平繁無忙の何でも書くブログ

  • 制限付きフードスタンプによるベーシックインカムの可能性

     北欧フィンランドでベーシックインカムの実験が始まっていますが、どこの国で導入するにしても労働を対価にしない恒常的な収入に関しては賛否両論が出るでしょう。
     その一方で社会保障費は増大し、少子高齢化による年金制度の将来的な破綻が現実的になってきた以上、どこかの国が早晩、全面的にベーシックインカムを導入するのではないでしょうか。

     ベーシックインカムの実験については、局地的かつ期限付きで行われますので、国家レベルで無期限に導入した場合とはおそらく結果が異なるでしょう。場所も時間も限られているベーシックインカムであれば、受給者側にとっては一時的なお小遣いのようなものです。数年後には無くなり、かつ実験区域外に移住したらもらえなくなるのであれば、ベーシックインカムを頼りに仕事を減らして余暇を充実させる、という決断はなかなか取りづらいものがあるはずです。逆に、本格的に政府がベーシックインカムを導入して、国民全員に一定以上の収入を保証した場合、生き方も大きく変えることが出来ると思います。

     結局実験結果はベーシックインカム本格導入時の正確な予測を立てる助けにはあまりならないと思っていますが、じゃあなぜベーシックインカムを政府が本格的に導入できないかというと、その理由の一つとしては財源の問題があります。当然ながら国民全員一律に飢えない程度のお金をばらまく政策はかなりの税金が必要です。ベーシックインカム導入の代わりに他の各種社会保障サービス(年金や健康保険や失業保険など)を打ち切ることによって、ベーシックインカムの財源に充てることは出来ますが、それで全て賄えるわけではありません。そのギャップは確実に増税という形で反映されるので、受給者側の国民も倫理面(「働かざる者食うべからず」)だけではなく国家財政面での問題から反対することになります。

     そこでベーシックインカムの本来の意義に立ち返って考えてみますと、生きることが出来る収入が、個人自身の収入にかかわらず保証される、という行政サービスのはずです。
     衣食住が人間には必要ですが、例えば住むところは行政側での提供が無償ではないにしても格安で行われているケースはあります。収入そのものが原因ではありませんが、大規模災害時に設置される仮設住宅がそれにあたります。今後は人口が減っていけば管理されない物件も増えるでしょうし、相続拒否する物件も増えてくるでしょうから、そういった建物を政府・自治体が管理出来るようにしてしまえば、最低限の生活に必要な住居を行政側が提供することはそう難しくはないでしょう。
     また、衣服については着の身着のまま一張羅でも生きていくことは出来ます。もちろん洗濯は必要ですし本当に一着のみ、というのはあり得ないでしょうが、ファストファッションで買った服を何年も着続けることはさほど難しいことではありません。食料に比べて衣服は長期保存が容易ですから、不要な衣服を寄付してもらって必要な人に提供するということは、時間的隔たりや距離的隔たりがあっても容易です。
     では最後の食事についてはどうでしょうか。住居は提供側が一度提供してしまえば、土地の準備とメンテナンス以外は不要です。衣服も先に書いたように、ある程度数があれば生きていくだけなら何年も気にすることはないでしょう。しかし食事に関しては、資産があろうがなかろうが、家があろうがなかろうが、服があろうがなかろうが、どんな人間でもまず間違いなく毎日摂取する必要があります。また大規模災害時の例ですが、食事の提供は大変です。各地からの寄付があっても振り分ける作業がありますし、その作業に時間がかかりすぎたら食料が駄目になります。もちろん生ものというわけでは無いにせよ、また、各公共施設に保存食料を置いているにせよ、毎日提供が必要ですからサービスする側の負担も相当なものです。

     つまり、住居や衣服に比べると食事を安定的に提供するのは行政にとっても大きな負担となります。すなわち、ベーシックインカムが提供すべき一番重要な分野は衣食住のうちの食です。現金ではなく食を提供すべきです。
     そうはいっても市役所で炊き出しするわけにも行きませんから、行政が提供するのは社会保障サービスとしてのフードスタンプということになります。このフードスタンプをベーシックインカムの一部として提供してしまえばいいのです。
     このフードスタンプは今時の当然ながら、紙や磁気のカードなどではなく、スマートフォン内のアプリやもしくは電子的に個人認証されたカードによって提供されるべきです。システム構築に費用はかかりますが、昔ながらのカードも費用はかかりますし、偽造防止にもなります。また、フードスタンプの転売を防ぐことも出来ます。例えばホームレスを集めてフードスタンプを巻き上げて転売して利益を得るということもかなり防げるでしょう(100%絶対に防げるとは思っていません。必ず悪知恵の働く人はいますから)。
     そして、このフードスタンプには有効期限を設けて、使われなかった分は利用出来ないことにすれば、国庫負担はその分減ります。すなわち、ベーシックインカムに反対している人は少なくとも自分の分のフードスタンプを使う可能性は少ないでしょうから、現金をばらまいて貯蓄される場合に比べると、ベーシックインカムに必要な費用は減ります。
     現金(もちろん銀行振り込みですが)でベーシックインカムを提供すると、貯蓄に回されたり、嗜好品やギャンブルに使われたりして本来の目的を果たせない可能性があります。用途や期限を制限することによってある程度は目的を達成できるはずです。
     ベーシックインカムに反対している人に対しても、多少の説得力が出てくるはずです。「最低限の食事は提供されるけれどそれ以上が必要になれば働くはずだから勤労に対する意欲は無くならない」と主張すれば、ある程度の反対派は崩せるのではないでしょうか。
     また、ベーシックインカムを自分には必要無いと思っている人は、提供されたフードスタンプをそのまま使用しなければいいだけです。その分は税金負担が減りますから社会貢献していることになります。
     さらにフードスタンプを使用できる店や食品の対象を、高所得者層が利用しなさそうなものにしてしまえば、高所得者層はフードスタンプを自らのプライドから使用することがなくなり、税金からのサービス提供を受けられないことになりますから、一種の累進課税が実施されることになります。

     さらに、ちょっと危険というか誤解されると非常にまずい議論になりかねませんが、フードスタンプで利用出来る食材を、例えば飲食店や小売店での廃棄食材のうち、まだ食用には問題ないものにも利用出来るということにすれば、フードロスの問題も一挙に解決できることになります。ただ、これは本当にセンシティブな問題です。「貧乏人は腐りかけの飯を食え」という非常に差別的なヤバい考えに結びつきかねない、というかほぼ密着しているかも知れません。池田勇人の「貧乏人は麦を食え」が霞むレベルの考えです(どうでもいいことですが、今、麦を食べている人ってむしろ健康を意識してわざと高価な麦飯や雑穀米を食べるようなどちらかというと高所得者層ですよね)。
     そこまで行ってしまうと、ベーシックインカムやフードスタンプの問題ではなくなってしまいそうです。制限付きフードスタンプによるベーシックインカムが導入されれば、フードスタンプ利用可能店舗における消費が増えてフードロス自体が減るかも知れませんし、そうなればそこまで極端な仕組みは必要無いでしょう。

     とりあえず、前々段までをまとめますと、制限付きフードスタンプによるベーシックインカムであれば、
    ・有効期限切れの分は税金負担が減る
    ・衣食住のうち行政側での提供が難しい食の提供が可能
    ・転売や目的外利用を防げる
    ・最低限の食事だけの提供なので、ベーシックインカム反対派を説得しやすい
    といった利点があります。もしかすると国内外の偉い人達がすでに考えているのかも知れませんが、こういった議論はもっと広く深くやっても良いと思います。

  • BREXITに直面した離脱派・賛成派・メイ政権の行き詰まり

     メイ首相とEUとでまとめた離脱合意案がイギリス議会で否決というか一蹴され、しかも再考案の取りまとめに対してEU側からも一蹴されたことにより、イギリスがEUから離脱するブレグジット、しかも合意無き離脱(ハードブレグジット)が目前に迫ってきました。キャメロン政権による国民投票に基づく選択ですので、世界に誇る民主主義国家であるイギリスとしても再度の国民投票を実施するのは難しいでしょう。再度の国民投票を実施してしまえば、国民投票の結果が政府や議会が望まない結果になった場合に、何度でも繰り返して国民投票を行うことが出来るという、とんでもない悪例を生み出してしまうからです。
     左右両極にいる人達以外はみんな「ヤバいよヤバいよ」と出川哲朗並の焦りを抱えながら悩み続けていることと思いますが、EUとの交渉ではEUから
    「おまえが勝手に脱退すると言っているんだからおまえの事情なんか知らん」
    と言われるし、脱退賛成派からは
    「傍若無人なEUの言うことなんか聞く必要は無い。大英帝国バンザイ!」
    と無視されるし、脱退反対派からは
    「脱退とかあり得ないから国民投票やり直せ。民意尊重とかどうでもいい」
    とイギリス民主主義の歴史を否定されるメイ内閣はかわいそうというか、火中の栗どころか火中のドラゴンを拾わされているような感じです。そもそもあのEU離脱国民投票自体がとんでもない悪手でした。キャメロン前首相にしてみたら、スコットランド独立運動を国民投票の結果という錦の御旗で押さえ込んだ成功体験があったから自信があったのでしょうが、二匹目のドジョウはいなかったわけです。この国民投票に関しては後世に1930年代のナチスドイツに対する宥和政策並に批判されるのではないでしょうか。とりあえずメイ首相はキャメロン前首相を2、3発殴ってもいいんじゃないかなと個人的には思います。

     国民投票後に首相になったテリーザ・メイにしてみたらたまったもんじゃないですが、そもそもこのブレグジットを進めた(勧めた)人達はどのようにEUを離脱するのかということまでは考えていなかったのではないでしょうか。
     そもそもEU設立時には離脱条項が定められていませんでした。後になって決められましたが、離脱にあたって発生する膨大な問題の解決方法は未策定のままでした。そしてその状況下であっても、EU離脱派は「とりあえず離脱すれば何とかなる、いや離脱しなければならないんだ!」という主張しかせず、EUに所属しているせいでイギリスは損しているのだ、という一部フェイク混じりの意見を繰り返しました。また、今もとりあえず、とにかく離脱してしまえばいい、という主張ばかりしています。

     一方、離脱反対つまりEU残留派は、そもそも国民投票で離脱が決まるなんて夢にも思っていませんでした。トランプ当選と同じく、エスタブリッシュメントまたはエリート層が一般大衆の気持ちを理解していなかった、とよく言われるゆえんではありますが、ブレグジットもトランプ当選も投票結果で大差が付いたわけではなく、僅差での結果です。イギリスもアメリカも国民の半分近くがエスタブリッシュメントなわけはなくて、EU残留を望む人がエスタブリッシュメント層だけではなく、収入的には中位から下位においてもそれなりにはいたはずです。逆に、エスタブリッシュメントの中にも保守的な考えを持っている人間が、投票結果を見る限りはそれなりにいたはずです。そこの部分も読み間違っていたのだと思います。国民投票の再実施を求める人達は、多分今もその点を読み間違え続けているのではないでしょうか。もう一回国民投票を実施して、そこでもし、僅差だろうとなんだろうと離脱多数になったら残留派は息の根を止められます。存在理由がなくなってしまいます。離脱後の復帰のハードルも止めどなく高くなります。

     結局のところ、EU離脱賛成派も反対派も従来の主張をずっと繰り広げているだけで、双方が双方に妥協しようとしているようには見えません。ひょっとしたら内心ではどちらも「ヤバいよヤバいよ」とビビっているのかも知れませんが、表に出したら負けだとヤンキー顔負けの情けない状況なのかも知れません。このまま行けば、合意無き離脱となり、政治や経済が個人レベルでも国家レベルでも大混乱が待っているかも知れません。いや、実は混乱したとしてもたいしたことは無いかも知れません(個人的には北アイルランド国境におけるバックストップの問題があるから混乱しないわけがないとは思っています。バックストップについては、ニューズウィークで読んだ記事が分かりやすかったです)。混乱が大規模でも小規模でも、時の政権が対症療法的なものであったとしても適切に対応出来れば、その後には何とか収まるのでは無いかと思いますが、現在のメイ政権ではどうかなあ・・・微妙な感じがします。

     そもそもテリーザ・メイ首相は、キャメロン政権時の国民投票時には残留派だった人です。そして離脱を選択した国民投票の結果を受けてキャメロン政権が倒れた後に、EU離脱を実行するための政権を担当することになりました。政治家としてはもともとはEU懐疑派だったそうですが、それにしてもこの時点で矛盾しています。離脱に反対していた人が離脱を実行しようとしても誰が協力してくれるでしょうか。反対派からは裏切り者のように扱われ、賛成派からは寝返ってきただけのようにあしらわれるのは目に見えていたはずでした。
     他に首相のなり手がなかったのでしょうが、苦難の道のりに突っ込むにはあまりに無防備でした。いっそのこと、離脱を強硬に主張していた連中の中から適当に選んで(おそらくその場合はボリス・ジョンソンになっていたでしょう)、政権運営させて何も合意できずボロボロの状態になってから、再度離脱反対派として政権を運営して、離脱賛成派の合意を得た上で再度の国民投票という流れに持って行ければ、EUに残留することになっていたでしょう。
     今後のメイ首相としてはもうやれることはありません。事態を打開するウルトラCのようなものは見当たりません。苦心してEUとまとめた離脱案を議会で大差で否定されたときに辞職するべきだったと思います。もしくは、つい先日、EUで再交渉を拒否されたときにも辞職のタイミングが合ったと思います。しかしどちらのタイミングでも辞めませんでした。ある意味タフな政治家だと思いますが、このままハードブレグジットに直面して混乱の中に辞職するよりはマシだったと思います。
     今からそんな繰り言を述べたところで岡目八目に過ぎませんが、そういう策略を選択できなかったのは、メイ首相があまりに真面目すぎてもったいないことをしたという歴史的評価を下されるのではないでしょうか。

  • 非合理的な人間と合理的な動植物というイメージ

     個人にしろ集団にしろ、常に誰もが必ず合理的な行動を取る、と思っている人はまずいないでしょう。「合理的」という言葉の定義にもよるのかもしれませんが、人間はよく失敗します。間違った行動を取ります。その後に悔やんだり、失敗を取り戻そうとして頑張ったり、さらに失敗を重ねたり・・・、その営みがいわゆる人生なのでしょうが、人生論を語るつもりはありません。

     人間が合理的な行動・選択を必ずしも取るとは限らない一方で、人間以外の動植物が取った行動・選択は必ず何らかの理由があってのことだと考えられがちです。何故でしょうか?
     人間以外の動植物には、人間のように余計なことを考える能力や余裕がないから、という理屈が考えられますが、果たして本当にそうでしょうか? 人間はもちろん動物の脳の構造もまだ完全に解き明かされたわけではありませんし、はっきりした脳があるわけではない動物、昆虫やあるいは植物のような生物が取った選択肢にどれほどの理由が存在しているのかを人間側が理解出来るようになるまでには、まだまだ相当の時間が必要なはずです。

    (以下の内容に関してはひょっとしたら大きな事実誤認があるかも知れません)

     例えばサル山のニホンザルたちは野生では取らない行動を取るそうですが、それは飼育している人間が合理的な行動を(意識的もしくは無意識的に)教えた結果、野生で取っていた行動よりもサル山での行動の方が合理的だと判断して、そうのように振る舞う習慣が群れレベルで形成されたので派内でしょうか。

     野生で棲息する動物の場合ですと立証するのは難しいかも知れませんが、ペット化もしくは家畜化された動物とその野生種との行動を比較するともっと分かりやすいかも知れませんし、研究者の方々がもうすでに調べているのかも知れません。

     専門的な知識が全く無い人間があれこれ言うのは的外れかも知れませんが、常に考えておきたいのは、人間が非合理的な行動を取ることがあるということは、おそらく全ての人間が確信していることなのに、人間以外の動植物が非合理的な行動・選択をするということはあまり考えないのは本当に正しいのか、ということです。そしてその考えを進めると、そもそも「野生のまま、ありのままという在り方は本当に本質的なものなのか」という考え方が出てきます。一歩間違えれば、全ての自然は知能が高い人間が支配して改変すべきだ、という無茶な思想につながりかねませんが、自然が、あるいはありのままがただそれだけで無条件に尊いというのも同じ無茶な思想の裏返しに過ぎません。この世の自然法則を理解し支配しているのは人間のみだから、人間こそが自然を大事にしないといけないのだ、という理屈です。

     人間が生きている以上、自然はある程度破壊せざるを得ません。程度の問題ですが、動物も植物も自然を破壊しながら生きています。特定の動物が何らかの環境要因により増えすぎればその餌になる生物は急減しますし、狭い地域に特定の植物が大量にはびこってしまうケースもあるはずですが、それは自然なのでしょうか。人間の営為だけが反自然というのはそれはそれで無理があるのではないかと思います。

     例えば、日本の里山などで住民が管理して森林をそのまま維持し続けるのは、自然に優しい行為なのでしょうか。それとも自然を破壊する行為なのでしょうか。森林を本当の自然のまま、ありのままに放置すれば、極相に移行します。そして極相林だらけですと人間にとってはメリットのそれほど多くない森になってしまいます。

     全ての人間の行為を肯定するつもりはありませんが、人間が自然に関わることと人間以外の動植物が自然に関わることをあまりにも明確に差別してしまうと、そもそも人間の存在自体を否定せざるを得なくなるのではないでしょうか。自然に対する無限の賞賛は人間否定になりかねません。そもそも「自然とは何か」という定義及び「自然はどこまで正しいのか」という判断が共通化されていない無知が人類には存在するのではないでしょうか。

     

  • マスクを付けて応接するのは不敬か?

     マスクを付けた状態で受付窓口での対応業務は失礼かどうか、という個人的にはくっそどうでもいいニュースが出ていました。

    窓口業務 あえてマスクなしで対応 賛否の声が多数

     私個人は窓口で対応してくれる人がマスクを付けていようがいまいがどうでもいいのですが、世の中にはどうでもよくなくて重大な問題だと考える人がそこそこいるようです。
    「自分というとてつもなく偉い人間に対してマスクを付けながら応接するとは不届き千万だ!」
    と考える、ある意味どえらい考えの持ち主がいる一方で逆に、
    「自分というとてつもなく偉い人間に対してマスクを付けずにウイルスをまき散らしながら対応するとは危険極まりない!」
    と考える、ある意味リスクマネジメントが行き過ぎる人もいるのですね。

     窓口業務に当たる人の事情を最優先した方が良いと思うんですが、そうではないことが残念です。マスクしたからといって、花粉やウイルスを完全に防げるわけではありませんが、少しでも防げるのならそうした方が良いですし、そもそも日本の冬は低気温と低湿度が一緒に来るため、花粉やウイルス関係無しに喉を痛めやすいです。室内で暖房が入っている場合だと、低気温は防げても暖房によりさらに乾燥しますので、結局喉を痛めます。マスクを付けて高湿度の呼気を再度吸うような呼吸が出来ていれば喉を痛めず、結果健康を保ちやすくなります。

     記事中の意見にある、マスクを付けた状態で話すと聞き取りづらい、というのは確かにあると思います。今後もこれまで同様に、冬場の寒さ・乾燥・インフルエンザと春先の花粉の問題は続いて行くはずです。別のnoteの記事(環境破壊による「地球温暖化」ではなく「気候変動の極端化」と主張すべき)でも書きましたが、今後の地球環境は温暖化と言うよりも気候変動の極端化が進んでいきますから、温暖化により冬が暖かくなるのではなく、より一層寒く乾燥した冬に直面するとなると、マスクを付けた状態での業務というのはさらに一般的になるのではないでしょうか。そうなってくると、聞き取りづらい・話しづらいマスクが改良されて、マスク本来のウイルスや花粉を防ぐ機能は保ちつつ、話し声が相手に聞こえやすいようなマスクが開発されて普及するのではないでしょうか。というか、誰か考えてください。結構需要はあると思います。

  • 捕鯨問題を巡る主張と脱退と需要と供給

     つい先日、日本が国際捕鯨委員会から脱退するというニュースがありました。それを受けてこのような記事が出ていました。

    外国人記者が斬る! 多くの納税者が知らない「国際捕鯨委員会」脱退の政治的背景

     個人的には結構納得する記事でした。需要のためではなく供給側の問題という見方はあまり従来のニュースでは取り上げられていなかったのではないでしょうか?

     豚や羊は食べてもいいけど、イルカやクジラは賢いから食べてはいけない、という理屈は日本人というか欧米の一部の人間以外には理解しづらい気がするんですが、どうなんでしょうかね。

     賢い動物は食べてはいけない、という考えは、愚かな動物は食べてもいいという考えに直結します。動物で留まる分にはまだマシですが、それが人間にまで対象が広がると、アーリア民族うんたらかんたらという非常にヤバい思想になってしまいかねません。

     それだったらヴィーガンみたいにあらゆる動物を食べることを認めないぐらい突っ切った考え方の方が理解できます。ただ、ヴィーガンに関してはそれはそれで、植物は食べてもいいけど動物は食べてはいけないというのは植物に対する差別ではないのか、という反論が出てきてしまうのですが、そこまで行くと捕鯨問題から離れてしまうので置いておいて。

     日本人の大半が捕鯨問題で欧米知識人に対する反感を持っているのはこの辺だと思います。逆に、賢いとかどうかとか残酷とかは元から言わずに、ただ数が減っていて絶滅寸前だ、という観点のみで国際社会が日本人を責めていれば、相当数の日本人は捕鯨制限に前向きになっていたかも知れません。捕鯨反対派による反対運動の主張の論点がどこにあるのかによって、結果が変わっていたと思います。

     一方で、日本側の主張である、「捕鯨は日本の伝統文化」という考えにもイマイチピンと来ないというか、そりゃ捕鯨が伝統文化なのは当たり前で、それは日本に限ったことではありません。伝統と言えるのが何年前からなら成立するのかわかりませんが、捕鯨をかつて行っていた日本以外の国だってそもそも捕鯨は文化だったはずです。それでも様々な理由によって捕鯨を止めたり減らしたりしているわけですから。地球上で日本だけが捕鯨国として昔から存在していたわけではありません。

     また、現在日本人にとって、鯨食文化が普及しているかと言われると難しいところでしょう。日常的に、牛・豚・鶏やマグロや鮭などと同じように食べている、という日本人はまずいないはずです。そもそも一度もクジラの肉を食べたことがないという人も結構いるはずです。特に若い世代はそうだと思います。戦後の一時期、タンパク質の供給源として学校給食で鯨肉が出されたことがありましたが、その時期にそれを食べていた世代は今では結構年配のはずです。ウィキペディアによると、また最近学校給食で出始めているそうですが、日本全国というほどではないみたいです。

     味に関しては人それぞれだとは思いますが、それほど日々の食生活に欠かせないほどのものかというと、それほどでは無いと思います。クジラは大きすぎるため当然のことですが養殖は出来ません。品種改良の可能性がないのでこれ以上美味しくなることもないでしょう。はりはり鍋は美味しいと思いますが、これだって日常的に出るメニューではありません。捕鯨基地周辺ではもちろん馴染みの食文化かもしれませんが、日本全体の欠かせない伝統文化として固守しなければならないものかというと、個人的にはちょっと疑問です。ものすごく美味しいわけではなく、日本の伝統文化だからという理由で学校給食にも復活して、イヤイヤでは無いにしても社会的・政治的理由で食されるというのはそれはそれでクジラの命に対して不誠実ではないでしょうか。

     捕鯨文化が完全に途絶えたら二度と復活できない、という懸念はもちろん理解できます。今回の国際捕鯨委員会からの脱退が、クジラを大量に獲るためではなく、クジラを人間が利用する文化というのはどういうものなのかを歴史文化的に残すために行うのだ、という主張を、今後の日本政府・捕鯨関係者が実行し続けてくれることを祈ります。

  • AIロボット時代における仕事に関するイメージに関するイメージ

     人工知能(AI)やそれを備えたロボットの登場により、人間の仕事が奪われるのではないか、という議論がここ数年かまびすしくなってきました。大まかに分類すると以下の三つに分けられる気がします。

    ・世の中のあらゆる仕事・作業はAIロボットによって代替されうるようになる
    ・世の中の一部の仕事(特に比較的低賃金のもの)はAIロボットに代替される
    ・AIやロボットには決して出来ない、人間らしい仕事が残る

     一つ目の意見については、さらにそこから二つに分かれます。一つは、将来の人間社会はコンピュータに事実上支配されるような世界になるという悲観的なものと、労働から解放された人間が「人間らしい」生き方をできるようになるという楽観的なものです。
     コンピュータに人間が支配されるという悲観的な未来は、ここ100年の間に様々な小説や映画や漫画やアニメで取り上げられているので、誰でも想像しやすいでしょう。人間対コンピュータの戦いであり、レジスタンスの結果、人間側が勝って大団円、といった感じですかね。個人的にはその後の社会をどうやって作っていくのだ、という気がしないでもないですが、それは野暮な話しかも知れません。
     一方、AIロボットが全ての仕事をやってくれるようになるので人間が働かなくて済むパラダイス的な未来は、さらに二つの見方から批判されます。一つは当然ながらコンピューターに支配されるのではないかという懸念と、もう一つは「働かざる者食うべからず」という倫理・道徳上の問題です。
     仕事をして収入を得てそれで生きていく、というのは人類が人類では無かった頃から存在する営みです。しかしその一方で、古代から近代まで、自分では具体的に飯の種を稼がない貴族階級が存在していました。ただ稼がないとは言っても、政治に関わっていたり、財産からの収入を得たりしていましたので、その点では現代の職業政治家や資産家と大差ないでしょう。
     まったく働かない、しかも人類の大多数がAIロボットからの「あがり」で飯を食うという社会が道徳的に許されるのか、そもそもそのような社会が訪れたときに、勤労という道徳観は維持できるのか、という問題になってきます。おそらく、そのような時代が来たら新しい道徳観が社会的合意を得ていることでしょう。

     二つ目の「一部の仕事だけAIロボットに代替される」という意見に関しては、よくマスメディアで「AI時代でも生き残る仕事はこれだ!」といった感じで取り上げられています。ただ、どれも的外れというか、そもそもAIロボットは進歩・進化していけばどんな仕事や作業でも行えるのではないでしょうか。どこかに限界があるのかも知れませんが、それはおそらく今の人類には分からないでしょうし、むしろ問題はどこまで代替させるかをAIロボットの能力的な限界では無く、サービスを受ける側の人間の忌避感が決めてしまうと思います。
     具体的には、
    ・医者がAIロボットになったとして、自分のガン手術を完全に任せることが出来ますか?
    ・自分のかわいい大切な子どもをAIロボットしかいない学校に進学させますか?
    ・ロボットが収穫しロボットが調理した料理だけを食べて生きていきますか?
     といった選択に直面したときに、人間はどちらを選ぶでしょうか? ロボットに任せたくない、あるいはロボットが人間の仕事を奪うべきではない、という考えからロボットを否定する人はいると思います。しかしその一方で、ロボットは生身の人間よりもミスが少なく、疲労もせず、おそらく長期的な費用は安く済みます。それでも人間を選びますか?
     あと、比較的低賃金の仕事(店員やドライバーなど)からAIロボットに代替されると言われますが、最初の頃のAIロボットは非常に高価でしょうから、むしろ高賃金の仕事(医者、金融関係、弁護士など)の方から先に変わっていくのではないでしょうか? 経営者の思考からすると、人件費を安く済ませたいのですから、高賃金の仕事をAIロボットに変えて安くして、低賃金の仕事を多くの人に奪い合わせてさらに賃金を安くする、と考えるのが妥当だと思います。AIロボットの費用が月に50万円かかるとしたら、月給100万円の医者と月給15万円のコンビニ店員のどちらをクビにしてロボットに替えるか、という問いに対しては答えは一つです(病院とコンビニを一緒に経営している経営者はいない、というツッコミは無しで)。

     三つ目の「人間でしか出来ない仕事がある」という考え方も、ある程度は事実でしょうがおそらくその期待の多くは裏切られると思います。人間の感情に関わる部分はAIロボットは理解出来ず、その範囲においては人間しか人間の相手は出来ない、と考えているのだと思いますが、そのような仕事は本当にごく一部だと思います。一般的には、教育やカウンセリング、人の心に寄り添い親身になって対応する仕事がAI時代でも生き残る、と思われがちですが、それも願望が強いのかな、と思います。相談や勉強中の人の脳波や脈拍など身体データを精密に測定してそれに応じて話しかける内容を細かく変更出来るとしたら、教育も相談も非常に強力な武器を得ていることになります。もちろん、そんなロボットに教えられたくないという気持ちは残ると思います。結局のところ、前述の通り、AIロボットの機能の上限で決まるのではなく、サービス受給側の人間の気持ちやかかるコストによって選択されるのではないでしょうか。

     以上、AIロボットの普及した未来予想についての意見についての意見を述べましたが、結局のところみんな自分が信じたいことを信じているような気がします。「将来AIに取って代わられる仕事」を記事として出しているメディアで、そもそもメディアの仕事、記者の仕事自体がAIに取って代わられる仕事として取り上げているケースもあまり無いんじゃないですかね。もしくは、既に取って代わられる仕事として覚悟を決めているのかも知れませんが。

  • ワンパターン批判の弊害

     安倍内閣批判は2012年の設立当初からあり、特に2014年頃から森友問題によって大きくなり、加計学園問題などを追加して続けられていますが、大して効果は上がっていません。野党による倒閣運動というのはほぼゼロに等しい状態でただひたすら安倍内閣が続いていきます。

     マスメディアや野党勢力、各種団体による安倍内閣批判が適切かどうかという問題は別にして、その批判自体はほぼ中身は変わっていません。ずっと同じ内容の批判を続けていると、聞く方も慣れてきます。慣れというのは正しいかどうかということとはまた別問題です。自分とは異なる意見の人を説得して考えを変えさせる為の批判ではなく、自分と同じ考えの人からの支持を維持するための批判です。安倍内閣支持者から「批判のための批判」と言われているのはまさにこの点です。

     安倍内閣に限らず、どんなモノ・コト・人・組織に対しても批判というのはあるのですが、その批判が的を射ているかどうかは別にして、広く共感を呼ぶかどうかはその内容の組み立て方によります。

     オオカミ少年ではないですが、今の反・安倍政権勢力による安倍内閣批判は、聞く側にしてみたらもう耳に馴染みが出来てしまっていて真摯に受け止められなくなっています。そして、もしかすると批判をする側に取ってみてももはや新鮮味が無くなり惰性で言っているだけなのかも知れません。
     逆に言うと、現状の安倍内閣批判をずっと続けている限り、安倍内閣打倒は出来ないでしょう。多分、任期を全うします。そしてその一因には、変わり映えが無い安倍内閣批判があるはずです。

     「自分たちが正しい」=「自分たちの主張は正しい」=「自分たちの主張を受け入れない人達が間違っている」という考えを持ち続けている限り、自分たちの主張を支持する人は増えません。自分たちの主張が受け入れられないのは相手に問題があるのではなく自分たちに問題があるはずだから、やり方を変えてみよう、という考えにはならないんですかね。

  • バブル景気と好景気

     アベノミクスと称される一連の経済・財政政策が始まってからおよそ6年が経過しました。各種経済指標では好景気として現れていますが、世間的には「景気が良い」という感触を持っている人は少ないようです。

     一口に「景気が良い」「景気が悪い」と言っても、それをどうやって証明するのか、というと結局は数字で表すしかありません。そして景気動向を示す数字では、戦後最長とか言われていますが、アンケート調査などでは景気が良いと答える人は少ないです。正確に言うと、好景気の恩恵を被っていると考えている人が少ないということです。

     今の時代が好景気なのかそうではないのか、というのはお偉いさん方がが散々に議論しているのでそこに立ち入るつもりはありませんが、そもそも「好景気とは何か」という認識のところで、世間一般の共通理解がそれほど進んでいないのではないか、という疑問があります。

     今の若者世代は、産まれたときからバブル景気の後遺症による失われた「10年」「20年」のまっただ中にあり、成長する間も湯水のごとくにお金を使える状況にある人なんてほぼいないでしょう。
     今の中年世代は、子どもや若い頃にバブル景気を経験しています。そして自分がお金を稼いで使う段になったら長期間の不景気に見舞われました。
     今の高齢世代は、中年の頃にバブル景気を経験しました。そしてその前の70年代に2度のオイルショックを経験し、子どもの頃に高度経済成長期を体験しています。
     つまり、現在の日本人にとって、好景気の記憶がバブル景気しかほとんど残っていないわけです。

     日本経済にとって、直近の好景気というのがバブル景気だったわけですが、しかしバブル経済を本来の好景気と呼ぶのは無理があります。投資や投機が過熱して正常な経済状態では無くなったわけですから、二度とバブルは経験しないように注意しないといけないはずです。そして実際に、バブル崩壊から30年近く経ちますがそのような状況には陥っていません。好景気は良いけどバブルは駄目、というのは世界中の政府と中央銀行が揃って持っている認識だと思います。

     バブル景気の頃は一万円札を振りかざしてタクシーを止めていた、という逸話があります。そして、日本史の教科書などでよく出てくる、靴を探す女性のためにお札を燃やして明るくする成金の絵がありますが、似たような感じだと思います。あれは第一次世界大戦の時に儲かってしょうがなかった事業家を描いていますが、大戦終了後には当然ながら大きな不況に見舞われました。ちないに、大戦バブル終了後の十数年後には世界恐慌が起こりさらに大変なことになりましたが、同じくバブル崩壊後の十数年後にリーマンショックが起きています。
     それはともかく、バブル景気と比べて現時点での指標上の好景気を実感しづらいのは、デフレが続いているのと可処分所得が減っていることなどがおそらく大きな理由でしょうが、そもそも今の日本人の大半が正常な好景気の記憶が無いことも一つの理由ではないでしょうか。指標上は好景気でも、バブル景気ほどではなく好景気の実感がない、という状態です。

     これからの日本は人口が減り続けます。人口が減る中で経済状況を保ち続けるのは楽なことではありません。逆に言うと、人口が増え続ける状態では経済は好転しやすいのです。いわゆる人口ボーナスです。
     人口ボーナスをこれからの日本が享受する可能性は万に一つありません。可能だとしたら大規模に移民を受け入れることですが、数千万人規模で受け入れられますかね? 事の良し悪しはともかく個人的には色んな理由で絶対無理だと思います。
     人口を減らしながら経済を維持し続けるというのは事実上の好景気みたいなものだと思いますが、果たしてそれが可能なのかどうかという観点での考察をもうちょっと増やしてもいいのではないでしょうか。

  • ほどほどに信用する。または半信半疑を貫く。

     通勤先が若干遠いため、行き帰りの電車の中で合計2時間くらいはKindleで本を読んでいます。またそれ以外の時間でも主にウェブを通じてニュースを読みますが、情報をインプットするにあたって心がけていることの一つに、

    【直接知らない人の言葉は全面的に信用しない。例えノーベル賞受賞者でも】

    ということがあります。

     直接知っている人の信用度については個人個人によって異なるでしょうけど、直接知らない人が何らかのメディア(本や雑誌、ネットやテレビなど)を通じて語っている内容については、100%信用するとその方がリスクが高いと思っています。

     出来ればフィフティ・フィフティ、多くても7:3くらいの割合で信じる、「これはすごい、すばらしい!」と思うような内容でも3割は疑うというか批判的な目線を残しておいた方が良いと思います。もしその内容と異なる、場合によっては真逆の意見を目にしたときに、前の意見を100%信用していたら、新しい意見を受け入れる余地がありません。新しい意見の方を無条件で「これは嘘に違いない」と決めつけてしまいます。

     逆に、ある程度疑う余地を残しておくと、異なる意見に出くわしたときに前者と後者を見比べて冷静に判断することが可能になります。さらにいうと、二つ目の意見も半信半疑で受け取れば、さらに第三の意見が出てきたときにも対応出来るようになります。なぜなら、世の中の物事や問題で答えが2通りしかないものなどまず無いからです。

     ノーベル賞受賞者というのは極端な例かも知れませんが、大学教授なり大企業の社長なり、「ウケ」の良い肩書きを持つ人の言葉や意見というのは、そのもの中身を大きく膨らませて相手に伝わるものだと思います。もちろん何の肩書きもない人が同じ内容で語るよりも説得力があるのは当然ですが、だからといって別に神様でもないのですから、すごい肩書きを持っている人の言葉が常に100%正しい、と考えるのは適切ではないでしょう。

     ほどほど・半々というのは人によっては中途半端というか、覚悟が決まらない駄目な考えだと思う気持ちもあるでしょう。ただ、100%オールインしてしまってから失敗したときのリスクと天秤にかけて、それでも突っ込むかどうかを考えておくというのは、何事にも限らず使える考え方だと思っています。

  • レーガンとトランプの経済・軍事的覇権維持政策

     トランプ大統領が、1980年代のレーガン大統領と政策的に似ている、あるいは意識している、という言説は就任前や直後からちょくちょく目にします。
     公約や政策として、減税・社会保障費削減・貿易赤字対策といったところが類似点として挙げられています。
     既にこの2年の間に散々に語られているので、これまでの推移に関しての分析は少し検索すれば出てくると思いますが、最近で言うと、日米貿易摩擦と米中貿易戦争の比較がわかりやすいかと思います。70年代の終わり頃から、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持てはやされて世界経済に大きな影響力を持っていた日本経済と、驚異的な経済成長からリーマンショック後の巨大公的資金注入によって世界経済に大きな影響力を持つようになった中国経済は、共に世界最大・最強の経済力を持つアメリカ合衆国と覇権を争うようになりました。レーガン大統領はプラザ合意とその後のバブル景気によって日本経済を叩くことに成功し、その後の冷戦終結によりアメリカのみが超大国として君臨する下地を作ることに成功しました。一方、現任のトランプ大統領は今まさに中国相手に経済戦争を仕掛けています。

     そしてもう一つ、レーガンとトランプの共通点として、ソ連(ロシア)に対して軍拡競争を挑んだところです。レーガンはスターウォーズ構想をぶちまけることにより、既に危機的状況にあったソ連政府の財務状態をさらに破綻に追い込み、ソ連崩壊に導きました。そしてトランプはINF条約破棄によりロシア及びプーチン相手に公然と軍拡競争を持ちかけることになります。
     ただ、問題点は二つあります。一つは、80年代のソ連に比べると今のロシアは経済自由化によりそれなりに豊かになっていて、また東欧の共産主義諸国を防衛する義務が無いため自国とその周辺のみに軍事力を集中することが出来ます。もう一つの問題は、かつてのアメリカに比べると今のアメリカは世界的な経済力のシェアが低下していて軍拡に耐えうる経済力があるかどうか疑問がある点です。さらに言うと、経済力でロシアを遙かに上回る中国とも軍事的に対抗する必要があります。

     もちろん時代も人も異なるのですから、単純な比較を行っても同じ結果になるわけではありませんし、あまり意味が無いと言ってしまうとそれまでですが、80年代に日本とソ連に打ち勝ったように、この時代に中国とロシアの挑戦を退けることが出来るかどうか、ある意味歴史的瞬間に立ち会っているのだと思います。
     

  • 恵方巻き大量廃棄問題を別の方法で解決できないか

     過ぎ去った日の問題を取り上げるというタイミングの悪さは置いといて、恵方巻きの廃棄が問題なっているのは以下の点でしょう。

    ・巻き寿司は生もののため、直前に作って直後に廃棄せざるを得ない
    ・いつの間にか流通業(スーパー、コンビニ)によって広められただけの風習
    ・店員が自腹で購入させられる

     廃棄はおそらくクリスマスのチキンとか土用の丑の日の鰻も同じでしょうし、自腹購入も他のイベント日に問題になっています。ハロウィンもメディア側と売る側の猛プッシュによります。
     しかしこの3つが揃っているのは恵方巻きだけでしょう。既に広まった以上、恵方巻き自体を無かったことにするのは難しいです。
     また、機会損失を極端に教える経営手法が世の中の経営陣の頭の中に刷り込まれていますから、売り切れる分だけ作る(在庫を持つ)ということもできないでしょう。そのために自腹購入の強制という無茶が出てくるわけですが、そんな店は辞めてしまえ、というのはおそらく部外者の気楽な意見なのでしょうね。店員にしてみたら、在庫廃棄による経営悪化は店員の雇用にも影響しかねないという点から見ると、利害を共通している部分があります。もちろん、だからといって自腹強制は全く許されない所業ではあるのですが、なかなか無くならないでしょうね。
     また、恵方巻きが巻き寿司である以上、作った状態での賞味期限が短いのも防ぐのは難しいです。

     とどのつまり、1年に1回のイベントだから、売る側作る側はこのタイミングで一気に稼ぎたいし、逆に買う方としてみたら一人一本食べれば充分なわけですから、長期在庫できない商品としては致命的なミスマッチが存在します。
     じゃあこれを解消するには、ということで、いっそのこと1年に1回の節分だけの行事ではなく、例えば
    「毎月3日は恵方巻きの日!」
    とか、
    「毎週水曜日は恵方巻きを食べよう!」
    とか、恵方巻きキャンペーンを行う頻度を多くしてしまったらいいんじゃないでしょうか。気分もムードもへったくれもありませんが、そもそも20世紀終わり頃から流通業がキャンペーンの商材として無理矢理担ぎ出してきたコンテンツなんですから何とでもなると思います。

     現状は、消費者側は自分が買わなかった分が大量廃棄されるのを容易に想像させられますし、売る側は店員レベルでは自腹で購入させられるし、店長レベルでは在庫調整で苦しみますし、経営レベルでは機会損失を防ぐために余るのを承知で在庫を抱えなくてはいけないし、原材料を作る人は自分が丹精込めて
    作った品がそのまま捨てられたり豚の餌になったりすることになります。
     誰も得していないこの状況がこのまま続くとは思えませんが、誰かが何かをしないとこの状況は続くでしょう。恵方巻き特売のスーパーのチラシを折り込みに入れる新聞も、スーパー・コンビニのCMがかかせないテレビも、大量廃棄批判をする資格はあるんでしょうかね。
     そうはいっても新聞もテレビも広告主には逆らえないでしょうから、直接批判するのでは無く、新しい恵方巻きの風習を作り出して、誰も損しないような流れに持っていくのもマスメディアとして出来ることなのではないでしょうか。

  • 自宅でのコンテンツ視聴のマルチアングル配信の可能性

     20世紀においては、映像を見る行為というのは、映画館に行って映画を見るか自宅でテレビ(VHS・DVD含む)を見るかどちらかしか無かったわけですが、今の時代は違います。パソコン・スマホ・タブレットで映像コンテンツを簡単にかつ格安で見ることが出来ます。フィルム→電波→ネット回線とコンテンツ提供経路が変遷してきたとも言えます。

     ネット回線経由で見る場合のメリットとして今後は、同じコンテンツでもどのような形で見るか、ということを選べる(マルチアングル化)ようになるのではないかと思います。自分が見たいカメラ位置の映像のみストリーミングするならネット回線にかかる負荷や帯域利用は変わらないですが、放送波の場合では、カメラ位置すべてのデータをいっぺんに送出する必要がありますから、この辺は明らかにネット回線に優位性があります。

     すでにDAZNがマルチアングル中継をサッカーでもやりましたし、昨年のロシアワールドカップではNHKがネット配信で行いました。
     
     もっと進んだ形を想像すると、一つのコンテンツを例えば基本料金あるいは無料ではみんな同じカメラアングルからの映像を見ることが出来て、金額によって見る角度が異なることも出来るようになると面白いと思います。

     例えば、野球の場合、無料ならバックスクリーン方向からのみの映像、少しお金を払えばバックネット裏からも見られる、もっと払えば左右スタンドからも可能、たくさん払えばピッチャー目線やバッター目線で見られるとか。サッカーでしたら俯瞰的に見たい人もいれば、ゴール裏の熱狂を感じたい人もいるでしょう。

     そもそも、スポーツ観戦だけではないですよね。歌手のライブ映像も無料では遠いところから、お金を払ったらアリーナ席からの映像を見られる、といった区別も出来ます。

     現行のテレビ番組でいうと、ニュース番組やバラエティ番組ではあまり需要はないでしょう。ドラマではむしろ作り手側がこの場面はこの角度で見てほしいという思いがあるでしょうからマルチアングルは適していないきがします。ライブ同様、歌番組ならアリかも知れませんね。ただ、上述のように放送波には向いていない仕組みですから、放送波は標準の内容で、ネット配信はマルチアングル、というのなら可能ですね。放送法の点で可能なのかどうか分かりませんが。

     さらに、このマルチアングル中継にVR技術が重なると、まさに目の前にスタジアムが、ライブ会場があるように体験できます。そうなると放送波ではお手上げですね。ネット配信+VRカメラに軍配が上がります。リッチなコンテンツはネット配信で、リッチではないコンテンツは放送波で、という棲み分けになるのかも知れません。

     モノ消費からコト消費へ、とか言われていますが、コト消費の中身も消費者による厳しい選別が行われて、どんどん変わっていく時代が来るのではないでしょうか。