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  • 人工知能に仕事を奪われるかも知れないという恐怖という仕事

    AI、そして高度化されたロボットによって多くの職業が代替されてしまい、多くの人が失業してしまうという将来の不安がよく取り沙汰されます。実際にそうなるのか、あるいはそのような事態にはならないのか私には分かりません。これまでの人類の歴史の中で新たなテクノロジーが文化を変え、仕事を奪い、新たな仕事を作ってきたことは幾度もありました。産業革命期のラッダイト運動のような反対も幾度もありました。

    本当に仕事がなくなるとしたらおそらく止めようがないでしょう。どこかの国や組織が止めようとしても、別の国や組織がテクノロジーを発展させ続けて、いつかはその地点に到達します。そしてそのメリットによって商品やサービスの質や量、あるいは価格で有利な立場に立ち、テクノロジーを拒んだ国や組織はそれに追随するか敗れるしかありません。その結果、テクノロジーは全体に広がります。

    AIがこれまでの歴史と異なるのは、奪われる仕事が単純労働、肉体労働といったものではなく、いわゆる知的産業や高度な技術が必要な職業かも知れないことです。特に、機械では代替できないと思われている仕事がターゲットになるはずです。なぜなら、そういった仕事は専門性が高く、高給であるはずで、雇っている側にすれば機械に代替させることで人件費を大きく削減できるからです。となると、頭脳労働や、取得難易度が高い資格が必要な職業がAI&ロボットに奪われます。

    それこそ、「AIがこれらの仕事を奪う!」と煽っているような人の仕事が真っ先に奪われるのではないでしょうか。もちろん、そういった仕事がそもそも未来まで残っていない可能性もありますが。

    人間は学び反省し次に生かすという頭脳で他の動物との決定的な差異を作り出して進化してきました。しかし、AIによってその地位を奪われるかも知れない、というのが脅威と見なされています。人工知能は失敗から学びさらに高度に正確な判断を行う、という作業を休みなく、寿命もなく続けることが出来ます。この点で人間がかなうわけがありません。

    しかし、その一方で人類が発展してきたのは、まさにこの想像した恐怖によるものでもあります。

    「明日食べるものが採れなかったらどうしよう」という恐怖が、農業あるいは狩猟などで得た食べ物を乾燥させたりして保存し、余剰食糧を生み出しました。その余剰分が冨となり社会が発展しました。その過程の中で、火や暦や移動のための車輪などが生まれました。

    AIに仕事を奪われるかも知れない、という恐怖がまた新たに人類を発展させるのかも知れません。ソクラテスや孔子以来、二千数百年にわたって、生産活動をせずに「人間とは何か」を考え続けるのは哲学者だけの仕事でした。

    AIやロボットが仕事を代替し、その一方でベーシックインカムや社会保障で生き続けることが出来るのなら、人類全てが哲学者のように考える時代になるでしょう。もちろん、その考えるという作業もAIの方がはるかに質・量・速度も上回るでしょう。

    しかし、人工知能に恐怖心を持たせることは出来るのでしょうか?

    「こうなるかも知れない」
    「そうなったら大変だ」
    「ああならないようにしよう」

    といった恐怖心を原動力にしたブレイクスルーをAIが生み出せないとしたら、人類の役割はここにあるのかも知れません。AIに仕事を奪われた人が、AIに恐怖を教え込むというのは皮肉としかいいようがありませんが。

  • 内製化によるメリットと将来の不安

    ユニクロの親会社であるファーストリテイリングがセルフレジで特許訴訟になっているというニュースを目にしました。

    ユニクロ・セルフレジ特許訴訟「泥沼化」の内情、今度はGUも提訴へ
    https://diamond.jp/articles/-/240953

    特許やこの裁判の行方がどうなるかは全く私には分かりませんが、記事の最後の方にあった、顧客重視を大っぴらに掲げる姿勢というのは今では珍しくありません。ただ、それはその他取引先を含めた企業や社会全体に貢献するかどうかはまた別問題なのかも知れません。

    これを読んで思い出したのがAppleのポゴピン裁判です。

    総額100億円アップル社を訴えた!日本の中小企業島野製作所「下請けだからって、ナメるなよ」
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/41036

    島野製作所対アップルの特許訴訟はアップルの全面勝利で終結
    https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20170502-00070549/

    これも素人には裁判結果でしか正当性が分かりません。負けた以上はもうどうしようもないのでしょうけれど、Appleが元々調達していた部品を少し改変して特許に抵触しないようにした、というのは営利企業としてはある意味正しい在り方なのかも知れませんが、社会の中にある一つの組織としてはいかがなものかと思ってしまいます。

    特許料を払わなくなった分、安くて質の高い商品を消費者に提供できる!という理屈なのでしょうけれど、顧客を重視する代わりに取引先の経営などどうでもいい、という姿勢はいつか行き詰まるのではないかとも危惧します。

    「顧客重視」と言えば見栄えは良いですが、それ以外は重視しないということであれば、サービスや商品の値段を安くして売上を増やすために人件費と仕入値を下げるしかありません。

    訴訟で勝って、仕入れから内製に変更したとしても自社が100%経営している工場でそういった部品を製造するわけではありません。Apple(冒頭のユニクロも)はそもそもファブレスです。自社が管理している工場は所有していません。

    結局は鴻海など製造を請け負う工場を持っている企業に外注することになるのですが、その部品の生産に関する主導権を握っているかいないかが重要なのでしょう。

    生産そのものは外注するにしても、設計や開発・在庫管理などは自社でやる必要がありますので、サプライヤーに頼らず内製化を進めることによってどんどん企業としての規模が巨大化していきます。売上・利益ともに上がり続けていますから今のうちはいいのでしょうけれど、どこかで限界が来たらどうなるのでしょうか?

    今のAppleは製品の種類が非常に増えました。シンプルさを売りどころか企業としてのモットーにしているとは考えられないくらい、自社製品の間での顧客の奪い合いみたいな状態になりつつあります。Appleを引き合いにしてDELLやhpの品種過多が批判されていた頃が懐かしく思えるくらいです。

    これからもAppleはシンプルさから離れていくのではないでしょうか。

    単にシンプルでなくなるだけであればどうでもいいかもしれませんが、経費削減のために自社でチップや様々な部品を製作することになったのに、いずれは逆にその部品を使うための製品を作る、といった本末転倒な事態が起きないと言えるでしょうか?

    そうなったら終わりの始まりどころか、終わりの中頃までは来ていることになります。もしかしたら、内製化に突っ走るAppleは終わりの始まりの寸前に立っているのかも知れません。

  • 国立国際美術館で開催中の「ヤン・ヴォー展」を観に行きました

    日本のみならず世界的にようやく少しずつ社会活動が復活しつつあります。美術館などもいろいろと制限がありながら再開していますが、今回は中之島にある国立国際美術館に行ってきました。

    ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ
    http://www.nmao.go.jp/exhibition/2020/danh_vo.html

    現代美術は全然知らないのですが、「ヤン・ヴォー展」に行ってみました。

    ヤン・ヴォー氏はベトナム戦争終戦の年に生まれた芸術家で、ボートで脱出してデンマークに移住し、ドイツで学んで今ではメキシコに移住されたそうです。

    バックグラウンドを考えるとやはりベトナム戦争やアメリカ合衆国へのいろいろな思いがあるのだろうな、と思ってしまいました。もちろん、単なる恨みを晴らすような作品には見えませんし、そもそもアメリカ国防長官マクナマラの遺族との協働の作品もあります。キッシンジャーの書簡とか、ケネディ政権閣議室のイスを解体して作った作品などもありました。

    それらアメリカ・ベトナムを取り上げたものだけではなかったですが、個人的に一番印象に残ったのはスーツケースに入ったキリスト像ですかね。他にも殉教者を扱った作品もありました。

    現代美術・現代芸術を見ると思うのですが、作品を鑑賞して綺麗とか面白いとか興味深いとかいう感情ではなく、作品を解釈する中で自己を振り返り、また解釈という行為そのものを取り除いて作品・作者・鑑賞者の間で思考が入り交じるような感覚を受けます。

    ちなみに、国立国際美術館ではコレクション展として線描を扱った展示も行われていました。

    コレクション1:越境する線描
    http://www.nmao.go.jp/exhibition/2020/col1_2020.html

    国立国際美術館の構造上、特別展を見た後すんなりと他の展示も見ることが出来るようになっているのは良いですね。

    ちなみに、今年は国立国際美術館では

    ロンドン・ナショナル・ギャラリー展
    https://artexhibition.jp/london2020/

    こちらも行われる予定です。当然ながらこれも会期が変更になってしまったのですが、中止にならなかっただけでもありがたいですね。

  • macOS搭載の日本語ライブ変換に何度もチャレンジしているオッサン

    Macでは独自の日本語変換ソフトウェアを搭載しています。特徴的な機能としてはライブ変換があります。ライブ変換とは、変換のためのキー(スペースキーとか)を押さなくても日本語のかな漢字変換を自動で行ってくれる機能です。他の日本語入力ソフト(IME)でも同じような機能を提供しているものはあったと思いますが、精度がおそらく段違いだと思います。

    私自身はWindows95を使い始めた1996年からずっとATOKを使っています。Macを使うようになってからもATOKです。圧倒的進化を遂げた、このMacのライブ変換機能については、導入された時から何度か試しに使ってみるのですが、どうしても慣れません。今、この文章もmacOS標準の日本語変換機能を使ってライブ変換をオンにして書いていますが、多分、ATOKを使って書くよりも二、三割は時間がかかっていると思います。

    時間がかかる理由としては、私が日本語をパソコンで入力する時に、結構頻繁に文字を確定させながら打つのと、一つ一つの文が一般的な利用者の平均よりも短いからだと思われます。ATOKにはマンスリーレポートという機能があり、毎月始めに前月の入力した文字数・入力時間・キータイプの効率・タイプミスの傾向・入力文の傾向などの結果を教えてくれます。

    こんな感じに。

    スクリーンショット 2020-06-06 16.18.20

    macOSのライブ変換は文章を書いていく中でソフトウェアの方でその文章を解釈して次の言葉の変換を適切なものに変えていくので、文章自体が短いと多分、適切な変換精度が下がるのではないかと推察します。もちろん、普段ATOKで書いているのでそれとの表示や入力方法が少し異なることも理由としては大きいと思います。

    ただ、今の私に合わないだけで、もしかしたら他の人には快適かも知れません。このライブ変換機能についてウェブで検索してみると、褒めている人は勝手に変換してくれることやその精度の高さに言及している一方で、否定的な意見を述べている人は誤変換が気になることや、他の既存の日本語入力ソフトとの違いがあるため慣れない、といった感じでした。

    ただ、数年前のライブ変換機能に比べると、変換精度はかなり良くなっていると思われます。私の感想なので本当に精度が上がっているかどうかは分かりませんが、さすがに落ちることはないでしょう。英語圏以外ではMacの売り上げが非常に高い日本市場をAppleは今後も見捨てないでしょうし。

    このライブ変換機能について、私のようなオッサンは慣れないかもしれませんが、生まれて初めて使うパソコンがMacという若者にとってはむしろ当然の使い勝手と思っている人もいるのでしょうか?

    スマートフォンのタップ、フリックで入力していく感覚に近いのは旧来の入力方式ではなく、こういったライブ変換・推測変換が当然のIMEかもしれません。

    ここまで1,000文字ほど入力してきましたが、なんか疲れますね。まだ慣れないです。というかやっぱりATOKがいいです。というか人生の半分以上をATOKで文章を書いてきた人間がそう簡単には乗り換えられません。ライブ変換を使っている人の割合ってどれくらいなんでしょうね。Appleは把握していると思うのですが。

    ATOK Passportの費用は毎月かかりますが、やっぱり当分はATOK使いのままですね。

  • 首都が東京ではなかったとしたら

    日本の戦後の急速な経済発展はいろいろな理由と原因がありました。人口ボーナスによる恩恵や、戦前から元々先進国だったこと、農地改革と交通網の発達によって地方から都市に人が流れ込んだこと、世界的に(特にアメリカが)好景気だったことなど、いくらでも挙げられますが、首都であった東京が周辺に首都圏として巨大な都市を作ることが出来たことも一つの要因だと思います。

    そもそも東京が経済の中心地になったのは首都であったからですが、戦前の東京は日本経済の中心とは言えませんでした。一時期は「大大阪(だいおおさか」と呼ばれていた大阪市が最大の都市でした。

    「大大阪」歩みと挫折 市制130年、3度の拡張
    https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46905690T00C19A7AA1P00/

    東京が関東大震災で影響を受けていたこともありますが、首都ではない都市が首都よりも経済的に発展することは世界的に見てもそう珍しいことではありません。

    ただ、戦後は完全に東京一極集中の時代となりました。その東京が巨大になれたのは、政・官・民が密接に協力し合って経済発展を行ったからでもありますが、巨大な関東平野を東京で働く人の住まいとして準備出来たのも一つの理由でしょう。

    空から見ると、関東平野全てがつながった超巨大な大都市のように見えます。もちろん実際には田畑や山林もありますが、ほとんどが建築物で埋まっています。それが中心の東京に膨大なヒト・モノ・カネをもたらしました。

    また、東京湾が三浦半島と房総半島で挟まれ、直接太平洋の荒波には晒されず、穏やかな海に接する港湾を長大に作ることが出来たことも、戦後の輸出産業とその原料の輸入を支えた一因です。

    こういった、現代的な経済発展にとてつもなく適した土地が首都になっていたのはある意味幸運でした。明治政府は京都から江戸に下って占領し、議論はあったもののそのまま江戸を東京府として残し、事実上の首都として活用しました。

    そして江戸が徳川幕府の中枢となったのは豊臣秀吉が天下を取った後、東海・甲信地方を治めていた徳川家康を江戸を含む関東地方に移封したからです。その時、家康が秀吉の命令に逆らっていたら、今の東京の発展やその影響を受けた日本の経済成長は無かったかも知れません。

    あるいは、徳川家が移封される前に関東を支配していた北条氏の居城だった小田原城を中心としていたらどうだったでしょうか。神奈川県でも西に位置する小田原ですと巨大な東京首都圏のようにはなれなかったでしょう。あるいは、関東武士の精神的中心でもあった鎌倉だったらどうでしょうか。鎌倉は三方が山に囲まれ、残る一方は海ですから守りやすいですが狭いため、経済発展を促せる首都にはならなかったでしょう。

    また、明治政府が東京ではなく大阪が首都になっていたら今の日本はどうなっていたでしょうか。私は大阪生まれ大阪育ちですが、身びいきして東京以上の都市になっていた! と断言する気にはなれません。大阪は後背地としては関東平野ほどの広大な平野が存在しません。ただ、古くから大都市だった京都と、平清盛の時代から港湾都市として栄えていた神戸がありましたので、一極集中タイプの首都ではなく、近隣にある複数の都市と政治・経済・文化などの役割を分担するタイプの首都になっていたかも知れませんね。

    もしそうなっていたら、関東平野はどうなっていたでしょうか。巨大な農地として日本国民の食糧供給地となっていたでしょうか。それとも、巨大な工場が立ち並ぶ土地になっていたでしょうか。首都圏が大阪、兵庫、京都、奈良、和歌山、滋賀にまたがる形になっていたでしょうか。大阪が首都になっていた場合にはもしかすると都市間の山を削って埋め立てに使っていたでしょうか。

    詮無き想像ですが、そうなっていたら大阪弁、あるいは関西弁が標準語になっていたんやろか。いや、そんなことあれへんか。

  • オンラインとオフラインとハイブリッド

    現行の個人情報カードいわゆるマイナンバーカードが致命的に使いづらいことは間違いないのですが、全てをオンラインだけで利用することを前提にするシステムというのも若干の不安も感じます。

    今のマイナンバーのシステムが、個人情報の漏洩や国家による国民管理を不安視する人たちによる強硬な反対もあり、使いやすさが決定的に欠如したようなものになってしまっています。今回のコロナ禍における給付金申請でまさにその欠点が露出しました。もっと使いやすいものにすべきですし、そもそも国家が国民を管理するための番号を持つのは当たり前だと思いますが、そのこととは別に、オンラインでの給付申請が結局使いづらくて書類の方がマシ、という結果になってしまったのはマイナンバー賛成派にとっても何のこっちゃわからない残念な出来事だったと思います。

    個人的にはマイナンバーカードが健康保険証・運転免許証・雇用保険被保険者証・年金手帳あたりをカバーするようになってほしいですし、あるいは薬局でのお薬手帳も兼ねていればそれ1枚で過去の処方箋履歴もたどれるようになりますし、電子マネー決済やクレジットカード機能も搭載可能でしょう。

    ただ、ユーティリティとセキュリティは本質的には対立する概念です。使いやすさを優先すると安全性・機密性が損なわれるのは間違いありません。その逆もまたしかりです。この外出自粛・出勤不可の流れの中でも、FAX業務のために職場に出勤しないといけないこととか、PCR検査での病院や保健所のやり取りでFAX必須な場合があったこととか、マイナンバーの混乱以外でもどこが電子立国・電子政府だと言いたくなるような体たらくでしたが、100%オンラインに移行しきってしまったら、それはそれでシステムやネットがダウンしたときに何も出来なくなってしまいます。

    もちろん、ネット回線やサーバは冗長化が可能です。政府側の冗長性だけではなく、利用する国民もネット回線を複数持っていれば、あるいは多くの家庭をカバー出来るだけのWi-Fi網を作ってしまえば、アクセスが全て途絶えることは無いかも知れません。

    しかし、冗長性を持たせていても思わぬところでトラブルが起きることがあります。

    Googleにドメインをブロックされたウェブサービスが「Cloudflareに乗り換える」と恨み節 – GIGAZINE
    https://gigazine.net/news/20200605-google-block-gitbook/
    GitBookではサーバーレスや複数ノードによるフェイルオーバー可能な構成を取っており、可用性には力を入れていましたが、ドメインは避けられない単一障害点とのこと。

    こういったことも起こりえます。マイナンバーシステムのドメインが使えなくなったり乗っ取られたりしたときに、すぐに別ドメインを使えるようになっていればいいのですが。

    利益と効率性を最大限に追求しないといけない民間企業は、全てをオンラインに移行する方がメリットがあるのは間違いありません。しかし効率性を落としてでも対象全てをカバーしないといけない政府・自治体のシステムでオンラインに全振りするとトラブルが起きたときにかえって不便が大きくなり得ます。

    今回の給付金申請では、申請者がオンラインで申請しても、自治体職員が手作業でアナログな手続きをしないといけないという問題がありました。その一方で申請書を郵送する方式も、費用や作業負担が大きいという問題もあります。

    これらをむしろ逆手に取ったやり方がニュースになっていました。

    「手間がめちゃくちゃ減った」 郵送とオンラインのハイブリッド給付金申請、非エンジニアの市職員が開発 経緯を聞いた (1/2)
    https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2006/01/news124.html
    加古川市は給付金の迅速な支給を行うため、郵送方式とオンライン方式の他に、それらを組み合わせたハイブリッド方式を考案。5月27日から運用を始めた。ハイブリッド方式は、給付金の案内用紙を各世帯に郵送し、申請はオンラインで受け付ける。
    市民は案内用紙とスマホがあれば申請できる仕組み。申請の受け付けページで、市が各世帯に郵送した案内用紙記載の照会番号、世帯主の情報、振込先口座の情報を記入。身分証明書や通帳の写真をスマホで撮影してアップロードすれば申請が完了する。

    これならマイナンバーカードを持っていない人でもネット経由で簡単に申請できます。これが唯一の最適解ということでもないでしょうし、他人が成りすますかも知れないというセキュリティの懸念もあります。ただ、それは通常の郵送方式でも同じでしょう。あくまで今回の特別給付金申請にとって最適な方式かも知れないということです。

    ユーティリティとセキュリティの両立は難しいものです。90年代後半から利用され始めた、個人向けのインターネットバンキングでも今はかえって昔よりも使いづらくなっているのではないかと思うこともあります。もちろん、成りすまし、ハッキングなどによる個人や銀行の被害が増えたため、セキュリティを重視した結果です。そのためネットバンキングで振り込むより、クレジットカード・PayPal・電子マネー決済などで支払をした方が手っ取り早くなってしまいました。いわば、預金機能と支払機能を個人の資産管理の中で分離して使い分けるハイブリッドです。

    オンラインのシステムはどうしてもシステム障害やハッキングの恐れがあります。扱う金額が巨大になればなるほど、攻撃者の興味を引くことになってしまいます。

    給付金申請のような制度については、今の世の中のセキュリティレベルではその都度ハイブリッドなシステムを構築するのが、もしかすると一番効率性と安全性を高いレベルで実現出来るのかも知れません。

  • 新しい情報を受け入れる難易度の差はどこから生まれる?

    パソコンやIT関係にそこそこ詳しい人にとってのあるあるですが、よく人に質問されます。全ての質問に即答できるわけではないですが、それでもたいていの問題は、ちょっと検索すれば解決策が見つかります。見つからなくても実際に状況を確認して、自分の持っている知識と過去の経験と照らし合わせて試行錯誤して何とか解決まで持っていきます。

    それでめでたしめでたしとなるわけですが、また同じ人から似たような質問を受けることもあります。全く同じ内容ではないにしても、似たケースは多いです。そうやって毎回答えていくうちに、情報格差は広がります。問題に直面した人の持っている情報は増えず、問題に直面していないのに検索や試行錯誤を通じて解決させた人の情報量はその分増えます。

    情報は個別で成り立つだけではなく、他の知識や経験と相互作用を起こして利用価値が高まりますので、情報が多くなると比例的と言うよりも指数的に情報の質が高まります。

    手っ取り早く言うと、すぐ人に尋ねる人はそのままで、人に尋ねられる人はさらに詳しくなっていきます。多分これはIT関係だけの話ではないと思います。

    「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とは言いますが、聞いただけでそのままになっていると一時の恥がずっと続くというか、聞き続けないといけなくなってしまいます。

    とは言っても、なかなか自分にとって大きな興味がないようなことに対して、貪欲に知識を吸収しようとするのは難しいものです。人に聞くことで問題が解決するのであればそれはそれで構わないし、生きる上での戦略としては正しいのかも知れません。

    ただ、こういった人によく聞く・聞かないというのは戦略的というよりは新しい情報を受け入れやすい人かどうかによるような気がします。

    そういった新しい情報を受け入れる、取り入れるのに必要な要素は何でしょうか?

    ・必然性
    ・興味
    ・事前知識
    ・情報源へのアプローチのしやすさ

    このあたりでしょうか?

    必然性があれば新しい情報を探すのはごく当たり前のことです。また、必然性が無くても興味があれば積極的に情報を求めます。事前知識が無いと全く新しい分野の情報を受け入れるのは難しいですし、そもそも求めている解決策に必要な情報を探し出すのも困難でしょう。あと、情報源へのアプローチのしやすさ、というのは、例えばその分野に詳しい人が身近にいるとか、書店や図書館が近くにあるとか、そういったのが分かりやすいでしょうか。ただ今の時代はたいていの情報はある程度の質と量であればインターネットですぐに得られるようになりましたのであまり意味が無いかも知れません。

    条件がどれも欠けていれば詳しくはなれず、不便を被り続けるか他人に依存するかどちらかになります。逆に、新しい情報を受け入れやすい条件が整っている場合は、意識的か無意識的かはともかく、貪欲に情報を受け入れて詳しくなり、さらにその情報が新しい情報を呼び込んでいきます。

    ITなりファッションなり、あるいは学問なりといった具体的な、成人してから意図的に受け入れる情報だけではなく、言語習得にもつながるのではないかという気もします。いわゆる丸暗記とか聞き流しとかが上で言う「事前知識」に当たるかも。

    ただ、必然性と興味が無いと詳しくなれないのは何であってもおなじでしょうね。

  • デバイスのサイズと利用時間と移動時間の関係

    4月に楽天モバイルにMNPして以来、メインスマホもRakutenMiniに移行して何度もnoteに書いてきたくらい、RakutenMini至上主義者になってしまっていますが、使う人を選ぶ端末だとは理解しています。周囲の人みんなに勧めようとは思いません。というか、人によっては恨まれます。それくらい尖った端末だと思います。1円で販売したり、ユーザーにも総務省にも無断でバンドを変更したり、端末そのものの魅力とは関係ないところで騒ぎを起こしてしまったのはどう考えても楽天モバイルの大チョンボでしたが。

    ネットでRakutenMiniのレビューを見てみると、絶賛しているのはまあたいてい私と同じような目的で買っている人だと思います。しかし、当然ながら批判もあります。使っている人間だからこそ分かりますが、バッテリーが持たないし、iPhoneに比べるとタップの精度が悪いです。値段差を考えれば当たり前の性能の差ではあるのですが。

    そういった批判の中でもRakutenMiniを小さすぎるからダメ、という批判は理不尽すぎます。小さいスマホであることは使う前から分かっているはずで、用途によってデバイスの大きさはだいたい分かるはずです。逆に、6インチ級のスマホを買って大きすぎるからダメというのと同じ話です。

    ブログにしろYouTubeにしろ、その批判によってアクセスを稼いで収入を得るのでそういった内容に噛みつくのも思う壺なのだと思いますが、小さい端末を小さいからダメというのはちょっと無理があるんじゃないかなと思います。

    自分が使う目的や機能に見合った製品かどうかが重要です。

    自動車に例えれば、家族が7人いる家庭が軽自動車を購入したら不便でしょう。逆に一人暮らしで7人乗りのステップワゴンに乗るのも余程の理由がない限りはスペースと税金の無駄でしょう。

    デバイスは大きさも重要な選択肢の一つです。タブレットで言うとiPad Proの12.9インチは使う人を選ぶデバイスです。初めて見たときは、「なんだこの板は」という感覚でした。電子機器と言うよりも板感が強かったです。

    おそらくあれくらいサイズがタブレットとしては限界のサイズかなと思います。あれ以上大きいと持てません。MicrosoftのSurfaceもタブレットとしての利用を想定しているSurface Proは13インチクラスですよね。

    ただ、SurfaceはWindowsが使えるタブレットというものであって、指での操作を最優先に作られたOSでもないので、そういう意味での操作感はiOSには劣ると思います。MicrosoftにはWindowsCEとかWindowsMobileとかの遺産があったはずなのですが、残念ながらその辺の息吹を感じられないですね。そうは言ってもWindows7のころのWindowsタブレットよりは相当マシですが。

    持ち運べるデバイスは持ち運ぶ時間と腰を据えて使う時間の比率によって、大きさを選べばいいのではないかと思います。移動時間が長かったり、移動中に使うことが多いのであれば小型の方が良いでしょうし、移動時間が短い、あるいは移動中は使わないということであれば、利用する時の利便性を考えて大きめの方が良いはずです。

    私の使い方では、持ち運ぶ時間(通勤時間)が長い一方で、移動中はKindleで電子書籍を読んでいるのでスマホを使うことはあまりありません。自宅でもコンテンツ消費はMacかiPadなのでスマホは小型で充分なんですよね。だからこそのRakutenMiniですが、iPhoneの4インチサイズを求める消費者はどこに行くのでしょうか?

  • 選挙に負けても替わらないなら何も変わらない

    安倍政権が正当か、あるいは打倒すべきかは人によって考えが異なるでしょうけれど、本当に打倒するのであれば国政選挙で勝つしかありません。衆院選挙で自公政権が過半数を取れなければ、野党が政権を例え取れなくても安倍内閣は崩壊するでしょう。次の総理総裁が誰になるにしても、ひとまずはそれが野党側・反安倍側の勝利と言えるはずです。

    逆に言うと、選挙でそうならなければ野党側の敗北です。例え野党のどれかが議席数を増やしたとしても、それは他の野党の議席が移動しただけです。それでは何も変わりません。

    一つ不思議なのは、自民党は過去の歴史上、選挙で過半数を切るとたいていは総裁が替わりました。替わらないと内部から猛烈な反発が起きました。特に派閥抗争が激しかった時代では毎日自民党内の抗争がトップニュースになるほどで、選挙戦だけではなく自民党内の戦いも熾烈なものでした。

    選挙に負けたら総裁が替わる、と言うのが自民党なのですが、他の野党はどうでしょうか?

    国政選挙で議席が増えない、あるいは政権を倒せなくてもほとんどの幹部、執行部は替わりません。かつての民主党は選挙選での敗北を理由に代表が替わったこともありましたが、今存在している野党はどうでしょうか? 選挙で負けているのに執行部やトップが替わらなければ、その政党の支持者はどう思うでしょうか?

    自公政権を倒せないのに上が替わらずあれこれ言い訳している政党の支持が広がるわけがありません。執行部総入れ替えする覚悟で選挙戦を戦わないと、結局替わらないでしょ、という諦観が支持者内で広がりかねません。というか、既に広がっているのではないかと思ってしまいます。

    熱烈な支持者はその政党の執行部がどんな判断を下しても盲目的に支持してくれるかも知れませんが、そういう存在が本当に政党にとってプラスになるのかどうかも疑問です。内部批判がなければ緊張感も向上心も自浄作用も起こらないでしょう。かつての極左組織の内ゲバ抗争のトラウマでも残っているのかも知れませんが、正当かつ平穏な批判はどんな組織にも必要です。

    常にその政党を支持してくれる固定層は重要ですが、その固定層の数が少ないから選挙に勝てていないのです。そうなると、他のところから投票してくれる人を引っ張ってこないといけません。それがいわゆる浮動票です。

    浮動票とは、常にどこかの政党を支持しているわけではない有権者の票のことで、政治への関心が低下している象徴のように言われますが、果たしてそうでしょうか? 特定の政党を支持している人が、その政党がどんなことをしても支持し続ける方が無関心と言えないでしょうか?

    政党を選ぶのに、選挙ごとに乗り換える人がいてこそ政治にダイナミズムが生まれるはずです。そしてその浮動票を得てこそ新しい政治を作っていけるはずです。野党が本当に安倍政権を倒したいなら、固定層を抱えているだけではなく、浮動票にアピールできないと議席は増やせませんし、そのためには選挙で勝てなければ辞める!という覚悟が野党幹部にも必要ではないでしょうか。

  • 差別の歴史を残すか消すか

    色の白いは七難隠す、ということわざがありますが、この言葉は今後は使用を控えた方が良いかもしれません。もちろん、この言葉が成立していた日本社会においては黒人の存在を想定しておらず、差別的意図が全く含まれていないことわざなのは承知の上ですが、そうであってもあまりに悪い意味でタイムリーすぎるでしょう。

    こういった、本来の意味や意図、目的とは異なる形である言葉が使えなくなることについて、言葉狩りだという批判もありますが、昔は使っていたけれど今は不適当な言葉というのはいくらでもあります。これはダメという社会的同意が出来ればもうどうしようもないでしょう。

    今後は新しく使わないとしても、過去の小説・漫画・映画などで使用されている場合はどうなるでしょうか? その部分を同じような意味で全く別の言葉に、さかのぼって変更するでしょうか。それとも、「当時は通例的に〜〜、作者の意図を尊重して〜〜」といった注意書きを付けた上で残すでしょうか。

    すでに存在している作品であればもうしょうがないじゃないか、と思いますが、そうとは考えないところもあるようです。

    米動画サービスが『風と共に去りぬ』配信停止 人種差別理由に
    2020年6月10日 18:55 発信地:ロサンゼルス/米国 [ 米国 北米 ]
    https://www.afpbb.com/articles/-/3287586

    「風と共に去りぬ」はこれまでにも人種差別の観点から批判されることはありました。もちろん南部貴族層を懐かしむような作品ですが、存在しなかったようにしてしまうと、過去の差別の歴史、差別と戦ってきた人たちの足跡も消してしまうことにならないでしょうか?

    過去を表現するというのは難しいことです。小説でも漫画でも、映画やドラマでも昔を舞台にすると、昔は当然で今はダメという価値観とバッティングします。

    https://hrsgmb.com/n/n8089e26609f8

    以前noteにタバコについて書きましたが、ハリウッド映画では喫煙シーンはダメだそうです。20世紀前半あたりの男性ばかりが集まる場所を描くときにタバコが無いとものすごく違和感があると思いますが、史実に忠実である必要はないのでしょう。時代劇だって、400年前の戦国時代の風習を全て再現できているわけでは無いでしょうし。この辺は多分、保守的な人とリベラル的な人との間で考え方が別れそうな気がします。現代の価値観からみたら何だってそのままは描けないでしょう。

    タバコ程度はまだかわいいものです。それこそ黒人奴隷が出てくるシーンを史実に忠実に再現するとそれだけでその映画が大炎上することは間違いありません。だからといってソフトに扱ってもそれはそれで奴隷問題を軽視していると捉えられそうです。

    イギリスで人種差別に抗議続く、奴隷商人の銅像を引きずり下ろし
    https://www.bbc.com/japanese/52960399

    ブリストルにあった奴隷商人の銅像が倒されました。虐げられた黒人奴隷のことを考えると、銅像なんか飾るな!という気持ちは分からなくありませんが、その資産で学校や病院が建てられたことから、そこで利益を受けた人の子孫も大量にいるはずです。そういった学校や病院は破壊されないのでしょうか? 大丈夫ですかね?

    さすがに今でも奴隷商売で資産を築いた人の銅像がそのまま建っているのはおかしいのかも知れません。ただ、その人の過去の歴史、ブリストルの街の歴史からその事実を消すのもおかしい話です。例えば銅像の台座だけ残しておくとかしておいた方が良いのではないでしょうか。かつて奴隷貿易があったこと、その利益で公共施設が建てられたこと、差別への抗議のために2020年にその銅像が倒されたこと、これら全ての歴史をそのまま残しておかないと、歴史を改変したことになってしまいます。過去の歴史は変えられません。なかったことにも出来ません。

    過去の歴史を現代の価値観で批判するのは非常に危険なことです。また、過去の価値観を伝統としてそのまま現代に強制的に適用するのも危険です。差別は現代に残してはいけない価値観であるのは間違いありません。過去の歴史において存在した差別や虐待ももちろんあってはならなかったことですが、その過去が存在したことを消し去るよりも、どのように始まり、どのような経過をたどり、どのように終わった(あるいは終わっていないのか)を考え続けていくことの方が、大切なのではないかと思うのですが、こういった考え方も差別的なのでしょうか。

  • 「8」と「9」では大きな違いがある?

    ジョージ・フロイド氏が警官に足で押さえつけられている動画がSNSで拡散したことから、全米に暴動が広がりました。当の動画について分数の表示に違いがあったので気になりました。

    ブルームバーグは「8分あまり」と書いてあります。

    トランプ氏、「集団暴力」ストップさせる-黒人暴行死巡る抗議拡大
    https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-05-31/QB6OIJT1UM1001

    一方、ウォールストリートジャーナルでは「9分近く」とあります。

    【社説】全米暴動、正義と無秩序のバランスは
    https://jp.wsj.com/articles/SB11030818947919454487204586419323506368658

    実際は8分46秒なので、日本のニュースなら9分弱と書くのではないでしょうか。

    ちなみにアメリカ外のメディアとしてはイギリスのBBCはニュースによって8分以上や9分近くと書いてありました。

    米ミネアポリス市警の元警官、黒人男性の殺人罪で起訴
    https://www.bbc.com/japanese/52857950

    米黒人男性の死は「計画的殺人」 遺族の弁護士が主張
    https://www.bbc.com/japanese/52872946

    8分46秒を8分とするか9分とするかで、読んだ人の印象が変わるかも知れません。前述のメディアが8分と書くのは黒人差別だと言うつもりもありませんし、逆に9分と書くのが大げさすぎるとも思いません。メディアの意図的なミスリードというよりは、書いた記者のイメージが反映されているのか、あるいは何も考えずに書いているのかも知れません。

    「9」という数字は十進法では大きな数字です。一桁で表す数字の中では最も大きい数字です。その一方で、キリのいい「10」ではない中途半端な数字というイメージもあります。

    有名な短編ミステリに「九マイルは遠すぎる」という名作があります。

    ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」
    https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/41902.html

    まさしく安楽椅子探偵のお手本のような作品ですが、9マイルという中途半端さから驚くべき犯罪を見つけ出すという離れ業を描いています。これは「9」という数字がイメージ的に大きくないという感じを受けます。

    逆に「9」が大きいイメージをもたらしているのが、打って変わって東アジアの話になりますが、「重陽の節句」です。

    古代中国では奇数が「陽」、偶数が「陰」と考えられていたのですが、その「陽」の中でも最も大きい数字の「九」が月と日で「重」なる9月9日が「重陽の節句」として祝われていました。

    「8」と「9」では大きな違いがあるかもしれないし、ないのかも知れません。最初に取り上げたメディアによって動画の長さの書き方が違うということについては、メディア全体を貫く一定のルールがないように見えることがそもそもの問題でしょう。

  • JリーグとMLBに違いを感じてしまう

    何度もnoteには、今年のJリーグやガンバの決定には文句を言う気にはなれないと個人的に書いてきましたが、横断幕全クラブ一律禁止という決定に対して、浦和レッズが意見書を出したそうです。

    Jリーグ側としては苦渋の決断だっただろうし、それに対してなぜ反論するのか!という意見が出てきそうですが、意見や反論はあっても問題ないと思います。特に浦和というクラブの事情もあるでしょうし、反発はJリーグとしても覚悟の上でしょう。

    反対を黙殺するのではなく、チェアマンも理解をした上で経緯を説明しているのは良いことだと思います。双方が意見をぶつけ合って物事が進んでいないというわけではありません。事態を前に進めながら、こうしよう、こうした方が良い、いやそうじゃない、といった議論はあってしかるべきです。決して浦和レッズが独善的だとは思いません。もしかしたら追随するクラブもあるかもしれないし、それはウチは出来ないからやっぱり一律禁止にしてほしい、というクラブもあるでしょう。

    未曾有の事態には型にはまらず大いに考えて悩んで議論すべきです。前に進んでいるのであれば希望が持てますし、不満はあれどファンのため、試合開催のために動いているのは、Jリーグとクラブが比較的健全な関係にあることの証左であると思います。

    全く別の国の別のスポーツを引き合いに出すのはアンフェアかも知れませんが、アメリカのMLBではオーナー側と選手会側が何ヶ月も対立し続けてお互いに妥協出来ず、シーズンを開催できそうにないのを見るとアメリカの野球ファンは失望しかないでしょう。

    四半世紀前にストライキでファンというか国民から批判されて客も減ったのに、また同じことを繰り返すのでしょうか。あの時は野茂フィーバーもあって開幕直後の落ち込みからそれなりに早く立ち直ったと思いますが、今度はどうなるのでしょうか。