自分が正しいと思っている人ほど手の付けようがないものはありません。正確に言うと、自分が正しいから他人が間違っているのでそれをただすために攻撃する、という人です。正義を持ち出して他人を攻撃する人にろくな奴はいないと言いたいところですが、これはこれで自己矛盾してしまうので批判が難しいところです。
ただ、正義があれば暴力を振るっていいという考えには問題があるといわざるを得ません。目的のためには手段を選ばずという考えも同様です。
正義をかなぐり捨てた悪人の方が素直ではありますが、もちろん悪人になれと言うわけにはいきません。ただ、悪人的要素もある方がマシかも知れません。昔読んだ星新一のエッセイに、テレビ時代劇の必殺仕置人で、「金ももらわずに成敗などしていると自分が正義だと錯覚してしまう」というシーンがあった、と書いてあるくだりがありました。表に出せない大金をもらうことで、悪人が悪人を殺しているのであり正義が悪人を成敗しているのではない、と考えて精神の均衡を保つことが出来るということでしょうけれど、世の中には悪人を懲らしめる自分は正義を具現化していると考えてしまう陥穽がそこかしこに存在しています。この油断、あるいは甘い誘いは誰もが陥りやすい罠です。
自分が悪いと見なした人物をSNS上で誹謗中傷するのも同じ理屈なのかも知れません。相手が悪いのだから何を言っても良い、というのは、結局は目的のためには手段を選ばずと考えるテロリストと同じです。
絶対的な正義などこの世には全く存在しない、とまで断言するつもりはありませんが、ほとんど全ての正義は相対的なものでしょう。誰が正義と規定するかと言えば、正義を掲げている人自身です。自分で正義の枠組みを作ってその枠から外れる人を悪として攻撃するならこんな簡単なことはありません。
他の人も批判している、という言い訳もありますが、たいていは自分と近い考えの人たちだけを取り上げて見ているため、悪い意味でのフィードバック・ループが続いてひたすら過激化していきます。これはどんな思想でも同じでしょうけれど。
SNS、あるいはインターネットが無かった頃は、こういった自分に近い考えの人を見つけるのが難しいため、過激な思想を持つ仲間を増やすことが困難でしたが、今の時代は非常に容易です。
世の中の全ての人、あるいは全ての事象を良い悪いだけの二分化するのはそもそも無理な話です。ある程度の共通理解はあるかも知れませんが、絶対的な正義と悪の二分論は対立しか生みません。
批判は諸刃の剣です。批判すること、批判する者がまた批判に晒されることもあります。
「人を呪わば穴二つ」という言葉は誰にも起こりうることであり、自分への戒めとしないといけません。
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