参議院選挙が終わりました。結果はともかく毎度のことですが、選挙に行かない、無関心な人に関して色々苦言が呈されます。
若者の選挙離れ、政治離れというのは何十年も前から続いているので、現代社会・現代日本だけの問題ではありませんが、いつもの良くある理由としては、
・誰に投票したら良いか分からない
・投票しても何も変わらない
・政治に期待していない
・政治家を信用していない
・政治や選挙に興味が無い
と言ったところでしょうか。
他国では投票しないと罰則があるところもありますが、今の日本の現行法では投票しなくても全く問題ありませんので、選挙に行かないの自由も、政治に興味が無い自由も誰もが行使する権利があります。
とはいえ、間接民主制の国家で有権者が選挙権を行使しないのは、政治の放恣を許すのと同然です。自分が投票しても政治の問題は変わらないと考える人も多いのでしょうけれど、自分が投票しないことで政治が良くなる可能性はゼロです。
そして投票して政治が変わる可能性は限りなくゼロに近いとしてもゼロではありません。
この点をどう考えるかという所に、投票するしないの行動の差が出てきます。
昨今では、ファスト映画の流行や、音楽はサビだけ聴くとか、書籍も要約だけ読むとか、動画も長いと観る人が減るとか、様々な分野で短時間で内容の中心だけ把握するようなコンテンツ消費が真っ盛りです。
そういった行動の目的としては、単位時間当たりで効率よく、多くの情報に触れることなんだと思います。
効率性は日本企業が世界的にも社会的にも求められていて、今後の日本の発展を左右する重要な要素ですが、個人の行動にも影響を及ぼしているのでしょうか。何かをゆっくりじっくり楽しむという風情が無くなりつつあります。
しかし、実際に自分の中にコンテンツなり知識なりを深いレベルで取り込むには、要約や抜粋では足りません。元のモノを丹念に時間をかけて消化する必要があります。
要約を読む(というか見る)だけである程度の知識は入りますので、原典を読む行動が無駄に思えるのかも知れませんが、それは決して無意味な行動ではありません。
古典のような教養になる本は、自分で読まないと教養にはなりません。抜粋や要約を読んで身に付くのはただの知識です。他人が消化した後のこじんまりした生産物を取り込んでいるだけです。
選挙に行かず、選挙結果による政治を受け入れるのも似たようなものです。自分以外の人たちが投票した結果だけを受け入れることになります。
効率重視の生き方のために、選挙に行くという「無駄な」行動を取らないという理屈は分からなくもありません。ただ、無駄な行動は無意味な行動とは異なります。
投票した候補者が当選せず、投票した政党が政権を取らないなら結果的には無駄になることになりますが、それを無意味だと考えるか考えないかによって、その後の自分に違いが生まれます。
自分の一票のために選挙区の候補者や政党のことを調べて投票するだけでも、その選挙で何かが変わらなくても、また次の選挙で考えることは出てきます。
無駄や無意味を排除する効率性は重要ではありますが、それだけで良いわけでもありません。古臭い企業や部活動のように他人に無駄や無意味を強要するのはもちろんダメですが、自分の精神的行動については効率性よりも大切なものもあるかも知れませんよ。
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