平繁無忙の何でも書くブログ

  • 所有欲:非所有欲と農耕民族:狩猟採集民族の超安易な比較

     21世紀に入ってからか、ミニマリズム・ミニマリストという概念が急速に広がってきました。私個人もどちらかというとミニマリストに近いかも知れません。「なんか流行っている」「ちょっとかっこいい」という気持ちが無かったとは言えませんが、単純にモノを少なくする、という考え方に惹かれました。
     もともと私は子どもの頃から整理整頓が苦手でした。大人になってからもその傾向は変わらないままだったのですが、ミニマリズムが流行っている、ということでウェブの記事や本を読んだりしているうちに気がつきました。

    「モノを少なくすれば散らかるモノも無くなる」

     安直かつ自堕落な結論でしたが、そもそもモノが多くなるからこそエントロピーが増大してうんぬんかんぬん・・・。モノが減れば片付けやすくなるし、部屋が散らかることも無くなります。逆に言うと、モノが散らかると片付けるのがおっくうになり、放置されることでさらに散らかっていく、という悪循環を断つことが出来ました。
     最近では、モノを所有したいという欲望よりも、モノを所有しないようにしたいという欲求の方が強くなってきたかも知れません。所有ならぬ非所有欲というべきでしょうか。

     著名なミニマリストの方々に比べると、徹底性としては比べるまでもなく半端なミニマリストに過ぎませんが、多分一般平均からは持っているモノが少ない人間に分類されると思います。突然明日引っ越ししなければならない、という状況になっても何とかなるかなという程度ですが。

     ミニマリストにとっては引っ越しは非常に簡単なはずです。何せモノが少ないですから。当たり前ですが、モノが多いと引っ越しは大変です。引っ越し先によっては捨てる場合も多いでしょう。

     ここで唐突に話を展開しますが、遊牧民族は移動するのが常ですから、持ち運ぶモノは当然ですが少なくなります。移動先での住まいに必要か、もしくは交易に使える資産や財産を持ち運ぶことになります。一方農耕民族、特に焼畑農業から脱して完全に定住し始めてからは、毎年ずっと同じ場所にいるわけですから、持ち運ぶのが大変な量でも蓄積出来ます。別の見方をすると、遊牧民族のように簡単に移動先で食料生産できないため、不作に備えて食料や富の蓄積が必要となってきます。遊牧民族は今いる場所の緑が無くなったら、緑がある場所に移動すれば良いだけです。
     遊牧民族だけではなくて、採集がメインの人々も同様です。森の中を移動し続けるのですからたくさんのモノは持ち運べませんし、移動しつつ食料を取ればいいので蓄積の必要もないわけです。漁猟に関しては少し中間的な感じになるでしょうか。港を構えていればその近くで定住することになりますが、漁の場所は可能な限り広げることが出来ますし、魚介類から作った保存食を蓄積することも出来ます。

     農耕民族が所有欲を持っていて、狩猟採集民族が非所有欲があり、前者がモノを貯めるタイプで後者がミニマリストのタイプ、といった安易な比較を論じるつもりはありませんが、モノを持たないことへの恐怖心というのは農業における不作・飢饉に対する恐怖と似通っているような気もします。
     もちろん、だからといって日本人にミニマリズムは合わないとは思いません。
    「日本人は農耕民族!」と断言しちゃう人が立場に寄らず結構いますが、網野善彦氏の研究を顧みるまでもなく、日本には漁業や狩猟で生活をする人々が古来からいます。農業だけで食料生産の全てが賄われてきたわけではないように、日本人でもモノが少なくても問題なく生活することは可能だと思います。そもそも、好きなだけモノを手に入れられるようになったのは20世紀後半の高度経済成長期以降の話しですから、日本列島での歴史から見て、モノが豊富な時代というのはこの50年程度です。身の回りのモノを少なくして生きることの方が、かえって無理のない話しなのかも知れません。

  • 縦書き日本語の寿命

     現在、日常生活の中で目にする日本語の文章は、ほとんどが横書きになっています。縦書きなのは、本・雑誌・新聞くらいです。ビジネス文書にしろ、電子メール・チャットにしろ、ネット上のニュースにしろ横書きで表示されています。

     学校での国語や現代文の授業では、縦書きの文章しか取り扱いません。国語の教科書がそもそも縦書きだからですが、横書きの日本語の文章を読み取る能力を育てる・測る必要性はないのでしょうか? 第一、国語以外の教科書は数学も社会も理科も全て横書きです。縦書きでも横書きでも読解力は変わらないのでしょうか。

     日本語は本来縦書きのものなのだから国語教科書も書籍も新聞も縦書きであるべきだ、という主張は理解出来ますが、それなら横書きで書かれている大量の日本語文書は日本語では無いのか、という問題に直面してしまいます。

     もちろん、横書きの理由として、アラビア数字やアルファベットがあるので無理に縦書きにして読みづらくなるよりは横書きの方が無理がないから、というのがあるでしょうけど、それならそれで結局縦書きでの文章が残る理由が無くなってしまいます。昨今では縦書きで書かれる文章の中に数字やアルファベットが全く無いものの方が少ないでしょう。何故縦書きと横書きが並立しているのでしょうか? 縦書きの方が読みやすい、という意見には賛同します。全く同じ文章を縦書きで読むのと横書きで読むのとでは、縦書き日本語に慣れた人間にとっては必要な労力は差が出てくると思います。ただ、それなら意地でも横書きを排除して全て縦書きにするべきでは、という意見が出てもおかしくないはずですが、そこまで主張する人にお目に掛かることはありません。日常生活で読み書きする日本語のうち、横書きの割合が増え続けているはずなのに、読解力を問われるのは縦書きのみというのはアンバランスではないでしょうか。

     戦後の日本語教育・国語教育の転換の中で、常用漢字や仮名遣い、旧字体と新字体の変更などがありました。その前には維新後に平仮名と片仮名の統一や口語体文章の誕生などもありました。この150年くらいの間に、日本語の文章は過去に2度も大きな変革を受けています。そしてこの21世紀前半の今これから、縦書きの日本語がほぼ無くなり横書きメインになるという、3度目の大きな変革があるのではないでしょうか。そのXデイは新聞と国語教科書が横書きになるときでしょう。ここ5年10年のうちにはそうはならないでしょうけど、30年後や50年後は分かりません。それまで少しずつ、横書きでの書籍や増えていき、どこかで堰を切ったように変わっていくはずです。個人的には手始めに、IT系や科学系の雑誌が横書きになるのではないかと思っています。というか、個人的にはまずそこから変わって欲しいです。だって読みづらいですから。

  • 米中貿易戦争と日米貿易摩擦とその後

     昨年から続くアメリカと中国の貿易交渉はまだまだ終わりを見せていませんが、この米中貿易戦争は1980年代における、日本とアメリカの貿易摩擦と比較している論説をよく見かけます。時代も国も違いますから、当然ながら似ている部分もあれば異なる部分もありますけれど、この文脈で無理矢理に解釈するのならば、HUAWEI社創業オーナーの娘がカナダで逮捕された事件、及びHUAWEI・ZTE製品の排除といった一連の事例は、80年代におけるスパコン問題やBTRON除外、あるいは東芝ココム事件といった歴史と対比できるのではないでしょうか。

     日本人としては、過去の日米貿易摩擦におけるアメリカの圧力に対する不満がありつつも、今回の米中貿易戦争ではアメリカの肩を持ちたいというような複雑な心境があります。アメリカとしては、80年代に世界経済の覇権をうかがった日本を叩いたのと同様に、習近平政権になってから鄧小平の韜光養晦路線を捨てて露骨にアメリカに挑み続けている中国を叩くのはそれほど違いが無いのかも知れません。

     そうなると米中貿易戦争でも勝つのはアメリカということになりますが、すんなり勝つかどうかは別として、アメリカの勝利に終わるとすると、負けた中国がかつての日本のように長期不況に陥るとなると、代わりに出てくる国もあるでしょう。それが日本であればいいのですが・・・、どっちかというとまた新興国でしょうね。人口ボーナスを享受できる国ということでしたら、第一候補はインド、次いでブラジル、インドネシアあたりでしょうか。人口が現時点でも多く、かつこれからも人口増加が見込まれる国で経済も発展していき、資源もありますから当然ではあるのですが。

     株価指数を見てみると、確かにインド・ブラジル・インドネシアは米中貿易戦争が本格化した昨年秋からずっと上がっています。ロシアやクアラルンプールの指数はその期間上がっていませんから、市場も何らかの理由で選択しているのだと思います。

     人口や資源などを考えると、アフリカ諸国、中でもナイジェリアもあるかなと思うのですが、ラゴスの株価指数は反応がないみたいですので、市場関係者はナイジェリアの政情不安による影響を強く見ているのでしょうか。

     米中貿易戦争で中国が勝利したらそれはそれで新しい時代に突入することになりますが、アメリカが急に弱体化するとは考えにくいですから、アメリカ・中国・EU・日本・イギリスなどが乱立する多覇権体制・多極化の状態になるのでしょう。そうなると、1980年代が90年代の再現ではなく、19世紀後半の列強による帝国主義に近い状態、あるいは19世紀前半のナポレオン戦争以後のウィーン体制に近い状態になるのではないでしょうか。第二次世界大戦後は、先進国同士が直接戦争を行ったことはなく、今後もまずないでしょうから、軍事力ではなく経済力を他国に行使する形でということになると思います。直接的に血が流れないからといってそれを平和と呼んで良いかどうかは米ソ冷戦と同じですね。

     勝者が米中どちらになるにせよ、冷戦終結後からリーマンショックまでの比較的安定していた世界経済構造が無くなるのは間違いないと思います。

  • ドラマ・映画の中でタバコを吸うシーン

     タバコを吸う人が減りましたが、ドラマ・映画の中でタバコを吸うシーンも減りました。特にハリウッド映画では喫煙習慣を広めないようにそもそもタバコを吸うシーンを入れないようにしているそうですが、作り手としては難しいでしょうね。特に過去を振り返るシーンとか、そもそも昔を舞台にした脚本だったら、タバコを吸う様子が無いことの方が不自然になってしまいます。

     少し前に、松本清張の不朽の名作「点と線」をテレビ朝日がリバイバルというか、現代の俳優で制作して放送したことがありました。北野武が出てたのを覚えています。

     内容はともかくドラマを見たときに一つ感心したことがありました。話の流れ的に分かると思いますが、タバコを吸うシーンをちゃんと入れていたことです。特に、当時は間違いなく男所帯だった警察署内の部屋なんかは何人もの人間がタバコを吸っていて、白い煙が立ちこめていたように記憶しています。

     ドラマの舞台である昭和30年代なんてまさしくタバコ全盛期だったはずで、タバコを吸わない男性の方が間違いなく少数派でした。建物内だろうと町中だろうとどこでもタバコを吸っていましたし、どこにでも灰皿は置いてました。今では考えられないですが、一部の電車にも備え付けの灰皿があったくらいです。

     現代ドラマでタバコを吸うシーンを撮らないというのは分かります。実際に吸う人減っていますし。しかし、過去、タバコを吸うのが当たり前だった時代を扱っているのに、そのシーンが無かったら個人的には気になるかなあと思います。私個人はタバコを一度も吸ったことがありませんが、別にそれくらいはあっても良いと思うんですけどね。この辺はフィクションにしろノンフィクションにしろ、作り手の人にとっては悩ましいところだと思います。だからといって戦後の話しで登場人物が赤線に出入りしていたりヒロポン打ってたりするシーンはまあ作れないでしょうから、程度の問題とも言えるかも知れませんね。

  • 新聞は不要とされてはいけないという考えは正しいのか?

     数日前ですが、以下の記事をウェブで見かけました。

    新聞部数が一年で222万部減…ついに「本当の危機」がやってきた 新聞は不要、でいいんですか?
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59530

     言いたいことは分からなくはないけど、あくまで新聞・メディア側のみの意見や要望であって、現実社会の消費者側の考えを汲み取ろうとする意思が全く感じられなくて、新聞が衰退していくのは当然なんだろうな、という感想を持ちました。

     確かに若い世代は新聞を購読していません。これまでのどの時代よりも購読割合が少ないのは事実でしょう。ただ、それは今の若い人達が新聞の重要性に気付かない愚か者というわけではなくて、ただ単にこれまでの時代では代替手段が無かったから仕方なく購読していた層がいただけの話しだと思います。

     だいたい、人口減少し始めた少子高齢社会で新聞購読数が減るということは若者以外の世代も新聞を読まなくなってきた証でもあります。この高齢化社会の中、若い世代が読まないのなら老年者向けに一気に方向転換しても良い気がします。例えば、文字をかなり大きくするとか、持ちやすい大きさにするとか、まだまだ改良点はあるはずです。そもそも、現行の新聞のフォーマット自体がもう何十年間も変わっていないというのも不思議な話です。かつては満員電車の中でも苦労して新聞を折りたたんで読んでいる人が結構いましたが、今ではかなりのレアケースでしょう。電車の中であれば確実にスマホで読む方が楽です。

     そのスマホ・タブレット向けに新聞社がサブスクリプションで配信している新聞も、紙媒体のものをそのまま配信して、スマホ上で読む場合はピンチインとピンチアウトを繰り返さないといけないという不便さを読者に強要するスタイルで出しているのですから、新聞社がいかに電子版を軽視しているのかが分かります。

     その一方で、ポータルサイトのニュースページやキュレーションメディアアプリでならスマホに適したスタイルで、タップと上下スクロールだけで簡単に読めます。有料で読んでいる人が不便を感じて、無料で読んでいる人が快適に読めるのだからこんな理不尽なことはないでしょう。

     その上、ウェブ上で様々なニュースソースをチェックできるようになり、法人も個人もブログやSNSで主体的にプレスリリースを出せるようになったのですから、新聞や既存メディアの内容そのものも問われる時代になっています。それなのに、上記記事内では、かつて広告を増やすためにページを増やした、と堂々と金のために水増ししたようなことを書いているわけですから、新聞の中の人は消費者側の冷めた目線にまだ気付いていないんだろうな、と思います。

     ラジオ・テレビの登場により即時性を失いましたが、日本では新聞社とテレビ局・ラジオ局が同一資本関係にある場合が多く、テレビで速報、新聞で考察という棲み分けをすることが出来たために、諸外国に比べると新聞の危機が遅れてやってきただけとも言えます。

     本当に新聞はやれることは全部やったのでしょうか。改革すべきところを全て改革したのでしょうか。そこまでやって、それでも消費者が不要だと思ったならそれは諦めるしかありません。完全に既存タイプの新聞がゼロにはならないでしょう。どこかで釣り合いが取れる部数と料金になるでしょう。それを割り切って受け入れられないなら新聞は消えるしかないメディアだと思います。

     上記記事中には押し紙の問題も少しだけ書かれていましたが、あれは新聞社と販売店の間の問題ですし、新聞危機の根本的な問題では無いと思います。タブーと言えばタブーなんでしょうが、本当のタブーは再販制度ですよね。

     再販制度にも手をつけないと新聞の改革は進まないと思います。音楽ソフトはデジタル配信、次いでストリーミング配信の普及によっていずれ瓦解するでしょうし、書籍の再販制度も電子書籍に適用されないことで半分骨抜きになっています。新聞の再販制度も新聞を保護しながらそのまま朽ち果てていくのではないでしょうか。

  • 電子メールからSNSを経て再び電子メールの時代になるの?

     FacebookやTwitterなどのSNSがメディアに取り上げられるとき、数年前はこれからの必須・流行ウェブサービスとして脚光を浴びていましたが、現在では個人情報の流出、フェイクニュースの発信源、人間関係悪化の原因などと批判を浴びることの方が多くなってきたように感じます。

     そうした中で、ウォールストリートジャーナルにこんな記事が載っていました。

    Eメール人気再燃か、古くて新しい情報発信手段
    https://jp.wsj.com/articles/SB10710854813622363988504585074970411822824

     SNSの流行とともに、終わりつつある通信手段のように扱われてきた電子メールが見直されている、という内容です。
     SNSと比べて、
    ・密接につながれる
    ・広告がない
    ・メール配信をすぐに止められる
    といったメリットがあるという主張ですが、なんか変な感じというかモヤモヤした気持ちがあります。というのは、そもそもかつて電子メールが否定されてSNSがもてはやされたときの理由が、
     電子メールと比べて、
    ・密接につながれる
    ・スパムメールがない
    ・フォローを外せばつながりを断てる
    といったメリットが喧伝されていたからです。まさに、いま電子メールを再評価しているのとほぼ同じ理由でSNSを賞賛していたのですから、どっちやねん! という気持ちがわいてきます。

     ただ、一つ大きく異なるのが、電子メールの規格や運用自体は特定の一つの企業によるものではなく、無数の企業、無数のサーバ、無数のルータなどを通して世界中で運用されています。その点は各種SNSとは違います。SNSの場合、その企業のサーバが攻撃されてダウンして利用出来なくなったり、個人情報が流出する可能性があります。あるいは、そのSNS運営企業自体が意図して個人情報を流用・悪用することもありえます。電子メールの場合はメールアドレスそのもの以外にはなんら個人情報は附帯せず、メールアドレスとパスワードが流出しても変更すればいいだけというメリットは確実に存在します。

     電子メールの問題点としては、上記記事の中にも書かれていますが、電子メールの基本的技術自体は非常に古く、20世紀後半の初めの方に決められた規格が基になっていて、その後にHTMLメールとか開封通知とか暗号化技術が付与されましたが、大まかな仕組みは変わっていません。なので、リッチコンテンツの扱いが不十分で、悪意あるトラッキング防止が出来ない、といったことは確かでしょう。

     結局のところ
    「これからはSNSの時代だ! 電子メールなんて古くさい!」
    とか
    「やっぱり電子メールだ! SNSなんて止めちまえ!」
    といった、極端な考えの間を行ったり来たりすること自体が弊害が大きいと思います。電子メールもSNSも一長一短あるのだから、どちらかにオールインするのではなく、状況と中身と相手に応じて使い分けすれば良いだけだと思います。

  • ベーシックインカム導入のジレンマ

     ベーシックインカムの導入の是非について、ちょくちょく目にするようになってきました。外国でも一部導入をテストしてみたりしているみたいです。個人的には賛成ですが、この辺は賛否両論というか、実際に政府が検討するようになったら大騒ぎになるでしょうね。

     生活保護制度もしくは年金制度の代替案というか、社会福祉の観点からいって一つの解決策ではありますが、実際に導入するとなると相当ハードルが高いでしょう。

     財源をどうするのかとか働かなくても収入があるという道徳面での問題はないのかとか散々議論することになるでしょうし、議論することは良いことだと思いますが、本当に導入しようとすると、財源的な理由や二重の収入を防ぐ観点から、現時点で生活保護や年金の給付を受けている人達にしてみれば、おそらく現行制度より収入は減るはずです。まさしくその理由によって、ベーシックインカムの導入は出来ないのではないかと思います。

     将来的な年金破綻や生活保護制度の不公平是正のために年金や生活保護に変わりベーシックインカムを導入しようとしても、まさに今、受給している人達は必ずその変革に反対します。特に高齢者は選挙で間違いなく野党にと評するでしょう。導入を実現するには反対を減らさないといけません。そのような状況は、年金受給者である高齢者及び生活保護受給者である貧困層が減少して反対者自体が減れば実現しますが、そもそもそのような状況が実現したら年金や生活保護制度の問題が目立たなくなりますから、ベーシックインカムを導入しなくてもいいじゃないか、ということになります。

     これは民主主義国家におけるジレンマということなんでしょうが、現在は大丈夫だが将来に備えて現状を変更する政策は、民主制の下では成立しえない、ということになってしまいます。既得権益者が反対する一方で、将来的に利益を得る人達は支持に確信を持てないためぼんやりとした支持になります。その導入でメリットはあるけどデメリットもあるなあ、と導入で利益を得るはずの層が迷う状況を作ってしまえば、反対者達の勝ちです。ベーシックインカムで例えれば、「働かざる者食うべからず」という道徳に反するとか、就業者が減って企業が潰れるとか問題点を指摘して、年金や生活保護の現状より問題は大きいぞ、と思わせてしまえば、新規政策は導入できないでしょう。

     逆に、ベーシックインカムのような抜本的な改革を導入するためには、現状の問題点を非常に大きく見せてアピールする必要があります。このままだと年金破綻するとか、生活保護の適用が不公正だとか、失業が怖くてブラック企業から抜け出せないとかいった感じです。

     しかし、現状をことさら批判すると結局はその現状を作り維持している現行政府の方針を批判することになり、自分で自分の首を絞めるようなことになってしまいますので、ここにもジレンマが存在します。

     かつての自民党は派閥争いが激しく、党内党とも言われて弊害も大きかったですが、政権を握る派閥が代わることによって、政権交代をすることなく政策転換出来たというメリットもありました。今の自民とは事実上、かつてのような派閥が存在せず、緩やかな団体が複数ある状態です。幅広い政策・思想をもって政権運営している点はあまり変わっていませんが、今の政府方針を批判して取って代わる派閥のような存在はありません。かといって野党が取って代わるほどの勢力は持っていませんし、たとえ自公政権が衆院で過半数割れしたとしても、野党連立内閣がベーシックインカムのような大議論を巻き起こすような政策をスムーズに実行できないでしょう。今の自公政権よりも寄り合い所帯になるのは間違いないですから。

     冒頭にも書きましたが、ベーシックインカムを導入した外国が大々的に成功して、世論もマスコミも「これからはベーシックインカムの時代だ!」というような雰囲気にならない限りは、日本でベーシックインカム導入議論が本格化することはないんじゃないでしょうか。なんか外圧頼みのように思えますが、そもそも幕末以降、日本という国が大きな方向転換をするのは必ず外圧があってのことでしたから、逆にその外圧を上手く利用するくらいでちょうど良いのかも知れません。

  • アンタッチャブルな介入が呼ぶ弊害

    ※特定の組織・団体・チームを批判する内容ではありません※

     チームスポーツにおける選手選考は監督の専権事項であるはずです。しかし、ちょくちょく監督以外の立場の人によって選手起用に対する口出しがあります。

     監督以外の人間が監督の頭越しに、あるいは監督に命令として選手起用や戦術を無理強いしてしまうと、大きな問題が起きてしまいます。

    監督にしてみれば、
    ・自分が選ばない選手や戦術を使ったのだから負けても仕方が無い。

    他の選手にしてみれば、
    ・本来起用されない選手や戦術でゲームを戦うのだから負けても仕方が無い。

    そして、無理矢理選んでもらった、本来起用されない選手にしても、
    ・自分の実力が足りないのは分かっているが、監督や他の選手のサポートが得られないのだから負けても仕方が無い。

    という三者三様の最悪な責任転嫁が発生します。もちろんその原因はその三者ではなく、無理な選手起用を要求したアンタッチャブルな存在です。得てして、そういう不可侵な人ほど、自分の思い通りにいかないことに納得がいかず、さらに介入して悪影響を及ぼし結果がどんどん悪くなる、という悪循環を招くことは容易に想像できるでしょう。

     ただ、こういうアンタッチャブルな立場の人は、それなりに自分の理想があってその理想を実現するためには手段を選ばず、そしてお金も費やすことも多々ありますから、チーム成績がどうしようもなくなるほど悪くはなりません。かといって良い結果にも結びつきませんから、良くも悪くも中途半端な成績になります。壊滅的な成績になれば、いろいろと批判も立つし、悪しき介入自体にも目が向けられるかも知れませんから、かえってチームがまとまる可能性がありますが、中途半端な状態が続いたらずっと介入は続くでしょう。残念ながら、アンタッチャブルな存在自体がいなくならない限り、多分ずっとそのままです。

     さらに大きな問題としては、そういったアンタッチャブルな存在がいなくなったら、そもそもそのチーム自体の存続が危ぶまれるようなことになりがちなことです。だからこそ、でかい口を叩いて介入できるというわけですが。

     そういったチームがスムーズに健全化したケースってあるんでしょうか。いったん潰れかかってほとんど別組織として生まれ変わらない限りは無理なんじゃないですかね。

     最後に、大事なことなのでもう一度書きます。

    ※特定の組織・団体・チームを批判する内容ではありません※

  • ちびた石鹸問題

     石鹸は使うと小さくなります。石鹸が発明されてからの有史以来、不変の原理です。新しい石鹸を開封して使えばいい話しなのですが、古い方、小さくなってしまった石鹸をどうするか。

     古い石鹸を新しい石鹸にくっつけて、一緒に使っていけばそのうち古い方の石鹸は先に無くなります。しかしこの方法の欠点として、
    ・石鹸と石鹸は簡単にはくっつかない。くっついてもすぐに外れる。
    ・どんどん小さくなると、外れたときに風呂場の床に落ちたりする。
    ・二つの石鹸が中途半端にくっついた状態で使うのが面倒。
    といった問題があります。

     そもそも、石鹸は四角く作ってあっても使っていくうちに角が取れて丸くなっていきます。小さくなった丸い石鹸と、新しい石鹸をくっつけて使うのが難しいです。

     それなら、そもそも石鹸を作るときに一部分をへこませて、古い石鹸をへこんだ部分に入れて使うようにすればいいんじゃないでしょうか?

     手始めに特許庁の実用新案のページで検索してみました。
    上手くリンクを貼れなかったのですが、
    特開2011-132318
    【発明の名称】小さくなった石鹸と新しい石鹸を合体させる石鹸
    というのが見つかりました。

     ただ、私が想像しているものとは少し違います。初めから大きくへこんだ部分を設けた形を考えています。

     我ながら驚くほど酷いイラストですがそれはさておいて、上の方が斜め上から見た図で、下の方は断面図です。

     使い続けて小さくなった石鹸を、新しい石鹸のへこんだ部分に装着するだけ、であれば製法としては特に難しいものでは無いと思いますが、現時点で世間に流通していない以上、この考えには何らかの問題点があるのかも知れません。
     思いつく理由としては、

    ・既に過去に作られたが大して売れなかった。
    ・実は製法が大変でコストがかかる。
    ・そもそもニーズがない。

     こんなところでしょうか?

     一般的な石鹸の形状とは異なりますので当然その製法によるコスト増はあるでしょうけど、50%増しくらいの金額なら個人的には買いたいです。どこかの企業で作ってくれませんかね。別にアイデア料とか主張しませんから。

  • 「日本的な」サッカーとは何か

     先日のアジアカップラウンド16でのサウジアラビア戦における日本代表の戦い方については、絶賛する人はまあいないでしょう。消極的に評価する人がいる一方で、非難する向きも結構あるようです。

    「新しいファンを獲得するスタイルでない」 英記者が森保Jの“非日本的”戦術を疑問視

     今大会のサウジアラビアはボール保持率が高い一方で攻めきれない弱点があり、かつ高さが無いためセットプレーに難があるという特徴がありました。森保監督はまさにその相手の長所と短所を見極めた上での戦い方を選択して、特に後半は早い段階で明確に守り勝つコンセプトをチームに指示したように思えます。個人的にはこれはこれでアリだと思いますし、そもそもアジアカップは理想の戦い方を実験する場所では無いと思っています。ただ、毎試合このサッカーだと選手の疲労度が半端ないですし、そもそも韓国・イランあたりには通用しないと思います。

     対するサウジアラビアは一時期の低迷を脱したかのようで、17年のW杯最終予選では、日本にとっては消化試合ながらホームで完勝して出場権を獲得しました。本大会でも94年大会以来の勝利を収めています。その時の監督を変えずにこのアジアカップに臨んでいますので、この大会に賭けていることは間違いないです。

     一方、日本はW杯後に西野監督から森保監督に交代して、A代表はこれまでテストマッチのみですので、監督・チームとしての成熟度はサウジに一日の長があります。そもそも過去のアジアサッカーの歴史から言って、サウジアラビアは日本から見て格下の存在でもありません。

     試合展開としては、前半最初は攻められるもののしのいだところであっさりとCKから先制できたので、日本としては別に無理をして攻撃的なサッカーを展開する必要が無くなりました。0-0のままだったり、あるいは失点するなりすればまた違ったでしょうけど、試合中にスタイルを変更する必要が無かったので守り続けた、という感じに思えます。もちろん、カウンターで追加点を取れれば良かったのですが、たらればの話しをし始めたらサウジの方が後悔は深いでしょう。

     アジアカップでのサウジアラビア戦では、2000年レバノン大会決勝でも望月のゴールで1-0で勝ったときも攻められっぱなしでした。あるいは1996年アトランタ五輪アジア最終予選準決勝でも2-1で勝ちましたがものすごい攻勢をしのぎきりました。

     「中東のチームとの対戦」イコール「日本が攻めて相手がカウンター」という図式を頭から外して観戦するべきだと思います。そもそもイランやイラクは伝統的に守備より攻撃のチームですし。

     最初の問題に戻りますが、そもそも「日本的な」サッカーというのはどんなサッカーでしょうか。ショートパスをつないでドリブルも織り交ぜてポゼッション率が高くシュートもガンガン放ち得点を取りまくり、かといって重厚な守備によって軽率な失点をしないようなサッカーでしょうか。それは理想であって目標では無いような気がします。ポゼッション率が高いサッカーが本当に日本的なのか。攻撃重視のサッカーが日本的なのか。

     南アW杯での岡田監督による大会直前での方針変更でのサッカーは日本的ではなかったのか。ロシアW杯での大会直前での監督交代による西野監督のサッカーは日本的だったのか。何が日本的なサッカーなのか、選手・指導者・ファン・その他関係者の間でコンセンサスがあるのでしょうか。そのコンセンサスがあったとして、そのサッカーは本当に日本に向いているのでしょうか。チーム一丸となって長い時間我慢強く「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」のは日本的ではないのでしょうか。あるいは守りを捨てて「特攻」するのが日本的なのでしょうか。どちらも極端な話になってしまいますが、果たして本当に「日本的な」サッカーとは何でしょうか。

     日本サッカーのバルサ化を唱える人は山ほどいます。日本サッカーのメキシコ代表化を主張する人も根強いです。どちらも身長が高くないのに確立してあるサッカーに憧れているのだと思いますが、日本人とスペイン人、日本人とメキシコ人の間の共通点ってむしろ身長が高くないことぐらいなんじゃないでしょうか。テクニックや筋肉の質やスピードやメンタルやいろいろな面が違っているのなら、バルサ化もメキシコ代表化も無理でしょう。

     イビチャ・オシムが「日本サッカーの日本化」を唱えて日本代表監督になってから12年以上経ちますが、本当に日本化されてきているのでしょうか。未だに、各自が自分の好みのサッカーを主張しているだけのような気がしてなりません。

  • 環境破壊による「地球温暖化」ではなく「気候変動の極端化」と主張すべき

     地球温暖化が進んでいる!、という主張が出ると、「そうだそうだ」という人と、「いや、温暖化は進んでいない。逆に小氷河期が来る」という人が出てきます。

     どっちが正しいのか一般人にはわかりません。科学的な専門性の高い議論になるとお手上げですし、そもそもどちら側も結論ありきで話し始めるのであれば議論など成り立つはずもありません。

     そもそもの「地球温暖化」という問題提起のやり方自体が問題だったというか、言葉尻を捉えられやすい考え方だったのではないか、という気がします。
    「温暖化」というからには不可逆的に気温上昇傾向がある、と見なされてしまう危険性があります。もちろん、実際にはひたすら右肩上がりで気温が毎年上がっていくというのはまずありえない話で、暑い年もあれば寒い年もあるけれど、長期間を見たら傾向としては暑くなってきている、というのが本来の「地球温暖化」という問題提起です。

     しかし、少しでも前年より寒い年に出くわすと、
    「なんだ、今年は去年より寒くなっているじゃないか。『地球温暖化』なんて嘘なんじゃないか」
    という感覚を、無意識あるいは確信犯的に覚えてしまう可能性があります。

    「地球温暖化」の危険性を説くのではなく、「気候変動の極端化」として主張していれば、気温上昇だけではなく、寒冷化や豪雨、旱魃といったあらゆる気象災害に適用できたはずです。

     もちろん、初めの頃に地球温暖化の問題点を指摘した人たちにしてみれば、手っ取り早く、かつ問題意識を人類に持ってもらうために行ったわけですし、彼らを批判するつもりはありません。ただ、原発問題も同じですが、人は自分が信じたいことを信じる生き物ですから、信じたくないことは信じません。地球温暖化を防ぐために必要な生活上・経済上の不便さを許容できない人は、地球温暖化自体を否定するという行動に出ます。その否定の根拠として、少しでも気温が下がれば、
    「そら見たことか、地球温暖化なんかなってないじゃないか」
    という論理展開が行われることになります。

     そうではなくて、気候変動が極端になっている、ということにしておけば、近年のゲリラ豪雨とか、アメリカ西海岸の山火事被害とかにも同一の論理展開が出来て、地球環境保護活動自体への反対ももっと少なかったのではないかなあ、と今更ながらに思います。今更思ってもしょうがないのかもしれませんが、これからでも変更できることだとは思います。環境保護に携わっている人にはご検討頂けますと幸いです。

  • プーチン大統領の権力基盤はそれほどでもない?

     北方領土に関して、ロシア国内の保守的愛国者によるデモが行われたそうです。
    https://www.sankei.com/politics/news/190120/plt1901200011-n1.html

     現在、日露両政府による外交交渉が、北方領土(ロシア側の言う「クリル諸島」)の引き渡し交渉ではないか、ロシアの領土を日本に割譲するなんてもってのほかだ、という主張を行うためのデモだそうです。
    ただ、そもそもロシア政府は上はプーチン大統領から首相も外相も含めて誰一人、北方四島の全部ないし一部の返還について日本政府と交渉中である、なんてことは言っていないわけなんですが、何でこんなデモがロシアで起きているんでしょう?

     日本側が戦後からずっと北方領土の返還を要求していて、1956年の日露共同宣言における「平和条約締結時に歯舞・色丹の2島を変換する」という話も、デモ参加者は知っていることとは思いますが、しかしそうは言っても、絶対的な独裁者であるはずのプーチン大統領が何も言っていないのにデモ活動が行われる、ということに疑問というか違和感を覚えます。

     なぜデモが行われたか、という点についてうがった見方をすると、領土問題がある国と交渉をすること自体を問題視しているのかも知れません。
    ウクライナ政府とはクリミア半島やウクライナ東部の問題をめぐってはそもそも平和的なやりとりなんか行っていませんし、ロシア内のチェチェン共和国においても同様です。

     そんな「強い」はずのロシアがなぜ、第二次世界大戦の敗戦国である日本と外交交渉を行うのか、という怒りによるデモなのか。ここには、日本の背後にアメリカがいる、北方領土を返すとそこに米軍基地が作られてしまう、という恐怖もあるのかも知れません。たとえ2島でも返還してしまうと、そこを通ってオホーツク海に米軍の軍艦が入ることを防げませんから。今はクリル諸島、間宮海峡、宗谷海峡で防げます。

     あるいは、ロシア国内における愛国主義者、ナショナリスト、国粋主義者などが増えているのかも知れません。こういった人たちが増える原因は、一般的には外国からの圧力に対抗するためだとか、経済的な苦境を外圧によるものだと政府批判から目を背けさせるため、といったことが考えられます。ウクライナ問題からアメリカやEUによる経済制裁がロシア経済の不安定化を招いているのは事実でしょうけど、そもそも資源に頼りすぎている点や政商優遇なども理由にあるはずですが、それを打開するには外資導入しかないわけで、しかし経済制裁のためにそれはできないし、そもそも外資を大幅に入れると独裁政権自体が不安定化しますから。

     さらにうがった見方をすれば、現政府に対する不満を表明する方法として、愛国的主張を行うデモなら取り締まられることはないはずだ、という理屈によるのかも知れません。

     かつて中国で起きた反日デモでは当局にコントロールされている部分はあったにしても、政府に抑圧されているという日常的な不満のはけ口として、「愛国無罪」という免罪符がある反日デモで暴れたという側面があったはずです。

     それと同じように、プーチン政権に対する直接的な批判を行うと大変なことになりますから、その代わりとして、ロシアそのものを大事にしていますよ、ロシアが大好きですよ、ということを前面に押し出せる「領土返還反対」デモなのかも知れないのではないでしょうか。

     さらにさらに、無理矢理な見方ですが、実は水面下で実際に返還交渉が結構進んでいて、それをキャッチした政府内の非主流派が主流派を潰すために、民間レベルにちょっとリークして領土返還自体を潰そうとしているとか。これはあまりに突飛な発想ですかね。

     なんにせよ、ロシア国内におけるプーチン体制というのは国外から想像しているほど、上意下達、一枚岩ではなく、民衆レベルで逼塞しているわけではなさそうです。