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  • 不老不死時代における賠償金額の青天井化と死刑・終身刑の考え方

     あくまで思考実験的な。

     ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモ・デウス」に書かれているように、将来的に一部の人の寿命は飛躍的に伸びていくのかも知れません。病死や老衰による死亡の可能性が無くなる、いわゆる「不老不死」が実現した場合、社会にはとてつもなく大きな影響があるでしょう。もし、多くの人が病気で死ななくなったら、生命保険に入る人っているんでしょうか。

     逆に、傷害保険や入院保険は存在し続けるでしょう。不老不死になっても、例えば事故による外傷には弱いままでしょうから。

     言い換えると、不老不死の時代が来ると、事故・怪我による死を極端に恐れるようになります。怪我さえしなければ不老不死でいられるのですから当然ですね。そこまで医学・生命化学が進歩した時代であれば、命さえ残っていれば、大怪我しても移植や人工素材によって生きていくのに不便ではない身体を取り戻せるでしょう。怖いのは完全に死んでしまってどうしようも無くなることです。

     死んだら終わり、というのは今も昔も当たり前の話ではありますが、不老不死の時代であればそもそも死なない前提なのですから、事件事故による死が当たり前ではなくなります。その怪我さえなければ永遠に生きられたのに・・・というわけです。

     逆に加害者の立場で見てみましょう。事件や事故で他人を死なせてしまうと、本来死ななかったはずの人を死なせてしまったわけですから、賠償金額は無限大になるはずです。現代において、死亡させてしまった場合の賠償金額が有限なのは、その事件事故が無かったとしても、いずれは誰もが病気(あるいは老衰)で死ぬからです。平均的な寿命と、死亡時の年齢の間でれられるはずだった収入も賠償金額には加味されます。

     しかし、不老不死の時代においては、事件事故が起きなければ永久に生きていたはずなのだから、賠償金額には永久に得られていたはずの収入が加算されることで上限が無くなるはずです。加害者側も永遠の命があるのであれば、永遠に賠償し続けることになるのではないでしょうか。

     さらには、その事件事故を起こした加害者に対して刑事罰が与えられる場合、すなわち懲役が科される場合、これもとんでもないことになるのではないでしょうか?

     死刑に関しては現代でも賛否両論様々ですが、不老不死の時代において、国家や政府が囚人に対して死刑を執行することの是非はさらに論議を呼びそうです。囚人だって適切な対応を受ければ死なないはずだったのですから、その権利を国家が奪うことに対して反対は起きるでしょう。逆に、「死なない」のですから、終身刑の囚人が永遠に生き続けることの社会的コストに対しても様々な意見が出るはずです。

     突然明日からみんな不老不死になるわけではないですし、本当にそんな時代が訪れるのかどうかも分かりませんが、そういう時代が来たときには今とはことなる哲学・思想が支配的になっているんですかね。少なくとも現時点での考え方では対処できないでしょうから、少しずつ思想も進歩していくのだと思います。

  • 飲みニケーションとアルコール離れ

     日本の若者のアルコール離れという切り口で、飲みニケーション文化が成り立たなくなっている、という言説はちょくちょく見ますが、日本だけでは無くアメリカでもアルコール場慣れが進んでいる、というニュースがWall Street Journalに出てました。
    https://jp.wsj.com/articles/SB11871948684497644698304585067923151882834

     お酒を飲むということ自体が一つの文化ではありますが、その文化自体が特に若い世代では消えつつあるのでしょうか。少なくとも、暇つぶしにアルコールを摂取するという行為は、暇つぶしという観点では絶対にスマートフォンには勝てないですね。

     とにかく酒を飲めれば良い、という人もいるんでしょうが、単純に酒を飲むだけでは無く、その行動が何らかの付加価値を生まないと飲まないでしょう。その一つとして、かつての多くの日本企業では、上司と部下、同僚同士でのコミュニケーションを高めるために飲み会がありました。いわゆる「飲みニケーション」ですね。

     安く暇つぶしできる道具もコンテンツも少なかった時代においては、飲み会も一つの暇つぶしではあったのですが、それと同時に職場の結束力を高めるという点では間違いなく有効でした。でも今はそういう時代ではありません。一気の強要をする企業・団体はさすがに絶滅しかかっているとは思いますが、そもそもアルコールを飲まない人を飲み会において許容する考えが日本全体に広まっているかというと、そうとは言えないでしょう。

     日本人はアルコール分解能力が遺伝的・身体的にそれほどではありませんので、お酒を飲めない人というのはある程度の割合でいるはずなのですが、古くは「俺の酒が飲めないのか」という強要行為が事実上黙認されていました。無理矢理飲めばそのうち飲めるようになる、という理屈ですね。お酒を飲めない人に無理矢理のませるのはアルコールハラスメント、略してアルハラと言われるようになりましたが、今の若い世代はこういう理不尽な要求には拒絶感が強いです。無理矢理飲まされるお酒を好きになれない、ということでさらに若い世代でアルコール離れが進みます。それに苛ついた年配の世代がさらに無理矢理飲ませて、さらにアルコール離れが進んで、という悪循環になっている気がします。

     そもそも飲みニケーションというのは、お酒を通じて陽気になったり弱音を吐いたりしてコミュニケーションを深めていくことが目的だったはずですが、アルハラは間違いなく目的と手段が取り違えられた結果でしょう。無理矢理飲ませるのでは無く、おいしいお酒を飲んでいる姿を見せることで、お酒を飲まない人(飲めないではなく)に興味を持ってもらうという、アルコール抜きの飲みニケーション文化を確立しない限り、若者のアルコール離れは今後も進んでいくのではないでしょうか。

  • アジアカップとその後のW杯の成績との関係性

     UAEで開催されているサッカーアジアカップで、森保監督率いる日本代表は無事、グループリーグを3連勝で突破しました。オフト監督の時代からずっとアジアカップのグループリーグは負け無しらしいので、この結果は当然のものとは言えますが、結果も内容も結構批判されていますね。個人的にはアジアカップで簡単に勝てると思う方がアジアを舐めているのではないかという気がしないでも無いですが。

     さてそんな大会中に水を差すような話しかも知れませんが、そもそも日本代表がアジアカップで優勝した後(2年後もしくは3年後)のW杯では成績が良くない、ということはあまりメディアには出ないですね。例外はトルシエ監督の時のみです。

     具体的に言うと、
    92年(オフト)アジアカップ優勝→93年(オフト)W杯予選敗退
    96年(加茂)アジアカップベスト8→98年(岡田)W杯初出場
    00年(トルシエ)アジアカップ優勝→02年(トルシエ)W杯ベスト16
    04年(ジーコ)アジアカップ優勝→06年(ジーコ)W杯GL敗退
    07年(オシム)アジアカップ4位→10年(岡田)W杯ベスト16
    11年(ザッケローニ)アジアカップ優勝→14年(ザッケローニ)W杯GL敗退
    15年(アギーレ)アジアカップベスト8→18年(西野)W杯ベスト16
     という結果になっています。ここから分かる点は2つ、アジアカップ優勝後のW杯では良くない結果になっているのと、アジアカップで優勝できなかった後に監督が交代後、W杯では好成績を収めている、ということです。

     細かく見ていきましょう。

     オフト監督の時はあの「ドーハの悲劇」にてW杯初出場の夢が絶たれました。
     加茂監督の時は準々決勝でミラン・マチャラ率いるクウェートのカウンター・ロングボール戦術に惨敗しましたが、W杯予選中の監督交代後に岡田監督の下でW杯初出場を果たしました。
     トルシエ監督の時が例外になるのですが、アジアカップでは優勝(内容も伴っていました)し、自国開催のW杯では初のベスト16入りとなりました。
     ジーコ監督の時は大アウェーの雰囲気の中で優勝しましたが、続くドイツW杯では初戦のショッキングな逆転負けもありGL敗退でした。
     オシム監督の時から開催年の間隔が変わりましたが、三位決定戦でも負けて4位に終わりました。その後、病気のために監督交代となり、後を受けた岡田監督の下でベスト16に進みました。
     ザッケローニ監督の時には決勝Tは接戦続きでしたら優勝したものの、やはりW杯ではGL敗退でした。
     アギーレ監督はアジアカップベスト8に終わり、96年以来の低成績でした。八百長疑惑もあり解任となった後、ハリルホジッチ監督になりましたが直前で西野監督に代わり、W杯では三度ベスト16入りとなりました。

     アジアカップで優勝できなかった後、監督が替わった理由は三者三様(加茂→成績不振、オシム→病気、アギーレ→八百長疑惑)でしたが、その後に良い結果が待っているというのは皮肉と言っていいでしょう。
     そして、アジアカップで優勝すると、当然ながらW杯も期待されます。過去最強の日本代表ではないか、とも言われましたが、ジーコ・ザッケローニともに失敗しました。

     アジアカップは日本代表として重要な公式戦です。W杯ほどではありませんが、4年ごとの大きな目標でもあります。しかしアジアカップの成績がW杯の成績と比例していない、という大いなる皮肉あるいは矛盾に潜む理由や原因を、もうちょっと取り上げてもいいんじゃないでしょうかね。

  • 統一ヨーロッパに対するイギリスとロシアの対応

     今、イギリスがブレグジットで大変な騒ぎになっていますが、過去の歴史を鑑みるに、イギリスの一部(というか半分)の人達がヨーロッパに吸収されることに抵抗し、反発して大陸から距離を置こうとしている心境は、そう変なものではないかも知れません。
     また、ロシアがクリミア半島の合併とウクライナ東部に対する軍事的干渉を行って、NATOに抵抗し続けているのも同じく歴史的経緯から見ると、プーチン個人のエキセントリックな対応とは言えないかも知れません。

     ヨーロッパ自身が好むと好まざるとにかかわらず、19世紀と20世紀にそれぞれ強大な権力者によってヨーロッパ全体が支配されそうになったとき、イギリスとロシア(ソ連)がその野望を阻みました。

     19世紀初頭にはフランス率いるナポレオンに対して、ロシア帝国は焦土戦術で帝国奥地に誘い込み、極寒の冬将軍によって勝利しました。その後、イギリスのウェリントン将軍が中心となったワーテルローの戦いでナポレオンは敗れ、ヨーロッパが一つになることは無くなりました。

     20世紀にはヒトラーがドイツからヨーロッパ各国を侵略し、これもまたソ連奥地での戦いに手こずり、イギリスに対して相当量の空爆を行ってもソ連・イギリス両国は戦い続け、アメリカ軍と共同でナチスドイツとヒトラー(それとムッソリーニも)を倒しました。

     そして今、イギリスがEUから離脱しようとし、ロシアはウクライナに置いてヨーロッパの東から軍事的な圧力を強めています。現在のEUはナポレオンやヒトラーのような軍事力でヨーロッパ統一を図ろうとしているわけではありませんが、ヨーロッパを一つにすることで強大化を図ろうとしている点では同じです。そして、その周縁にいちするイギリスとロシアはそこから一歩(あるいは数歩)離れて対応しています。

     イギリスはEUには加わったもののポンドを維持するためにユーロは採用しませんでしたし、ロシアはある意味ロシアのままです。ヨーロッパからの影響を良くも悪くも受けつつ、その影響力を減らそうとしつつ、逆にヨーロッパに軍事的干渉を行おうとしています。

     EUあるいはドイツなど欧州主要国は、イギリスがEUを離脱してもなんともないよ、というポーカーフェイスを保とうとしていますが、19世紀と20世紀のそれぞれ前半に起こった歴史を考えると、今回のブレグジットは静観できないと思うのですがどうでしょうか。

     はっきりいうと、イギリスとロシアの対応によって統一ヨーロッパという概念は三度破棄されるのかも知れないということです。ブレグジットによってイギリスの経済や国境管理が危機的状況に陥る、と散々言われていますが、EUやユーロ、そして統一ヨーロッパという理想は今後も維持できるのでしょうか。また、EU各国はウクライナ東部を支配しようとしているロシアに対して強硬な対応を出来ません。ロシアと本格的に揉めたら原油と天然ガスを絶たれて、燃料不足による経済的な影響やさらには単に寒さに耐えられず凍死する人が出てきます。そんなEUを見限ってさらに離脱する国が出てきたら大変ですから。

     さらにはアメリカが(というかトランプ大統領が)NATOとの距離を置くことをほのめかしています。実際に完全にNATOから離脱するとは思えませんが、アメリカ抜きのNATOがロシアとやり合えるわけはありませんから、ある程度トランプの言うことを聞くか、ある程度プーチンの言うことを聞くかしなければならないことになります。そうなるとそもそもEUという統一ヨーロッパが本当に理想なのか、という話にもなりかねません。統一しても域外の強大国に振り回されるのですから。ドイツやフランスならともかく、そこまで大きくない国はアメリカやロシアと直接重厚な関係を結んだ方がいい、という考えも出てくるのではないでしょうか。

     ブレグジットはイギリスの危機、という見方ばかりが見られますが、個人的にはEUという統一ヨーロッパの危機であるような気がします。

  • 不動産業者のダイレクトメール費用

     法務局に登記済の不動産登記情報を利用して、「ご所有の不動産を弊社で売却しませんか!」というダイレクトメールがときどき届きますが、これって結構費用かかるようなあ、と思いました。
     ということでいくらかかるのか概算してみました。

     不動産登記情報をウェブ上で取得するのに必要な費用は、
    https://www1.touki.or.jp/service/index.html#service_05
     こちらのリンク先を見ると、所有者事項だけなら1件あたり145円です。

     それに送料として、ゆうメール代金が法人契約だとしたら税込でいくらかなあ、70円としておきましょうか。かなりの通数じゃないとこの金額は駄目かも知れません。
     あと、中身や封筒の費用としてざっくり35円としちゃいましょう。
     これで1通あたりの費用が250円となります。

     不動産の買取を1件実行する場合に不動産業者が手に入れられる手数料は、
    https://www.zennichi.or.jp/public/knowledge/buy/chukai/
     このサイトにある計算式で出せます。例えば2000万円の物件とすると、手数料は税抜で66万円です。
     66万円を250円で割ると、2640となりますので、2640通出して反応があった中から、1件買取契約を実行できればトントンになります。
     もちろん、人件費やら事務所維持費やらは計算していないし、そもそも利益を出さないといけないですから、実際にはもっと2640通の中からもっと契約を成立させないと駄目です。
     ダイレクトメールからの反応率を1%と仮定すると、26件問い合わせがあった中から2,3件買取が出来ればいいのですが、どんなもんなんでしょうね。
     単純に住所と名前だけでばらまくダイレクトメールとは違って、登記情報確認した上でピンポイントに出しているダイレクトメールですから、反応率や成約率は素人が思うよりも高いのかも知れません。でも、高いのならどこの不動産業者でもやりますよねえ・・・。

  • 横綱の出処進退について

     横綱稀勢の里が引退というニュースが出てきましたが、横綱審議委員会って何してたんでしょうね。「横綱にふさわしい成績を残したから」という理由で横綱に昇進させたのなら、「横綱にふさわしくない成績を残したから」という理由で横綱を辞めさせなきゃいけないと思うんですが。

     そもそもの横綱昇進時の成績が微妙というか、二場所連続優勝ではなかったですから優勝に準ずる成績という解釈の仕方によって左右される部分が微妙なままでの昇進だったことも問題ではないかと思います。昇進直後の場所で優勝したんだからいいじゃないか、という意見も当然あるでしょうけど、その後がその後なのでね。

     かつて、マラソンでオリンピック出場選手を選ぶときに日本陸連と選手の間で揉めたこともありましたが、具体的な数字を条件でかっちりと前もって提示しておかないと問題が起きるのは当たり前だと思うんですが。

     横綱には勝ち星や優勝という結果だけではなく、内容も必要だというのは確かにそうなんだと思います。心技体全てが充実していないと駄目だというのも分かります。事件を起こした双羽黒や相撲を休んでモンゴルでサッカーしてた朝青龍を否定するのもしょうがないでしょう。ただ、一番肝心な相撲で勝てない、横綱と前頭の一戦で横綱が応援される、金星を与えても波乱と言われない、という状況で横審が横綱を議論しないというのは何だかなあと思います。誰だったか、「横綱は嫌われるくらい強くなければならない」という言葉を聞いたことがありますが、まさしくその通りだと思います。少なくとも「お願い、勝って!」と応援される横綱は横綱らしくないのではないでしょうか。

     横審にしてみれば、久々の日本人横綱で期待するファンも多い稀勢の里を横審が無理矢理辞めさせた、という汚名は負いたくないのかも知れませんが、横綱に必要な条件以外の理由で横綱にいさせ続けるという歪みは、必ずどこかで問題として出てくると思います。そもそも日本人と外国人とで横綱昇進条件が異なればこの時代では大問題になるはずですが。そう言えば小錦も人種差別だと言っていましたね。曖昧な昇進条件が残っている限り、実際とは関係無く、日本人に甘く外国人に厳しいという見方をされてしまう危険性があります。相撲がスポーツなのか宗教行事なのかというのも曖昧なところですが、せめて数字で判断できる部分はかっちり数字のみで判断するようにしてしまった方がいいんじゃないでしょうか。昇進基準も横綱を辞めてもらう基準もこのままだったらまたそのうち同じ問題が起きると思います。

     稀勢の里自身を批判するつもりはないですし、単純に被害者とまでもいうつもりもないですが、その周りにたくさん、いろいろな肩書きで相撲協会に関わっている人達は何もしないんですかね。昇進させるときは恩着せがましく、辞めるときは本人の意思で、というのも一種の無責任だと思いますがどうなんでしょうか。大相撲はそういうもんだと言われたらそうですかと言うしかないですが。

  • 毎月勤労統計調査の信憑性の信憑性

     騒ぎになっている毎月勤労統計調査について便乗して書いてみます。

     私も過去に勤め先の仕事場がこの調査の対象になったことがあって、回答を記入していたことがありますが、毎月毎月面倒くさいなあと思いながらやっていました。
     ただ、その時にも思ったことですが、今回の問題になっている信憑性とは別に、企業側が記入する数字自体に正確性の担保が無い気がするんですが大丈夫なんでしょうか。

     雇用している人数と、その人達に支払った給与合計、残業時間や残業代などを書き込んでいましたが、あの数字は例えば企業側がめんどくさがって、人数や金額の増減があっても変更しなくてもバレないと思いますが、どこかで裏付け調査やっているんですかね。
     もちろん、前月比で人数が増えているのに給与総額が減っているとか、金額が一桁間違っているとかは気付くでしょうけど、前述のような毎月同じ数字で出された場合、間違っているかどうかの指摘は役所としても出来ない気がします。

     単なる調査ならいいけど、今回問題になっているのはこの調査で調べたデータから失業保険とかの金額がはじき出されているからですが、そもそもの企業側が正確なデータを無償で入力してくれる、という前提が問題なんじゃないですかね。なんで全ての企業が協力的に真面目に正しいデータを入力してくれると思っているんでしょうか。

     それならいっそのこと国税庁と協力して源泉徴収の税務データから失業保険などの給付金額を決めればいいんじゃないか、と思いましたが、それだと源泉が発生しない少額のアルバイト・パートの給与を反映できないですね。でも失業給付はそれでいい気がしますけど。

     十数年前の消えた年金問題の再来か、と騒がれていますが、あの問題ほどは社会全体に及ぼす影響は少ないのかな? なんかマスコミ報道の熱さはその時ほどではないですね。失業したことないのかな?
     年金受給者と失業保険や労災保険の受給経験者では数が違うからでしょうか。それとも、毎月勤労統計調査がどういうものか知らない人が多いからでしょうか。そもそも調査に書き込む数字がいい加減なものでも提出できるってことはあまり知られてないんだろうなあ。

  • 南青山児相問題と原発問題

     かなり乗り遅れた感がありますが、東京南青山の一等地に児童相談所を建設する計画が揉めている件について。

     東京都内には必要無いとか、日本国には必要無いといった児童相談所自体の必要性を否定する人はまずいないでしょう。じゃあ何が問題かというと、必要なはずの公共施設が自分の家のそばにあるのはまかりならん、ということですが、これって児童相談所だけではなくて、葬儀場とかゴミ焼却場とか幼稚園とかも同じ話ですよね。俺の家の近くに作るな、でも俺にも使わせろ、って話しです。

     実際に南青山のあの場所に設置するのが適切かどうかとか、取り上げられている一部住民の意見などについては、私自身は東京住まいではないし正直どっちでもいいのですが、公共施設を自宅のそばに作ることを許せるかどうか、というのは誰でも考えるべき問題です。

     この辺は人それぞれ許容範囲が異なると思います。ゴミ焼却場は駄目だけど児相はOKと言う人もいれば、自衛隊や米軍の基地もOKと言う人もいるでしょうし、もちろん何もかも駄目という人もいるでしょう。
     そういった公共性の高い施設・設備を自分がどれだけ使用するか、恩恵を受けるか、というプラス面での検討と、その施設によってどれだけ迷惑や損害を被るかというマイナス面での検討を行って、釣り合いが取れるところで判断することになります。

     そして2011年以降特に議論が出ている(最近は沈静化しているのかも知れませんが)原発問題ですが、そもそも原発に限らず電気は消費する場所の近くで発電するのが一番効率いいはずです。それならいっそのこと、東京湾や大阪湾に原子力発電所を作っちゃえばいいんじゃないですかね。あるいは小型の原発を都道府県庁所在地全てに建設するとか。特に賛成派の人達が言ってきたように本当に安全なのであれば。逆に反対派もそういう論点で切り込めば賛成派を黙らせることができるんじゃないかなという気がするんですが、どうなんでしょうか。

     当然ながらもし事故が起きたらどうするんだ、という話になります。東京湾や大阪湾で原発事故が発生すれば、人的被害や経済的被害は福島沿岸や敦賀湾とは比べものにならないのは原発賛成派だろうが反対派だろうが容易に理解出来るでしょう。
     ただ相手の言説を感情的に否定して自分の主張を声高に訴えるだけではそもそも議論が成り立ちませんし、当然ながら落としどころを探って結論を出すと言うことなど出来るわけもありません。相手の意見を理解した上で乗っかって問題点を指摘してこそ議論が深まるし、良くも悪くも妥協が出来るようになります。妥協せずに100対0で勝つには戦争しかありません。戦争に必ず勝つとは限りませんし、勝った方にもダメージは残ります。そんな戦争をしたくないのならどちらもどこかで妥協するしかないのです。

     冒頭の南青山児相問題であれば、児相反対住民をどうすれば説得できるのかという観点から考えるべきだと思いますが、メディアもネットもヒューマニズム的視点から非難したり馬鹿にしたりしているだけのような印象を受けます。
     例えば、児相によって治安が悪くならないという他地域のデータを出すとか、児相がなければかえって児相に入るような子ども達を管理監督できずにハイソサエティな街でなくなってしまうとか、いろいろ言い様はあると思いますが、ただ反対派住民の意見は間違っている、というだけだと、児相を作っても作らなくても住民は割れたままになるんじゃないでしょうか。

  • 核家族の当然視による少子化という観点

     少子高齢化に対して有効な対策を立てられないまま数十年が経過しています。結婚や出産を考える世代に対しての、経済的・法的な保護や助成が必要なのは当然ですが、対症療法的な対策を政府が考えるだけではなく、民間・文化のレベルでも見方を変えるべきではないかという一提案をしてみます。

     戦後の日本では、高度経済成長期における都市部での就業人口確保のため、農村部から大量の人の移動がありました。都市部での需要とともに、農村部での機械化による人あまりという供給面での理由もありましたが、思想的に移動を支えたのは核家族という生活形態を当然のものと見なす考え方でした。
     成長したら実家を離れて独立した家を建てる、という思想は世界的に見ても一部の民族でしか共有されていないコンセンサスでしたが、戦後の日本ではアメリカからの文化の輸入により、核家族が当たり前という状況を社会的に醸成されていきました。

     具体的に言うと、「大人になっても親離れできない人間は駄目人間だ」という蔑視です。

     この蔑視は大学進学時あるいは就職時に実家を離れて一人暮らしをする人を大量に作り出しました。当然ながら農村部から都市部という流れだけではなく、都市内部でも実家から離れて一人暮らしをする成年が増えることになりました。それによる副産物として、実家を離れた人間が個別に住むのですから、当然ながら住む家が大量に必要となります。つまり不動産需要が発生し、アパート・マンションなどの集合住宅や、就職して頭金が出来た人が一戸建てを購入します。各地の都市部に独立した人向け及び新しく「イエ」を立てる人向けの不動産が建てられていきました。首都圏では人口集中が進みすぎたために都心で一戸建てを建てるのはほぼ不可能になり、その周辺郊外に一戸建てを建てて長時間の通勤というさらなる副産物(というよりも副作用)を生み出しました。都会で働いていつかは郊外に庭付き一戸建てを建てる、というのが昭和後半のサラリーマンの夢あるいは終着点となりました。

     そして核家族の典型として、夫(イコール父)が働き、妻(イコール母)が家事と育児を行い、子が勉強する、という「ドラえもん」の野比家そのものの家庭が出てきます。この形態は好景気時には良くマッチしました。
     しかしバブル崩壊後の不況により上記の典型は崩壊しました。夫の収入が減ったことにより妻が専業主婦という立場を保つのが難しくなりました。家計を支えるためのパート、そして結婚時から共働きを選択する家庭が増えたために、家事及び育児に時間をかけられなくなりました。
     そこで人生プランの選択肢の中に、子どもを作らない、さらには結婚しない、という考えが出てきました。

     前提が長くなってしまいましたが、成人は実家を出るものだ、という考え方が少子化の一因ですよ、と言いたいわけです。

     そしてその少子化対策として、そもそも成人が実家にいてはいけないという考え方を改めてしまえばいい、ということです。
     エマニュエル・トッド氏やジャレド・ダイヤモンド氏の著作にもあったと思いますが、核家族を前提としないようにする、つまりは成人しても実家暮らしをして結婚・出産も家族(親・兄弟姉妹)のサポートを得られるようになれば、経済的負担・時間的負担も減るのではないでしょうか。
     核家族を前提とする民族あるいは文化ではない地域では、子育てはその子の両親だけではなく両親の親、両親の兄弟姉妹、その子の兄弟姉妹、さらには地域の大人達が関わるのが一般的です。
     共働きが当たり前になってきた現代日本社会でも、子育てを両親だけの責任にするのは難しくなってきました。言い換えると前述のように、両親だけの責任にしたために出産や結婚を行わなくなってしまったということになります。

     ちなみに、核家族を前提とする文化では両親が共働きでもベビーシッターを頼むのが一般的です。もちろんベビーシッターを雇う費用は必要で、それ以上に収入があることが前提です。
     核家族当然視の社会を続けるなら、ベビーシッターを雇う費用を子育て世帯に給付するというのもアリだと思いますし、いっそのことベーシックインカムという考え方もアリかも知れません。
     でも、ちょっと前にネットで頼んだベビーシッターによる子どもの事故死が発生したときに、「ベビーシッターを頼むのは甘え」とか言って、その子の親を非難する言説がネットで飛び交っていたくらいですから、日本社会でベビーシッターを頼むのは相当心理的ハードルが高いような気がします。

     自分の親兄弟も近所のコミュニティも頼れない夫婦が共働きをしながら子育てをするというのは非常に大変なはずです。子どもの両親個人のリソースに頼るのではなく、その両親を取り巻く家族あるいは公的扶助といった社会的なリソースで子育てしていかないと少子化は解決できない、というのが私の結論です。

  • note.muは果たして本当に「来る」か?

     インターネットが世界的に普及して以来、数え切れないほどのウェブサービスが生まれては消えていきました。現在、IT業界で支配的なサービス(企業)をまとめて「GAFA」(Googe、Apple、Facebook、Amazon)なんて呼んだりしていますが、これらの企業が取って代わられる日は来るのでしょうか。

     最近、ウェブ上の記事やブログを読んでいると、「note.mu」がこれからブームになるのではないかとか、注目すべきだとか気になるレベルで見かけるようになってきた感じがします。
     もちろん、本当に「来る」かどうかは分かりませんが、いわゆるアーリーアダプターが見つけてもてはやしている商品やサービスって、なんか不安感というか軽薄感というかがします。まだ使っている人が少なくて、少なくともリアルの友人知人の間では話題にもならないレベルなのだからでしょうが、本当に「本当に『来る』」のかどうか、私には分かりません。
     Twitterがサービスとして批判されはじめた頃に、「これからはMastodonの時代だ」という言説はウェブ上で散々見かけました。で? 今、本当に来ているんでしょうか。Mastodonの時代が。
     別にMastodonのサービスやそのユーザーを貶めるつもりはありませんが、Twitterに対する批判や不満のはけ口として、Mastodonに過剰な期待を寄せてしまった人も結構いたんじゃないかなという気がします。

     そしてもう一度表題の件に戻りますが、皆さん、本当に「note.mu」の時代が来ると思いますか?
     こんなことをnote.muの最初の投稿で書く人は他にいないと思いますが、元々あまのじゃく気質なのでしょうがないと自分では思っています。
     果たして本当に「note.mu」が来るかどうか、そしてその「来た」ときに自分がここで書き続けているかどうか。批判的に見つつ楽しんで見たいと思います。