純ジャーナリズム余技説

マスメディア・マスコミを批判する向きは珍しくなくなりましたが、マスメディア側の自浄能力が発揮されているのかされていないのか、分からなくなるときがままあります。

新聞にしろテレビにしろ、自社の意見としてはっきりと公言するなら、中立性はともかく首尾一貫した主張として認められますが、他社・他メディアの情報をそのまま紹介する場合は、消費者側には自社の影響力を使って情報を押し付け、その上でその情報の正誤に関する責任は負わないという非対称な利益を強欲に享受している観があります。

新聞では読者の意見欄や、書評・書籍紹介などを通じて、他人の意見を自紙に載せて読者に与えます。

テレビでも街の声と称する通行人へのインタビューや、新聞各紙の一面を張り出して次々と読み上げたり、Twitterや有名人のブログを撮影して映すだけとか、YouTubeの動画を流すだけとかいくらでも挙げられます。

今さらこんなマスコミ批判は掃いて捨てるほどあるでしょうけれど、かつて半世紀前に世に出た、

「メディアはメッセージである」

というマクルーハンの金言はもはや悪い意味で力を失い、

「メディアはメッセージでも何物でもない」

と言った方が良いかもしれません。

客観報道は当たり前のことですが、それはあくまで中立性の原則からの客観視であって、報道の中身自体に対してのものです。マスメディアの報道自体をさらに客観視する視点での報道が少ないように思えます。

小説で言えばメタ小説のような、あるいは神の視点による三人称小説のような、報道内容からさらに一歩引いてみる姿勢が無いと、今の時代では信頼も得にくいのではないでしょうか。

だからこそ、SNS上でのデマや陰謀論も、マスコミ不信の人にとっては「刺さる」コンテンツになり得ます。デマも陰謀論も昔からもちろんありますが、信じる人が増えるスピードは今が一番速いでしょう。

もちろんマスコミだってほとんどの情報は信用できます。ただ、報道の中身や対象の選択はその思想の表れですし、さらに言うと商売のタネになるかどうかで決まります。

ほとんど全てのマスメディアは営利事業として運営されています。そこで働く従業員も受け取る給与のために仕事をしています。読む人見る人が多そうなニュース・報道姿勢・記事・放送内容が重視されるのは当然です。企業も従業員も金儲けのために動いているという前提を忘れてはいけないでしょう。

だからこそ、元々からマスメディアの情報を鵜呑みにしない姿勢を持っていれば、極端なマスコミ不信にも陥らないで済むはずです。

営利企業であろうとなかろうと、全てのマスコミ関係者にはジャーナリズムが存在するかも知れませんが、そのジャーナリズムの実現にだってお金はかかります。その部分では制約がかかるのは仕方がないでしょうね。本職にしてしまうと金儲けが最優先になるのは当然です。

さっき、小説の場合を例に挙げましたが、かつて久米正雄が提起した「純文学余技説」がマスメディアあるいはジャーナリズムの純粋性にも適用できるかも知れません。

純文学(あるいは私小説)を書く人が、職業作家になる前(学生や教師、記者)などの時に書いたものは優れた作品として出てくるが、いざプロとなったら収入を得るため、読者の要望に応えるため、出版社や編集者の意向も入るために優れた純文学作品を書けなくなります。

マスメディアやジャーナリズムにおいても、営利企業のサラリーマンとして純粋なジャーナリズムは実現出来るでしょうか? 

「純ジャーナリズム余技説」という疑問に対しては私的メディアの時代によって解決出来るかも……、という気はします。インターネット特にSNSやブログの興隆において、本当にごく一部は私的なジャーナリズムを貫ける人や組織が存在します。ただ、圧倒的にノイズのような戯れ言の方がネット上には溢れているため、埋もれてしまいます。

それを掘り出すには、ネット上の全てのメディアをキュレーションしていくサービスが無いとダメでしょうけれど、そんな時代が来るでしょうか?

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