識字率よりもリテラシー・読解力が重要になってきているはず

日本の識字率は高いと言われてきました。確かに人口考えると驚異的な数字ではありますが、100%ではありません。昔ならともかく、今では大半の国が日本並みの識字率です。逆に日本が100%ではないことの方に注目すべきかも知れません。

家庭の事情などにより学校に通えない人もいますし、国外から移住してきた人にとっては日本語そのものの壁もあります。

貧富の格差の拡大、特に貧困層が増えると、育児放棄も増えるでしょうし、学校に通わせない、通えないということも出てきます。

親が理由で子どもが学べないことに対しては社会全体でサポートする敷かないでしょう。さすがにそれらまで自己責任というのは無理がありますし、少なくとも子ども側にはそんなことへの責任は全くありません。

まだまだ教育として社会として識字率の向上には出来ることがあると思います。

識字率向上だけでいいということでもなくて、大半の国でも教育制度が整備され、あるいは日常的に大量の情報に接するライフスタイルになった今でも、「識字率」という考え方は意味があるのでしょうか?

文字情報の少ないアナログ時代では、目にした文字を読めるかどうかがまずは重要で、そのために識字率が重視されたかも知れませんが、今は先進国でなくとも、都市部でなくとも文字情報に容易にアクセス出来るデジタル化された時代であるので、文字を読めるかどうかよりも、目にした情報を正確に読み取って理解出来るかどうかの方が重要ではないでしょうか。

情報へのアクセスする容易さの度合いや、目にした情報を読んで理解する能力の差で言えば、識字率よりも大きな差があるかも知れません。

いわゆる「リテラシー」ですが、就学している子どもの読解力を測ることで近似値は出せると思います。

ただ、ネット情報をきちんと理解出来るかどうか、何が確からしいか、何が嘘くさいかを判断出来るかどうか、といったネットリテラシー・ウェブリテラシーのようなものは、ペーパーテストでは調査出来ないでしょう。

また、そういった大量の情報に接する手段を持っているかどうか、接するための知識を持っているかどうかは、学力テストではなくて社会福祉的な調査の分野になるでしょう。

例えば、スマートフォンを所有しているか、ネット回線契約をしているか、子どもがそれらを利用出来るか、といったことのありなしで、その子が日々接する情報量には大きな差が出てくるはずです。

もちろん、接する情報量が多ければいいって訳ではありません。量が質を担保することができるのは、情報が限られていた時の話であって、今のネット・デジタル化社会では簡単に情報をコピー・再生産できますので、何か特定のトピックに関してゴミのような情報が大量に出回り、そればかり検索で引っかかることは珍しくありません。

そうは言っても、ゴミのような情報があるかなしかということに気付けるかどうかも、ネットリテラシーの一部でもあります。集合知が存在する分野もあることはあるのですが。

ともかく、識字率で教育度合いを測るよりも、スマホが当たり前になってきた現代では、「リテラシー率」みたいな尺度で測っていくことも求められてくると思います。

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