平繁無忙の何でも書くブログ

  • 国際イベントにおける経済効果と国家の威信

    オリンピックにしろ万博にしろサミットにしろG20などにしろ、国際的なイベントを日本で開催するときに、経済効果を云々して開催を正当化するのはどうなんでしょうか。

    巨額の経費がかかっているけど、それで経済的な効果があるので許すべき、いやむしろ積極的になるべき、というくらいのスタンスで主張する人がいますが、そもそも本当にお金のためというのであれば、その巨額の経費をそのまま貿易に回して運用した方が直接的な貿易黒字につながるのではないでしょうか。あるいは、国内でお金が回る、ということであれば、その費用をそのまま直接貧しい人達に配った方が、よりお金が回るのではないでしょうか。

    昨今では、国際イベントの開催に関して国家の威信をかけて巨額の経費を使う、ということが政治的に許されないと思います。そのためか、イベントを開催することで発生する経済効果を持ちだして説得力を出しているような気がします。

    国際イベントを開催する場合、確かにお金がかかります。そしてそのお金は回り回って一般人にも回ってきますが、そもそもイベントを行うことでのマイナスの影響を加味していないはずです。

    イベント開催中、交通規制があったりホテルが取れなくなったりするのはよくありますし、国立競技場のような巨大な建築物を作る場合、資材や労働力や燃料費の高騰を招くこともあります。

    イベント開催で必ずしもプラスの経済効果だけが出てくるわけではありません。この点も突っ込んで欲しいですが、イベント反対派の主張としては「お金をかけすぎ」ということばかりのような気もします。イベント賛成派の主張が「お金をかけることで経済効果を生む」ということですから、反対になっていないですよね。反対するなら「経済効果はそれほどでは無い」というのが必要だと思います。

    そしてそもそも、経済効果というのは国際イベントの開催に必要なものなんでしょうか? 最近ではパプアニューギニアでAPECが開かれましたが、豪華客船をホテル替わりにして、中国からの借金で道路を整備したりして結構大変だったように思えます。経済的に国際イベントの開催がプラスになるかどうかというとどこの国でも微妙なところか、むしろマイナスといったところではないでしょうか。

    毎年決まった国でずっと開かれるものではないのであれば、コストを諸国で負担するために持ち回りで開催するのだ、と考えた方が良いのではないでしょうか。それこそ国際貢献の一つであると思いますし、国際的義務を果たすことを経済効果で説明するのは難しいと思います。

  • 儒教と武士と学歴社会

    儒教は中国におけるその成り立ちや普及した経緯からいって、文官が武官及び民衆を支配するための道具であるはずでしたが、なぜか日本においては儒教を最も受容した階級は武士=軍人階級でした。知識人階級である貴族と僧侶は儒教を学問「儒学」として限定的にしか受容せず、精神の部分にまで立ち入って自律のために使用したのは武士のみです。

    中国では基本的にどの時代においても文官が上で武官が下とされてきました。戦乱の世の中にあっては、王や皇帝の前で座る位置が武官の方が上になったことはありましたが、平和であればまず間違いなく文官が尊ばれていました。モンゴル帝国の一角である元朝では軍人階級はその出自もあって上位にありましたが、そもそも元朝では儒教自体が冷遇されていましたので、結局軍人と儒教が結びつくことはありませんでした。

    中国と日本の間にある朝鮮半島でも、両班が文官と武官の両方を科挙経由で輩出しますが特権階級となり、両班の武官自体は両班内でも文官に比べると賤視されていましたし、そもそも両班の武官は管理職でありあえて言うなら自衛隊の背広組のようなものです。

    日本では軍事階級が国権の最高権力を握る将軍から、幕府内の要職も各地の大名内部の統治機構も全て武官で構成され、農民の中にも苗字帯刀を許される身分が存在していました。上から下までほぼ武官によって統治されていたことになります。

    中国・朝鮮と日本との間で何が違うのか、と考えていたところ、

    戦闘員なのに戦うことを禁じられた「武士」のアイデンティティ崩壊(橋爪 大三郎,大澤 真幸) | 現代新書 | 講談社(3/4)
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51182?page=3

    検索してみるとこんな対談が見つかりました。

    橋爪: 大事な点ですね。議論の出発点としてさっきのことを確認しておくと、武士は戦闘者である。でも、徳川幕府、江戸時代のコンセプトは戦闘の禁止である。だから、ここに大きなアイデンティティ・クライシス(自己喪失)があるんですね。戦闘員なのに戦闘しないんですから。

    (中略)

    学問を本気でやるという人たちが大勢生まれてくるわけです。これは武士のかなりの部分が身分と職務があって武士のはずなのに、家の中でポジションがなく、他に自分と認める道がないという、そういう苦しい状況の中で、自己実現を図る唯一の道だったと思う。
    江戸時代の儒学者とかいろんな学問をしている人を見てみると、そんなに優秀な人はランクが高くない。下の方のランク。それから、武士かどうか怪しい人もけっこういる。それから、順調に出世していくって決まっていれば勉強なんかする必要ないわけだから、そういうことがあやふやという人が本当に志を立てて勉強している。こういうパターンですね。
    これは中国と大変違う。中国だと勉強したら必ず科挙をパスして、立派な政府職員になり、高級官僚になり、財産もガバガバ稼ぐという人しか中国の一流文化人っていないんですけど。日本の場合は、権力もお金もないというのが文化人の特徴なんです(笑)。

    軍人が軍事行動を禁止されて事実上の文官として働かされることで、儒教・儒学に基づく組織作りと行政執行を行うようになった、という理屈はなるほど確かにすんなりと腑に落ちます。

    そしてそこから「武士道」という理想が生まれたのだと思います。ここまでは理解出来ます。

    しかし、「日本だけ」軍人と儒学が結びついたことの理由にはなりません。そもそも、軍人勢力が政治権力を内戦を挟みながらも約700年間(平清盛から徳川慶喜まで)も維持していたことの方が世界的には例外なのかもしれません。

    科挙が日本に定着しなかったこともその原因かも知れません。中国では20世紀初めまで、李氏朝鮮でも19世紀後半まで科挙が実施されていました。

    日本は学歴社会だと批判されることはありますが、学歴が必要な仕事で学歴を求めるのはそうおかしなことではないでしょう。いわゆる入試勉強が、「情報をインプットして求められる形で素早くアウトプットする」業務に従事する人(たとえば官僚など)を選び出しているのであれば、むしろそれはそれで結構なことのはずです。学歴が必要ではない仕事に、学歴を求めるのであれば間違いなく悪い意味での学歴社会だと思いますが、今の日本はまだその状態では無いと思います。今の大学進学率は昔に比べると非常に高いですが、そもそも今と昔の大学入学可能人数の違いが大きいでしょう。一部の公務員では大卒者は「応募できない」職種もありますし。

    それはともかく、儒学を受容したのが軍人階級であったことと、身分が固定された社会であったことが、科挙が絶対条件にならなかった理由でもあるでしょう。

    刀を大小腰に差すことが江戸時代でも武士としてのスタイルでしたから、軍人階級はあくまで武力装置であって完全には文官化しませんでした。武士にとって儒教は学問と修養のためのものでありました。

    また、農民や町人が儒学を修めても支配階級になれるわけではありません。正式な武士にはなれませんから儒学を学ぶことと役人になることがイコールではなかったわけです。逆に言うと、役人が役人であるためのアイデンティティは儒学を学ぶことではなく武士階級に生まれることが第一でした。学問によって武士階級の中での成り上がりは可能でしたが、低い身分の武士が儒学の最高権威になっても将軍はおろか大名にも家老にもなれません。逆に、科挙に合格すれば平和な時代であっても、大臣にまで成り上がれた中国とは大きな違いがあります。

    今の日本においても、学問そのものは政治家・大臣・首相の必要条件ではないようです。もちろん東大卒や法学部卒の国会議員は多いですが、企業の経営者や幹部なども大差はないでしょう。官僚のトップはほぼ東大卒でしょうけど、東大そのものが官僚を輩出するための大学として作られたのですから当然です。そもそも、政治家やあるいは首相になりたいですか? と聞かれてなりたいという人ってどれくらいいるでしょうね。さらには、なりたいけれど日本は学歴社会だからなれない、と不満を言う人はまずいないんじゃないでしょうか。

    政治家が憧れよりは批判の対象になるのはそれはそれで問題ではありますが、日本で権力を握るのにそれほど学歴が最重要視されているのではないのは、科挙の伝統が無いことと、儒学との結びつきが強かったのが軍人階級だったことに遠因があるのではないかと思います。

  • お店のサービスと客の求めるもののギャップはテクノロジーで埋められるはず

    コンビニコーヒーを買うときになぜレジを経由しないといけないのでしょうか?

    混雑時にコーヒーだけ買いたい、という時に買う気が失せるというか、別にどうしても今、このコンビニコーヒーを買いたい、というほどの気持ちがあるわけでもありません。喉が渇いているのならそこら辺の自販機で買えばいいわけです。コンビニコーヒーを買うときに必ず店員経由でないといけない、という仕組みは少なくともコーヒーのみに関しては単位売上当たりの時間を増やしてしまっていると思います。

    いっそのこと普通の自販機のように、コインなり電子マネーなりでレジも店員を介さずに購入することが出来れば、混雑時のレジの行列も減りますから店員の負担が減り、客にとってもコーヒーだけ買うのにレジに並ぶ面倒さも無くなるはずです。

    あともう一つ、コンビニのサービスに関しての不満として、たまに行うキャンペーンで、何百円以上購入するとクジを引いて、当たりが出たら商品プレゼント、というやつです。

    このキャンペーンの期間中は、クジを引いてもらう客の行為に加えて、当たりが出たら商品をいちいち店員が陳列棚まで行って持ってきてレジに通して客に渡す、というオペレーションが純粋に増えます。当然ながらその分、客一人あたりの会計にかかる時間が増えます。空いているときなら別に問題ないですが、例えばオフィス街の昼12時台のコンビニで遭遇すると大変なことになります。とても顧客満足度を増加させる施策とは思えません。

    もちろん、コーヒーにしろクジにしろ、コンビニ本部にしてみたら今の仕組みにいみがあるのでしょう。コーヒーを買うついでにパンなりタバコなりお菓子なり、一緒に買ってもらうのが目的でしょうし、クジについても規定の金額を超えるために余分に何かを買っちゃうことを期待しているでしょうし、不良在庫をプレゼントの名目でさばいているのであれば、顧客満足度が少々低下しても割が合うのでしょう。

    しかし、先日のコンビニ営業時間問題など、現場での労働力確保が難しくなっている昨今では、店員のオペレーション負担を減らす方が全体的に見て店にとっても得をすると思うのですが、そこまでではないのでしょうか。

    チェーン店の牛丼屋でも似たような気持ちを抱くことがあります。
    昔から一貫して食券自販機を導入していないチェーンもあれば、食券自販機を導入しているチェーンもあります。

    某牛丼チェーンは数年前に「ワンオペ」で見事にブラック企業の仲間入りをしてしまいましたが、さっさと食券制にして自販機で購入してもらうようにしていれば、もう少し店員の負担も減ったはずです。

    食券にしないのは店員が客とのやり取りを行うことで、交流を深める、また追加の注文を取りやすくするため、という理屈があるのは分かりますが、労働力不足と人件費高騰によりサービスの質が低下するくらいなら、食券制度を導入した方がサービスの質を維持しやすいと思いますが、どうなんでしょうね。

    コンビニも牛丼チェーンも、一昔前に比べると店員の負担は大きくなっています。コンビニは、陳列棚にある商品を売るだけではなく、収納代行を行ったり、コピー機の設置があり、チケットの販売・印刷も行い、おでんや揚げ物も店頭に並べています。牛丼屋も牛丼以外のメニューが年々増えています。売上の元になる商品・サービスを増やすことで増えるオペレーションに対して、テクノロジーによるサポートが少ないと現場の労働環境がブラック化してしまいます。

    マクドナルド、330億円買収で新技術導入へーここ20年で最大規模
    https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-03-26/POYJ1Y6JIJUO01

    そうかと思えば、このようにマクドナルドはテクノロジーで店員負担の減少と顧客満足度の向上を目指すような手に打って出るようです。記事はアメリカのマクドナルドについてですが、昔に比べると今は日米のマクドナルドの関係性はそれほど離れていないので、同様の技術を日本のマクドナルドでも導入するかも知れません。

    技術・テクノロジーは困難を減らすことが目的であるはずです。早く移動するために鉄道、自動車、飛行機が生まれました。現実に困難が存在して、それをテクノロジーで解決できる見込があるのであれば、そのテクノロジーは利用すべきです。テクノロジーを利用しないことで得られるメリットは本当にデメリットを上回っているのか、感傷や思い込みを外して検討すべきでしょう。

  • 難読症(ディスレクシア)に対する電子書籍という処方箋

    ディスレクシアと呼ばれる難読症(読書障害あるいは識字障害)の人向けに、読みやすい本が出版されたというニュースがありました。

    英国では10人に1人の難読症向けに、ハリポタ関連本3タイトルを発売
    https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/03/3-5.php

    このリンク先のタイトルにあるように、イギリスでは10人に1人の割合である程度のディスレクシアの症状があるということの方が衝撃的ですが、軽度な場合は病院にも行かず、本人も気付かないのかも知れません。日本での割合は分かりませんが、それほどかけ離れてもいないでしょう。

    そういえば先日、別のニュースで、UDフォントの話題がありました。

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190227-10000001-mbsnews-l27

    MBS毎日放送のテレビニュースですが、読みやすい文字・字体についてのものです。UDフォントが取り上げられています。フォントによって同じ文章でも読みやすい・読みづらいというのは確かにあります。これはディスレクシアの人でなくても実感できると思います。しかし、読みづらいだけですから、読んでも理解できないとか頭に入らないという難読症の方の実感とはまた異なるのだと思います。

    こういう障がい・病気というのは誤解されやすく、なかなか理解が世間で進まない面があるでしょう。自分は問題なく読めるし理解できる文章なのだから、読んでも理解できないという人をディスレクシアとして遇するというのは教育現場でも現時点ではなかなか難しいのかも知れません。

    そもそも、日本の教育において難読症に関しての理解が進んでいるのかどうか、ということ自体の問題もあると思います。上のリンクにあるニュースにあるように、教科書に向いたフォントが出来たのは最近です。教科書は読みやすくてもそれ以外の本はUDフォントではありません。副読本や参考書、問題集、あるいは読書感想文の課題図書など、ディスレクシアの人にとっての困難は教科書以外にも存在しています。

    その都度、難読症向けの本を別に準備するというのは不可能ではないかも知れませんが、その分のコストや手間がかかりますし、そもそも、教育の過程において、「自分が読む本が他の人と違う」という気持ちを与えるのはその子にとっても周りの子にとってもあまり良くないでしょう。イジメの原因になりかねません。

    究極の理想としては、教科書に限らず、文章が表示されている書籍を読む人に合わせて読みやすい形に自動で変更できるシステムでしょう。難読症の人向けということだけではなく、難読症ではないけれど近眼・老眼・乱視などの人が読むときにはそれに合わせて表示も変わる、ということが出来るのであれば、文字を読むことに関してのハンディキャップをほぼ無くすことが出来ます。

    そういう意味で言えば、いっそのこと全ての書物を電子書籍にしてしまって、読む人が自分にとって読みやすいフォントで選択的に表示できるシステムが確立された方がいいのでしょう。紙媒体の本の良さは確かにありますが、紙の本はそれに人間の方が読み方を合わせるものですので、合わせられない人は読めないということになります。逆に、前述のような自動選択的電子書籍であれば、読む人に対して本の方が「読ませ方」を合わせてくれる、ということになります。

    今はまだ、電子書籍でもそんな仕組みは存在しません。例えばAmazonのKindleで読める本のフォントは、明朝・ゴシック・筑紫明朝の3種類から選べるだけです。太字で表示したりサイズを自由に変更したりは出来ますので、近眼の人にはまだマシだと思いますが、UDフォントが使えるわけではありません。しかもこれはリフロー型(表示領域や設定に応じて表示が可変の仕組み)の電子書籍で出来ることですので、固定型(紙媒体の本と同じ表示になる)の電子書籍であれば不可能です。

    紙媒体の本であればそもそも変更は不可能です。今後の世の中に出回る全ての書籍がUDフォントになる可能性はまず無いでしょう。しかし、電子書籍であれば可能性はあります。収録漢字数さえ増やせれば全てのリフロー型の電子書籍において、難読症の人でも読めるフォントに変更できます。紙媒体の書籍を変更する労力の1%も必要ないでしょう。

    別の投稿でも書いたことがありますが、技術・テクノロジーは困難を減らすことが目的であるはずです。言い方を変えると、テクノロジーによって減らせる困難は減らすべきです。

    紙の本でないとダメという気持ちは個人的感傷として持つ分には問題ありませんが、紙の本でない「読みやすい」電子書籍の仕組みが社会として必要とされるのであれば、その進展を止めるべきではないと思いますし、その分、紙媒体が割りを食って減っていくのは社会運営上の必要な犠牲(コスト)と割り切るしかないと思います。

  • 「楽則能久」と「好きなことで、生きていく」

    「座右の銘は何ですか?」と聞かれたら、私は「楽則能久」と答えます。

    「楽しければ永続きできる」という意味ですが、それだけだと遊びほうけているキリギリスが得をするような印象を受けてしまいそうですので、長めに説明してみます。

    この「楽則能久」という言葉は、古代中国春秋時代を記録した「春秋左氏伝」に出てきます。「春秋左氏伝」という書物は、「春秋」(作者は孔子とされています)という歴史書に、後で左丘明という人が注釈を付けたと言われている書物です。実際にはもっと後の時代の成立と言われていますが、それはともかく、この 春秋左氏伝の「襄公二十四年」という箇所に、「楽則能久」という言葉が出てきます。

    少し長いですが引用してみます。引用元は岩波文庫の全3巻のうちの中巻286〜287ページです。ちなみに、晋という国が当時の二大大国の一つで、鄭という国はその同盟国ですが中規模の国です。

     范宣子が執政の座につくと、諸侯の[晋への]礼物の額がかさむようになり、鄭の人はこれに心を痛めた。二月、鄭伯(簡公)が晋に赴くに際し、子産(公孫僑)は子西(公孫夏)に書簡を托して、宣子に次のように書き送った。
     子(あなた)が晋国を治められてより、近隣諸侯は令徳などまるで耳にせず、聞くは重き礼物のことのみ。僑(わたくし)は不審に堪えませぬ。国家を導く君子は、財物無きを気にかけず、令名無きを気にかける、と僑(わたくし)は聞いています。諸侯の財貨が[晋の]公室に集中すれば、諸侯は[晋から]離叛するでしょうし、もし吾子(あなた)がそれで利益を得れば、晋国内部で離叛がおこるでしょう。諸侯が離叛すれば、晋国[の盟主]の地位は崩れるし、晋国内部で離叛がおこれば、子(あなた)の家は崩れる。そのことがおわかりになりませんか。財貨などは何の役にも立ちません。
     令名は徳を載せて運ぶもの、徳は国家の基礎をなすもの。基礎にひびが入らぬよう努むべきではありませんか。徳あれば楽しく、楽しければ永続きできます。『詩』の
      楽しめる君子こそ、
      邦・家の基なれ。
     とは、令徳があるからです。
      上帝、汝に臨む、
      汝の心を二つにするなかれ。
    とは、令名があるからです。思いやりによって徳を発揮されれば、令名は載せられて行きわたります。かくて遠方諸侯も到来し、近隣諸侯は安心するのです。「子(あなた)のおかげで我は生きている」と人に言われるか、それとも「我から搾り取って子(あなた)は生きている」と言われたいか。象が象牙をもつためにわが身を滅ぼすのは、それが財貨だからです。
     范宣子は納得して、さっそく礼物の額を減らした。

    さらに補足すると、范宣子とは大国である晋の事実上の最高権力者で、鄭伯は鄭の国の君主です。子産は鄭の国の閣僚級の人物ですが、その時点ではナンバー3か4あたりのポジションにいました。

    要約すると、強大な盟主の最高権力者に対して、同盟国とはいえ遙かに力が劣る国の4番手くらいの大臣が、

    「あなたは金を集めることばかりしているから、周りのみんなから嫌われているのに、なんでそのことに気付かないの? このままだとあなたのいる国は周りから背かれ、あなた自身や家も潰されますよ? 人のためになることをすれば楽しめるはずだし、そうすれば永続きできます。感謝された方が憎悪されるよりもいいじゃないですか」

    という手紙を送り、受け取った方は納得してそのようにした、ということになります。

    かなり無理はありますが、現代に当てはめてみますと、横暴なアメリカ合衆国大統領(容易に想定できますね)が同盟国に迷惑をかけている状況で、その同盟国の中の一つ(イギリスや日本よりも小さいと考えた方が良いでしょう)の内閣の4番手くらいの大臣(首相、外相、蔵相の次あたり)が、アメリカ大統領に対して、「あなた嫌われてますよ、このままだと潰れますよ、人のために行動しなさいよ」と言っちゃうようなものです。

    もちろん現代世界とは異なり、何かあれば直接的な軍事行動が実行される可能性は高いわけですから、相当無茶な諫言であったことになります。

    さて、話を「楽則能久」という言葉に戻します。
    先ほど引用した中にある、
    「徳あれば楽しく、楽しければ永続きできます。」
    が本文では、
    「有徳則楽、楽則能久」
    に当たります。読み下せば、「徳あれば則ち楽し、楽しければ則ち能く久し」ということになります。

    つまり、「楽則能久」の中の「楽」は単なる享楽的な、何も考えずに楽しみを追求するということではなくて、利他的・社会貢献的な行動によってもたらされる楽しみのことを指します。その「楽」を行うのであれば、その行動も自分自身も永続き出来る、という意味の四字熟語と言えます。

    さて、一方で最近というか数年前ですが、YouTuber自身やあるいは取り上げる側の表現として、「好きなことで、生きていく」という言葉がよく出てきました。

    好きなことで、生きていく – YouTube
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLQntWbrycbJc1ojIZ8IkKTAZGmHcasZgO

    YouTube Japanの公式チャンネルがこういった動画を出していますから、YouTuberは自分が好きなことで生きていくことが出来ますよ、というアピールでもあるのですが、当然のことながらそれほど簡単なことではありません。

    YouTubeも別に簡単ですよと言っているわけではないのですが、好きなことで生きていくということはある意味、大変な道でもありますし、「好きなこと」というものの定義も難しいです。

    一部のYouTuberが道義的あるいは法的に問題のある動画を撮影してアップロードすることに対して、非難されることが多くなってきました。もちろんそれは当たり前のことなのですが、そういったYouTuberにとって、非難されるべき内容の動画を作ることが本当に「好きなこと」なんでしょうか?

    単なる収入のため、ということであれば分からなくはないですが、それなら嫌々ながらもサラリーマンなりになった方が、収入の安定性でいうと確実だと思うのですが、そうでもないのでしょうか。

    こうなってくると、「楽則能久」の「楽」と、「好きなことで、生きていく」の「好きなこと」が決定的に異なってしまいますが、もう一つ、「楽」という言葉の意味を考えたいと思います。

    歴史、日本史の教科書で織田信長について取り上げるときに、「楽市楽座」というキーワードが出てくると思います。楽市楽座とは、それまでは商工業者が結託して自由な商売を広く出来るようにはしていなかったのですが、政治権力をもってオープンな市場を作り出すことによって、その勢力圏内で経済活動を活発化させて最終的に税収を増やすことが目的の政策です。

    この「楽市楽座」自体は別に織田信長が創始者ではなく、戦国時代当時複数の戦国大名などが開いていたのですが、ここで出てくる「楽」という言葉は当然ながら「楽しい」という意味ではありません。

    楽市楽座という言葉での「楽」は「自由」「free」という意味であり、制限が無い、ということです。

    楽=自由であり、自由であることは楽しいということにつながります。

    楽市楽座の楽は自由だと書きましたが、自由という概念や権利はどんなことをしてもいい権利ということではありません。正確には、何しても良いけどそれで生じる責任が伴います。何をしてもいい権利を得る代わりに、何をすべきか自分で判断して実行するという義務が発生するのです。その義務に関して理解出来ない未成年者は自由を制限されますし、法律に違反し犯罪を犯した者はこの義務を理解出来ていないのだから、刑務所にて自由を制限される、ということになります。

    YouTuberにとっての「好きなことで、生きていく」の「好きなこと」は、「楽則能久」の「楽」に当たるはずですが、それは「楽」という漢字の意味に当てはめれば、「利他的な行動で得られる楽しみ」であり、かつ、「責任を伴う自由」をも意味します。

    ここまで話を展開していけますと、「楽則能久」と「好きなことで、生きていく」は同じ主旨として説明できるようになります。

    楽則能久という言葉は、人のためになるということは楽しいことだし、そういうことは永続きできるのであって、人の楽しみを奪っても永続きはしないし自分も幸せにはならないのだ、ということを意味します。

    誰かを楽しくさせることが自分も楽しくなるための基本であり、そうすればそれ自体長く続けられます。逆に言うと、嫌なことは永続きしません。それは仕事だろうと趣味だろうと同じです。そして「嫌な」という気持ちは自分が感じるだけではなく、誰かが「嫌な」ことも永続きしないのです。

    人のためになることで楽しむことでそれは長く続けられ、自分にとっても得になります。決して人(他人のみならず自分も)を傷つけて得られる「楽」ではないのです。

    自分も他人も楽しめることであれば、長く続けられるのだということは、このように昔からある箴言であり、今にも通じるテーマでもあると思います。

  • Appleの転換点?

    先日、Appleがスペシャルイベントで様々なサービスを発表しました。

    Apple Special Event2019年3月26日
    https://www.apple.com/jp/apple-events/march-2019/

    いつものイベントでは注目の的になっていたハードウェアについては、イベントの数日前に前触れも無く発表していき、イベント自体ではハードウェアには全く言及しない講演となりました。

    少しずつ、Appleがハードウェアからソフトウェアサービスに軸足をずらし始めていることの証左であるのですが、ハードウェアでの稼ぎ方に限界が出始めているとも言えます。

    以前、Appleについてこんなことを書きました。

    Appleの戦略的転換の必要性(iPhoneを安くしてください)
    https://note.mu/hrsgmb/n/naa0d441c7db8

    AppleはiPhoneなどの高価なデバイスで利益の大半を稼ぐよりも、他のデバイスやサービスを含めたApple事業全体での利益を稼ぐように戦略を見直すべきだ、という主旨のものですが、先日のAppleの発表はまさに、これからはサービスで稼ぐ、という強い意志が見られるものでした。

    ソフトウェアと密接に連携しているハードウェアが売れなくなるという、Appleにとって泣き所になる可能性はありますが、ソフトウェアサービス自体が強力である場合、むしろAppleの競合にとって泣き所になるかも知れません。

    Appleの多くのサービスが他社製の端末でも自由に使えるようになるということは、Samsung・HUAWEIなどのAndroid端末で使えるということであり、他社のプラットフォーム上でAppleのサービスを体験できるというのはある意味Appleのハードウェアへの誘因を喚起することにもなるでしょう。
    見方を変えると、Android端末を踏み台にさせてiOS端末だともっと使いやすいですよ、と促すことになりかねません(露骨にやると公正取引委員会あたりからお咎めを食らうと思いますが)。
    Samsung・HUAWEIなどからすると、AppleのサービスがGooglePlayを通じて提供されるとしたら止めようがありません。利用する人は利用するでしょうから、ハードウェアのみ作っている競合企業の泣き所と言えます。

    Apple Music、4,000万台のAndroidデバイスでインストール済み
    https://iphone-mania.jp/news-243588/

    こういった数字も出ていますので、Apple端末以外でのAppleのサービスを利用する人は既に結構いるようです。ただ、AndroidデバイスでAppleMusicをインストールした人がみんなApple製品の「非所有者」ではないでしょう。むしろ、iOSデバイスとAndroidデバイスの両方を持っている人がAppleMusicを使う場合も結構あるはずですから、まだまだ伸びしろはあると思います。

    AndroidデバイスにおいてAppleがサービスのみで売上・利益を稼げるようになったら、巡り巡ってAppleのハードウェアの価格にも影響するでしょう。Androidデバイスに押されたからハードウェア単体の粗利を上げる為に値上げするか、それとも売上確保のために利益を犠牲にしてでもハードウェアの価格を下げるか、どちらになるんでしょうかね。個人的には値下げして欲しいですが。

  • 住民票の発行から考えるエコロジー

    先日、千葉県の市川市がLINEで住民票の写しなどを発行を申請することが出来る仕組みを試すというニュースがありました。

    全国初、市川市で住民票のLINEオンライン申請実験
    https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1175856.html

    しかし、未だに住民票などの公的書類が紙媒体でしか存在しない、ということの方が問題のような気がします。

    日本はデジタルデバイスを数多く生産しているのに、企業や役所などではアナログな対応が多いことが批判的に取り上げられますが、これもその一つと言えるでしょう。

    デジタル先進国ではないのは、経済的に大国と言える国の中で日本だけではないのかも知れません。

    こんな風に、イスラエルでもFAXが未だに必要だそうですし。

    ハイテク立国イスラエル、人気デバイスFAX? 「片足を未来に、片足を聖書に置いた現代の国」
    https://diamond.jp/articles/-/195145

    しかし、そもそも紙媒体の住民票を必要としない社会システムを構築すべきなんじゃないでしょうか。
    別にデジタルネイティブな国家を戦略的に構築しろ、と要求するつもりはないのですが、紙でなくてもいいものは紙以外つまりはデジタルデータで提供してもいいのではないでしょうか。

    電子国家として名高いエストニアほど過激にデジタル化を進めることは日本においては不可能でしょうけど、紙を使わない「ペーパーレス」社会を構築するのは環境的には良いはずです。

    日本の7割は山林で、豊かな木材資源があるはずですが、日本国内における木材やパルプの供給は輸入品に頼っています。

    わが国の木材供給量と自給率(木材の輸入量)
    https://www.shinrin-ringyou.com/data/mokuzai_kyoukyu.php

    日本製紙連合会 | 製紙産業の現状 | パルプ
    https://www.jpa.gr.jp/states/pulp/index.html

    どこから来るのかといえば、当然ながら外国です。計画的に植林された木を伐採して持ってくるのであればいいのですが、熱帯雨林を大量伐採して輸入している分もあります。それによって日本の森林が守られているとしたら笑えないジョークでしょう。
    日本での木材建築や紙での書籍・雑誌販売、オフィスや家庭での大量の紙の使用が外国の森林資源に支えられているという事実は直視すべきです。

    もちろん環境保護のためだけではなく、公的書類のデジタル化はいちいち印刷して紙の書類を郵送や手渡しして、といった手間を省けるメリットもあるはずです。メリットとエコロジーを両立できますし、印刷する費用も省けます。書類のやり取りに必要な人件費も省けます。

    時間も手間も費用も節約できるというメリットがあればエコロジーは実現出来ると思います。

    様々な環境保護施策は、従来のものや方式よりも費用がかかることが多いため、なかなか進展しません。エコな方が安くつくようにならなければ進まないのです。逆に言うと、エコであるために高い費用が必要であるのならば進まないのはある意味当然でしょう。それを実現するのはテクノロジーの発展と進歩であり、IT先進国であればその実現により多く貢献できるはずです。

    自己を最優先するエゴイズムは、地球環境を大切にするというエコロジーと対極的な存在とみられがちです。しかし、エゴを突き詰めていくと、エコに最終的にはつながるものだと思います。前述の住民票で言えば、紙の住民票が不要なシステムを作り上げれば、紙の使用量を減らすことが出来て森林伐採を減らせます。また、書類のやり取りに必要な時間と手間と人件費を減らせます。

    究極のエゴはエコにつながると思います。

  • 法律は冷たいか

    一般に、法律を基準に物事を考えると言うと、感情とか道徳を軽視するような、心が冷たいような印象を受けるかも知れません。転じて、法律自体が冷たいもののように思えるかも知れません。

    しかし、本来というか現代の法治国家において法律は冷たいものではありません。
    むしろ、法律を無視した横暴な力から、人々を守るために存在します。

    ただし、法律に守られるためには法律を知っておく必要があります。逆に言うと、法律を知らない人が法律に守られることを望むのは無理があるということです。

    当然ながら、自分に関わる全ての法律を、誰も彼もが熟知出来るわけではありませんので、そこで必要に応じて、弁護士、司法書士、行政書士や税理士といった士業の出番となります。

    弁護士はご存知の通り、およそ法律全般に関わる業務を行うことが出来ますので、法律がらみで困ったことがあったら相談する相手としては頼もしいです。ただし相談料も高いです。30分で5千円が相場でしょうか。急ぎでないのなら、法テラスや自治体などの無料法律相談あります。裁判に関することならまず弁護士に相談することになります。

    司法書士は一般人にとっては、法務局が絡んでくる書類に関する相談が多いはずです。不動産の登記や会社法人の登記などです。

    行政書士との一般人の関わり合いで一番多いのは相続関連でしょうか。最近ですと消費者金融における債務整理でも金額によっては行政書士で完結出来ます。弁護士より安価な手数料・相談料で済む利点があります。

    税理士はその名の通り税金に関わる問題のスペシャリストですから、これまで挙げた士業の中では一番関わるケースが多いかも知れません。登記や相続や裁判沙汰なんて一生にそう何度もあるわけではないですが、税金に関しては毎年発生しますから、自営業の方でしたら毎年確定申告が必要ですし、会社経営なら言わずもがな、サラリーマンでも確定申告が複雑な場合は税理士に頼んだ方が楽でしょう。

    こういった感じで、法律に関わるのは必要に応じて専門家に頼る形が多いと思います。
    法的知識が必要になったときに、該当する法律の専門家を頼るのは当たり前のことです。
    ただ、必要があるときに専門家に任せきりになるのではなく、なぜ法律があるのか、法律が必要なのか、そして法律を煩わしいものではなく権利を守るためのものだということを認識することこそ必要なことではないでしょうか。
    何か自分の権利を侵害されたときにこそ、法律は使用すべきものです。法律は権力者が権力を誇示して維持するためにも使えないことはないですが、弱者も同じ法律を同じように使えます。だからこそ法律と言えます。

    しかし、法律がどのように権利を守ることが出来るのか、ということを全く知らない、考えないというのはもったいないとも言えますし、ある意味法律上の権利に甘えているようなものとも言えます。

    また、法律をお互いに利用して戦う場所である裁判所は真実を明らかにするところではありません。
    双方の主張に基づいて、現行法において妥当な解釈を下す場所です。
    裁判の結果、裁判官に裏切られたとか間違っているとかいうよりも、こちら側に裁判官を説得する材料と論理がなかったから裁判で負けるのです(もちろん、強大な権力を持っている検察・警察側が証拠を捏造して冤罪を作り出すケースがあるのは事実ですが、この点は現行法や裁判制度に問題があるというべきでしょう)。

    権利の上に眠る者は法律で保護すべきではないとされています。
    これは、法律を適用して権利を守るべき時にそうしなかった場合、その権利は必要無いものとして失われることを意味します。

    近代的な法治国家が出来る前の、例えば、宗教的な権威が絶対的な価値基準だった国家(そう呼べるなら)を想像してみましょう。もっと具体的に言うと、キリスト教が価値基準になっている国や地域に住む人が、聖書も知らずミサにも行かずキリストもマリアも知らない人が神の奇跡を望むようなものではないでしょうか。

    法律を知らなければ結局損をします。政治家にしろ役人にしろ弁護士にしろ、法律に関わる人間は一般庶民に対して、法律の結果そのものを伝えるだけではなく、法律の知り方を教えるべきではないでしょうか。一番いいのは学校で教えることですが。

    法律は冷たいとか非人間的とかいうことではなく、あくまで自分の権利を守る道具です。使う使わないは自由ですが、使わない・知らない人が法律に文句を言うのはお門違いでしょう。何せ、法治国家において、法律を否定するわけにはいきません。法律とは何か、法律はどのように使うべきかを学ぶことは当たり前であるはずです。

  • iPhoneを盗まれるという夢を見た

    昨日こんな夢を見ました。

    学園祭みたいな状況でした。
    「回」みたいな形の建物の中央にある中庭にある木の大きなテーブルの上に書類を広げて見ていました。その書類は、性的マイノリティに関する公的書類(内容はよく分かりませんが)、自分に関しては自身で提出できず、他人のことしか書けない仕組みになっていて、その仕組みはおかしいと思っている場面でした。そして、そこにアジア系外国人男性二人がその書類に興味があるとのことでいろいろ聞いてきて、何かの都合で自分が席を外して、テーブルに戻ってきたら、テーブルの上に置いてあったままのiPhoneもろともその外国人二人ともいなくなっていた、という状況になりました。
    そこで、他の端末を使ってウェブ上でAppleIDでのロックかけてすぐに警察に連絡して、しばらくしたら、日本人男性がそのiPhoneを持ってやってきて、取り戻せました。一緒に居た友人の協力を得て、その男も押さえ込んで確保して警察に引き渡したのですが、その男は事情を知らず、たまたまiPhoneを渡すように頼まれただけみたい、ということが分かったところで目が覚めました。

    盗まれた割には夢の中の自分はそんなに焦っておらず、iPhoneの指紋認証があるので中身はバレないだろうし、AppleIDによる遠隔ロックも使えるだろうから、警察に言う前に先にパソコンでロックした方が良いか、それとも先に警察に言った方がいいかなあ、とか考えていました。
    また、iPhone8Plusを使っていてそれを盗まれたので新しいiPhoneを買おうかなあ、でも高いなあ、最近は小さいiPhoneでもいいかなあ、でもiPhoneSEの後継機が未だにでないからどうしようかなあ、iPhone8はまだまだ高いけど、iPhone7なら値段的にはマシかなあ、という思考をたどっていました。

    AppleのセキュリティシステムやiPhoneの値段についていろいろ冷静に考えている夢の中というのも面白いですが、そもそも私個人は盗難などの犯罪被害に遭ったことは人生で一度も無いし、携帯電話や財布や鍵など大事なものを紛失したこともありません。経験が無いから焦っていないのか、iPhoneをそれほど大事には思っていないのか分かりませんが、結局は戻ってきたというのも予定調和的なオチですね。

    別に夢診断とかするつもりはなく、こんな夢を見たというお話でした。

  • 「政治のスポーツ利用」と「スポーツの政治利用」

    政治や外交問題がスポーツに対して影響を及ぼすことに対して、よく批判されたりしています。しかしその一方で、スポーツが政治に影響を及ぼそうとする取り組みに対しては批判ではなく賞賛されることが多いです。

    ここで一つ疑問が出てくるのですが、政治がスポーツを利用しては駄目だけれど、スポーツが政治を利用するのはOK、ということです。

    昨年の平昌冬季五輪やソウル夏季五輪での韓国と北朝鮮の連携ですとか、サッカーワールドカップやオリンピック、各種スポーツ国際大会を共同で開催するとか、これは政治がスポーツを利用しているとも言えるし、スポーツが政治を利用しているとも言えるでしょう。

    FIFA(国際サッカー連盟)のルールとして、国家や政府がその国にあるサッカー協会に介入すると、国際大会への参加禁止など資格停止処分を下す、というものがあります。しかしこの適用は結構恣意的で、2002年の日韓ワールドカップの共催は過熱しすぎて単独開催だと外交問題になりそうになったことが一つの大きな要因でした。これは政治がスポーツに影響を及ぼしたことにならないのでしょうか?

    平和のためにスポーツが貢献すべきだ、という理屈は分かりますが、例えば、かつて紛争があった隣接する2カ国が何らかの国際大会開催に立候補する際に、「平和」を持ち出してアピールするのはスポーツが政治を利用しているのではないでしょうか?

    近隣諸国と長年問題を起こしていない「平和」な国がその時の立候補相手である場合、アピールポイントで不利になります。それは公平な招致レースとは言えないのではないでしょうか? 政治や外交などに問題がある国の方が招致に有利になる、というのは本末転倒ではないでしょうか? 本来であれば、平和な国が有利になる方が正しいのではないでしょうか?

    スポーツが政治を利用するのは構わない、という理屈があったとしても、利用するのと利用されるのとは常に一方的な向きになるとは限りません。いつか、政治がスポーツを公然と利用するようになったとき、お互い様だと開き直られて対抗できるのでしょうか。

  • 人の心は有限である

    人の心は有限だと思います。

    別に計量化出来るというつもりはありませんが、無限だとは思えません。

    何かにつけて、「減るもんじゃない」という人がいますが、人の心に関わる問題で心が減らないわけではありません。

    人の心には、容量があります。

    そして何かする度に減っていきます。

    心の容量100の人が、親密度1(少ない方が親密として)とのやり取りは一日のうち100回できますが、親密度50の人とは2回しか出来ないという感じです。
    心の容量が1000の人ならその10倍できることになります。

    精神力、というのはなんか違う気がします。精神力も心も一緒だと思ってしまうかも知れませんが、個人的には精神力は魂というか努力前提というか、上手く言えませんが、心と比べると繊細さが少ない気がします。

    仕事や近所づきあいとかで辛い経験や苦手な行為をすると心が減っていきます。

    ブラック企業で勤めたり、ハードな働き方をすると心が減るペースが加速します。

    心は減るだけではなく、増やすというか回復もします。それは人によってはゆっくり寝るとか、高額の給料をもらうとか、スポーツ観戦するとか、音楽を聴くとか、長期休暇をとって旅行するとか、あるいは家族や恋人とのやり取りで回復できるでしょう。

    ものすごくハードな働き方をするけどブラック企業とは呼ばれない企業は、ひたすら従業員をこき使うだけではなく、こういった心の回復手段を従業員に与えているのだと思います。例えば外資系企業で激務だけれどとんでもない高給をもらうとか、あるいはエリート官僚が毎日のように徹夜しているけれど将来にそれなりの地位や見返りがあるとか、そういうリターンがあるのであれば例え寝る間が無くても働き続けられる人はいるでしょう。

    今の若い人はすぐに会社を辞めてしまうとか、心を病むとかいう批判をする人達は、かつての日本企業が終身雇用と年功序列を約束していたことで、働き手も将来のリターンを見据えて酷使に耐えられていたということに気がついていないのだと思います。

    企業側としては、従業員が心を回復するための見返り(高給や地位)を与えるか、回復するための余裕(休暇や福利厚生)を与えることで離職率や退職率・休職率を下げられると思います。

    逆に勤める側としては、企業側がちゃんと対応してくれるのなら良いですが、してくれないのであればしてくれる企業に転職するか、自分の時間で何か心を回復する手段(趣味など)を確保しておかないと、自分の心が長くはもたないと思います。

    なんかとりとめも無い内容になってしまいましたが、心の中身は不可算だけれど有限で容量が決まっているから、使い過ぎないようにしましょう、ということです。

  • 遅読の楽しみ

    子どもの頃から読書が好きで、いまでも一日のうちで全く本を読まない日はまず無いです。

    自室の大きさや保管の大変さもあって、ここ数年は紙媒体の書籍は全く購入せずに、AmazonのKindleサービスでの電子書籍ばかり読んでいます。

    読みたい本があるとお気に入りリストに入れて、何冊かまとめて購入してKindle Paper Whiteにて読んでいますが、購入した分を読み終えたらまた何冊か購入する、といったサイクルを回しています。

    しかしそのサイクルの中で、読みたい本が増えるペースと、本を購入して読み終えるペースが合致せず、読みたい本がどんどん増えていくという、多分読書好きなら共感してもらえるであろう悩みもあります。

    大した悩みではないとはいえ、この問題を解決するには読む本の数を増やすしかありません。

    そして読む本の数を増やすには、読書の時間や回数を増やすか、読むスピード自体を速くするかしかありません。

    読む時間や回数を増やすのが難しい場合、読むスピードを速くすることになりますが、いわゆる「速読」「速読法」といったものを考えることになります。

    速読法に興味はあったものの、今に至るまで速読法に手を出すことはありませんでした。速読の仕組みというかなんとなくのやり方はぼんやりとは知っていますが、まあ別にいいか、と思って結局のところ速読法を身につけませんでした。

    ただ単に速読法を頑張って身につけようとする努力を行うのが面倒くさい、という理由が大きいのですが、ただ単に速く読めたら良い、というわけでもないと思っているところもあります。

    ゆっくり本を読んでいる、という行為が好きなのかも知れません。本を読む、という行為自体が好きであり、読んでいる時間を過ごすことが好きなのです。一冊あたりの読書時間を減らすことが出来れば、その時間を他に回して色々出来ますよね、というのが速読の目的だとしたら、結局のところ私は速読には向いていないのでしょう。なにせ、一冊を速く読み終えても次の本を読み始めるのですから、結局本を読み続けることには変わりません。もちろん、同じ時間で多くの本を読める方が良いのですが、そこまでやらなくてもいいかな、という気持ちがあって、結局このままの状態がずっと続いています。何のために本を読むのか、という目的の方が重要なのかも知れません。急いで知識を蓄えたい人や、多くの本を短時間に読む必要性がある人は間違いなく速読出来た方が良いでしょうね。