平繁無忙の何でも書くブログ

  • コンビニにおけるダイナミックプライシング導入という暴論提起

     大阪のとあるセブンイレブンの店のオーナーによる問題提起から、コンビニの24時間営業についての妥当性がいろいろと取り上げられるようになりました。双方共に言い分がありますし、ここでそのどちらか一方が正しくて、もう一方が間違っている、と断定するつもりはありませんが、コンビニに限らず小売店の24時間営業の必然性は今後も問題視され続けるでしょう。

     今回のコンビニ24時間営業問題は、現在の労働力が売り手市場になっているため、夜間働いてくれるアルバイトが集まらず、店のオーナー(及びその家族)の労働力への依存が高くなりすぎていることが発端です。夜間の時間帯での時給を少々高くする程度ではアルバイトが集まらなくなっています。昼間の時間帯でも求人がいくらでもあるのですから、少々高いくらいではわざわざ夜間に、しかも少人数ですからトラブル発生時は大変ですし、強盗に襲われるかも知れない、というリスクを冒してまで応募してくる求職者はなかなかいないでしょう。

     しかし、極端な例えになりますが、コンビニの夜間勤務の時給が10,000円なら求人への応募は殺到するでしょう。というかそんなコンビニがあるなら私がそこで働きたいです。では時給5,000円ならどうでしょうか? それでもかなりの求職者が集まるでしょう。では3,000円なら? 2,000円なら? そうやって下げていけば、どこかで釣り合いが取れる金額があるはずです。それが自由主義市場における労働力市場の理論的な在り方です。

     しかし、現実問題として夜間のアルバイトにとんでもない時給を払うことは出来ません。そもそも夜間の売上・粗利が少ないので、払える人件費には限界があります。来店者数が夜間は経るのにコンビニにおける商品やサービスの価格が昼間と同じなのですから当然です。。一商品、一サービスの売り上げが同じなら、人件費が低い時間帯に売った方が粗利が高くなります。そうなると、夜間にも営業している必然性がそもそも存在しなくなります。当たり前ですが来店者が少ない時間帯は店を閉める、というのは経営的に見て非常に合理的な話です。

     コンビニに24時間営業の厳守を求めるコンビニ本社の言い分として、夜間でもコンビニを必要とする人がいる、というのがあります。確かに、かつては夜間にしか買い物が出来ない、という人に取ってはありがたいものでしたが、現在はAmazonを始めとする通販業者が飲食品も扱いますし、宅配ボックスも増えています。夜間に空いているコンビニが無いと生きていけない、ということも以前よりは少ないのではないでしょうか(その分宅配業者が大変ですが)。また24時間営業していることで認知度が上がり昼間の時間帯でも売上が上がる、という理屈も存在します。しかし、それならその昼間の利益分で夜間の時給をもっと高額にすればいいのですが、そこまでは出来ない程度の売上しかない、ということが問題です。

     売上・利益から出せる人件費と、求職者に対して提示できる時給が釣り合いが取れるポイントがあるはずです。もしそれが存在しないのであれば、そもそも24時間営業というビジネスモデルそのものが破綻していることになります。

     そこで提案というか、採用されるわけはないと思いますが、これも最近話題のダイナミックプライシングをコンビニの商品・サービスに適用してはどうでしょうか? つまり、夜間は値段が高くなるということです。POSシステムで全商品を管理しているのですから、時間帯によって価格を変更するのはアナログ時代に比べたら簡単なはずです(もちろんシステム開発が大変だとは思いますが)。飲食店では夜遅い時間帯に夜間料金が上乗せされるのは良くありますが、それと同じです。例えば、21時まではポテトチップスが100円だが23時までは120円、1時までは150円、3時までは200円、5時までは150円、7時までは120円、8時を過ぎたら100円に戻る、といった感じでまさにダイナミックに値段が変わるのです。粗利と時給が釣り合いが取れるところまで、夜間の人件費を消費者が負担してしまえばいい。値段が上がれば客は減ります。昼間に行ったら安いのに夜中に行ったら高い、ということでしたら当然です。しかし、コンビニ本社が言うように、本当に夜中にコンビニを必要とする人は、「本当に」必要なら夜間は単価が上がっても利用するはずです。その分をバイト給与に回せば人手が確保されるはずです。もし夜間割増しの影響で客が減りすぎてしまったらそれこそ24時間営業に正当な理由がなくなります。少なくとも自由資本主義市場において、夜中にコンビニを営業する合理性がないということです。コンビニは営利企業であり公共サービスではないのですから、損する範囲での営業は辞めるしかありません。複合機での住民票印刷など本物の公共サービスのためにも24時間営業が必要、という主張をするのであれば、夜間のコンビニ従業員に対して税金から補助を出すしかありません。どこかで誰かが負担をするしかないのです。

     そもそも、法律によって深夜就業に割増賃金を払わなければならないと規定されている割増分を、これまでは事業者側が負担してきました。社会を資本家と労働者に二分するマルクス主義に影響されているのは労働関連の法律だから故だとは思いますが、資本家の中には強い立場と弱い立場があるということが労働法においては考慮されていません。企業間での問題ですから独占禁止法や公正取引委員会が規制する問題となっています。コンビニ本社がフランチャイズ契約を盾にして、フランチャイジーである各加盟店を締め付けすぎたら、公正取引委員会の出番となるでしょう。そこまで来ると、フランチャイザーであるコンビニ本社にとってみてもブランド価値の毀損という問題に直面しますから、どこかで妥協せざるを得ません。あまりにコンビニ経営が過酷だということが広まりすぎたら経営者が減ってしまいますから、直営店ばかり増えることになり、当然ながら本社自体の経営リスクが増してしまいます。そこまで行くくらいなら、限定的ながら24時間営業を諦めた方がマシです。

     結局のところ、コンビニの24時間営業というシステムは、夜間アルバイトを若者世代で補うことが出来る時代にしか適応できないビジネスモデルと言えます。少子化によって社会が労働力不足に陥り、夜間にそこそこの時給で働いてくれる若者がいなくなってしまったら成り立たないのです。現代にそぐわないビジネスモデルをあくまでフランチャイザーがフランチャイジーに強要し続けた場合、最初に痛い目に遭う(既に遭っていますが)のはフランチャイジーの方ですが、フランチャイジーにのみ負担をかけさせ続ければいずれはフランチャイザーの方にも手痛いしっぺ返しが待っていることでしょう。

     最後に、おまけというわけではありませんがダイナミックプライシングは値段を上げるだけではありません。値段を下げる商品があってもいいでしょう。夜中3時が賞味期限の500円弁当であれば、21時までは500円、23時までは400円、1時までは250円、3時までは100円、といった感じで値下げしていけば、売れる確率は高まります。そのまま廃棄すれば100%店舗の損失ですが、赤字であっても損失は減らせます。値下げ目当ての客が買わなくなるというリスクがありますが、わざわざ夜中にまで待つ人はそんなにいないでしょう。これでフードロスも減らせます。食品だけでも導入してはいかがでしょうか?

  • 読書の測り方

     読書をどれだけしたかを測ることが出来るでしょうか?

     私個人は自分の周囲にいる人(家族、友人、同僚ら)と比べると、結構本を読んでいる方になります。読書について話題が及んだときに、どれくらい読書しているのか、と聞かれたり、あるいは聞いたりすることがあります。なんとはなしに読書の量を語ることになりますが、読書そのものはあくまで行為ですから、読書自体を数えることは出来ません。今日読書したかどうかを聞かれて、読書したよ、と答えた場合、それは経験の回数を1回とカウントできますが、本の一節を100文字程度読んでも1回ですし、分厚い本を1日で読み終えても読書回数は1回です。今日、明日、明後日と読書回数を合計していっても、差が正確に現れないのは同じです。

     それでは、本の数を数えるのはどうでしょうか? これも結局は、単純に読んだ冊数だけでカウントすると、例えば薄い文庫本の小説と、難解な哲学書の分厚い単行本も同じ1冊になってしまいます。別に小説より哲学が上だなんていうつもりはもちろんありませんが、読書の分量を単純に1冊2冊と数えていくのは、どれだけ読書をしているのかを測る基準としてはあまり適切とは思えません。

     では、金額ではどうでしょうか? 先の例ですと、薄い文庫本の小説と難解な哲学書の分厚い単行本で比べれば、まず間違いなく後者の方が売値は高いでしょう。しかし全ての本が難解であれば高額というわけでもありません。古典として文庫本で安価で売られている名著はたくさんありますし、古本や電子書籍のように再販制度による定価販売の枠外の場合はどうするのか、という問題もありますが、それ以前にそもそも難解な読書が良くて簡単に読める本での読書が地位が低い、というわけでもありません。

     また、読書に要した時間はどうでしょうか? 時間で数えるなら、冒頭の読書経験回数をカウントするよりは読書の分量を測るにはまだマシです。しかし、これにしても、自宅や図書館などで静かにじっくり読む場合もあれば、通勤中や飲食店など騒がしい中で読む場合もあります。そういった読書環境の違いによって集中力が違ってきて、読書の進み具合も違うのではないでしょうか。

     さて、ここまでダラダラと述べてきて、どれくらい読書しているのかを説明する正確な方法なんてない! と結論づけるのもみっともない話ですが、実際そう結論づけることになりそうです。ただし、これは絶対的な基準がない、ということであって、話題に出たときに「どれくらい読書しているのかなんて分からないからこの話は終わり!」と宣言して、場の雰囲気を思いっきり悪くしましょう、というつもりはありません。

     日本語はハイコンテクストなものと言われますが(ここではその真偽は問いません)、「どれくらい読書しているのか」という話題が出たときに、そこで何を問われているのかということを読み取って、「毎日読書してますよ」とか、「だいたい1日2時間くらいですね」とか、「月に10冊くらいは読んでます」とか、「年間で20万円くらいお金使ってます」といった答え方を、意識的というよりは無意識的に行っているのではないでしょうか。

     「どれくらい読書しているのか」と聞かれたときに、あなたは何と答えますか?

  • わざと、鈍く。

     あらゆる概念・業界のグローバル化とIT化によって、何でもかんでもスピードアップして最先端をキャッチアップしていくのが非常に大変な世の中になりました。「日本はこの分野で世界から遅れている」「〜〜取り残されている」と言われることも多くなりました。

     日本が世界第3位のGDPを誇る経済大国であり、人口も多い国ですからどうしても世界の競争のまっただ中で戦うことは多くなりますが、全ての分野で最先端を走り勝利を収めるというのはどだい無理な話です。なぜなら同じ理由で世界1位のGDPでもなく、世界1位の人口でもないからです。逆に言うと、世界1位のGDPを誇るアメリカ合衆国と、世界1位の人口を誇る中華人民共和国の2カ国だけが、全ての分野でナンバーワンを目指すポテンシャルがあると言えます。ただ、人口に関しては中国が一人っ子政策の影響から抜け出せずにいるうちに、インドに抜かれることはほぼ間違いないのでこの点はしばらくしたら変わるでしょう。

     ともかく、日本がアメリカ、中国、インドに比べてGDPでも人口でも勝てない以上、勝てる分野を絞ってリソースを配分する必要は出てきます。人間としての命や尊厳に関わる問題は遅れてはいけませんが、それ以外の分野についてはある程度、選択的になってしまうのはしょうがない気がします。言い方を変えると、一部の分野で日本が世界から遅れるのを受け入れた方がいい、ということです。

     国家レベルの話ではなく、個人のレベルにまで小さくすると分かりやすいかも知れません。一個の人間が、世の中で話題になっている問題や必要とされる能力全てに通暁することが不可能なのは容易に想像できると思います。1日は24時間しかありませんし、個人の体力も有限です。何かを習得しようと思って時間や労力を費やすと、その一方でおざなりになる分野や技能が出てくるはずです。その習得に関して個人間での差異があるのは当然です。習得が上手な人、下手な人は現に存在します。そういう場面に出くわしたときに、時間も体力も有限なのに向いてない分野にリソースを割り振るのがはたして適切でしょうか? 個人の願望や夢の観点から考えると非効率でもその人の責任として済ませられますが、国家が国家戦略としてリソースを意識的にしろ無意識的にしろ割り振るのは責任という観点から見ると当然のことだと思います。

     国家や政府ではなく、民間セクターにおいていえば、これは効率性を最優先して分野を選択してリソースを配分するはずです。少し前に「選択と集中」という言葉が流行りましたが、まさにそれです。前世紀あるいはバブル景気の頃に肥大化した多角化事業を整理して、自社にとって本当に強みのある分野に集中することが企業を継続するのに重要だと経営陣や株主が判断したということになります。

     20世紀の日本は二度、世界の覇権に挑み、敗れました。一度目は1940年代に軍事力で、二度目は1980年代に経済力で太平洋の向こうのアメリカと戦いましたが二度とも強大な力に屈服し、その後の苦境を招きました。もう一度世界の覇権をかけて争う機会が訪れるかどうか分かりませんが、やはり勝つのは難しいでしょう。

     常に鋭く全ての分野において最先端をキャッチアップしていくのは相当なリソースを必要とします。ある程度選択して、それ以外の分野についてはわざと鈍く、周回遅れでも認めるくらいに割り切った考えを持っておいた方が合理的ではないでしょうか。

  • 安倍四選の可能性

    安倍総裁「4期目もありうる」自民 加藤総務会長
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190306/k10011838021000.html

     個人的には四選は止めといた方が良いと思うんですけどね。有力な候補者が他にいないから、というのも変な話です。現職の総裁がやるやるといっていたらなかなか手を挙げられません。手を挙げた石破氏のように干されかねないですし(実際に干されているのかどうかは別として)。四選に出るとなったら党内の水面下でのサイレントな反発は静かに広がるんじゃないでしょうか。
     実際の四選に出たら勝つでしょう。これまでの国政選挙で勝ち続け、自民党の歴史上で最も選挙に強い党総裁を、党の組織全体としてみたら手放したくないに決まっています。安倍内閣が続いて自分の総理の目が無くなるのは嫌だけど、自分や周りの議員が選挙で勝てるならやむを得ない、と考えるのは無理からぬところです。
     しかし、四選を経て超長期政権になるとその次が問題になってきます。五選はない、と周りから判断されればその瞬間に政権がレームダック化します。そうなると任期終了後の政界・党内での影響力が大きく落ち、安倍内閣後の政権で安倍内閣時代に決めたことがどんどん覆されていくこともあり得ます。そうなってしまうと超長期政権で苦労していたことが水の泡になってしまいますので、レームダック化する前に、先がまだあるのではないか、と周囲に匂わせながらサッと辞めてしまう方が、政策の持続性はあります。

     そもそも昨年の三選自体が党則変更によって実現したものですから、この三期目の総裁任期自体がレームダック化する可能性もあります。それを防ぐために、上記リンクのような観測気球を党幹部に出させておいて様子をうかがって、三期目の任期満了前にスパッと途中で、例えば東京五輪後辺りで辞めてしまう、という可能性もあるかと個人的には思っています。

     大叔父にあたる佐藤栄作は四選を果たし沖縄返還を花道として任期を終えましたが、その退陣時の記者会見は寂しい形になりました。安倍晋三の首相としての最後はどのような結末になるのでしょうか。

  • 2019年Jリーグルヴァンカップ第1節ジュビロ磐田対ガンバ大阪テレビ観戦の感想

    〜筆者がガンバサポーターのため基本的にガンバ目線です〜

     ルヴァンカップのために去年に続きこの時期にスカパー!と再契約しました。結局nasneを使ってパソコン・タブレット・スマホで視聴するので、スカパー!オンデマンドでの契約でもいいんですが、同じ金額ですからスカパー!サッカーセットを選択しました。今シーズンもガンバがルヴァンカップと天皇杯で残っているうちはスカパー!との契約を継続することになります。Jリーグ放映権をDAZNが高額で契約して以来、こういう使い方しているサポーターの方は結構いるんじゃないでしょうか?
     それはともかく19時過ぎにキックオフ。

     ガンバはリーグ第2節からスタメン8人変更です。注目は右サイドバックの田中達也、矢島・高のダブルボランチでしょうか。FWは千真とガンバ復帰の呉屋です。
     ジュビロに至ってはGK含めて全取っ替えです。こうなるとガンバの方が東口・三浦・小野瀬の疲労が気になってきます。

     試合は大雨の中で行われました。序盤はどちらかというと全取っ替えのジュビロが押し気味ですが、どちらも決定機は無し。
     ガンバはたまに局面で良い形を作れますが組織的ではなく、特に右サイドバックの田中のところが守備で苦しみます。また、攻撃でも中盤での組み立てが出来ません。遠藤・今野が不在だからということも大きいと思いますが、ジュビロのフォーメーションを予測しきれずチーム全体として対応できていない、ということが大きいのかも知れません。
     26分にガンバの菅沼が接触プレーで流血し、治療のためピッチから離れます。代わりに最終ラインにはボランチから高が下りて対応し、藤本が二列目から下がりました。しかし全体的に細かいミスが続いていく中で、ジュビロが右サイドからの攻撃で先制に成功します。ガンバにしてみたら、直近の清水戦で前半に失点した形と同じでした。右サイドからのクロスにニアで潰れた選手の後ろにいる選手に蹴り込まれました。
     その後は、双方見せ場も無いまま前半終了。

     後半開始からガンバは小野瀬に代えて中村敬斗を送り込みます。しかしその後も前半と大きく戦況は変わらないまま60分に呉屋をアデミウソンに代えます。コーナーキックからアデミウソンが押し込んだか? 思ったシーンもありましたがゴールは認められず。
     71分には今日の目玉の一つであったものの不発に終わった右サイドバックの田中を藤春にスイッチします。それに伴い、左サイドの米倉を右サイドに回して藤春が本来の左サイドに配置されました。
     この辺りから守るジュビロ、攻めるガンバという戦況になりましたが、ガンバが良くなったと言うよりはジュビロがバランスを取って試合のクローズを意識し始めた方が大きいでしょう。
     ガンバは中盤の組み立てにアデミウソンも加わることでボールが回るようになってきましたが、その分最前線でのフィニッシュに圧力が無く、決定機を作れないまま試合終了となりました。

     冒頭にも書きましたが、ダブルボランチと右サイドバックについては共に成功とは言えないでしょう。サイドバック自体は初瀬の移籍があったとはいえ数が足りないわけではありません。藤春、オ・ジェソク、米倉に加えて、若い松田や山口がいます。あえて田中をコンバートするのは右サイド深い位置からの攻撃力をもたらすためなのでしょうが、藤春と田中ではやはりサイドバックとしての適性や経験に差があると言わざるを得ません。
     ダブルボランチにしても似たような話ですが、矢島も高もどちらかというと深い位置から丁寧に組み立てるタイプでもないし、ピンチを素早く察知し相手に詰め寄って危機の目を摘み取るということも向いていません。
     結局ルヴァンカップでも、今野不在時の問題を持ち越すことになりました。今野が一つ年を取ったことを考えると、この問題はその分だけ深刻さを増していることになります。田中を低い位置にコンバートするくらいなら、菅沼や青山を一つあげてボランチもしくはアンカーにしてしまう方がいいのではないか、という気もします。
     攻撃に関してはシュート3本で枠内ゼロという内容でした。前線での圧力という点ではファン・ウィジョ不在時の問題を持ち越した、ということでもあります。
     ガンバは攻撃も守備も非常に属人的であると言えます。人が変わったらやるサッカーの質が下がるというよりも、同じようなサッカーを出来ないということです。ベテランの藤本や米倉も含めて、なぜリーグ戦で先発ではないのかということを証明してしまった試合となりました。

  • 紛失防止タグの在り方〜弱い力の強さ〜

     昨年から紛失防止タグというものを使用しています。これまでの人生の中で、財布や鍵をなくしてしまったことはないのですが、出かけるときに持たずに出たりすることはたまにありました。それを防止するためでもありますし、紛失や盗難にあったときにすぐに気付くように、と思って買いました。
     幸いこれまでのところ、紛失防止機能があって良かった、と思うような事態には至っていませんが、やはりあると安心できます。

     そしてこの紛失防止タグは仕組み的にはそれほどややこしくなく、登録したスマホとそのタグの間ではBluetoothで通信して、通信できなくなったら紛失したとして音や通知で知らせる、というものです。最近のBluetoothは4.0あたりから低電力で動作できるようになりましたので、こういった商品が出てくることが可能になったのでしょう。

     紛失防止タグは現在多くの種類が出ていますが、おそらくほぼどの商品・メーカーも、新商品あるいは上位商品として、電波が遠くまでつながることをウリにしているようです。しかし、そもそも電波強度が強いことは紛失防止タグとして別にメリットにはならず、逆にデメリットになるのではないか、という気がします。紛失したときに早く気付くことが出来る方がいいはずです。電波が遠くまでつながるのであればむしろ紛失や盗難に気付くのが遅れますから、かえって本来の目的から遠くなっているのではないでしょうか?

     有名な話ですが、アメリカの化学メーカー3Mの研究員が、強力な接着剤を作ろうとして試行錯誤していたら、非常に弱い力の接着剤が出来てしまい、それがのちにポストイットという付箋になり世界中で使用されるようになりました。弱い接着剤という、本来の目的からすれば強い方が良いに決まっているものでも、弱い方が役に立つこともある、という良い例だと思います。紛失防止タグも理屈としては近いのではないでしょうか。

  • 国際関係において対立も妥協も不可避である

     米朝首脳会談や印パ紛争、ベネズエラ情勢など国際問題でのビッグニュースが続きましたが、対立状態にある時、どうしても双方が対立を煽ってしまう問題があります。アメリカのトランプ大統領は対立を作り出して相手から妥協を引き出す(彼曰く「ディール」)ことによって、アメリカにとって有利な状況をもたらそうとしています。それが成功しているかどうか、あるいは倫理的に正しいかどうかはともかく、トランプ大統領のやることなすこと全てを、トランプ支持派は賛成して、トランプ反対派は反対しているような状況になっています。しかしおそらくほとんど全ての物事には良い面と悪い面があるはずで、それは人あるいは政治家にとっても同じはずです。

     カナダのジャスティン・トルドー首相といえば、アメリカのトランプ大統領の数々の発言や政策に対して異を唱え、リベラルの人達からは人気の高い政治家でしたが、今回の問題は大きなスキャンダルに発展しそうです。

    トルドー政権から司法介入圧力、カナダ前司法長官が証言 野党は警察の捜査要求
    http://www.afpbb.com/articles/-/3213648?cx_part=topstory

     そういえば16年のアメリカ大統領選挙でトランプ大統領が当選したらカナダに移住するといっていたセレブな人達は本当に移住しているんでしょうか? 続報を聞かないので分からないですが、移住先のカナダでも政権が司法に介入しているとすれば八方塞がりですね。

     そもそもリベラルだからといって常に政権が綺麗なわけがありません。アメリカでいえばビル・クリントン大統領は民主党から出ましたが、あのような性的スキャンダルを起こしました。

     トルドー首相はトランプ大統領をたびたび批判していましたが、エルサレムをイスラエルの首都に認定して大使館を移転する決定を下したアメリカに対して、国連総会での非難決議ではカナダは賛成ではなく棄権しました。色々対立しているメキシコも同様に棄権しましたので、北米自由貿易協定(NAFTA)の見直しで圧力をかけていたトランプ政権に配慮(忖度?)した可能性もあります。その後、アメリカ・カナダ・メキシコはNAFTAに代わる協定を結びました。前述の非難決議ではその他、オーストラリアや東欧諸国も棄権しており、これはユダヤ系に対する配慮があったのかも知れません。一方、リベラル・左派の人達からはトランプの腰巾着とか非難される安倍内閣は、英仏中露を始めとする大多数の国々と同じく賛成(アメリカ非難)に回りました。経済問題でもTPP入りをアメリカに主張しつつEUとも自由貿易協定を結んでいますが、こういった点を安倍政権批判している人達が言及するのを見たことがないですね。

     カナダは移民問題、メキシコは国境の壁問題でアメリカと対立していますが、イスラエル大使館や経済協定では対立していません。カナダに至ってはファーウェイ幹部逮捕の件でもアメリカに配慮しています。

    「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という考えは国際社会ではむしろ少ないと言えるかも知れません。なぜなら、国家が特定の国家と決定的な対立に陥ってしまうと相手に対してだけでなく、自分たちにとっても不利益が生じるからです。対立するだけではなく、合意や妥協できるところはそうすることで、対立の争点を絞ることが出来ます。何でもかんでも反対しているとあらゆる点で争点が出てきて収拾がつかなくなります。

     個人が個人と対立して絶交するのは簡単です。引っ越しや転職などで自分がそのコミュニティから離れればいいだけです。しかし国家間の問題で国家が移転したり、国際的な組織から離脱して別の対立する組織に入る、なんてことは不可能です。国土は移動できませんし、国際連合は世界に一つしかありません。たとえ相手にむかついたとしても、全てを断ち切って対立してしまったら後は戦争で勝つか負けるしかなくなりますし、その戦争で勝ったとしても今度は相手が納得しません。負けたらどうしようもありません。国際関係においては全ての物事を一つ一つ、是々非々で判断するしかないのです。

     もちろん、対立を無条件で捨てて妥協だけになってしまってもいけません。1930年代のナチスドイツに対する宥和政策を正しかったと評価する人はいないでしょう。国際関係において対立も妥協も当たり前に存在するものです。対立しているからといってその対立を激化させるように煽るのも間違っていますし、妥協的な考えを無条件で非難するのも間違っています。あくまで是々非々で個人の良心に従って判断するしかないのです。

  • ファッション業界に対する問題提起とZOZO批判は分けて考えるべき

     良くも悪くも話題になるZOZOの前澤社長ですが、以下の記事では比較的冷静というか、結構納得出来る話が展開されていました。

    やっぱり、前澤社長が悪いのか 「ZOZO離れ」の原因
    https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1902/26/news057.html

     前澤社長の言動が結構いろいろなんというかアレな感じで世間的に拒否感をもたれやすいことは否めないですが、ここで取り上げられている、

    「どうせ少し時間がたてばセールになるので、洋服を定価で買うのは馬鹿らしいと思う」

     「自分が定価で買った洋服が、あとあとセールで安く売られているのを見たときの気持ちは?」

     「いまお店で約1万円くらいで売られている洋服の原価がだいたい2000~3000円くらいだということを、皆さんはご存知ですか?」

     といったこれらの発言を失言として馬鹿にする風潮はいかがなものかと思います。
     私自身、かつて日本の繊維業界の隅っこの端っこのごく一部に関わっていたことがありますので、上記の発言に関しては反発心というよりも業界の一部の人間が心の中でずっと疑問に思っていることを表に出しただけだと思っています。
     そして上記リンク先では、経産省の方針として

     「原価率を下げて大量生産し、余った在庫をセールで売る――。その悪循環が競争力を損なうと指摘した」「商社などの卸を挟むアパレルの場合、原価率は2割程度と言われている。定価が1万円の場合、原価は2000円という計算だ。百貨店などへの出店にかかる費用、輸送費などの中間コストに加えて、セールで大幅値引きをしても利益を残せる価格に設定されている」(日経MJ 2017年10月2日)

     というものがあることを示していて、前澤社長の発言と合致しており、繊維業界・ファッション業界における非効率性と消費者にとって不公正な状況をまさしく経産省が問題視していることが明らかです。
     最近では総務省が携帯電話キャリア(MNO)に対して厳しい要求を続けていますが、ファッション業界も政府や社会からの非難を免れるわけではありません。

     私が繊維業界で仕事していた頃も、
    ・上代と仕入れ値の大きな差
    ・下請けや加工屋への過度な要求
    ・値下げ前提の上代や在庫管理
    ・そもそもバーゲン品として最初から作成する
    ・バーゲン品だからという理由で下請けや加工屋に最初から値下げを要求する
    といったことについては疑問に思っていましたが、私には改革する力もやる気も無く、業界からも離れてしまいました。そしてこういった問題は今もまだ存在するようです。

     半年ほど前ですが、イギリスのバーバリーで大量に在庫商品を焼却処分したことが問題視されました。

    英バーバリー、42億円相当の売れ残り商品を焼却処分
    https://www.bbc.com/japanese/44895854

     皮革商品は当然ながら動物に依存していることから動物虐待の観点からも非難されますし、木綿も大量の肥料と水を消費しますので天然素材だからといって自然に優しいわけではありません。むしろ動植物を無駄にしている点では化繊製品よりも罪深いという見方も出来るでしょう。

     繊維業界・ファッション業界は長い間社会的矛盾を抱えながら発展してきました。しかしもう今の時代では通用しません。前澤社長がここで叩かれてしまったのは業界からの過剰反応でもあります。

     そもそも、仕入れた商品を安く売るのはダンピングでない限りは自由です。定価販売の強制は公正取引委員会によって処罰されます。かつてのダイエーや最近ではAmazonなど、小売業界を破壊するゲームチェンジャーはたびたび現れてきました。ファッション業界だけがその破壊から免れることはあり得ないでしょう。

     ZOZO及び前澤社長の問題は、その言動にあるというよりも、業界の慣習を破壊するほどの販売力がまだ弱いことではないでしょうか。力があれば仕入れ先がブーブー文句を言おうと売ってもらう為に卸すはずです。現時点でZOZOタウンからメーカーやブランドが引き上げられてしまうのであれば、それは業界の悪習だけでなく、ZOZOの売る力が足りないからです。前澤社長が女優と交際しているとか、宇宙に行くとかはどうでもいいことです。前澤社長が本当にこの業界の問題点を突き崩せるのか。Twitterも止めて本業に集中するという前澤社長の変革に個人的には期待しています。

  • 野球界の目先の繁栄、その先の危機、さらにその先の兆し

     2004年の近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併を機に、日本プロ野球界は再編騒動が沸き起こりました。ある意味、野球界そのものの危機でもあったのですが、楽天の新規参入、そして各チームが地域密着を指向することで観客動員が増え、経営上の問題は取り沙汰されることがほぼ無くなりました。その間も横浜ベイスターズの親会社がTBSからDeNAに変更になったり、阪神タイガースの親会社である阪神電鉄が阪急と合併したりといろいろありましたが、おおむねプロ野球界は平穏になっています。観るスポーツの代表格であるプロ野球(NPB)は、ピンチをチャンスに変える良い改革が出来たと言えるでしょう。

     しかし、その一方で足下とも言えるアマチュア野球界は野球人口の減少に悩まされています。特に中高生での減少が問題です。

    http://baseballstats2011.jp/archives/45695604.html
    https://sport-ryugaku.com/why-is-the-baseball-popularity-declining/
    http://blog.rcn.or.jp/baseball/

     少子化以上のハイペースで減少している一方で、他のスポーツ人口はそれほど減っていませんから、野球が一人負けのような状態に陥っています。プロ野球界は観客増員でウハウハなのに、アマチュア野球界は競技人口減という相反する状況になっているわけです。
     野球界全体で見ますと、観るスポーツとしての改革は出来たが、するスポーツとしての改革がまだまだと言えます。その「まだまだ」感が現れてしまったのが、新潟県高野連が導入しようとして日本高野連と揉めてしまった「投手の投球数制限」問題でしょう。

    https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20438_W9A220C1000000/

     これまでにも、国内国外問わず、野球のピッチャーの肘や肩は消耗品であり、成長中の子どもが投げすぎてしまうことによる弊害を指摘する声はたくさんありました。しかし、日本においてはなかなか投球数制限という形で強制的に投手を保護する仕組みは存在していませんでした。

     メジャーリーグでは先発投手はだいたい100球前後で試合の状況にかかわらず降板し、二番手に任せます。その代わり中4日で投げていくのでトータルでの投球数は中6日で150球投げるのとあまり変わらなくなりますが、投球→休息の頻度が多い方が良いというのが、現時点でのMLB界隈のスポーツ医学の見解なのでしょう。

     プロ選手は自身の体が資本ですし、自己責任で投げている(実際にはそれなりに圧力はあるでしょうが)代わりに高額な報酬を得られるわけですから、肩や肘を酷使してもある程度は見返りがあると言えますが、中高生ではそんな見返りは存在しません。チームが勝つことや全国大会出場などは見返りではありません。その場合、負担が大きい投手が著しく不公平となってしまいます。
     そもそも野球はプレー時間の半分以上はピッチャーがボールを持っています。インプレーも投手と捕手の間でのボールの行き来が大半です。捕手が投げるときに速さと正確さが必要なのは盗塁時のみですが、投手が投げるときはほぼ全て速さと正確さが必要です。さらにほとんどの変化球ではさらに腕への負担が増えます。労力を比べると投手と野手の間に大きな差があるスポーツです。

     そこで大人はともかく子どもは投手の投球数を制限しよう、という考えが出てくるのは当然のことです。しかし、日本高野連はチーム間の不公平を主な理由として反対してきました。投球数制限を行うと、良いピッチャーをたくさん揃えられるチームと比べて、一人のエースに頼るチームが不利になる、という理屈です。しかし、既にそのような傾向は存在していますし、そもそも子どもの頃に無理をして投げすぎたために大人になってから野球が出来なくなる体になるのを放置する方が問題です。高校時代の松坂や最近では金足農の吉田など頑丈な人は頑丈です。しかし個人差を無視してとびきり頑丈な人を基準に置いて判断するのは無理があります。高野連は野球は教育の一環と主張するのであれば一人の選手に大きな負担をかけるのではなく、負担をチームのみんなで分かち合えるようにしましょうね、と呼びかけるべきではないでしょうか。
     現実のアマチュア野球界、特に中高生対象の中野連や高野連にはまだまだやれることはあるはずです。競技人口減への対策が必要な上に、今現実に野球をやっている選手達への配慮がまだまだではないでしょうか。

     観るスポーツとしては盛んでも、やるスポーツとして人口が減ってしまうと、大相撲のように外国人選手がトップクラスをほぼ独占してしまうようなスポーツになりかねません。

     一方、海の向こうのアメリカではアマチュア野球人口が増えたというニュースがありました。

    https://jp.wsj.com/articles/SB10039284450484833869604585134762327961490

     有料記事なので一切をコピーするわけにはいきませんが、簡単にまとめると、セミプロレベルから庭で遊ぶレベルまで含めて野球人口が2割増えた。高頻度で野球をするのは5%増だが他のスポーツが減っている状況で増えているのは、人数が少なくても出来るMLB主導の「プレーボール」というプログラムのおかげだ、ということのようです。

     日本野球界には、プロアマの壁という前世紀の遺物がまだ残っていますが、プロアマ含めて野球界全体で野球人口を増やすという取り組みには大きな改善の余地があるはずです。逆に言うと、散々手を尽くして減っているなら絶望的ですが、まだこれからいくらでも対策が残っている状況なのですから、野球人口の減少を食い止め、増加に転じさせることは可能なはずです。

  • 核戦争の可能性と抑止力

     インド・パキスタン情勢が急激に悪化してきました。

    カシミールの軍機撃墜でインド=パキスタン情勢が緊迫化 米中やEUが自制要請
    https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/02/eu-164.php

     個人的にはマスメディアには官房長官に、印パ紛争やベネズエラ情勢に対して日本政府はどのように対応してメッセージを出すのかを突っ込んでほしい気もしますが、それはともかくインドもパキスタンも90年代に国際的な反対を無視して核保有国になりました。ベトナムで行われていた米朝首脳会談のタイミングでの核保有国同士の紛争ですから良いのか悪いのかタイミング的にはタイムリーな話題となってしまいました。

     核保有国同士の紛争ということで、当然ながら核戦争の恐れを抱いてしまうのは当然のことですが、現代世界において核戦争が起きる可能性は非常に少ないです。実戦で使用されたのも太平洋戦争時の広島・長崎への原爆投下のみですから、核戦争はどのようにして起きるのかということすら現実問題としては予測でしかありません。

     今回の印パ紛争は両国が独立した頃から続くカシミール地方での軍事衝突が発端ですが、国境紛争が核戦争に発展する可能性はほぼ無いと言っていいでしょう。核兵器の使用によって得られる効用(相手国の致命的な破壊)と、使用に対する相手国及び世界的反発(軍事的・経済的・外交的な抑圧)との釣り合いが取れないからです。

     具体的に言いますと、核兵器を先制使用することで相手国の軍事拠点や都市部に対して決定的な破壊を実行できます。広島・長崎に対して使用された原爆よりも、現代の核兵器の威力は比べものにならないですので、その地域一帯及び周辺地域も使い物にならなくなります。より言うと、戦略核兵器と戦術核兵器の違いにより、規模や破壊範囲が異なりますが核兵器を使用したという精神的なインパクトにはそれほど大きな違いはありません。ただし、核兵器を使用した地域を軍事占領するわけにはいきません。領土として保有しても旨みが全くありません。自分も相手も使えない地域を増やすだけです。

     一方、相手国も核保有国であれば当然ながら対抗措置として報復核攻撃を行います。それを防ぐのは非常に難しく、報復核攻撃を受けた事による直接的な被害に加えて、報復を招く先制核使用行為に対して、政府や軍は猛烈な反発を食らうでしょう。さらには国際社会においても大きな非難にさらされます。単に口で非難されるだけではなく、もっと強大な国、例えばアメリカから制裁的な軍事攻撃を受ける可能性があります。また経済制裁も行われるでしょうし、核戦争が起きている国との貿易・観光を制限する国も出てきます。国際連合や各種地域連合においても急激な地位や発言力の低下は免れません。核兵器を先制利用することによって得られるプラス面よりもマイナス面の方が非常に大きいと言えます。

     まさにそれが核兵器の抑止力と言えます。核保有国からの先制核使用を防ぐため、核保有国に対する報復核攻撃という選択肢を持つことだけが核抑止ではないのです。核保有国同士の衝突がお互いに国境紛争あるいは国境近くの限定された地域における紛争の規模に留まる限りは、お互いに先制核攻撃をする必要はありません。その地域に戦術核兵器であっても使用したら領土を主張する意味が無くなってしまいます。
     さらにいうと、報復核攻撃が出来ない核非保有国であってもそれほど事情は変わりません。被害国が集団安全保障体制の枠内に入っているのであれば、対立する核保有国に対しての国際的圧力が行われますから、同等では無いにしてもそれなりの抑止力は存在します。現在の日本・韓国やあるいはサウジアラビアなどがそうですね。

     つまり、核保有国同士が紛争に至っても即核戦争にはならない、ということになります。これは20世紀後半に起きた、中国とインドの間の国境紛争(今もたまに起きていますが)や中国とソ連の間の紛争も同じでした。もちろん、紛争が核戦争に発展しなかったのは、双方や関係各国による解決に向けての努力あってのものです。しかし、核保有国にとって先制核使用のメリットが大きければ周辺各国の反対や仲介を無視してでも使用されていたでしょう。

     広島・長崎への原爆投下以降、残念かつ不幸なことに、核兵器はその威力を増す一方で所有国も増やしてきました。しかし、保有はしてもいざ使用してしまったら大きな反発を食らって、より困難な状況に陥るから使用しない、という判断を核保有国が冷静に判断してきたと言えます。しかし、このことは裏返せば、周辺諸国からの反発を気にしない(もしくは既に反発されている)状態に陥っていて、報復核攻撃を受けることによる国内の反発も無視するような国家が核保有国になった場合、核抑止力が働かないことになります。そういう国でも、逆に攻め込まれる理由を国連や超大国などに与えてしまいますから、いつでもどこでも核兵器を使用するとは思えません。そういう国による核使用の恐れが出てくるのは、その国の首都や重要な軍事拠点など、国家存続に必要な拠点が危機に陥ったとき、もしくは政治体制の重大な危機が起きたときです。その危機を食い止めるために核使用を行う可能性があるのではないでしょうか。

     現実問題としてロシア・中国・韓国との関係が悪くない北朝鮮が本当の危機に陥ったときに核兵器を打ち込んでくるのはどこか? しかも確実に当たるような場所に位置しているのは・・・・・・?

  • 読書から生まれるアウトプットはプッシャーゲームに似ている

     何らかの情報を自分の頭の中から生み出そうとする時、自分が過去にインプットしたものが頭の中で絡み合い、整理され、押し出されるように出てくる気がします。

     ひょっとしたら人それぞれ感じ方は異なると思いますが、何かを入れなければ頭からは何も出てこない、という感覚は共感してもらえるのではないでしょうか。

     そして、何かをインプットしたからといってその入れたものが直接すぐにそのままアウトプットされるわけではありません。それまでの自分の知識や経験や感情などと結合して、頭の奥深くにしまわれます。引き出しの中、壺の底のようなところに設置され、しばらくは陽の目を見ません。そこから更にまた他のものをインプットしていき、押し出されるように、絞り出されるようにして頭の中からアウトプットされます。

     読書によるアウトプットは、プッシャーゲーム(ゲームセンターにある、メダルを入れて既に入っている他のメダルを押し出して手に入れるゲームです)のようなものかも知れません。

     かつてインプットしたものが、何らかの別のインプットによって押し出されるようにアウトプットされる感じがします。

     一度にたくさん出ることもあれば、全然出ないこともあります。

     読書の数が少なすぎると、アウトプットはほぼないでしょう。それなりの数を読まないと出てこないはずです。

     この比喩では読書の質が問われません。もちろんインプットされる情報もアウトプットされる情報もメダルのように均一な形ではありませんが、読書は土管のように入ったらそのまま出てくるものではなく、記憶の中で揉まれ少しずつ整理され出口に向かっていって、最後は何かをキッカケにして、ポンと頭の中から出てくるものだと思っています。

  • 飛行機は安全だというデータと飛行機は怖いという恐れのギャップ

     各種交通機関の中で、統計上は航空機が一番安全だとよく言われます。実際にどのような統計の取り方をしているのか分かりませんが、その統計が正しかったとしても、飛行機が嫌いな人は結構存在します。そのギャップは何故存在するのでしょうか?

     いざという時、はっきり言うと、飛行機事故に乗客として遭遇した時に無事である可能性は低いと思います。助かる確率が高い状況は離陸前の地上に留まっている時と、完全に着陸した後くらいでしょう。人間は生身では空を飛べませんから、飛行中に飛行機自体にトラブルが発生すると乗客(乗員もですが)は逃げ場がありません。戦闘機のパイロットは上空に放り出されてパラシュートで落下することが出来ますが、通常の航空機に客として乗り込んでいる人間には出来ません。

     自動車・バスなどの場合でしたら、地面を走るのですから何か事故が起きた時に乗客が自分の判断で乗り物の外に出ることは可能です。人間は空を飛べませんが地面を歩くことが出来る動物です。もちろん外に出て後続車に撥ねられるケースはありますが、充分に注意をすれば命を保つことは可能です。飛行機との大きな違いはここにあります。

     電車も車と同じく地面を走ります。レールの上という制限はありますが、断崖をまたぐ鉄橋上とかでない限りは、これもまた乗客がその乗り物から脱出して安全を確保することも可能な場合は飛行機よりも多いです。

     自動車や電車と、飛行機の間に位置するのは船舶での事故でしょうか。人間は空を飛べず地面を歩きますが、水の中で泳ぐことも出来ます。ただし歩く時ほど上手かつ長時間泳ぐことは出来ません。ですので、船での事故に遭遇した時は地面に逃げられる車や電車よりも危険で逃げづらいですが、飛行中の飛行機で事故に遭遇した時よりは生き残りやすいと言えるでしょう。もちろん、泳いでいる間に助けが来ないといけませんが。

     飛行機がいくらデータ上、事故に遭遇する確率が少ないと言われても、そもそも事故に「遭遇した時」にどうなるか、どうやって逃げるか、ということまで考えてしまうと、飛行機嫌いの存在は不可思議なものではないと思います。抽象的に言うと、いざというときが起きるかどうかの確率ではなく、いざというときにも生き残りやすいかどうかが問題であると言えると思います。この認識の違いを改善しない限り、冒頭の「飛行機が安全というデータ」と「飛行機が怖いという意識」のギャップは埋まらないでしょう。