挨拶は括弧構造のプロトコル

「行ってきます」と言って家を出て、戻ってきたら「ただいま」と言います。

「いただきます」と言って食べ始め、食べ終わったら「ごちそうさま」と言います。

出会ったら「こんにちは」と言って、別れるときには「さようなら」と言います。

挨拶には始まりと終わりがあります。会話の中の挨拶は上に例示したようにセットになっています。会話だけではなく文章でも同様で、「拝啓」で始めて「敬具」で終わるように、頭語と結語が定式化されています。

いわば、文章の括弧のようなものです。

「 で始めたら 」で終わらせないといけません。

行動の開始を宣言することと、終了を宣言することがルールとして決まっていると言えば、通信プロトコルみたいにコネクションの接続と切断の要求・応答のやり取りを思いつきます。

まあそもそも「プロトコル」という言葉自体、情報通信の世界で使われる前に利用されていたのが、かつてヨーロッパでの外交儀礼や手順・慣習などをまとめたものとしてでした。

挨拶はもちろん儀礼的なものです。それ自体は本題ではありません。拝啓や敬具が無かったからといって、手紙で伝える内容そのものが失われるわけではないですし、「いただきます」を言わなかったら目の前の柔らかいローストビーフがゴムみたいなすじ肉に変化したりもしません。

中身と関係が無いとはいえ、挨拶の言葉が無ければ味気ないし、相手がいれば無礼に思われます。とどのつまりは自分に跳ね返ってくることです。

挨拶が無いからといって相手にギャーギャー言うのはどうかと思いますが、始まりと最後を示すサインとして挨拶はあった方がいいです。

中身と関係ない儀式・礼儀は無視する、という人がいるのは構わないですけれど、儀式・礼儀は別に意味が無いわけではありません。形だけのものであっても形があるなら意味はあります。その意味に価値を見いだすかが人それぞれなだけでしょう。

言葉でも文字でも、挨拶で開始を宣言して挨拶で終了を宣言します。その方が分かりやすいし、分かりやすいというメリットがあるのなら形だけ以上の意味や価値があるのではないでしょうか。

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