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  • ハンコ文化は廃れるか

    コロナ禍の中、テレワーク・在宅勤務が一気に社会的な認知を得ましたが、それを妨げるアナログ業務としてFAXと並んで、書類への押印が槍玉に挙がりました。

    いわば日本のハンコ文化自体が、もはや時代遅れなのではないか、という批判でもあるのですが、企業においての押印は、金融機関からの融資に必要な書類、企業間の重要な契約書類、社内での決裁確認のためなど様々な業務において使用されます。法的な効力がある印鑑そのものは、法務局において登記済の実印だけですが、それ以外の印鑑でも広く、
    「この書類を確認しました」
    という証明のために利用されています。

    今では電子印鑑を用いたり、あるいは業務プロセス自体を改良して押印自体が必要無いフローにしていたりするところも増えてはいますが、まだまだ押印がないと業務が進まない、という企業は多く存在しています。

    もし、テレワーク・在宅勤務などの業務を円滑に行うためという理由も含めて、業務フローを改善するために押印がなくても回るように企業が行い始めたら、ハンコ産業は苦しくなるでしょうか。

    もちろん、印鑑は企業だけではなく個人・家庭でも利用されています。個人にも実印はあって役所で印鑑登録を行います。個人レベルでは実印は不動産取引くらいでしか利用しないかも知れませんが、それ以外に認め印やゴム印(いわゆるシャチハタ印)も多く利用されています。

    最近は、荷物の受け取り時に押印不要な運送会社も増えました。佐川急便では電子画面へのサインで済ませるようになりました。ただあれは筆跡が普段と全く異なるので意味ないのではないかと個人的には思っていますが、それはともかく他にもAmazonの自社配送ですとサインも不要で玄関先で受け取るときに、
    「誰々さんですか?」
    「はい」
    のやり取りだけで受け取れます。もはや本人確認とは言えないと思うのですが、直接受け取れないときに宅配ロッカーを利用して受け取れますし、結局押印不要であればもはや個人レベルでも印鑑を所有する理由がどんどん減ってきています。

    企業も個人もハンコから離れ始めている状況ですが、印鑑産業の代表的企業のシャチハタなんかは今後どうなるのでしょうか?

    シャチハタのホームページを見てみると、

    https://www.shachihata.co.jp/company/kaisha/k2.php

    ハンコ以外にも電子印鑑システムやインク・ゴムについての開発もあるようですので、もしかすると富士フイルムのような転身が出来るかも知れません。

    富士フイルムはフィルムカメラがほぼ完全にデジタルカメラ(及びスマートフォン)に駆逐されて事業が立ち行かなくなる前に、化粧品や医薬品など化学産業に乗り出して見事に生き残りに成功しています。

    その一方でフィルムカメラにおいて世界で最も有名だったコダック社は事業転換に乗り遅れて倒産しました。

    フィルムカメラが減り始めてから産業として無くなるまで、十数年も無いくらいでした。あっという間に社会が変わりました。ハンコ文化・ハンコ産業においても同じことが起きないとは限らないと思います。

    押印という書類管理システムが無くなる原因としてはテレワークやウイルス対策だけではありません。今では印鑑の偽造も容易になってきています。書類に押された印影を読み取り、その印影に合わせた偽造印を3Dプリンターで製作出来る時代になりました。偽造した印鑑だけでは出来ることは限られているかも知れませんが、企業間の契約書を悪意を持って偽造するような人間にとってはある意味良い時代になってしまっています。

    例えば、取り込み詐欺を行いながら偽造した契約書を証拠にして裁判で泥沼化させるとか、地面師が個人や企業の実印を偽造して不当に不動産を詐取して転売したりとか、実印の偽造すら簡単になると、印鑑によって成り立っているシステム自体が危機的状況に陥ります。

    その対策としては、もはやデジタルに移行してブロックチェーンで偽造を防ぐくらいしか素人には思いつきませんが、新しいテクノロジーの悪用を防ぐために新しいテクノロジーに頼るのは当然のことです。

    先に挙げたシャチハタの電子印鑑システムなどもそうですが、印鑑という概念ではなく、書類の確認・同意における意思表示としての電子署名システムに移行していくのでしょう。

    個人的にはシャチハタのような大企業は事業転換して生き残れると思いますが、むしろ街中にある、いわゆるハンコ屋さんのようなところの方が厳しいかも知れません。これもフィルムカメラ・デジタルカメラとの比較と同じですが、カメラ屋さんがどんどん街から減っていったのと同じ話だと思います。

    ただ、カメラは趣味に属する製品でしたが、印鑑は権利を証明したり法的な文書に残したりとか、社会における影響力や影響する分野が多岐にわたっていますので、フィルムカメラほどは急速には廃れないと思いますが、時代の転変はいつかは起こると思います。

  • 2020年7月19日J3リーグ第5節ガンバ大阪U23対鹿児島ユナイテッドFCのDAZN観戦の感想

    トップチームは昨日の大分戦で勝利し5試合で勝ち点10となり、悪くない序盤、というか過去2年を思えば良いスタートを切れた格好です。

    一方、セカンドチームであるガンバ大阪U23の方は開幕戦には勝利したものの、その後は引き分け、負け、負けと苦しい状況が続きます。

    まあ、控えGKを入れず、アウェーではベンチメンバーもフルには入れられないチーム構成なので勝敗を最優先の批判材料には出来ませんし、ここ数年は高校生・ユース所属の選手を普通に戦力にしているのですから平日夜のアウェイゲームは厳しいですよね。今日は日曜のホームゲームですので勝ってほしいものです。

    去年まではガンバのGK陣が東口、林、谷と3人揃っていたのを考えると若干寂しいですね。山口に行った林も、湘南に行った谷も試合に出ていないのももったいないように思えます。

    今年のガンバU23が去年と異なるのはコーナーキックなどのセットプレー時に、去年までは放り込まずに必ず短くつないでいたのが、今年は普通のというか、つながずにゴール前に入れるようになりました。森下監督の方針変更なのか、市丸というキッカーが戻ってきたからなのか、それとも何らかのリクエストがクラブからあったのか分かりませんが、初戦の1点目がまさにセットプレーで市丸のボールを唐山が頭で決めたものでしたから、去年よりはセットプレー時の得点が増えるでしょう。

    ガンバのメンバーにはタビナスも戻ってきました。個人的注目はやはり唐山。点を取ってチームを勝たせるというエースの役割を果たせるかどうか。後は大卒ルーキーの山本ですね。

    さて前半のキックオフですが、序盤からガンバも鹿児島も決定機を迎える中、5分を過ぎた直後のところで鹿児島の中原に決められます。波状攻撃が続いていたところでしのぎきれなかったのは残念でした。

    その後もアホほど鹿児島に決定機を作られ続けますが鹿児島の決定力不足にも助けられます。というかずっとボール持たれてワンサイドゲームみたいになっています。

    20分くらいからシュートを打たれる前にボールを取れるようになり、チャンスもありますがそれでようやく4:6くらいでしょうか。つなぎの段階でパスミスでボールを失うと厳しいですね。

    34分には期待の唐山が抜け出してシュートしますがGKに止められました。

    39分にはCKから鹿児島に決められて0−2となります。なんというか、ずっと余裕がないサッカーを続けている感じですね。落ち着くところがないというか。このメンバーだと市丸にやって欲しい役割でもありますが。

    しかし勝敗を考えると前半のうちに1点でも返しておきたいところですが、結局2点ビハインドのまま前半終了。

    ガンバは選手交代無し、鹿児島は一人交代して後半開始。森下監督の修正がどのように行われるかですが、なんか知らん間に左サイドから上がったクロスをドフリーで決められて0−3。開始直後の注意すべき時間帯に驚くほど守備が緩い状態になっています。

    その後、51分には山本がエリア内での決定機を迎えましたが防がれました。攻め口は前半よりも増えているというか、サイドを上手く使えている気がします。後はもう少しチャンスを増やしていけばそのうち得点できそうな雰囲気はあります。

    57分にガンバが一気に4枚替えという珍しい選手交代をしましたが、64分の川崎のシュートも鹿児島GK大西に弾かれます。68分には川崎がヘッドで狙いますが大きく外れます。

    79分には後半はチャンスがなかった唐山が、川崎のロビングパスに抜け出してGKまで交わして冷静にゴールを決めました。さすがにストライカーと言える動きでした。

    そうかと思うと82分にはクリアミスもあって再び決められ1−4。展開と時間を考えると勝敗がほぼ決まった感がありますが、試合終了直前にゴールエリアでGKと競り合った唐山がPKゲットし、これを自分が決めて2−4となりましたがここで終了。3連敗となってしまいました。

    冒頭にも書きましたが、勝敗も大事ですがチームの目的上、J1のトップチームで通用するように成長させることも必要です。個々の選手では出来た選手もいたと思いますが、チームの負けが込むのもあまり良いことではないでしょう。期待した唐山が2点取ったといっても、内容・チャンスの数的に鹿児島の出来が良かったと言わざるを得ません。

    去年のU23の序盤は中村敬斗や食野亮太郎がいて得点を重ね、彼らがトップに固定された(夏には欧州に行きましたが)後は高木彰人が得点源になって、高木も移籍した後は唐山がゴールを多く決めていました。そういった明確な得点源となる核が固定されないと厳しいですかね。選手の入れ替えが多いDF陣で固いディフェンスは難しいでしょうから、相手よりも点を取って勝つというスタイルでないと勝ち点は増えないですよね。

    やはり今のU23では唐山が得点源にならざるを得ませんので、唐山が取りやすい形をどれだけ作れるかによって勝敗も変わってくるのではないでしょうか。

  • AbemaTVによる将棋観戦のポピュラー化と、radikoアプリによるラジオの復権

    先日のヒューリック杯棋聖戦で藤井聡太七段が三勝一敗で勝利し、史上最年少でのタイトル獲得を果たしました。最後の第4局をAbemaTVで見ていました。
    中盤から終盤にかけてずっと渡辺棋聖が少し優勢の状態だったのに、ちょっと食事をして戻ってみたら終盤戦で後手の圧倒的な優勢状態になっていて目が点になったのですが、それはともかく歴史的な瞬間を見ることが出来て良かったです。

    しかし将棋観戦はAbemaTVのおかげで非常にハードルが下がったのではないかと思います。一昔前の将棋観戦としては、NHKが中継するのを見るのでなければ、タイトル戦なら現地近くの大盤解説と、後は新聞・将棋雑誌を読むくらいだったのではないでしょうか。

    インターネットによる速報もありますが、AbemaTVが今回のような対局の中継を行うのが普通になったというのは、将棋界にとっても大きな影響があるでしょう。これがすぐに収益や将棋人口の増加につながるのかどうかは私には分かりませんが、悪い影響よりも良い影響の方が遙かに大きいであろうことは容易に想像が付きます。

    しかも、ここに来て「藤井棋聖」というスターが登場し、着々と存在感を増しています。70年代から80年代にかけて谷川浩司がものすごい勢いで上がっていって、そうかと思ったら80年代末から羽生善治が出てきてあっという間に天下を取りました。今の私たちはその時代の再現を見ているのかも知れないというのは、非常にワクワク出来る楽しみでもあります。

    これら追い風を受けて、「将棋」という、ともすればオッサン趣味(あるいはお爺さん趣味)とも思われかねない状況から脱しているのかなとも思います。

    ネットと昔からの文化の融合という点ではラジオも似ているかも知れません。radikoの登場はラジオ業界にとってパラダイムシフト的に大きな出来事だったのではないかと思います。今では誰でもいつでもどこでも持っているスマートフォンでラジオを聴けるようになることで、やはりこちらも聴取のハードルが非常に下がりました。

    ラジオも一昔前は自宅ではテレビに押されていました。もちろん好きな人は好きで聞いているのは当然ですが、家庭ではラジオよりもテレビがメディアの王様でした。アンテナを伸ばしてチューニングも放送局を切り替えるごとに必要というのも面倒です。テレビを見られない車の運転中は逆に使いやすいメディアでもありました。

    その運転中がまさにそうですが、「ながら利用」というのがラジオの大きな特性です。音(声)だけのメディアなので利用側は耳だけで使えるメディアです。テレビは目と耳が必要なメディアですから、何か作業をしながら見るというのが難しい問題があります。

    現代のコンテンツビジネスは利用者の時間を奪い合う時代です。テレビなどのオールドメディアも、スマホゲームもホームページもSNSなどのニューメディアも、利用者にどれだけ時間を費やしてもらうのかという競争です。それこそ、前述のAbemaTVもそこで戦っているわけです。

    そんな中で、ラジオが制作にしろ放送・配信にしろ音声だけという敷居の低さを利用してのradikoアプリでのサービス提供というのが、利用者の時間を「ながら利用」によって複層化して、「耳」のところだけ時間を奪うというやり方で生き残りを図っていることになります。

    そしてそのradikoによる放送によって聴取率・聴取者数の把握が簡単に出来るようになったというのは、テレビ業界にも出来ていない画期的な出来事でもあります。これによりCM価格や編成も柔軟に効率良く変更できるはずで、ラジオがテレビを上回る特性でもあるでしょう。

    テレビは「目と耳」が必要なのでながら利用にはラジオほどは向いていませんが、スマホ・タブレットでの利用がもっと簡単に出来るようになればまた将来の在り方も変わってくるでしょうけれど、デジタル化による録画の不便さや、8k放送での録画制限の不穏な動きなどを見るに、テレビの将来って本当に大丈夫なんだろうか? と心配にもなってしまいます。作る側と聴く側の手軽さを考えるとラジオの方が生き残れるのではないかとも考えてしまいますね。

  • 自分が自分である証明の究極の方法は生体認証しか無いはず

    給付金を振り込むにあたりマイナンバーシステムの使いづらさが目立ったことで、マイナンバーカードの存在意義やあるいはもっと使い勝手を良くした方が良いとか色んな意見が出ましたが、当然ながら政府としてはマイナンバーを今後も推進していくのでしょう。

    その政策の一つに、給付金などで迅速に処理が行えるように、マイナンバーと銀行口座の紐付けを行うという案が出ています。

    マイナンバーと銀行口座のひも付け義務化、政府が提案 個人情報管理には不安も
    https://ascii.jp/limit/group/ida/elem/000/004/016/4016182/

    当然ながら政府による国民監視という観点から批判はありますが、今回のような給付金を迅速に振り込めた韓国や中国ではそもそも政府が国民をがっちり監視しています。外出や営業禁止についての罰則を盛り込めなかった点でも同様ですが、プライバシー保護に関してはアジア各国の中では日本はかなり緩い方です。その対価として振り込み作業が混乱して遅くなった、ということであれば、どっちがいいかという究極の選択になってきます。

    まあ、マイナンバーと銀行口座を紐付けないとダメかどうかはそれなりに検証が必要でしょうし、今回のコロナ禍のようなことがそもそも何度も起きてもらっちゃ困るのですが、マイナンバーが使いづらいのは成りすましや情報流出対策のため、使いづらくなっている面もあります。

    個人の財産と本人確認が結びつくサービスとしては、それこそ銀行口座そのものが思い浮かびますが、オンラインでの銀行利用はネット経由の詐欺や情報詐取対策として、口座番号・オンライン番号・暗号表・暗証番号などを組み合わせて複雑な仕組みになっています。それに対してATMで引き出しや振り込みをする時には、キャッシュカードと暗証番号or生体認証で利用出来ます。特に生体認証は本人でしか使えないものですから究極の個人同定ツールと言えます。その生体認証がオンラインバンキングでは利用出来ないので、ややこしいことになっているのですが、結局はマイナンバーシステムでも同じことです。

    じゃあオンラインでも生体認証を使えるようにすればいいのですが、指紋認証装置が個人所有のデバイスに全てあるわけでもありません。また、生体認証デバイスが信頼に足る製品かどうかのチェックも大変です。そこで、下記リンクにあるような、個人所有のスマートフォンで本人確認を行うという話が出てきます。

    「スマホで身分証明」国際規格案の審議開始、2022年の標準化を目指す
    https://ascii.jp/elem/000/004/016/4016997/

    この仕組み自体のセキュリティに加えて、そのスマホ自体のセキュリティ機能も重要になってきます。Android端末での顔認証機能は一般的になりましたが、精度的にはかなりザルな場合もあります。iPhoneのFaceIDは結構厳しめですが、何でもかんでもスマホの生体認証を信用することは難しいです。

    あくまで上記の国際規格が実装された端末のみ、スマホでの身分証明が出来るということであれば大丈夫なんでしょうけれど、デバイス自体の信頼性も新たな懸念点ですね。

    ただ、認証完了までの途中経路でハードルが増えれば、その分セキュリティは安全になるはずです。どこかのセキュリティを突破出来なければ不正使用出来ませんから。

    物理的なスマホを使った生体認証というオフラインと、ネット経由のオンラインのハイブリッドでの本人認証というのは将来的にも続いていくでしょう。

  • 金儲けしたい人を相手に金儲けするのが一番効率良いからこそ注意が必要

    19世紀中頃にアメリカ西海岸で起きたゴールドラッシュでは、多くの人がまさに文字通りの一攫千金を目指して金鉱に殺到しました。今ではよく言われているとおり、ゴールドラッシュで儲かったのは金を探した人ではなくて、金を探すためのツルハシやスコップを売った人や、リーバイスの元になったジーンズを売ったリーバイ・ストラウスだと言われています。そもそも人を運ぶ鉄道や蒸気船の経営者が一番儲かったとも言われています。

    つまりは、金儲けをしたいという欲をお金に換えることができれば一番儲けることが出来るわけです。これが一番悪い方で発展したのがネズミ講やマルチなどですが、そこまでいかなくても昨今社会問題化しているサブリース問題とか情報商材なんかも似たようなものです。

    あるいは、完全に合法ですがUberなどの配車サービス、同じくUberEatsなどの宅配サービスも、稼ぎたい人にサービスを提供することで利益を上げることを目的としています。肝心の利益が配車サービスも宅配サービスも上がっていないのは別として。

    さらに考え方を広げて見ると、広告事業だって同じです。モノやサービスを売って儲けたいと思う企業のために広告を作成・掲示するわけです。こんな感じで極端化していけば、消費者相手の商売以外は全てそうなってしまいますが、儲けたい人の欲に対して誠実に応えているかどうかが、良質か悪質かの境目になるでしょうか。

    その理屈で言うと、金儲けをしたい人と金儲けしたい人にモノを売りたい人の間を取り持つプラットフォームを提供するビジネスは、さらに儲けやすくなります。

    巨大なものならAmazonとか楽天とかヤフオクとかメルカリとか、あるいはnoteやBOOTHなんかもそうですよね。マーケットそのものを作り出してしまうビジネスです。

    冒頭に書いたゴールドラッシュの話で言えば、金で人の移動を促したカリフォルニア州やアメリカ合衆国がプラットフォームビジネスで一番儲かったということになるでしょうか。

    国や州が特に何もしなくても、人が移動して商売してインフラも整備されて結果的に国家が富むわけですから、ゴールドラッシュの一番の勝ち組はアメリカ合衆国そのものだったかも知れません。

    逆に、行政が直接ビジネスに乗り出すと碌なことにならないというのは、第三セクターで失敗した事業が全国に存在する日本人なら容易に理解出来るでしょう。そもそも金儲け・ビジネスよりも行政での仕事を目指した人が役人になっているのです。そういう経歴と資質を持っている人が金儲けしようとしても出来るはずがありません。

    それはともかく、金儲けをするには金儲けをしたい人の欲求に応えることが一番なのですが、これが難しい。だからこそ、プラットフォームを用意して、テラ銭払ってもらって後は勝手に売り買いしてね、というスタンスが一番楽して儲かるわけです。もちろん、実際には準備やシステム、トラブル対応で大変ですが。

    ただ、逆に考えると金儲けしたい人は、そう言う人を狙っている相手・ビジネスが存在する、と前もって心構えしておくだけでも、大損したり騙されたりする可能性は減るはずです。

    浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ、とは言いますが、盗人ほど塀の向こう側ではなく、合法違法のギリギリの線を狙って寄ってきます。

    「いい儲け話がありますよ」
    と言ってくる奴はまずアウトだと思っておきましょう。

    第三セクターの人達も、簡単に儲けられると誰かに勧められたのでしょうかね。そんなわけないのに。

  • チャリティーやボランティアに偽善性はあるか?

    寄付、チャリティーやボランティアについて公言すると、誰でもいつでも「それは偽善だ」「売名行為だ」という非難を浴びせる人がいます。

    本当にその慈善行為が偽善なのかどうかはそれを行った本人にしか分からないはずですが、なぜかこういう非難はSNS時代の今でもというか今になってより一層広がっているように思えます。

    その一方で「やらない善よりやる偽善」という言葉もあります。ただ、そもそも誰かの善行を「偽善」だといって根拠なしに非難する行為は「やらない善」ですらありません。単なる難癖です。

    日常的なチャリティーやボランティアにしろ、無償あるいは寄付などでお金や手間や時間を費やして行動しているのであればそもそも偽善でもなく単なる善行です。

    ことさら自慢する必要はありませんが、その善行につられて自分もやってみよう、と思う人が増えるのであれば売名行為とも言えないでしょう。人に善を勧めるのは善に間違いありません。

    そもそも、単に善行を行っている人を偽善だというのは、侮辱であるだけではなく「偽善」という言葉を間違って使っています。

    例えばどこかの慈善団体に100万円寄付した人が、その団体から200万円を影で受け取っていたら間違いなく偽善でしょうけれど、100万円寄付したことを公言しただけでは偽善にはなりません。虚栄心や自己顕示欲を満たしている行為かも知れませんが、そのこと自体で寄付したことがなくなるわけでもないし、寄付を受けた人が何らかの被害を受けるわけでもありません。例え売名の意図があったとしても売名になるかどうかはそのニュースを聞いた人の受け取り方次第です。

    自己満足のために寄付やボランティアなどをしたところで何が悪いのか、という話でもあります。先の「やらない善よりやる偽善」という言葉にある、「やらない善」という概念自体がそもそも無理がある存在です。何もしていない「善」というのが存在しているのか、ということです。

    ただ、良いと思っていることをすれば善行になるのか、なんでもいいのか、というと微妙なところです。栄養視聴かつ飢え死にしそうな人にいきなり栄養過多の食事を与えるとかなりの確率でかえって身体を悪くして最悪死にます。善の考え方というのは哲学、倫理学でいくらでも考えられる概念です。何が良いことなのか、何が善行なのかというのは誰もが死ぬまで真剣に考えても答えが出ないかも知れないくらい、深遠な問題です。ただ、他人が行っている善行を偽善だと断ずることが出来る人間なんて基本的にはいないと思っていいでしょう。

    ちなみに、

    人が言うと書いて「信」
    人が為すと書いて「偽」

    という漢字になります。

    人が言うのは天に誓う言葉だから信用でき、人が為すのは天ではない人が為す行為だから偽りになります。さらに言うと、

    言を成すと書いて「誠」

    となります。人が言ったことを成立させれば「誠」になるのですから、善行をSNSで書いたっていいじゃないですかね。

  • アラウージョとランディ・バース

    ふと思ったのですが、ガンバサポーターにとってのアラウージョと、阪神ファンにとってのバースという存在は結構似ているのではないでしょうか?

    コロナ禍による中断から再開したJ1リーグでは、ガンバ大阪は3試合で1勝1敗1分の勝ち点4ということで、悪くはないけど決して良いとは言えない状況です。点は取れていますがアデミウソンがPKで、渡邉千真が終了間際の2得点となっていて、やはり期待される宇佐美、そしてパトリックはまだ無得点です。

    心配しなくてもそのうちゴールを決めるでしょうけれど、やっぱりガンバサポとしては物足りません。特に、横浜FCに期限付移籍中の一美や、柏レイソルに完全移籍した呉屋が普通にJ1でも得点しているのを見るとなんとも言えない気持ちになってしまいます。

    やっぱりガンバは点を取ってなんぼのチームですし、点取り屋がいないと結局成績も安定しません。アラウージョクラスのFWでなくてももうちょっとゴールゲッターが欲しいなあと思ってしまいます。

    そう言えば、同じく再開されたプロ野球でも阪神に新規加入したボーアがバースの再来と言われています。野球ファン、あるいは関西人にとっては「バースの再来」というワードは、「ヤマザキ春のパン祭り」「冷やし中華始めました」レベルの頻度で聞く煽り文句ですので、もはや感情を動かされることもないのですが、やっぱり阪神ファンにとってランディ・バースという選手は特別な存在なのだと思います。

    2005年以前からのガンバサポーターにとっても、アラウージョという1年だけ所属したストライカーは特別な存在でした。J1リーグ33試合33得点とか冗談みたいな成績を残してチームを優勝に導きMVPを取ってブラジルに戻っていったまさに伝説です。

    バースも2度の三冠王などのとんでもない成績を残し、1985年には21年ぶりのリーグ優勝、2リーグになって初の日本一をもたらしたのも伝説と言って間違いありません。

    ガンバにとってのアラウージョはまだ15年前ですので記憶はたくさん残っています。当時を知っている、観戦したサポーターもまだたくさんいるでしょうけれど、バースが活躍していた時代は30年以上前の話なので、若いファンにとっては古参のファンと同じレベルの共感を持つのは難しいかも知れません。でも、いずれはガンバにとってのアラウージョも同じような存在になるのでしょうね。そう考えるとちょっと寂しいです。

    今いるFW陣、宇佐美・アデミウソン・パトリック・渡邉千真などなど、アラウージョみたいと言える選手はさすがにいませんし、アラウージョ並に得点しそうというのも無理な話でしょう。33試合33得点とかはっきり言って無茶苦茶ですわ。

    阪神にとってのバース級の選手というのも無理な話でしょう。

    ガンバサポも阪神ファンも過去の良い思い出として残しておいて、今のチームからは意識を外して考えてないといけないですよね。

    でも、やっぱりアラウージョみたいに点取ってくれる選手欲しいなあ・・・。

  • 社会問題を解決するための団体のジレンマ

    ※この文章は特定の団体について書いたものではありません※

    なにか社会問題を解決しよう、ということで立ち上げた組織があるとします。

    そしてその賛同者が増えて規模が大きくなり、営利企業とか政治へのロビー団体、圧力団体などになって社会的影響力を増したとします。

    さらにその影響力によって社会問題を解決出来たとします。

    そこで、その組織・団体は役目を終えたとして解散して、めでたしめでたしとなりました。

    ※この文章は特定の団体について書いたものではありません※

    さて、歴史上、こういった話ってあったのでしょうか?

    もしかしたらあったかも知れませんが、大半のケースでは上記のどこかで止まって固定されてきたのではないかと思います。

    特に、社会的影響力を増したところで、様々な利権・資金・人材などを手に入れるようになると、その状態を維持しようという力が働きます。組織には自己保存の意志が働きますので、その組織の結成理由となった社会問題が完全に解決されることが組織にとっては望ましくない未来となります。

    となると、その組織は社会問題を解決されるのではなく、問題が維持される方にインセンティブが働いてしまいます。もっと言うと、解決を妨げることが組織維持のために必要になってしまいます。

    ※この文章は特定の団体について書いたものではありません※

    社会問題を解決しようとする団体が、その問題を解決させない方に動いてしまうこのジレンマはどうやって解消できるのでしょうか?

    その団体の創業者あるいは創業メンバーが倫理的に完全無欠であり、なおかつとてつもなくカリスマ性を持ち続けていれば、その社会問題を解決して役目を終えた団体を解散させることが出来るかも知れませんが、そうでないのであれば多分、このジレンマは解消不可能でしょう。

    ※この文章は特定の団体について書いたものではありません※

    もしかしたら私が寡聞で知識不足なだけで、解消した事例や方法が世間に転がっているのかも知れませんが、世の中を見渡してみると、ジレンマに引っかかっている組織や団体が結構見つかるなあ、と思ってしまいます。

    ※この文章は特定の団体について書いたものではありません※

  • 内政干渉と環境保護と国家主権について

    最近はブラジルと言えばボルソナロ大統領がコロナウイルス対策をろくに行わないというニュースばかり目にしますが、ブラジル連邦共和国の国土の多くを占めるアマゾン川流域の密林地帯の環境破壊は今も進行中です。

    アマゾン森林破壊が加速、1~4月は前年同期比55%増
    https://www.afpbb.com/articles/-/3282338

    地球規模にも悪影響が及ぶ森林破壊に対しては、諸外国や国際機関がこれまでに何度も注意や批判を行ってきましたが、大統領は一向に意に介さず、経済発展のためとしてアマゾン川流域の開発を続けています。

    日本人として、あるいは地球に住まうものとしては勘弁してくれよと言いたくなるところではありますが、ブラジル人・ブラジルに住んでいる人からすればどうなんでしょうか?

    国民から選挙を通して選ばれた大統領が、ブラジルのために行う政策として開発を行っているのですから、ブラジルの中でも歓迎している人もいるでしょう。それは大統領シンパとして特別に権益を分け与えられる人達だけではなく、単にブラジルにとって開発は良いことだと思っている人も多いのではないでしょうか。

    外国・地球にとっては悪影響だから開発を止めたとして、その代わりに必要なブラジル経済の発展は代替可能でしょうか? 代替できなければ、アマゾン破壊を止めるインセンティブはブラジルの大統領のみならず国家としても存在しないのではないでしょうか?

    個人的には密林破壊を認めたくはありませんが、じゃあその代わりにブラジル経済を発展させろ、と言われると返す言葉がありません。それ以外の方法を提示しないとそれこそブラジル国民も納得出来ないでしょうし、外国の意見を取り入れて経済発展を止めてしまえば、それこそ大統領が国民から逐われてしまうということもあり得ます。

    はっきり言うと、ブラジル国内の森林破壊を外国政府や国際機関がストップする権利はあるのか、ということです。

    もちろん、ストップしないと将来的にエラいことになってしまうのですが、じゃあどうやって止めるか、という問題があります。本当にこの森林破壊がブラジル国民の多数の支持を得ているかどうか、という観点での問題はあるかも知れませんが、もし同意を得ていたらブラジル国外から止める術は無くなります。せいぜいが強く非難する程度で、経済制裁をするにしてもそれでブラジル経済が停滞したら尚更、アマゾン開発を行って経済維持を企みかねません。だからといってこれを理由に武力行使などするわけにもいかないでしょう。

    内政干渉をしないことと、国際間の環境保護は両立出来るのでしょうか?

    ブラジル国内にある森林の開発を、外国がストップすることは法的や倫理的に正しいのでしょうか?

    国家主権に対する国際的な干渉は、大国と言われるアメリカ、中国、ロシアなどはよく行っていますが、安保上の問題が原因です。被干渉国における環境破壊を理由に何らかの制裁を加えるということは、実質的にも国際法的にも非常に難しいでしょう。

    国家主権の在り方がいろいろ問われる時代になってきました。EUはイギリスの離脱以前にも、ギリシャの経済危機や大量の移民・難民問題においても結束が緩みかねない危機を抱えています。イギリスが離脱する理由として、漁業における制限や移民(シェンゲン協定には加わっていませんが)による治安・失業問題、ユーロ参加国は独自の金融政策が取れないことなど、同意の上とはいえ国家主権が国際組織にいろいろな権利を譲ることが問題でした。

    EUとは別の形で主権の在り方を問うているのが香港問題です。1984年に出された英中共同声明によって、それまでイギリスが租借していた香港を中国が正式に取り戻すことを決めましたが、その中における一国二制度を、先日決定した香港国家安全維持法が破壊するのではないかと騒がれています。

    おそらく、中国にしてみれば、そもそもイギリスの植民地支配が問題だったと考えているでしょう。先の一国二制度についても方便として認めただけで、香港ははるか昔から中国のものであって一国二制度など無効だと言い張るかも知れません。BLM運動が過去の歴史の再清算を行っているように、過去の帝国主義的植民地支配に関しての歴史を否定する動きが始まらないとも限りません。

    香港に対する中国共産党政府が支配を強めることについても、最終的には欧米諸国は中国に対して何も強制できないでしょう。せいぜいが、香港政府に与えていた貿易上の特権的扱いを無くすことくらいです。それによって中国政府にダメージを与えられるかも知れませんが、同じくらいのダメージが取引相手の国にも与えられます。貿易というのは双方が得をするから成立しています。一方的に香港だけが得をする貿易など基本的にはあり得ません。双方に利があってやってきた貿易が無くなれば双方ともに損をするだけです。

    国家主権とは何か。近代国家が樹立した国家主権に対して、外国政府が干渉できるのか。状況によっては干渉しても良い、ということになってしまえば、20世紀に何度も起きた悲劇を繰り返しかねません。

    結局のところは、お互いに妥協出来るところで決着するしかありません。なあなあな状態を認めない、ということだと断交だの武力行使だの穏やかではない手段しか方法は無いからです。

    ただ、そうなると先に強硬な実力行使をしてしまった国への、原状復帰を強制することができないため、結局はますます世界情勢が厳しいものになりそうです。かつてはアメリカ合衆国がその役目(ただしアメリカにとって利益が出る場合だけ)を担っていたのですが、トランプ大統領による世界的な撤兵方針が他国への干渉を減らす結果となっています。

    もしトランプ大統領が選挙で負けてバイデン大統領が誕生した場合、どうなるでしょうか? 世界に対して以前のアメリカのように軍事的・経済的圧力をかけていくのでしょうか?

    今年のアメリカ合衆国大統領選挙はいつも以上に、アメリカだけではなく世界的な影響が大きくなるかも知れませんね。

  • パンデミックのトリレンマ?

    ジレンマは対立していて解決が容易でない2つの事項を意味します。これが3つになればトリレンマと言われます。ジレンマはほぼ一般名詞のように日常会話でも使用されるようになりましたが、トリレンマはまだまだ馴染みが浅い言葉です。有名なトリレンマは「国際金融のトリレンマ」というものがあります。

    ・国際間の自由な資本移動
    ・国家独自の金融政策
    ・為替相場の固定(安定)

    この3つのうち2つを満たすと残り一つは実現出来ない、という理論です。日本で言えば、自由な資本移動(外国の株や債権などを買えますね)と金融政策(日本銀行による量的緩和など)は可能ですが、ドル円やユーロ円などは毎日相場が需給によって変動するので固定できません。

    こういった、2つを満たすと残り1つが自動的に不可能になるトリレンマですが、今回のコロナ禍によるパンデミックに対してもトリレンマが成り立つのではないかと思って考えてみました。

    ・感染防止
    ・人権保護
    ・経済維持

    のトリレンマというのが成立するでしょうか?

    1,感染防止と人権保護を実施すると、経済を維持できない。
    →感染防止を優先し、感染が疑われる人の権利も侵害しないのであれば、国全体の経済活動を止めるしかない。

    2,感染防止と経済維持を選ぶと、人権保護出来ない。
    →経済を維持しつつ、感染防止を行うには、感染が疑われる人を強制的かつ徹底的に調べて拘束するしかない。

    3,人権保護と経済維持を選ぶと、感染防止できない。
    →感染が疑われる人の権利を侵害せず、かつ経済活動も止めないままだと、感染を防止できない。

    あまり綺麗な理論にはならないですね。3つ目のパターンは、アメリカ・ブラジルやスウェーデンも当てはまると思います。2つ目は中国・韓国・台湾・ベトナムあたりでしょうか。となると日本が1つ目になります。ただ、日本だけが経済が落ち込んでいるわけではなく、GDPの減少率は世界的に見て同じような動きをしています。

    いっそのこと「財政維持」も加えてしまって、テトラレンマ(4つの対立事項)にした方が良いかもしれません。

    ・財政維持
    ・感染防止
    ・人権保護
    ・経済維持

    1,財政維持、感染防止、人権保護を実施すると、経済を維持できない。
    →財政維持のため個人や企業への補助を行わず、感染防止を優先し、感染が疑われる人の権利も侵害しないのであれば、国全体の経済活動を止めるしかない。

    2,財政維持、感染防止、経済維持を実施すると、人権保護出来ない。
    →財政維持のため個人や企業への補助を行わず、感染防止を優先し、経済活動も止めないままだと、感染が疑われる人を強制的かつ徹底的に調べて拘束するしかない。

    3,財政維持、人権保護、経済維持を実施すると、感染防止できない。
    →財政維持のため個人や企業への補助を行わず、感染が疑われる人の権利も認め、かつ経済活動も止めないままだと、感染を防止できない。

    4,感染防止、人権保護、経済維持を実施すると、財政維持できない。
    →感染防止を優先し、感染が疑われる人の権利も侵害せず、国全体の経済活動を止めないのであれば、財政を維持できない(=個人や企業への補助をばらまかないといけない)。

    テトラレンマにしてもあまりすっきりしないですね。日本の場合は4つ目に該当するのは間違いないと思いますが。

    いっそのこと5つに増やしてペンタレンマに・・・。

  • 24時間テレビは100年続けてほしい

    日本テレビ系列で毎年8月に放送される24時間テレビが今年も実施されるそうです。

    去年8月にこんなnoteを書きました。

    https://hrsgmb.com/n/n9f6b2f7236d7

    放送自体は全く見ていないですが、惰性のように毎年貯まった小銭を持っていっている者としては、今年もあるのはありがたいことです。ただ、このコロナ禍の中で行うのが果たして正しいのか、という問題も出てきます。

    登場する芸能人のギャラ問題が毎年のように批判されていることを考えると、今年くらいは過去の再放送と局アナだけで回してしまっても良いんじゃないかと思ってしまいます。状況が状況ですし。

    さすがに恒例のマラソンはないそうですが、最近は温暖化の影響から真夏が非常に暑くなっていますし、熱中症などの心配はどうしても出てきます。そもそもこのマラソン企画も近年はマンネリ化してしまっていると思うんですよね。だからといって中の人は誰も止めると言い出せない、止めようと言ったら責任を取らされる感が感じられるのですが、いつまで続くのでしょうか。

    最初、間寛平がこのマラソンを始めたときはリアルタイム性、緊迫感などもあって面白い企画だと思いましたが、毎年やっているとまたそれはそれで違う気がします。

    今年が24時間テレビのマラソン企画自体を止める、かえって良い機会なのではないかなと考えますが、部外者がアレコレ言ってもしょうがないですかね。楽しみにしている人もいるでしょうし。

    ただ、売り出し中の若手芸能人がやるのはなんだかなあといった感じです。断るのも難しい立場でしょうし、そもそもマラソンやスポーツ・運動などを日頃していない人がこの企画のために特別にトレーニングを組むというのもそもそも企画として成り立っているのか?とも思ってしまいます。

    マンネリと言えばそもそも24時間テレビ自体がマンネリかも知れませんが、マンネリ化自体は批判されるほどは悪いことではないと思います。100年続けたらお祭りや年中行事のような扱いを受けて、むしろあって当然の状態になるでしょうからそれくらいは続けてほしいです。

    視聴率が落ちたり、テレビ局自体の体力が無くなれば今の規模で続けるのは難しいでしょうけれど、規模を縮小したり形式を変更したりしてでも、続けていってほしいものです。

    昔、KBS京都で「かたつむり大作戦」というチャリティーキャンペーンがありましたが、残念ながら30年で終わりました。毎年同じ時期に同じように行われることでの認知や参加しやすさが生まれるメリットはあるはずです。今年のこのような状況でも実施するからには100年続けるくらいであってほしいと思います。

  • 世襲が美談になる職人、世襲が非難される政治家

    就職難の時代や求人難の時代が歴史的には交互に発生していますが、現在は一応は求人難の時代に分類されるはずです。ただ、進路に悩む若者が多いことには変わりなく、新卒での就職活動に失敗して命を絶つ人も存在します。

    自分の仕事や職業を自分で選ぶのは今では当然のこととなっていますが、歴史的には自分の仕事を自分で考えて自由に選べるようになったのは20世紀になってからの話です。特に教育制度が確立し、学校を出てから就職する、という流れが出来上がったのは日本で言えば戦後です。

    いわば、進路の悩みというのは現代に特有の中身と言えます。では昔の若者は進路に迷わなかったのかというと、迷っている人はいたかも知れませんが、ほぼ強制的に親の仕事を継ぐのが普通でした。女性は時代的に嫁いでいって家を離れますが、男性、特に長男は家の仕事、親の仕事を継ぐのが当然でした。次男、三男はそのサポートに回るか、家を出て同じ仕事で男子がいない家に婿養子で入るか、それでなければ全く別の仕事をようやく考える、という社会でした。

    農民でも商売人でも、職人でも武士でも大まかにはこんな感じでした。もちろん100%ではありませんでしたが、子は親の仕事を継ぐものでした。

    時代が変わって今では、親の仕事を継ぐ子の方が圧倒的少数になりました。大半の子どもは、中学校を出てから、高校・大学・専門学校などを経由してから自分で仕事を選んで就職します。親の仕事を継がないことが一般的になりました。

    明治から昭和まで、急速に産業構造が変化したことにより、無くなった・衰退した職業があり、その代わり新しく増えた職業が出てきたためでもありますが、特に高度経済成長期に子どもが成長したら家を出て一人暮らし、そして結婚して核家族を作るようになったので、必然的に親と子の職業的つながりは無くなります。

    今となっては親の仕事、特に後継ぎに困りがちな職人や小規模な商売人を子どもが継いだ場合は、自分で仕事を選ばなかったといった非難の声ではなく、むしろ美談的にメディアなどで取り上げられます。

    特に伝統的な仕事であれば、受け継ぐことで日本の文化の伝承につながるので称賛されることも多いでしょう。

    一方で、政治家の仕事を子が受け継いだ場合は世襲だとして非難されます。子どもの頃から親の様子を見てきて、特に親から直接知識や擬似的な経験を与えられるという点では職人も政治家も同じはずですが、その結果は称賛と非難ではっきり分かれます。

    当然ながらそれには根拠のあることで、有権者に選ばれる政治家は非常に特殊な職業であり、自分で決めても議員になれるとは限らず、選挙に関して特別有利な立場(地盤・看板・カバン)を親から受け継げるということがアンフェアと見なされるからです。

    これは政治家だけではなく、大企業の経営者も似たような批判をされます。ただ、企業の場合は経営者は株主が選ぶものであり、創業者やその一族が株主の場合は世襲の経営者の方が望まれるケースも多いです。従業員が出世していって社長になる、あるいは外部から有能な経営者を迎えるということも企業が利益を追求する組織である以上、理想的な形ではありますが、長期的に安定的な経営をすることが出来るということで創業者一族が世襲で経営権を受け継いでいく、というのも日本社会では結構あります。その企業の従業員にしてみればよく分からないファンドや外資に買収されるよりはそっちの方がマシ、と思っている人もいますし、その企業の商品・サービスを愛用している一般消費者も似たような感じでしょう。

    ただ、やはり世襲議員・政治家についてはそもそも職業といって良いのかどうかという問題もあります。他の仕事を持ちながら社会貢献として一定期間議員として活動して、また元の仕事に戻る、というのが欧米ではもともとそうでしたし、地方議会レベルでは日本でもそういう議員もたくさんいます。

    拘束時間が長く、元の仕事を続けることが出来なくなると、職業としての政治家という存在が発生します。そして職業として続けると経験・人脈(そして金脈も)が出来てこれをリセットするのが惜しい、と本人やその支援者が強く望むと、その家族特に子どもに引き継がせる動機が生まれます。

    職人の後継ぎが美談になるのは、新規に職人になる人がほぼいないからです。それについては政治家も似たようなもののはずですが、政治家の世襲が非難されるのは、職人とは異なり旨い汁が吸えるからだと思われているからでもあります。

    ではその旨い汁というか、政治家になるメリットをデメリットが上回るようにすれば世襲は減るはずですが、それをすると尚更真面目に政治家になろうとする人が減ってしまいます。

    しかし、政治家の世襲は国によって比率が異なります。世襲議員の割合が高いかどうかは国ごとに大きく異なると思いますが、少なくとも日本においては世襲政治家が多いのは選挙で投票する人が多いからです。

    正確には、世襲されることで利益を得る人達が世襲政治家に投票する一方で、それ以外の人達の投票率が比較的低いために、世襲政治家が当選しやすくなっているところもあると思いますが、根本的な問題として、国民が政治家の世襲をそれほど嫌っていない、ということではないでしょうか? もっとはっきりいうと、メディアや知識人などが言うほど、有権者は世襲が悪だとは思っていないからこそ、当選してしまうのではないでしょうか?

    民主主義国家として世襲政治家でも全て選挙で当選する必要があります。参院の比例で上の順位に入れば落選の心配は減りますが、世襲したばかりの若いうちはそんな待遇は受けられません。有権者がその気になれば世襲政治家はいなくなるようには出来ます。世襲が悪だと思う有権者が実はそんなにいないというところが、多分一番の問題点なのではないかなと思います。