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  • ニュースバリューは誰が決めるか?

    メディアではこのニュース、この記事は載せてそっちは載せない、書かないという判断が常に行われています。記事を書くネタが全く無いということもあるでしょうけれど、世の中に事件は常に起きているわけで、どの事件やニュースが掲載に値するか、ということは取材前や取材後、記事作成後に取捨選択することになります。

    ニュースにするかどうか、ニュースに値するかどうかを決めて選ぶわけですが、では、この話はニュースとしての価値がある、あるいはないということは誰が決めるものでしょうか?

    昔、インターネットが普及していなかった頃は間違いなく、ニュースを提供する報道関係者(いわゆるデスクなど)が決めることが出来ました。例えその基準や判定がおかしかったとしても、異議を唱えることが出来たのは社内あるいは同業他社だけでした。一般人にはそれ以外の「載らなかった」ニュースの存在は分かりません。

    表に出た後、他社の選択との比較で載せるべきだった、という指摘は出来ますが、記者クラブで情報が共有される以上、特ダネ・スクープとかで無い限りは大差ないでしょう。

    結果的にそのニュースに報道される価値があったかということは、報道された後に、どれだけの反響・売れ行き・視聴率があったかということで事後的に決められるということになります。

    まず、どれくらいそのニュースを見た人がいるかという点については、旧来のメディアではリアルタイムでは分かりません。

    テレビニュースでは視聴率が判明するのは翌朝です。金土日の番組は月曜に分かります。新聞であれば発行部数以外は分かりません。記事を書いても本当にその記事がどれくらいの人に読まれたかは全く把握できません。新聞購読者が全ての記事を読んでいるわけではないからです。反響の大小によって間接的には分かるでしょうけれど。

    インターネットに出ているニュースであればリアルタイムに近い形でニュースの需要を把握できます。動画のニュース、例えばAbemaTVのニュースであれば同時接続数がリアルタイムで表示されています。文字での配信にしても、そのメディアの閲覧数はGoogleAnalyticsなど解析ツールを使えばほぼリアルタイムで確認することが可能です。

    ニュースを書く側・出す側は反応を見て、同じニュースの続報や、新規でも似たようなニュースを出すことがインセンティブとして発生します。これがずっと続いてきたわけですが、結局出さなかったニュースに対する需要があったかどうかは判断が付きません。

    見る側が見たいと思っているニュースが報道されるとは限らないわけです。大半の事件・社会問題に関してはどこのメディアも等しく報道しているでしょうし、重要性もそう変わらないのかも知れませんが、一部、もっと大きく取り上げられてもおかしくないようなものでもあまり報道されてない、と個人的に思うこともあります。

    積水ハウスの地面師事件や、明浄学院の土地・資金流用事件、最近なら東京ミネルヴァ法律事務所破綻などの数十億円の詐取など、いずれも連日トップニュースになってもおかしくなレベルの話だと思っていたのですが、そんなことにはなっていません。時々はありましたが。

    選挙とか災害とか、それこそコロナウイルスとか誰が考えてもトップニュースになるものがあるときはいいんですけれど、これらのニュースは世間的、少なくともマスコミ的には大した問題ではないんですかね。

    インターネットの普及によって、もはやメディア側で付けられたニュースバリューのランキングはあまり意味ない時代になったと思うのですが。

    見たいと思ったニュースがマスメディアで見られなくても、いろいろな方法で目にする機会は増えました。

    多分、こういった問題は週刊誌やあるいは数年後のノンフィクション単行本で読めるわけですが、メディア側での役割分担が無意識的あるいは暗黙的になされているのかも知れません。

    そう言えば、noteでかつてマスメディアで取り上げられなかったニュースが脚光を浴びたことがありました。

    いわゆる「つけびの村」です。私も話題になってからKindleで買って読みました。

    https://note.com/tk84yuki/n/n264862a0e6f6

    つけびの村
    ――噂が5人を殺したのか?
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=5474

    noteに書いたことでSNSで注目され、出版に至ったというのは今の時代らしい動きなのかも知れません。今後もこのような動きは増えていくんでしょうね。

    全てのニュースを特定のマスメディアが取り上げるのは無理な話です。とは言っても、マスコミにとって報道しやすいニュース・報道したいニュースだけを報道していたら、いずれは読む人・見る人とマスメディアの関係性が逆転して、見向きもされなくなる時代が来るかも知れません。

  • 大阪城の人気の無さと、車の運転のような感染対策

    久し振りに大阪城に行ってきました。

    コロナ禍やら梅雨やらあって久し振りでした。当然のことながら非常に人が少なかったです。当たり前と言えば当たり前なのですが、外国人観光客が全くいない大阪城というのは久し振りです。10年くらい、平日の昼間に行っても外国人観光客がたくさんいる状態が続いていた気がします。それ以前は日本人観光客の方が多かったですね。全国から観光バスが来ていました。

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    人気が少ない大阪城というのは私が歩く分には快適ですが、お店やガイドやタクシー・バス会社など観光業界にとってはたまったものではないでしょう。大阪も東京に比例するかのように、新型コロナウイルスの感染者数が毎日増加してきています。

    正直なところ、100%どこかの段階で感染者数をゼロにして、ウイルスを消滅させるという未来はもはや存在しないでしょう。通常の風邪のコロナウイルスほどではないにしても、ある程度は共存していくしかないと覚悟しています。

    ただ、その共存にあたって、急速に感染者数が増加しすぎて医療崩壊を招いてしまってはいけないので、公的もしくは民間レベルでなんらかの制限を社会生活にかけて、なんとか感染が広がりすぎないように上手く調節しながらやっていくしかありません。

    日本に限らず欧米でもどこでも、ロックダウンや法的規制、自粛などを緩めたら感染者数は増えています。当たり前の話ですが、厳しく制限したら減り、緩めたら増えるのですから、水道の蛇口を閉めたり開けたりして水の量を調節するようなものかも知れません。

    あるいは、自動車の運転にも例えられるでしょうか。アクセルが通常の社会生活の度合いで、ブレーキが法的規制、サイドブレーキが限定的なロックダウン、イグニッションキーが完全なロックダウンとして見ても良いかもしれません。

    そう考えると、今の日本では法的な規制をかけられない中で、緊急事態宣言も撤回していますので、ブレーキをかけずにアクセルの強弱だけで車を運転しているようなものです。止まることを考えるとスピードは出せないし、かといってアクセルを踏まなければ先に行けない(イコール経済が死ぬ)状態となってしまいます。アクセルを踏み込んでヤバくなったらブレーキをかける(法的規制をかける)ことが出来る国家・政府に比べると、出来ることはかなり少なくなってしまいます。

    感染者数が急増する中で政府が動かないため、各自治体が独自の自粛要請や宣言を行うようになっていましたが、目で障害物を見てブレーキに頼らずハンドルさばきで交わしていくような運転をしている状態に近いかも知れません。でもそれって、どこかで交わしきれずに事故ってしまいますよねえ・・・。

  • 自分で作らないとアーティストではない?

    シンガーソングライターという言葉をそもそもあえて言わなくても、メディアでよく見かける歌手やバンドは自分(自分たち)で作詞作曲していることが当然のようになりました。しかし、1980年代くらいまでは、作詞・作曲と歌手が分離している歌謡曲がヒットチャートの上位を占めていました。フォークソング、ニューミュージック、バンドブームなどを経て、自分が歌う曲は自分で作ることが一般的になってきたように思います。

    他人が書いた曲よりも自分で書いた曲(あるいは詞)の方が、自分が歌いやすく自分の持っている世界観を打ち出せる、というメリットはもちろんあるのでしょうけれど、自分が作らなくても歌手としての力量があれば大きな影響力を持つことは出来るはずです。美空ひばりを大したことのない、影響力のない歌手だという人など存在しないでしょう。

    他の分野で言えば、漫才も同じでしょうか。漫才作家が作ったネタを喋るのは以前はよくあることでしたが、今の若手芸人といわれる人達は間違いなく自分たちでネタを作っているでしょう。ベテラン漫才師の一部だけが、テレビでネタをするときにテロップで(作:〜〜)と表示されていると思います。もしかしたら漫才作家のネタもあるのかも知れませんが、作家が作ったネタだということが分かるケースは非常に稀になってきました。

    しかし、作ることと演じること(歌う、喋る)は本来別の才能のはずです。歌手や漫才師を目指す人が大量に増えたことで、その両方をこなせないと表舞台に上がってこられない過酷な競争が行われているのかも知れません。

    別の才能であることの証左としては、古典落語を演じる落語家や、クラシックを演奏する音楽家を例に出せば十分でしょう。創作落語も重要でしょうけれど、古典落語を自分の中に落とし込んで新しい解釈を示して見事に演じて喋ることができるのなら落語家としては一流なはずです。音楽家だって、自分で曲を作っていないから指揮者やバイオリニストとしてはダメだ、ということなどないはずです。

    歌手や漫才師がこのようになったのは、歌謡曲の消滅や漫才ブーム・お笑いブームもなんでしょうかね。逆に自分で作るようになったのがそれらの現象の原因にもなっているのかも知れません。

    作詞も作曲も別の人で、歌うことに特化した歌手ももっといていいのではないかと思っています。

  • 長期政権の後始末は難しい

    どんな組織でも同じトップが長期間続いた後は難しいものです。いわゆる長期政権の後継者というのはなかなか定まらないことも多いです。

    例えば日本で言えば、80年代の中曽根政権は5年間続きました。70年代にピークを迎えた自民党内の派閥抗争を思うとかなり長く続きました。その後、竹下登・宮沢喜一・安倍晋太郎のニューリーダー3名の中から中曽根総裁の指名で竹下政権に移行しましたが、消費税増税・リクルート事件で退陣し、その次に宇野内閣の超短期政権と混乱に陥りました。

    また、00年代の小泉政権も5年半続きましたが、その後は安倍・麻生・福田と毎年首相交代が続き、挙げ句には民主党政権となりました。ちなみにその後の民主党でも毎年首相が替わったということもありました。

    そしていま、歴代最長の首相通算在職日数となった安倍内閣が長期政権として続いていますが、ちらほら後継について取り沙汰されるようになりました。後継政権が安定するかどうかは分かりませんが、結構混乱しそうな気もします。

    他の国を見てみますと、15年続いているドイツのメルケル政権があります。18年にCDUの党首からは降り、クランプカレンバウアーが党首となって後継首相に目されましたが、いろいろあって党首辞任となりました。メルケル後が正式に決まるのは来年ですが、こちらもどうなるかは不透明です。

    同じく長期政権の大国というとロシアのプーチン大統領でしょうか。政権維持のために大統領職と首相職を一時スイッチしていたメドベージェフが後継かと思いきや、今年に入って内閣総辞職となり、またプーチン大統領の任期をさらに伸ばせるような改憲が行われたことで、後継に任せるのではなくプーチンがおそらく死ぬまで続けるのだろうと思われます。プーチン死後、あるいは高齢になり実務にあたれなくなると後継争いが激しくなるのは間違いないでしょう。

    中国ではロシアに先駆けて、習近平政権の永続化のための改憲が行われました。名目的にも任期無制限ですのでこちらは本当に死ぬまで国家主席でしょう。ロシア同様、その後にどうなるか分かったものではありません。

    長期政権の後が難しいのは大企業でも同じでしょう。日本ではソフトバンクやユニクロなどカリスマ経営者の後継者がなかなか定まらないケースも見受けられます。とは言ってもSONYやパナソニックは創業オーナーや一族以外の経営者によって安定はしています。ケースバイケースでしょうね。

    サッカーでも一人の監督が長く続いた後はいろいろとあります。ガンバ大阪では西野監督の10年の後、そして長谷川監督の5年の後に苦しみました・・・。いやあ苦しんだなあ・・・。

    ファーガソン後のマンチェスターユナイテッドや、ベンゲル後のアーセナルも短期間で監督が入れ替わりました。しかし川崎で5年続いた風間体制の後に鬼木監督が2連覇したり、ミシャ体制の直後にACL優勝した浦和のようなケースもあります。サッカーの監督は地位としては雇われる側なので、監督自身の望みよりもクラブの都合の方が大きいですから、政府や企業とはまた異なりますね。

    結局どんな組織においても、頻繁にトップを変えて良いことはありませんが、長期間続けた後に上手く後継者に移行するのは簡単なことではない。上手くいく方が例外的かも知れません。

    アメリカ大統領みたいに最大2期8年など、ルールとして強制的に変わる仕組みがやはり良いのでしょうか。政治では民主主義国家なら一応は有権者という存在がNOと言えるわけで、任期制限がない場合でも変えられなくもありません。逆に言うと、アメリカやフランスの大統領なんかは、その任期中は変えたくても簡単には変えられないという問題もあります。

    大企業の創業オーナーなども、影響力と指導力とカリスマ性を持っていると企業のステイクホルダーも変えたがらなくなってしまうでしょう。早めに譲るかギリギリまで引っ張るかは悩ましい選択です。

    ただ、一番変えづらいのは独裁国家の独裁者でしょうけれど。

  • お殿様は憧れの存在か?

    社会的地位が高い存在というのは憧れの存在ではありますが、じゃあいざ自分がなってみたいかというと必ずしもそうとはなりません。

    代表的なのは政治家(特に総理大臣)とか大企業の経営者とかでしょうか。経営者の方はやり方次第ではとてつもない大金を報酬として得られるでしょうけれど、使い切れないほどの収入を得ても幸福の効用は一定のところで限界が来るはずです。それ以上はプレッシャーにしかなりません。

    プレッシャーで言うと政治家や首相だとさらに半端なくなります。収入も決まってますし。人によったら賄賂でウハウハだと思うこともあるかも知れませんが、普通はそこまで脳天気でもないでしょう。

    収入や名誉よりも、激務や精神的圧力の方が大きすぎるため、一般人にとって憧れだけでは割に合わないとも言えます。医師(特に勤務医・救急医)も同様でしょう。

    現代社会では社会的・法的な制約があるので、それらを無視してまで好き勝手に振る舞えませんが、じゃあ昔は出来たのか。

    いわゆる殿様、武士の頂点ですね、大名とか藩主とか地位としては言い方は色々ありますが、その場所においてはトップとなる人物です。そういった「お殿様」であれば何でも出来たのか、というとそうではありません。

    そもそも江戸時代には、時代的に自由気ままに生きることが出来た人間などごくわずかしか居ませんでした。子は親の仕事を強制的に継がされますし、次男三男以下は部屋住みの居候か養子に出されます。今よりも地位が低かった女性については言うまでも無くほぼ自由はありません。士農工商(実際にはこういうランク付けは無かったらしいですが)のどのポジションでも似たようなものです。比較的、商人については丁稚奉公から手代、番頭と進んで自分の店を構える出世者もいましたが、商人だって贅沢しすぎれば幕府や藩から睨まれて、お金を貸さざるを得なかったり取り潰しされたりします。

    身分・職業のピラミッドのトップに位置する武士階級の、さらにトップの殿様だって自由はほぼありません。後継ぎとして生まれて後継ぎを作るために生きているようなもので、その様子を滑稽に描いたのが、星新一の「殿さまの日」という短編です。同名の文庫本には江戸時代の侍や庶民を描いたコミカルなショートショートが揃っていて楽しめます。ちなみに個人的なお勧めは「紙の城」ですね。泰平の世が続く中で過剰に進んだ官僚化・定式化を面白さ重視で皮肉った内容とも受け取れますが、まさに星新一らしさが時代物でも見受けられる作品です。

    それはともかく藩主・殿様は果たして憧れの存在になりうるか、というとなってみたいとは思えません。自由が無いということはなかなか現代人には想像できないかも知れませんが、あえて一つだけ具体例を出して見ましょう。

    食事の際に必ず、毒味役のオッサンが自分のお膳に並んだ料理を全て少しずつ食べて、毒(遅効性も含めて)が無いことを確かめてから、もはや冷めてしまった料理を食べることを強制されたら、現代の日本人ならそれだけで嫌と思うのではないでしょうか?

    ローソンで買ったからあげクンも、吉野家で食べる牛丼も、自宅で作ったチキンラーメンも、必ずオッサンが毒味してからでないと食べられないとかもはや嫌がらせレベルです。

    もちろんこんな架空の話をしてもしょうがないのですが、結局は社会的に上の存在だからと言って、わがまま放題に振るえる場合と振るえない場合があります。江戸時代の大名なんかはその典型です。今の世の中では大企業の社長や政治家も「好き勝手には出来ないんだ!」と主張したいかも知れませんが、江戸時代の藩主よりはよっぽど自由でしょう。そんなことが言えるのはおそらく皇室の一部の方々くらいでしょう。もちろん本当に主張すると日本社会も政治も大混乱に陥るので仰らないでしょうけれど。

    今は時代的にほとんど全ての人がそれなりの自由を享受出来るようになりました。政治家にしろ社長にしろ、後先考えずに辞めようと思えば辞められます。憧れの存在がどんなものでも大変なものであるのは間違いないですが、憧れる自由があるのと同様に、憧れられる自由もあり、憧れの存在から下りる自由もある世の中になったのは良いことでしょう。

  • 献血と冷えピタとマスク

    四連休明けの平日に献血に行ってきました。

    いつもの梅田の献血ルームに事前予約をして、今回は400mlの全量献血を行いました。

    予約していたことと比較的空いていたこともあってか、到着から採血終了まで今回は非常に早く、30分くらいで終わりました。

    今回はキャンペーンによりハンディファンももらえました。

    https://www.bs.jrc.or.jp/kk/osaka/2020/06/789-400l-1.html

    まあ、今時、携帯タイプのこういった扇風機は数百円で売られているので無茶苦茶ありがたみがあるわけでもないですけれど、買うとなると別にいいかな、と思うくらいでしたので、こうやってももらえるとしたらありがたいですね。

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    しかし先着7000名って凄い数字ですな。

    一緒に冷えピタももらいました。それでふと思ったのですが、イベントとか施設とかで体温測定して一定の体温を超えている場合はお断り、というのは今では一般的になってきました。献血ルームでも入り口で額にかざす体温計で体温測定して、発熱症状があるかどうかのチェックをしていますが、冷えピタなどの冷却シートや、あるいはアイスとか冷たいペットボトルで額を冷やしてから測定されたらチェックをすり抜けることも出来るんじゃないでしょうか?

    もちろん、実際には冷やしすぎると体温計で25度とか30度とか出てしまったら明らかに何か細工したな、というのがバレますので、実際にはそれほど問題にはならないかも知れませんが、上手いこと発熱しているのに冷やして36度前後に調整できてしまったら、行けちゃいますよね。

    新型コロナウイルスは感染しても症状が出ない人がいますし、症状が出るにしても出る前の時点で他人にまき散らす状態にもなるそうですので、発熱していなくてもマスクをして飛沫を飛ばさないことが重要なのですが、意識のない人は結局何をしてでも突破しようとするんでしょうね。

    人混みでもマスクをしているかしていないかが、ウイルスを他人に広めないという意識を持っているかどうかの試金石になると思います。

    換気出来ない場所、人混みなどでマスクをしない人は、無症状でも感染を拡大させてしまうことがあるし、そのような衛生意識がないダメな人だと、首相なり官房長官なり厚労大臣なり知事なりが公言してしまったら良いのにと思います。

    議論や批判も巻き起こすでしょうけれど、少なくとも毎日の感染者数だけで一喜一憂しているニュースよりはマシなんじゃないでしょうか。

    あ、ちなみに献血ルームでは当然ながら全員マスク着用していました。まあ、献血する人は多分、一般人の平均よりは衛生意識はあると思いますが。

  • 日本人にとっての外国人・移民のイメージ(お雇い外国人→助っ人外国人→?)

    移民問題というのは多かれ少なかれ、ほとんど全ての先進国で政治的社会的経済的な問題になっています。

    日本では、欧米ほど移民が多くないこともあり、直接的に移民問題が政治の争点になることはあまりありませんが、最近の法改正もあって今後は増えてくるものと思われます。

    日本人にとっての外国から日本に来た人というのは、明治初めのお雇い外国人のイメージが非常に強く影響しているのではないかと考えます。

    明治以降は、対外戦争で獲た台湾・朝鮮半島・樺太南部・南洋諸島などからの移民も居たでしょうけれど、人口比率的には朝鮮以外は本土との差が大きく、現在に影響を残すのは在日韓国・朝鮮人だけとなりました。

    それらの人々も日本社会・文化にある程度同化している状況もあります。欧米諸国でも問題視される移民はほぼ、第二次世界大戦後に移住してきた人々です。一方で日本は第二次世界大戦後にはほぼ移民は入って来ませんでした。理由としては国土的、政治的、経済的、文化的、言語的といった様々な原因があるのでしょうけれど、地方から都市部への人口移動で労働力を賄えたという結果になりました。

    日本人にとってよく見る外国人が、芸能・スポーツにおける出稼ぎ外国人ばかり、というのは昭和の中頃から続いてきたイメージとなりました。特に野球では「助っ人外国人」という言葉で表現されていました。

    日本人を助けてくれる、貢献してくれる外国人という前提のイメージがあったわけです。

    それは言い換えると、しばらくしたらまた自国に戻っていくという前提でもあります。日本人にとって、日本に来た外国人は日本に永住しないのが普通、というイメージです。

    ただ、そういう状況も今は変わりつつあります。移民も増えましたし、その子どもやハーフも増えました。今後もその増加傾向は変わらないでしょう。

    日本は大陸と陸続きではなく、EUのような共同体も東アジアにはないので、合法違法含めた移民が昨今の欧米のように急増することはないでしょうけれど、外国から来た日本に来た人やその家族が、日本に永住するイメージを持って接する、あるいは社会的制度を構築する必要性はどんどん高まっていくでしょう。

  • noteで最近利用してもらっている画像

    noteにアップしている写真が個人的には意外な頻度で使っていただけているようです。

    適当にスマホで撮った写真や、自分が書くnoteの内容に合わせて作成した超簡単な画像でも結構利用されていて驚きます。

    写真なんて撮ったまま処理を行わないままアップしたものですので、そんなに良いものではないと元々思っていたのですが、利用される方に取ってはシチュエーションが合っているのでしょうか。

    先月6月では16回利用されました。ペース的には2日あたり1回くらいでしょうか。もちろんバラツキはあります。

    ガンバ大阪関係とITガジェット関係と美術館関係でおそらく9割は占めると思いますが、それなりにニッチな画像なのかも知れません。

    よく利用される画像はこの辺です。また皆さんも使ってみてください。

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  • 誰も泥をかぶらない安倍政権?

    ここにきてのGOTOキャンペーンを巡る混乱っぷりはなかなか歴史的に類を見ないレベルになってきたようにも思えます。

    自粛だけでは経済が終わるというのは確かにもちろんそうなので、どこかで段階を踏んで少しずつ元に戻していくように動くしかないのですが、だからといって感染者が増え続ける中で旅行推進の補助金を出す政策を強行して、さらに批判を浴びたから東京だけ除外するとか、申請方法が謎すぎるとか、もはや誰も擁護できないレベルになってしまっているようです。

    日本は法律で強制的なロックダウンをせず、人権やプライバシーもかなり配慮したコロナ対策を取ってきたことは世界的に見ても稀でした。それはちょっとは自慢しても良いことだとは思います。ただ、経済正常化に向けての道筋は紆余曲折がかなりあります。

    緊急事態宣言後の自粛期間中でも、隙あらば旅行しようとかイベントを強行しようとかいう人達がいたわけですから、自粛要請解除後はそのまま放っておけば良かっただけだったはずです。何も政府が音頭を取って「〜〜しましょう、補助金出します!」と言わなくても、反動での需要は出てきます。反動での需要増加による感染の再拡大の方を注意しておくべきだったはずですが、反動に油を注いでしまう政策をやっちゃったわけですから、感染の再拡大も同様に増えるのは目に見えています。

    補助金によってコロナ禍で苦しんだ業種業界を支援しようとしているのかも知れませんが、それは時間をかけて戻していくしかないでしょう。急ブレーキをかけたり急発進したりするのは運転が下手な人の特長ですが、旅行やイベントの需要を起こしたり抑えたりする政府の手法が、今回ばかりは下手くそだったと言いたくなります。

    そもそもこのGOTOキャンペーンを強行したのは誰主導だったのでしょうか。官庁・官僚主導だったのか。政府・官邸主導だったのか。あるいは自民党主導だったのか。

    官僚主導だったとしたら、日頃言っている政治主導なんかが全然出来ていないことになりますし、政治主導でこの状況だったら内閣がまともに機能していないことになってしまいます。自民党主導だったとしたら自民党内部の権力構造に問題があります。

    キャンペーン実施と感染者増加という矛盾を突いて反対する有力者がいないということでもあります。有り体に言うと、誰も泥をかぶりたくない。安倍首相に直言なりなんなりしてこのキャンペーンの問題点をはっきり指摘する人がいないのかというように見えてしまいます。

    このキャンペーンを推進する官僚や議員にとっての悪者になってでも、ストップさせようとする人物が政権内にいないのでしょうか。今、悪者になると安倍政権後に自分が次期総裁や有力大臣職から遠ざかるということも考えているのでしょうか。

    ここまで来ると邪推かも知れませんが、案外当たっているのかも知れないんじゃないですかね。泥をかぶりたくないというよりも、もはや乗っている政権が泥船のような気がしないでもないですが。

  • テレビの行く末、広告の新しい形

    現代のライフスタイルでは、なかなかテレビ番組をリアルタイムに視聴することは難しくなっています。働く時間や曜日も人それぞれですし、見たい番組は録画した方が確実です。YouTubeを始めとするインターネットで楽しんだり時間を潰したりするのも当たり前になりました。

    始めから見ようと思っている番組はリアルタイムで見るかも知れませんが、放送中や放送後にSNSで話題になっているのに気が付いてから見ようとしてももう遅いです。後から見ようと思うと、再放送(確実にあるのはNHKスペシャルくらいでしょうか)を待つか、TVerなどの公式のネット配信サービスで見るか、YouTubeなどに違法にアップされている動画を削除される前に見るしかありません。

    テレビ局としては、違法な形で視聴されるくらいなら、自分から積極的にネット経由のオンデマンド配信を行った方がマシでしょう。だからこそTVer、AbemaTV、あるいは各局のオンデマンドサービスが存在しているのでしょうけれど、テレビで生放送で見られたものがネットでオンデマンドだと有料になる、というのは視聴者からは受け入れがたいところもあります。

    本放送とネット配信による違いによって、広告や放送法で問題があるのかも知れませんが、業界として改善を関係各所に呼びかけて視聴者が見やすいようにしないと、本当にネット配信サービスに駆逐されてしまいかねません。

    かつて、録画機器メーカーは広告スキップ機能でテレビ業界と対立しましたが、もはやテレビ番組をテレビ上だけではなく、録画でも見なくなる人が増えています。ネットで見られなければもういいや、と思ってしまいます。

    対策としてはネットでも見られるようにするしかないでしょうけれど、そうなるとますます本放送を見なくなるという問題もあります。見る人が減れば広告料が減ってテレビ局の経営が立ち行かなくなりますが、いっそのこと放送法を改正して、自由に広告を入れられるようにするしかないのではないでしょうか。それで広告を入れすぎて見る人が減ったら自業自得です。

    ただ、災害時にあるL字型での画面構成にして、Lの部分に広告を入れてしまうのはアリなんじゃないでしょうか。広告が邪魔だという人には有料での配信サービスで見てもらうということにすればいいですし、そもそも広告が目に入ったら邪魔だというほど没入感が必要なテレビ番組ってそうはないと思うのですが。第一、十数分毎にテレビCMが入る時点で没入感もなにもありません。

    集中して見る、という点ではオンデマンドで見られるネット配信サービスにはテレビは勝てません。その代わりにCMで稼げるのです。逆に、毎月料金を払っている配信サービスでCMが入ったら台無しです。

    放送法で保護される代わりに制限を受けているテレビ業界ですが、もはや敵は競合他社や新規参入ではなく、インターネットにおける動画配信サービスです。NetflixやAmazonが相手であって放送法の保護は受けられません。保護が無いのに制限だけ受けるのも問題でしょう。

    テレビ放送がビジネス的に不可能になってテレビ自体が無くなってしまうのは、国民にとっても不便かつ不幸です。例えば大規模な自然災害が起きたときにネット回線が使えなくなったときは、テレビやラジオなどの放送波が命綱になります。

    放送波は大多数に一斉に配信するのに向いています。逆にネット配信はオンデマンドに向いています。全国民が一斉にネットで同じ動画を見ようとするとおそらくどの国家でもネット回線がパンクするでしょう。しかし放送波であれば電波の届く限り、同時視聴数の制限はありません。

    テレビ局が生き残れなくなってから対策を考えるよりは、お金も人材もまだある時点で対策を考えた方が良いと思いますがどうでしょうか。もちろん偉い人は考えているのだとは思いますが。

  • 専門家とは新しいことやものを見つけて作り出す人

    「専門家」とは何でしょうか?

    英語で言えば「プロフェッショナル」となりますが、そう聞くと、その道で生計を立てている人のことを指すような気がしてきます。しかし日本語で「専門家」と書くと、収入云々よりもその道に詳しい人を意味すると個人的には思えます。

    精選版 日本国語大辞典によりますと、

    「その学問分野や事柄を専門に研究・担当し、それらに精通している人。エキスパート。スペシャリスト」

    とありました。そもそも「プロフェッショナル」ではありませんでした。確かにエキスパートやスペシャリストと聞くと、その分野において詳しい人をイメージします。

    超絶詳しい辞書に付け加えるものなど本来は無いのですが、前述の語釈に新しく何かを付け加えるとしたら、私としては
    「新しいことやものを見つけて作り出す人」
    という意味を加えたいと思います。

    学者や研究者なら新説を含む論文を書くのが仕事です。
    新聞記者なら新しいニュースを見つけて書くのが仕事です。
    小説家なら小説を書くにあたり、新しいジャンル・ストーリー・言葉遣いを盛り込んでこそでしょう。
    音楽家ならただ単に演奏するだけではなく、新曲を演奏するでしょうしクラシックであっても新しい解釈に基づいて演奏するはずです。

    逆に、新しいものを生み出さない人は専門家としても中途半端とも言えます。そうは言っても何かの分野において専門家になった人、あるいはなろうとしている人がどこかのタイミングで突然専門家になるわけではなくて、徐々になっていくものでしょう。いわゆる「守破離」を少しずつ段階を踏んで実現していく過程があるはずです。

    たいていの専門家、専門職というのは若いうちからそれについて学んでその道に入っていくのが普通だと思いますが、そうではない仕事としてパッと思いつくのが政治家という仕事(あるいは立場)です。

    国会でも地方議会でも、議員というのは法律(条例)の制定と予算の承認が法的に定められている権限です。さて、議員・政治家は新しいものを生み出すという意味で専門家と言えるでしょうか?

    まず、政治家になるプロセスとして、大学を卒業していきなり政治家になる人はそうそういません。政治学者や議員秘書などはいるでしょうけれど、いきなり議員として当選する人は今の世の中ではまずいません。何らかの職業を数年から数十年続けている人が、どこかの何かのタイミングで政治の世界に入ってくるものです。

    政治家という専門職に就いた時点では結構素人が多いことになってしまいますが、政治家は一から法令や予算を作成するわけではありません。これまでの自分の経験・知識に基づいた見識に、新たに学んだ知識を加えて総合的に判断すればいいのです。官僚などの専門家が出した予算案や法案に対して、その筋の専門家ほど詳しくはないけれど、有権者の代表として賛否を明らかにするのが議員の仕事です。

    もちろん、議員の中にも官僚やどこかの業界出身で特定の分野に詳しい人はたくさんいます。ただ、そうでない人もたくさんいます。専門職ほど詳しい必要はないでしょうけれど、人並みの常識以上は必要でしょう。そうでないと判断することも出来ないでしょうし。

    少なくとも、消毒液を注射したら感染しないとかツイートしてしまうレベルだとダメだと思いますが、そう言う人でも世界一の国家の大統領をやっているくらいなので、政治家は馬鹿でも出来ると考えてしまう人が増えてしまわないでしょうかね。

    半分くらい政治の話になってしまいましたが、専門家となればただ詳しいだけではなくて、新たにプラスアルファ出来る人がそれにふさわしいと思っています。

  • サービス提供側とシステム開発側とサービス享受側のIEを巡る対応

    マイナポイントのホームページがInternet Explorerのみ対応ということでさんざんに言われています。

    これだから役人は、とか官僚は、とかお堅い役所仕事のように批判されていますが、民間でもまだまだIE専用ウェブサービスは実は残っています。

    https://hrsgmb.com/n/neb1989f9eae7

    以前にもnoteに書いたことがありますが、特に法人向けインターネットバンキングでもいくつか残っています。

    三井住友銀行
    https://www.smbc.co.jp/hojin/valuedoor/help/kankyo.html

    みずほ銀行
    https://www.mizuhobank.co.jp/corporate/ebservice/account/ebusiness/environment.html

    三菱UFJ銀行はIEのみ対応ではありませんでした
    https://bizstation.bk.mufg.jp/service/kankyou.html

    みずほ銀行は別のサービスではFirefoxやMacのSafariも使えるようです。
    https://www.mizuhobank.co.jp/corporate/ebservice/account/b_web/index.html

    ゆうちょ銀行はWindowsはIE縛りですがMacのSafariは可能です。
    https://www.jp-bank.japanpost.jp/hojin/smart/bizdirect/hj_smt_bd_use.html

    りそな銀行はほぼ全部使えますね。証明書は一部ですがこれはOS、ブラウザの問題もあるのでしょう。
    https://www.resona-gr.co.jp/resonagr/b_direct/system_requirements.html

    まあ、セキュリティがどうのこうのと言ってマイナンバーシステムが使いづらかったり、金融庁やら総務省やらが情報漏洩でやらかした企業を注意したりしているくせに、肝心の政府のサービスがド古いIEのみでしか使えないのは非難されて当然でしょう。なんせ大元のMicrosoftが「もうInternet Explorerは使うな」と言っているのですから。

    これらの批判は至極当然で政府側を擁護するのは非常に難しい、というかする必要はないのですが、そもそもなぜIE縛りのウェブサービスを作ろうとするのでしょうか?

    サービスを利用する側(一般国民)に取ってみたら全くメリットはありません。デメリットしかありません。正確には、IEしかブラウザがインストールされていないWindowsマシンしか持っていない人を除く人にとっては全くメリットがありません。

    サービスを構築する開発者(システム開発会社)にとってもメリットはありません。どこの会社に依頼したのか知りませんが、まあ普通は使用ブラウザの開発要件を決めているのは発注側でしょうから、作る側、特に受注した最上流の人ではなく実際に開発している下請けの人にとっては災難でしかありません。

    サービスを提供する側(政府・役人)にメリットがあるかどうかは分かりませんが、言い分としては一番普及しているOS(Windows7,8.1,10)においてデフォルトでインストールされているブラウザ(Internet Explorer)に対応させた、ということらしいです。多分、IE以外のクロスブラウザ対応する方が開発側も楽なんじゃないかと思いますが、IEに対応していないとIEしか使っていない国民を無視している!とクレーム付けられたくないんでしょうね。

    しかし、政府としてはセキュリティに問題があるからIEは使わないでね、と呼びかける側だと思うのですが。特にマイナポイント事業を進めている総務省は、国民のITリテラシー向上を進める立場でもあると思うのですがどうなんでしょうね。これを機にIEを日本から排除しよう、というくらいの気概を持ってほしいですが。

    結局、誰にとってもデメリットしかない環境でサービスを提供することによって、そのサービスの本質とは関係ない理由でそのサービスのメリットが大きく損なわれてしまいます。端的に言うと、「IE縛りのマイナポイントとか誰が使うか!」ということになります。

    言い方は悪いですが、地方の規模が小さな自治体のウェブサービスでこんなことになるのなら分からなくはないというかしょうがないかなとも思ってしまいますが、総務省には日本国のITを司る仕事がある以上、もう少しマシなマイナポータルサイトを作って欲しいと思います。