日本の戦後の急速な経済発展はいろいろな理由と原因がありました。人口ボーナスによる恩恵や、戦前から元々先進国だったこと、農地改革と交通網の発達によって地方から都市に人が流れ込んだこと、世界的に(特にアメリカが)好景気だったことなど、いくらでも挙げられますが、首都であった東京が周辺に首都圏として巨大な都市を作ることが出来たことも一つの要因だと思います。
そもそも東京が経済の中心地になったのは首都であったからですが、戦前の東京は日本経済の中心とは言えませんでした。一時期は「大大阪(だいおおさか」と呼ばれていた大阪市が最大の都市でした。
「大大阪」歩みと挫折 市制130年、3度の拡張
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46905690T00C19A7AA1P00/
東京が関東大震災で影響を受けていたこともありますが、首都ではない都市が首都よりも経済的に発展することは世界的に見てもそう珍しいことではありません。
ただ、戦後は完全に東京一極集中の時代となりました。その東京が巨大になれたのは、政・官・民が密接に協力し合って経済発展を行ったからでもありますが、巨大な関東平野を東京で働く人の住まいとして準備出来たのも一つの理由でしょう。
空から見ると、関東平野全てがつながった超巨大な大都市のように見えます。もちろん実際には田畑や山林もありますが、ほとんどが建築物で埋まっています。それが中心の東京に膨大なヒト・モノ・カネをもたらしました。
また、東京湾が三浦半島と房総半島で挟まれ、直接太平洋の荒波には晒されず、穏やかな海に接する港湾を長大に作ることが出来たことも、戦後の輸出産業とその原料の輸入を支えた一因です。
こういった、現代的な経済発展にとてつもなく適した土地が首都になっていたのはある意味幸運でした。明治政府は京都から江戸に下って占領し、議論はあったもののそのまま江戸を東京府として残し、事実上の首都として活用しました。
そして江戸が徳川幕府の中枢となったのは豊臣秀吉が天下を取った後、東海・甲信地方を治めていた徳川家康を江戸を含む関東地方に移封したからです。その時、家康が秀吉の命令に逆らっていたら、今の東京の発展やその影響を受けた日本の経済成長は無かったかも知れません。
あるいは、徳川家が移封される前に関東を支配していた北条氏の居城だった小田原城を中心としていたらどうだったでしょうか。神奈川県でも西に位置する小田原ですと巨大な東京首都圏のようにはなれなかったでしょう。あるいは、関東武士の精神的中心でもあった鎌倉だったらどうでしょうか。鎌倉は三方が山に囲まれ、残る一方は海ですから守りやすいですが狭いため、経済発展を促せる首都にはならなかったでしょう。
また、明治政府が東京ではなく大阪が首都になっていたら今の日本はどうなっていたでしょうか。私は大阪生まれ大阪育ちですが、身びいきして東京以上の都市になっていた! と断言する気にはなれません。大阪は後背地としては関東平野ほどの広大な平野が存在しません。ただ、古くから大都市だった京都と、平清盛の時代から港湾都市として栄えていた神戸がありましたので、一極集中タイプの首都ではなく、近隣にある複数の都市と政治・経済・文化などの役割を分担するタイプの首都になっていたかも知れませんね。
もしそうなっていたら、関東平野はどうなっていたでしょうか。巨大な農地として日本国民の食糧供給地となっていたでしょうか。それとも、巨大な工場が立ち並ぶ土地になっていたでしょうか。首都圏が大阪、兵庫、京都、奈良、和歌山、滋賀にまたがる形になっていたでしょうか。大阪が首都になっていた場合にはもしかすると都市間の山を削って埋め立てに使っていたでしょうか。
詮無き想像ですが、そうなっていたら大阪弁、あるいは関西弁が標準語になっていたんやろか。いや、そんなことあれへんか。
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