍サービスを横断して同じ本を読める購入形態の導入です。一社のサービスで読める権利よりは高くすべきですが、複数の電子書籍サービスで読めるなら、多少高くてもその価値はあると思います。いわば電子書籍の保険や共済のようなシステムですね。未来の新しい電子書籍サービスでもサポート出来るようなシステムであればなお良いです。そのシステムに参加しないことが消費者に対してマイナスの印象を与えるような形で圧力をかけられれば、参加する会社を増やすことが出来るでしょう。

    実際のところ、こういうサービスがすぐに実現するとは思っていません。というか、どこの会社にとっても現時点ではメリットがほぼないでしょう。しかし、電子書籍の問題点を解消し潜在的な顧客を明示的な顧客に変化させることが出来るサービスでもあります。

    出版業界が戦うべき相手は、ネットショップや電子書籍ではなく、消費者の時間を大量に消費する動画サービスやSNSのはずです。本を読んで得られるメリットを消費者に自覚してもらう為に、消費者が電子書籍を購入しない理由を消すことが出来るのであれば、各社共同保険のようなシステムを導入するのはそれほど損な話ではないと思います。

  • 古いようで古くない儀礼的な風習が廃れていく

    昔からあるようでそれほど歴史が古くない風習・習慣というものが最近すたれつつあります。

    例えば年賀状。一般人が手軽に郵便を出せるようになったのは、明治時代になって近代郵便制度が確立してからです。当然ながら全て手書きでした。個人が大量に送付できるようになったのはガリ版を使ったり、あるいは昭和後半に出てきたプリントゴッコなどの機械を使えるようになってからです。ワープロ、次いでパソコン&プリンターの普及によって、一人で何百枚も手軽に印刷可能になりました。しかし、ケータイでのメールそしてSNSの普及によって年賀状ではなくあけおめメールやメッセージを使う人が増えたことなどで、年賀状の発行枚数は減りつつあります。

    お歳暮やお中元も年賀状に近い存在です。かつては年末や年始の挨拶として自身が現物を直接相手の家に持っていくものでしたが、百貨店の登場、個人向け運送業界の成立、高速道路網の整備などによって、遠方の人にそれなりの品物を決まった時期に確実に贈ることが簡単になったことで一般的な文化として普及しましたが、経済的な理由や面倒さからか儀礼的なやり取りは減りつつあります。

    成人式についても一般的に普及というか各自治体で行われるようになったのは昭和の中頃です。もちろん、武士には元服という儀式がありましたし、日本のみならず成人としての通過儀礼は世界各地にあります。ただ、成人式は同窓会や帰省とセットとなっていたり、儀礼というよりはイベントになりつつあります。18歳を成人とするケースもあるので、20歳という区切りが微妙なものになっていくでしょう。

    それ以外にもバレンタインデーのチョコについても義理チョコは批判や面倒さから減少しています。本命チョコも減っているらしいですが、その代わり友チョコや自分チョコが増えているそうです。自分チョコはもはやただのチョコ好きがチョコを買って食べているだけだと思うのですが、ともかく形だけのチョコというのが無くなっていくのでしょう。

    食べ物で言えば節分の恵方巻きや土用の丑の日の鰻なども、一斉に日本中が食べることを前提に生産・販売されますので、フードロスや店員・店主の自腹購入が問題になっています。そもそも節分ではなく真夏に巻き寿司を食おうが土用の丑の日ではなく真冬に鰻を食おうが栄養価は大して変わりません。単なる商業上の話です。売るための広告宣伝に乗る人の割合が減れば消費も減ります。

    いずれも、全国民的に広まったのは昭和後半や平成になってからのものであり、インフラやライフスタイルの変化によって普及が促進されたものでもあります。そういったものが、長引く景気低迷やIT革命によりさらにライフスタイルの変化がもたらされたり、あるいは人間関係の変化によって、形式的・儀礼的なものが忌避されることで廃れていく、という流れになっています。

    儀礼や形式が全く不要というつもりはありません。無駄に思えても無意味ではないですが、それほど歴史が長いわけでもなく、マスメディアや企業側の商売の都合で普及したものは、時代の変化によってあっさりと消えていく運命にあるのでしょう。

  • 米をもたらす雪が無くなる地球温暖化をどうするか

    地球温暖化がこのまま進めば、当然ながら地球全体で様々な変化が起きるはずです。日本に限ってみても、昨今のゲリラ豪雨、酷暑、巨大台風などの影響が大きいです。

    夏だけではなく、冬にも温暖化の影響があるのだということが今年の暖冬を見ると実感されます。2月の中頃に入ってようやく雪が各地で降り積もり始めました。スキー客を相手にしている商売にとってはこの記録的な暖冬はたまったものではないでしょう。

    しかし物事には両面があります。この温暖化で雪国といわれる北陸地方・東北地方・北海道などでは、雪不足によって雪下ろしの手間も減るはずです。過疎と少子高齢化が進んだ地方では雪下ろしに必要な人手を確保するのが難しくなっていますから、もし温暖化によって雪下ろししなくて済むようになるのなら、かえって歓迎とまでは言わないまでも悪くないと思うかも知れません。

    とは言いつつも、やはり物事には両面があります。雪国は雪解け水で成り立つ産業があります。古くは小千谷縮のような雪ざらしを生産工程に入れているような繊維産業もありますが、雪国のほとんどは米の生産量が多い地域です。

    米は本来、暖かいあるいは暑い地域で生産される作物です。コメの原産地は中国南部や東南アジアと言われています。しかし今の日本で有名なブランド米のほとんどは、上記の雪国にあります。

    その理由は農林水産省のホームページで説明されています。

    どうして北海道、東北、新潟で米の生産量が多いのですか。
    https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0405/02.html

    ・品種改良
    ・栽培技術
    ・寒暖差
    ・他産業よりも儲かる

    といった理由のようですが、そもそも稲の栽培、特に水田での農業には大量の水が必要です。それも海水ではなく淡水が必要ですので、必ず川か地下水を水田まで引っ張ってこなければいけません。

    雪国では雪解け水が豊富に存在します。そしてそれは一度に川に流れるのではなく数ヶ月間かけて流れます。米作りには水が必要で、そのような淡水が比較的少ない地域は昔は米に依存せず麦や蕎麦も作っていました。蕎麦の美味しい地域と言われるのは、比較的冷涼で山間にある地域が多いのはそのためです。

    その肝心の雪が、冬場でも雨として降るとしたら米の生産にも影響するかも知れません。また、年中暑くなるのであれば、ジャポニカ種ではなく長粒種に適した地域になってしまい、従来の美味しいお米を食べること難しくなるでしょう。物事には両面あるとはいえ、急激な気候変動はやはり、デメリットの方が大きいでしょう。少なくとも、衣食住どれにおいても今と同じ環境を享受し続けることは難しくなります。

    現在、地球温暖化に対する反応は真っ二つに分かれつつあります。環境保護を優先するか、経済成長を優先するかの両陣営がお互いに感情的に罵り合う構図になってしまっています。お互いが相手を論理的に説得するのではなく、問題の本質とは関係ない個人攻撃、人格攻撃を行っている以上、歩み寄りも解決も無さそうですが、単なる温暖化というよりも異常気象の頻発という見方をすれば、問題意識を持つ人や組織をもっと増やせるはずです。

    異常気象の頻度が高まったという見方をすれば、産業界にとっても異常気象は売上・利益の減少につながりますから、利害の共通点を見出せるはずです。

    例えばゲリラ豪雨によって、人的災害はもちろんのこと、それ以外にも道路・橋・線路や電線などのインフラが破壊されることにより経済的にも大きな損失が発生します。それらの復旧にかかる費用だけではなく、復旧するまで利用できないことによる機会損失もあります。

    経済的な損失を自覚した企業は、CSRという社会的責任の看板ではなく、決算のためにも環境保護を意識し始めています。おそらくこの流れは局地的あるいは局時的なものではなく、今後の長い潮流となって経済界にも訪れます。まずは意識の高い欧州市場で、次いでトランプ後(来年か5年後か分かりませんが)のアメリカでも民主党候補が勝てば始まるでしょう。中国やインドなどの経済発展が著しいとしても、北米・欧州市場へのアクセスのために環境保護を打ち出すことは、企業や産業界そのものにとって必要になってくるでしょう。

    その頃に環境保護派と反対派の争いになった場合、個人としてどちらに付くのか? 日本企業は? 日本政府は?

  • 本体が薄くてキーストロークが浅くてデザインがよくてワイヤレスでキー配列が普通のシンプルなデザインのキーボード=MagicKeyboard

    私は普段、AppleのMacminiを使っているのですが、キーボードもAppleのMagicKeyboardにしています。自分史上、おそらくトップクラスの打ちやすさを感じるキーボードだと思っています。

    以前、キーボードについては、

    https://hrsgmb.com/n/nb752d9d65b56

    このnoteでMagicKeyboardを2つ購入して、自室用と持ち運びようにしていると書きました。

    いつでも同じキーボードを使用するということの利点は言うまでもありませんね。キー配置が異なると打ち間違いが多くなり、入力速度が遅くなるだけでは無く、ストレスも感じてしまいます。

    ではなぜこのMagicKeyboardが自分的に良いと感じられるのか、といいますと、

    ・キーストロークが浅い
    ・キーボード本体が薄い
    ・ワイヤレス
    ・充電が長持ち
    ・キー配列が普通

    といったところです。下三つは多くのワイヤレスキーボードでも可能ですが、上二つを実現しているキーボードはかなり少ないです。もちろん、モバイル向けのキーボードであれば同じような特徴をもった製品は多いですが、モバイル向けキーボードは当然ながら持ち運び前提ですので、折りたたむタイプのため安定感を欠くものが多いです。また、フットプリントを小さくするためにキー配置やキーのサイズが変則的になっているのが普通です。

    デスクトップ向けのキーボードでは薄いものは少ないです。もちろん無いわけではないですが、MagicKeyboardほどシンプルなデザインのものは無いと思います。

    キーストロークについては結構私は変わり者かも知れません。一般的にはパチパチはっきりと押す人が多いと思いますが、私はノートパソコンだろうとデスクトップだろうと、キートップを触るように打ちたい派です。キーストロークが深い方が好きな人もいれば、浅い方がいい人もいるでしょうけれど、私個人は浅い方が好きです。

    ですので、Macユーザーに結構酷評されていた2015年以降のMacBookに搭載されたバタフライキーボードは個人的には悪くないと思っていました。あのキーボードは非常にストロークが浅く、普段深めのキーボードを使っている人は打ち込みすぎて指を痛めるレベルでしたが、浅いタッチの人にとっては結構良かったと思います。ただ、あのバタフライキーボードはストロークどうこうよりも、微小のホコリが混入すると使い物にならなくなるという大弱点がありましたから、それ以前の問題ですね。

    それはともかく、有名な高級キーボードは静電容量方式で、キー押下時に必要な力が軽くなっています。さらに、その力の加減も変更出来るキーボードもあります。キーストロークが深めがいい人は東プレやHHKB、あるいはカチカチ音が心地良い人はFILCOなどになるでしょうね。

    キーストロークが浅いのがいい人にとっては、そしてMac使いにとってはMagicKeyboardが最適解のはずです。テンキー付きかどうかは分かれるでしょうけれど、持ち運びようキーボードと同じものを使う、という前提を持ち出すと、テンキー無しに落ち着きます。まあ世の中にはテンキー付きフルサイズのキーボードを持ち歩いている人もいるのかも知れませんが・・・。

  • 日本語が使えなくなる時

    日本の人口減少が始まりました。国家の存続や社会の持続性、年金や保険の問題などもありますが、日本語を使用する人が減っていくということでもあります。日本人と日本語話者はほぼ同じであり、他の国籍者・言語と大きく異なります。

    日本人が減れば日本語使用者も減ります。日本語使用者数が減れば、日本語を見かけることも減っていきます。減少が続けば、日本で生活する上で日本語を使用しない、あるいは出来ない状態に陥ります。そうなると、日本語に基づく日本文化の継承が出来なくなります。

    今の日本において少子化問題は重要なはずですが、最重要課題としては考えられていません。本当に最重要と見なされているのなら、年金や保険を削ったり経済が大きく落ち込んだりあらゆる犠牲を払ってでも少子化対策を行うはずですが、そこまではしていません。ほんの少しずつしか対策が実行されておらず、人口減少を補うスピードではありません。

    少子化対策が最重要課題ではないので人口は減り続けます。出生率の改善の他に、日本に住む人間を増やす方法としては移民しかありません。

    しかし、移民を大規模に入れて日本語社会に同化させる試みもおそらく出来ないでしょう。移民の大規模な流入は大きな反発を招くでしょうし、移民規模が大規模であればあるほど、日本社会・日本語社会に同化せずに元の文化を保ち続けるコミュニティを日本国内に築くことになります。日本語を使えない移民が増えれば、日本語を使わなくても生活できるような社会を作るように内外からの圧力がかかります。無理矢理日本語使用を義務づけるのも現代ではまず無理でしょう。昔ならいざ知らず、強制的な言語の押しつけは不可能です。

    少子化対策も成功せず、移民も無理ということになると日本人・日本語使用者は減り続けます。人口が減るだけであれば日本語文化は規模を縮小しながらも保ち続けられるでしょう。数百万人の話者しかいない言語でも文化は保てます。しかし、グローバル化が進み続けるのに日本語人口が減れば、日本語をメインで使用する(日本語しか使えない)人が、仕事・教育・生活上で不便になっていくことになりかねません。

    日本語以外の言語も使うのが当然の社会になると、日本語で思考・表現する文化が減っていきます。日本人が減ればその分、一人の人間が自分の言語的リソースを日本語と他言語に振り分けるパーセンテージも日本語は割合を減らすはずです。その方が便利になるからです。

    日本語の代わりに使われるとしたら、英語かマンダリン(標準中国語)でしょう。中国も人口減少社会に突入するので中国語が諸外国に広がるかどうかは微妙かも知れません。

    ともかく、日本で使われる第一言語が日本語ではなくなると、英語あるいはマンダリンで日本文化を継承することは出来るだろうが、当然中身は変容します。

    こういったことがすぐに起きるわけではないでしょう。少なくとも数十年から百数十年はかかる話です。ただ、全てがある一瞬で切り替わるわけでもないでしょう。日本語の使用が減る分野としては、まずは日本語で一から創作される文化ではなく、外国語で製作されたものを日本語に翻訳する分野でしょう。書籍や映画、あるいはニュースなどです。英語を無理なく使える人が増えれば、翻訳する必要性は減ってきます。翻訳物にお金を払う人が減るからです。翻訳されるまで待たなくて済みますし、翻訳によって内容が多少なりとも変わるリスクも減ります。

    翻訳物の減少が日本語文化の終わりの始まりになると思います。まあ、その前にAIによる高性能な自動翻訳が誰でも簡単に使用できるようになるでしょうけれど。

  • 褒めることは難しい

    褒めるということは簡単なようで難しいです。

    怒る、けなす、叱る、あげつらう、批判する、非難するということは精神的な負担を考えなければ、褒めるよりもたやすいかも知れません。

    褒める場合、本当に良いところを見つけて褒めることもあれば、相手を励ますために半ば無理矢理に褒めるケースもあります。前者はそのままそれでいいのですが、後者の方はかえって悪く受け止められたり勘ぐられたりしかねません。

    相手に嫌味に取られず、周囲にもおべんちゃらにも思われず、ただあるがまま良いところを受け止めて褒めることが出来るのは、ある意味一種の才能と言えるでしょう。

    注意しないといけないのは、褒める際に他のものと比較して褒めてしまいがちだということです。

    「○○と比べて良い」
    とか
    「あなたはこういうところが××と違って素晴らしい」
    といった相対的な褒め方をしてしまうと、あくまで比較対象との差をほめているだけであり、褒めることによる効果は薄くなる一方で、比較対象をけなしていることになります。そしてその比較対象の側に褒めている内容が伝わった場合、褒める人だけではなく褒められた人も憎悪や反発の対象になってしまいます。

    これでは褒めるだけ逆効果になります。

    逆に、叱ったりする場合にも同じことがあり得ます。

    「△△はきちんとしているのにお前はダメだ」
    とか
    「□□は君みたいなようなことしないよ」
    という感じに、自分が怒られながら他人が褒められているのを聞かされるのは嫌なものです。先の例の全くの裏返しです。

    褒めるのも叱るのも、相対的な指摘なのか絶対的な指摘なのかによって、ネガティブに受け取るかポジティブに受け取るかの違いが出てくるのではないかと思っています。

    現在では、褒めるのもけなすのも一対一のやり取りだけではなく、各種SNSや、YouTubeのコメント欄や、ヤフーニュースのコメント欄などを通じて、一対多かつ一方通行の「褒める・けなす」が存在します。

    そしてその「褒める」時や「けなす」時に、わざわざ比較対象を持ち出すことで、比較される方の擁護や批判も入り交じってきてカオス状態となります。

    誰かや何かを非難することに意欲を燃やし、それが生きることのモチベーションになっている人もいるのでしょうけれど、普通はネガティブなことを発信した人の心にもネガティブなものが残ります。他人の不幸は蜜の味と言いますが、それはあくまで自分と比較して差を見いだしているだけです。単純に、良いものを見つけて良いと言える方が心の負担も無くて済みます。

    嫌いなものが多い人よりも、好きなものが多い人の方が幸せだと思います。

    仕事とかしつけとか、ただ単に褒めるだけでは上手く行かない立場の人もいるでしょう。しかしそういう人こそ「良いもの」を見つけて「良い」と感じる、褒める、ということで心のバランスが取れると思います。

    生きづらい人生だと感じているのなら、誰かを非難するよりは、誰かを褒めた方が結局は自分にとっても良い結果になるのではないでしょうか。

  • 将来のサッカーはヘディング禁止? ヘルメット着用? それともゴールとスピードを減らす?

    プロサッカー選手が度重なるヘディングの衝撃によって脳や身体に障害が起きる、ということはちょくちょくニュースになっていましたが、こんなウェブ記事を見かけました。

    イングランド代表OBの妻が夫の神経変性疾患を告白 ヘディングによる脳損傷の理解呼び掛ける
    https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=370201

    この選手は86年に現役を引退しているそうですが、今のサッカーボールに比べて昔のボールは柔らかかったはずです。以前は天然の革で作られていましたが、今では人工皮革製です。より固く、蹴ったときの反発力を大きくすることでボールスビードが上がります。それによってゴールも増え、試合のスピード感も増します。それらはもちろん、サッカーを盛り上げるためではありますが、さらに言うとFIFAなどのサッカー協会や各メディア・広告代理店が高い放映権を売り買いするための理由でもありました。

    つまり、現代のサッカー選手は昔よりも衝撃が強いボールでプレーしているはずです。

    80年代に引退した選手に大きな脳の損傷が起きているのであれば、現代のカチカチのボールをさんざんヘディングしている現代のプロ選手はどうなるのでしょうか。

    脳内への衝撃だけではなく、首の骨、頸椎や神経にも影響があるかも知れません。

    今後もサッカー選手にヘディングでの衝撃で障害が出るということが続発すれば、ヘディングを禁止するくらいのルール改正も起こりうるのではないでしょうか。

    昔のボクシングでは素手で殴り合っていましたが、あまりに危険だということで拳の何倍もの大きさのグローブを付けるようになりました。それでもパンチの衝撃での死亡事故や重い怪我は起きています。

    アメリカンフットボールでもヘルメットやプロテクターはどんどん増えて大きくなり進化していっています。アメフトはボールが頭に当たるわけではないですが、プレーする選手のトレーニング方法が進化することで身体能力が上がり、スピードとパワーが昔のアメフトよりも速く強くなり、その結果として体が受ける衝撃が増え続けている、という問題に対抗するためです。

    サッカーも同じことです。サッカー選手の筋肉量や体の大きさあるいはスピードだって昔よりも増しています。その鍛えられた体が蹴ったボールを頭で受けた時の衝撃力は、昔よりもはるかに大きいはずです。さらにボールも固くなっているとしたら、どうなるでしょうか?

    サッカー選手のトレーニング方法が進歩・進化しているといっても、頭を鍛えて固くすることはできません。頭皮の下に筋肉をモリモリ付けることは人間には出来ないのです。頭蓋骨の堅さも、例え山ほどカルシウムを取ったところで限界はあります。

    ヘディング禁止にしてしまうとさすがにサッカーが変わりすぎてしまう、という非難が絶対に起きます。世界中で猛烈な反対が起きるのは間違いありません。ただ、その一方で選手を守るという大義名分もあります。だからといって商業主義にまみれたFIFA以下の協会・リーグ・メディア・広告代理店そしてボールメーカーが、わざと柔らかいボールを用意するとは思えません。ゴールが減って観客や視聴者が減ることを何よりも恐れているはずだからです。

    ヘディングを禁止せず、ボールも固いままであれば、危険を回避するにはサッカー選手もアメフト選手のようにガチガチにヘルメットとプロテクターを頭、もしくは首から上全部に付けることになってしまいかねません。それはそれで結局サッカーが変わりすぎてしまう、ということでもあります。

    一番あり得る今後のシナリオとしては、結局これまでと何も変わらず、サッカー選手が危険にさらされ続けるだけのような気がしますが、もし、前述のような選手を守るために大きくサッカーを大幅に変えてしまう変更をします! と言われたときに、サッカーファンはどれだけ受け入れられるでしょうか?

  • 精神論が通用した昭和、通用しない平成・令和

    体育会系的な精神論、根性で何とかする、という考え方は今の時代では推奨よりは非難されることが当たり前のようになってきました。しかし、かつては言うまでもなく世間一般で当然とされてきた思想であり、むしろ賞賛さえされていました。

    かつての日本は戦後の生めよ育てよの考えからベビーブームが生まれ、その世代が団塊の世代として学校や企業の在り方に大きな影響を及ぼしました。

    この団塊の世代が登場したことにより、多くの人数の中から激しい競争を経て、少数のトップクラスを作り出して物事を進めていく、というモデルが出てきました。

    その競争の過程においては、一人一人の特性や適性を見極めてそれぞれに合った育成計画を立てる、ということはむしろ非効率です。大まかに言うと多産多死の時代において、一人ずつ丁寧にフォローしていくのは無駄ではないですが非常に効率が悪いシステムとなってしまいます。そういう時代においては、とにかく一元的な選抜方法を厳しく適用して、その中で勝ち上がってきた少数を選び出す、というやり方が適しています。

    逆に、少子高齢社会を迎えた今の日本のように、少ない人数を出来るだけ脱落者を出さずに将来のそのシステムを支える人を育てていくためには、厳しく一方的な選抜方法は逆効果です。一人一人丁寧に育て上げないと、最終的に人数が不足してしまう可能性があります。少産少死では精神論ではなく、論理的に効率よく選抜・育成するシステムが無いといけないわけです。

    昭和の時代は無理や無茶を精神論で乗り越えてきた時代でした。もちろん論理的・論理性が無かったわけではありません。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉にあるように、やるべきことを全てやった後、最後の最後で差が付くのが精神や根性のところです。やるべきことをやる前にすぐに精神論を持ち出して根性のあるなしで結論づけてしまうのは、それこそ怠慢でしょう。

    現代人、特に若い世代はその辺は敏感に感じているのかも知れません。非論理的な精神論ではなく、なぜこれが必要なのかということを理解することが若者を動かすのに必要なことでしょう。

    昭和の世代にしてみたら、自分たちが育てられた多産多死の中では通用したシステムが、少産少死の中では通用しないという現実に直面したときに、
    「最近の若い者は・・・」
    といって嘆いたり批判したりしてしまうかも知れませんが、それはまさに
    「人事を尽くして天命を待つ」
    ところまで突き詰めていない考え方です。

    精神論は物事を始めるに当たり先発隊ではなく最後の砦です。まずは、現代に合わせたシステムで動かしていかないと、世代間ギャップは埋まらないですし、世代間対立が強くなってしまいます。

    それを若い世代に理解しろ、というのも無理な話です。それこそ過去を経験しているかどうか、ということは年配者の長所であるべき話です。過去の経験と現代の違いを比較した上で、現代に最も適したモデルを提示して説明すべきです。

  • プーチン院政を封じ込められるか

    ロシアのプーチン大統領が、自身の大統領任期切れの後も国会議長になって権力を握り続けるのではないか、と推測がされています。実際どうなるかはまだ分かりませんが、大統領を退いた後に全ての権力を手放して田舎でひっそりと余生を過ごす、ということはないでしょう。権力への執着心もさることながら、権力を手放した後に待っている、独裁の被害者からの報復を防ぐ必要があるはずです。

    日本におけるかつての田中角栄や竹下登のように、与党内の最大派閥の長としてキングメーカーになるのと似ているのでしょうけれど、大きな違いは法的に裏付けのある立場なのかそうでないのか、ということです。この辺は日本と欧州の違いなのかも知れませんが、プーチン大統領が院政を敷くにしても法的根拠が必要だと思っているのでしょうし、そうしないと周囲の部下やロシア国内を納得させられないと判断したのでしょう。

    80年代の改革開放路線を成功に導き、現在の世界第二位の経済をもたらした中国の鄧小平は、国家主席でなくなった後も中国の究極の権力者であり続けました。始めは党中央軍事委員会主席の地位を持っていたのでクーデターの心配もありませんでしたが、それも89年には手放していました。それでも数年後に亡くなるまで影響力を持ち続けました。日本とロシアの比較よりも、東アジアと欧州の権力構造の違いなのかも知れません。

    院政の構造はともかく、プーチン「大統領」からプーチン「議長」になると、国際舞台に出てくることはほぼ無くなります。まさか外交や安保・軍事問題を少なくとも公的に、対外的な対処を議長が行う国など存在しません。大統領なり首相なりがプーチン議長の方針に反しないように行うことになるでしょうけれど、いちいち国内にいるプーチンの顔色をうかがう大統領と、諸外国はまともな関係を結ぶでしょうか?

    プーチンは議長として国内の権力は維持し続けるでしょうけれど、国外への影響力は確実に減るでしょうし、ロシア自体が諸外国からの信頼も失い、また国際問題への迅速な対応も出来なくなるのではないかと思います。

    権力構造が欧州基準から見て整理されていないようになるのは、本質としてロシアは半分ヨーロッパで半分アジアであるとも言えるからでしょう。ユーラシア大陸の東端から西端に近いところまで続いている超巨大国家であり、かつてロシア帝国が成立する以前はモンゴルに支配されていたことも、アジア的要素がある理由でしょう。

    そのロシアでは、アメリカの敵対的姿勢に呼応するかのように軍事力を増大しようとしています。

    ロシアに先を越された極超音速兵器の開発急ぐアメリカ
    https://newsweekjapan.jp/stories/world/2020/02/post-92330_1.php

    核兵器とはまた違う種類の、防ぎようがない兵器の開発でロシアが先行しアメリカが追うという展開になっています。アメリカと軍事同盟を結び、ロシアとは領土問題を抱えている日本としては不穏な展開ではありますが、この「ロシアが先行しアメリカが追いかける」という構図は、1950年代〜80年代までの米ソ宇宙開発競争と同じです。

    スプートニク1号の成功でアメリカよりも優勢に立っていたソ連は、ジョン・F・ケネディ大統領のアポロ計画、そしてスペースシャトル、最後はレーガン大統領のスターウォーズ構想と立て続き猛スピードで進むアメリカの宇宙開発についていけず、結果的にソ連崩壊となりました。

    過去の結果を必ずなぞるとは限りませんが、今も昔も米露の経済力格差は大きいです。国家としての経済力に大差があるので、ロシアがアメリカに対して圧力をかけられるほどの軍事力を維持伸長させるには、いわゆる「無理」をしなければいけません。具体的には、国民の福祉や社会インフラの整備に回すべきお金を軍事に回すしかありません。

    かつてのソ連もそうでした。最初はその無理が効果を発揮して、ソ連はアメリカ始め西側陣営に対して匹敵もしくは上回っていると相手に思わせることが出来ました。しかし、無理は長く続きません。ソ連は国民に対して経済発展させるインセンティブを与えられず、様々な制度上の問題もあって経済力の差は米ソ間で開く一方となって最終的にはアメリカの勝利に終わりました。

    国民生活が豊かにならない軍事偏重国家は、短期的には国際社会でその軍事力を背景に影響力を持つことが出来ますが、長期的には自由主義・資本主義・民主主義国家の成長に敗れることになります。それはソ連に限らず、戦前の日本やナチスドイツも同じです。国家のリソース配分が間違っているのです。

    もちろん、このロシアの新兵器が日本やアメリカに全く関係ない、というつもりはありません。慢心と油断が悲劇を招くのは、同じく戦前のドイツに対する宥和政策の失敗を見れば分かります。最終的にドイツを打倒したとはいえ、早い段階で備えていればフランス占領やロンドン空爆は防げたかも知れないのです。

    プーチンの野望を暴発しない程度に封じ込め続けるのが、当面の日米の対露対策となるでしょう。問題は、ロシアにがっぷり四つで挑みそうなトランプ大統領でしょうか・・・。

    トランプ政権、社会保障費を大幅削減し国防費増加-21年度予算教書
    https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-02-10/Q5GJYDT0G1KW01

    悪い意味でプーチンと良い勝負になりそうな感じです。

  • 「無事之名馬」が「無事之AI」になる時代?

    「無事之名馬(ぶじこれめいば)」という言葉があります。競馬好きで芥川賞・直木賞を創設した作家の菊池寛の言葉・・・ではなくて実は最初に書いたのは記者だったともあります。

    それはともかく、もっと昔からある言葉のような気がしていましたが、20世紀に入ってから、まだ100年も経っていない格言です。人口に膾炙していることを考えると、競馬界だけではなく一般的にも使いやすくイメージもたやすい言葉であると言えるでしょう。

    個人的には社会人になってからしばしば思い出す言葉となりました。部活動などは別として、学生である間は体調を崩したりして休むとしても、休んで迷惑がかかるのは休んだ本人だけです。

    社会人になると、仕事が毎日一日限りで終わる人の方が少ないでしょう。また、自分一人だけで完結するような仕事もあまりないでしょう。そうなると、休んだ場合に本人だけでなく同僚や取引先にも迷惑をかけてしまいます。

    もちろん、そうならないように一つの業務を分け合い、誰かが休んでも回っていくようにするのが会社組織としてはあるべき姿でしょうけれど、それが出来る企業も日本ではまだまだ少ないのではないでしょうか。

    休まずに働き続けられる、という意味合いから、「無事之名馬」という言葉が一般社会でも浸透していったのは、戦後日本のサラリーマン意識も影響していると思います。

    休みたくとも休めないブラック企業批判も現在では強いです。今後は、在宅勤務も可能な企業も増えていき、「無事之名馬」のイメージも変わっていくかも知れませんね。

    さて、これは現在までの話ですが、では未来はどうなるかというと、頑健な人間以上に休まず働き続けられるAIの存在が出てきます。なにせ電気さえあれば24時間365日業務してくれます。まさに、無事之名馬の究極形と言えます。ほとんど全ての従業員はAIに駆逐されるのでしょうか?

    ただ、AIやそれを搭載したロボットは電気がないと動きません。もちろん、太陽光発電や予備バッテリーなどで電力供給を複数系統用意して冗長性を持たせていればある程度は持つでしょう。しかし、それも限界が来るでしょうし、電気供給以外の理由、例えばネット回線の遮断やハードウェアの故障などもAIが使用不可になる原因としてはあり得ます。

    いざという時の備えを考えるのであれば、業務遂行のための系統をAIと人間の2つを抱えるか、というとそれはそれで平時に無駄が発生します。

    ではどうするか?

    破滅的な災害や障害でも起きない限り、全ての企業でAIが使えなくなる、ということなど起こらないでしょうから、AIにしろ生身の人間にしろ、リソースを全て一社で丸抱えするのではなく、必要なときに必要な企業だけが集中してリソースを使えるような協業体制を整えるようになるのではないでしょうか。

    イメージ的には共済や講のような人材バンク的なものですかね。

    専門性が高く、すぐに習得できない業務については人員の余裕を作っておいて、それ以外の分野はAI、いざという時には人材バンクから急遽人を派遣してもらう、というシステムにすれば、人件費をAIに頼ってギリギリまで抑えつつ、緊急事態にもなんとか耐えられるでしょう。

    ただ、それが生身の人間達にとっての理想的な未来になるかどうかは分かりませんが・・・。

  • 小さなiPhone求む

    いま、iPhone8Plusを使用しています。ただ、最近は「重いなあ」と思うことも増えました。Kindleアプリで読書することも多かったので、画面サイズが大きいことから選んだのですが、今ではKindle Paper Whiteで読むのでそのメリットは無くなってしまいました。そうなると小型の方が良かった、と後悔してしまいますが、肝心のAppleが小型iPhoneに全く関心を寄せていません。

    iPhoneSEが出たのもかなり前の話になってしまいました。それからは毎年のようにSE2が出るのではないか、と噂混じり(というか全部噂でしたが)の報道が出ていましたが、どうやら今年は本当に出そうです。

    iPhone SE2(仮)、すでに試験生産開始か。3月発売で4万7000円~の噂
    https://japanese.engadget.com/jp-2020-01-31-iphone-se2-3-4-7000.html

    ただ、小型iPhone欲しい層にとっての大きな問題として、このiPhoneSE2(もしくはiPhone9)のサイズがiPhone8と変わらず、SEの純粋な後継機とは言えないことです。

    ユーザーが多くのアプリを利用することでApp Storeからの収益を増やすこともAppleにとっては重要な問題でしょうから、画面サイズを小さくすることでアプリの選択肢を狭めてしまいたくない、という思惑もあるのかも知れません。

    ただ、大きさだけではなく重さも個人的には重要だと思っています。

    今のiPhoneはQi充電出来るように背面がガラス仕様になっています。側面の金属と合わさって高級感があり、高品質でもありますが、以前のiPhoneよりもかなり重くなりました。そして、変な話ですが落としたときに傷がつきやすくなりました。Androidの安い端末の方が、液晶面以外が安っぽい樹脂製のためにかえって割れたり傷ついたりしにくくなっています。さらにそういう安っぽい端末は樹脂・プラスチックが多用されているため、iPhoneよりも軽くなり、重さの面でも取り損なったりつかみ損なったりして落とす可能性が減ります。

    高級感は確かに品質を高める上で製品としては重要ですが、製品にとっての必要条件ではないでしょう。iPhoneユーザーは本当にこの大きさ、この重さを望んでいるのでしょうか?

    Appleは製品開発する上で、マーケティングは行わないそうです。それが革新的な製品やサービスを提供し続けてくることが出来た大きな理由であることは確かです。しかし、ここ数年間Macユーザーの激怒を買い続けた、MacBookシリーズにおけるバタフライキーボードの根本的な不良問題を見ると、最近のAppleは革新的というよりも独善的になっているのかも知れません。

    その一方で、昨年ようやく、16インチMacBookProでキーボードを作り直して評価も得られています。iPhoneでももっと小型の、iPhone5・5S・SEと続いてきたサイズで新製品を出してくれるとありがたいのですけど。

  • 新規顧客開拓の概念欠如による檀家制度の危機

    日本各地のお寺が、檀家減少によって維持できなくなりつつあります。

    今に続く檀家制度は、江戸時代に幕府によって形作られました。民衆の宗教を支配するため、というよりは宗教を利用して政治的支配を行う、というシステムです。

    宗教的権威ではない武力政権が、宗教組織を行政上の人民把握に利用し、なおかつ本来の宗教そのものには世俗的権力がない、という多分世界史的に見ても稀なシステムとなりました。

    在来の神道と外来の仏教が神仏習合の状態が数百年以上も続いていたことも、幕府の統治を手助けすることになりました。キリスト教を弾圧した結果、それら以外に宗教が存在しませんから、戸籍制度の代用品としては充分な機能を持っていたわけです。

    時は流れ、明治・大正・昭和・平成そして令和と檀家制度は続いてきましたが、おそらく一番大きな変化は昭和中頃の高度経済成長期にありました。ここで、地方から都市部への大規模な人口の移動がありました。

    人が減る地方では当然ながら、お寺が抱える檀家の数の減少が起きます。昭和の頃はまだ実家というかたちで檀家が残っていましたが、家を継いだ長男の家系が続かない場合やその家系自体も元の地域から離れることによって、元のお寺の檀家ではなくなります。

    いわば、一家揃って引っ越しする場合を想定していない管理システムです。江戸時代はそもそも自由に一家どころか個人レベルでも簡単に移住できない時代でした。檀家制度は人の移動がない江戸時代だからこそ成立して続けられたシステムということです。

    個人でも家レベルでも移住した先にあるお寺の檀家になれば、日本全体で見れば檀家制度は維持できるはずですが、いざ移住してしまうと新たに檀家になる、ということがほぼ無くなってしまいました。それは檀家制度によって強制的に地域にある住民を割り当てられるために新規顧客開拓の概念が無くなってしまった寺側の問題でもあったと思います。営業活動をしなくても檀家が割り当てられて経済的に維持できてしまう、という状態が数百年続けばそうなるのも当然でしょう。

    高度経済成長期に地方から都市部に出てきた人に対して宗教的アプローチを行ったのは、創価学会を始めとする新興宗教でした。地方からの移住者全てが新興宗教に帰依したわけではありませんが、新興宗教に入らない人でも都市部の寺の檀家になるのではなく、「なんとなく無宗教」的なポジションとなり、実家に帰省したときに檀家になっている寺と関わる程度となります。

    もちろん、都市部に元々あるお寺と檀家でも似たようなもので、都市部に住んでいる人が移住したときも同様です。寺を変更するのではなく、仏教との関わり自体が大きく減り、高度経済成長期からおよそ2世代を経た現代に寺&檀家制度の危機的状況をもたらしたという結果となります。

    じゃあどうすればいいのか、ということになると日本の人口動態の問題でもありますし、新規営業のノウハウが無い仏教界の問題でもありますので解決は容易ではないでしょう。

    Amazonが葬式手配の代理のようなことをするだけで猛反発が起きるくらいですから、新規顧客の獲得よりも現状の縮小再生産しか出来ないところも多いはずです。個別のお寺や住職などのレベルでは、しばしばメディアに取り上げられるような、面白い人もいるのですが、日本の仏教界全体ではどうにもならないんじゃないですかね。