平繁無忙の何でも書くブログ

  • 富裕層への課税による貧困解決の困難さ

     少し前の話ですが、AFP通信のホームページにこんな記事が上がっていました。

    世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占

    「世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っている」
    という読んだだけで溜息が出てしまうようなニュースです。ある意味残念なニュースではありますが、自分が溜息が出るだけで済ませてしまうのは、自分自身の富が世界人口のうちの所得の「高い」半数に含まれていると確信できるからかも知れません。私だけではなく、おそらくほぼ全ての日本人が、世界人口の半分より上に位置するはずです。個人レベルでは日本国内において貧困層に属していても、日本円のレートと社会保障サービスにより、世界レベルでの貧困層に比べればマシな生活を送ることは十分可能です。

     上記の記事の重要な問題点は、この世界レベルでの貧富の格差が年々広がり続けていて、世界人口の所得の低い半分の資産総額が1年で11%も下がったことです。富裕層が自らの富を運用して利益を上げるのはしょうがないというか、多分誰だって富を減らすよりは増やす方を望むでしょうからしょうがない話ですが、富裕層が富を増やすのが世界全体の富が増えた結果ではなく、おそらくそれだけではなくて恵まれない半分からもさらに富を合法的(もしくは非合法的に)奪っているということになります。

     エントロピーが増大するように、貧富の格差は意図的に修正しない限りはひたすら広がり続けます。富が富を生むことの容易さに比べると、富を持たない人が富を持つようになるのは非常に難しいです。ビジネスの世界、アイデアに関する話題では、1を100にするよりも0から1を生み出す方が難しいと言われますが、別にビジネス上のアイデアだけの話ではなくて、貧困解決が難題であることも同じです。

     記事の中で、報告書をまとめた国際NGO「Oxfam」は富裕層や大企業への課税による貧困解決を求めていますが、
    「それができるならもうやってるだろ」
    と言いたくなります。

     超富裕層の誰もが、ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツのように富裕層への特別な課税を認めてくれる訳ではありません。むしろ、課税逃れにお金を使ってスペシャルなプロフェッショナルの助言でさらに富を保ち続けます。ほとんどの富裕層は自身が経営者として収入を増やすだけではなく、既に所有する富を資産運用して増やすことによって、さらに富を加速的に増やし続けます。その上で、パナマ文書などで暴かれたように各国政府によって課税される税金を低く抑える、もしくは課税自体が無いようにすることにより、資産を増やし続けます。

     個人的には死ぬまで遊んで暮らせるだけの財産を何千人分や何万人分も持っているのにそれ以上に増やしてどうするのだろう、その富を維持するために合法と非合法の境目を行き来したり、屈強なボディーガードを何人も雇ったり、最新鋭のものすごいセキュリティシステムを導入したりして神経をすり減らすよりは、ほどほどのところで抑えていた方が楽しい人生になるんじゃ無いのかと思いますが、これは持たざるものの妬みなんでしょうかね。

     しかし、貧富の格差が増大し続けると、社会は不安定化します。貧困層にとってはとんでもないことをやらかしても失うものが無い一方、富裕層はとんでもないことにおびえ続けて富を維持するための防御費用を稼ごうとさらに稼ぐスピードを上げます。そしてさらに貧富が拡大するという悪循環のなれの果ては富裕層の街と貧困層のスラムという二分化です。街レベルで分化しているならまだましで、貧困層がテロリズムを容認するようになるとさらに社会は不安定化します。

     逆に言うと、スーパーリッチへの課税を強めれば、テロリストを減らせるはずです。もちろん、これだって
    「それができるならもうやってるだろ」
    という話ですが、富裕層に対して課税することが社会を安定化させて、あなたたちの資産も脅かされないことになるんですよ、と納税のメリットを説くしかありません。

     ただし、これは富裕層に課税する国家・政府が信用されていないとダメです。言い方を変えると、その課税による税収をしっかり貧困問題解決に費やさないと課税の理屈が通りません。税収不足の足しにしたり、中間層からの支持を集めるために使ったりしては貧困解決にならないし、富裕層はますます課税逃れに励むようになるでしょう。

     いわば、富裕層→政府→貧困層のお金の流れで、政府による中抜きを防止する必要があります。

     富裕層が直接貧困層にお金をばらまいてもいいですが、実際にばらまくわけにはいきません。その寄付を貧しい人達一人一人に渡すためには様々な組織や人間を介する必要がありますし、結局はそこで中抜きされるリスクが出てきます。

     なんとも世知辛い話ではありますが、中抜きしそうにない善良な人々に任せればいいのだ、という理屈は通用しません。それだって
    「それができるならもうやってるだろ」
    ってことです。中抜きしない善良な人々というのは、非常に残念ながらそんなに世の中にはいません。そもそも中抜きの定義にもよります。

     例えば1人のスーパーリッチが100億ドルをどこかの国の貧しい人達に寄付します、と言いだしたとして、貧しい人達の手元に食料や衣料品や住居や教育施設などで還元するまでの中間には、資金の送付手数料、品物の購入費用、輸送に次ぐ輸送の送料、現地での建設資材費、それらに必要な人件費などが存在します。スーパーリッチの手を離れた時は100億ドルだったのに、現地の貧困層に渡った時には50億ドルになっていたとしたら、50億ドルも中抜きされたことになるのでしょうか。それともこれは必要な経費でしょうか。50億ドル分の中間層(あるいは別の富裕層)への富の分配が行われたと見なすべきでしょうか。そして、50億ドル中抜きされるとしても100億ドル寄付すると言い出すスーパーリッチは存在してくれるのでしょうか。そしてその中抜きを、社会は許容出来るでしょうか。

     貧困問題の解決策として富裕層への累進課税を持ち出すのは簡単ですが、富裕層はホイホイと納税してくれるわけはありませんし、その税収が適切かつ迅速に貧困そうに渡るとも限りません。望むらくは、富裕層自身が自身の防衛と社会の安定のために納税や寄付をするという奇特な行いが、オーソドックスな行為にまでなってくれることを。

  • 商店街VS大規模小売店という偏見

    「地域に根ざして細々と経営してきた小さな店舗が集まっている商店街を、都会からやってきた人情味のかけらもなく、気が弱い人達を札束でビンタするような大企業が運営する大規模小売店が、金と権力でねじ伏せてぶっ潰してしまう」、という分かりやすい構図は、分かりやすすぎるが故に一層注意して批判的に見なければなりません。

     光文社新書に
    「商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道」新雅史/著
    という本があります。

     そもそもの商店街の成り立ちから一般的なイメージを覆す良書です。元々その地域で商店を営んでいたところに百貨店が出来た、という流れではなく、交通至便なところに百貨店が出来て、その周辺に百貨店に来る客目当ての商店街が発生した、という歴史を語っています。映画「三丁目の夕日」のような商店街は、昔からあったのではなくその当時に出来て間もなかったはず、ということです。
     こういった目から鱗的な見方は面白いですが、なかなか社会的なコンセンサスは得られません。時間をかけて認識が広がっていくか、もしくは前々広がらないかどちらかでしょう。

     そしてその次には、「大規模小売店の代表格であるイオンが商店街を潰して君臨していたはずなのに、地域のことなど知らない都会の本社が経営上の都合で勝手に撤退することによって、その地域のお年寄りなど買い物弱者が買い物難民になって苦しめられることになる・・・」という構図が安易に作られます。
     もちろんそういうケースもあるにはあるでしょうが、地域毎店舗毎によって状況は異なるはずです。上記の構図を方程式のように全国一律で地方経済に当てはめると実態から離れた見方が量産されてしまいます。

    「商店街を潰したイオンが撤退で買い物難民」は全てが真逆だった!?――「イオン撤退でも買い物難民ゼロ」の理由とは(HARBOR BUSINESS Online)

     こちらの記事では、そのような画一的でそれこそ「都会的」なマスメディアの報道ではなく、実際に街を歩いて住民に取材をして状況を確認し、イオンが駆逐されたのはさらに便利な(そして安価な)大小の小売店舗がイオン周辺に出来たからだ、という見立てを述べています。これこそ報道としてあるべき姿でしょう。
     安易な構図というのは人々にとって理解しやすく、そして人々の良心に訴えやすい為に人々が信じてしまいがちになります。こういった無条件で前提化した見方というのは覆すのは難しいです。覆せるとすれば、それは知識や教養の多寡によるものではありません。疑いの目と事実を確認するプロセスを大事にしておくことが肝要だと思います。肩書きやネームバリューに覆われたベールを取り去って、自分の信じているものを一度疑って見直すことが出来るのか、それがファクトチェックと言うべきものでしょう。フェイクニュースに対するものだけがファクトチェックではないのです。

  • 2019年J1リーグ開幕戦:ガンバ大阪対横浜F・マリノス観戦記

     パナソニックスタジアム吹田の周辺は2月らしく空気が冷たく、風も強かったですが空は晴れていて、冬よりは初春の感じの方が強いくらいでした。
     2019年、J1リーグ第1節、ガンバ大阪の初戦はホームに横浜F・マリノスを迎えて始まりました。

     スタメンでの驚きはボランチの一角に今野泰幸ではなく高宇洋を起用したことです。練習試合では遠藤と矢島でのダブルボランチを試したりしていましたが、いい結果が出なかったこともあり、昨年後半の9連勝の原動力となった遠藤今野のいつものコンビに戻すのかと思っていましたが、遠藤・高の組合せで初戦に臨むことになりました。
     それ以外は、ファビオの代わりにキム・ヨングォンを起用したくらいで驚きのないメンバーでした。

     キックオフ直後、相手のバックパスを拾ったファン・ウィジョがすかさずシュート、ポストに当たったこぼれ球を小野瀬が決めていきなり試合が動きます。
     ガンバに取ってみれば望外の先制点を開始直後に得られましたが、その直後に失点してしまいます。マリノスの得点はオフサイドのはずでしたが判定はゴールでした。しょうがないと言えばしょうがないですし、VARが無い以上はどうしようもありません。そもそも昨年のマリノス戦での決勝点はガンバのオフサイドが見逃されてのものでしたし・・・。

     その後はパスをつないで攻めるマリノスと、守る時間が長いものの効果的に攻めるガンバという、昨秋のゲームと同じような展開になりましたが、ガンバは東口のファインセーブにより守り抜きます。
     ガンバペースで勝ち越し点を奪えそうにもなりましたが決めきれず、そうこうするうちに34分、マリノスの三好が素晴らしいミドルシュートを決めました。この失点自体は自陣深い位置からこぼれ球を高宇洋がクリアを中央にしてしまい、拾った三好が低く抑えたシュートを放った展開でした。高には失点の責任がないわけではありませんが、この失点の少し前くらいからガンバは攻守に緊張感が無いようなミスが続いてボールを何度も失っていましたから、ゴラッソでなくても失点は時間の問題だったでしょう。
     ガンバにとって本当に痛かったのはこの後です。38分に中央で狭い地域をパスで攻め崩されてエジガル・ジュニオにゴールを決められて1−3と突き放されました。ガンバは前半を通じて中央、特に中央左よりの3失点目に突破されたエリアを何度も崩されていましたが、どうしてもその辺は今野と高の違いを意識せざるを得ないような前半でした。

     後半、両チームともに選手交代は無く、マリノスは前半よりも後ろに重心を置いたように慎重にガンバに相対しました。そしてそのマリノスをガンバは攻めきれず、逆にたびたび危険なシーンを作られましたが東口を中心に4失点目は許さないまま時間が経過していきました。ガンバは高に代えて田中達也、小野瀬に代えて渡邊千真を入れるものの得点は奪えず、遠藤が矢島慎也に代わってからの88分にようやく2点目を取りました。田中の右からのクロスをDFとGKがかぶった後ろに流れたボールを藤春が冷静に押し込み1点差にすがります。
     しかしその後、コーナーキックで東口が上がるもののそのまま試合終了。ガンバにとってはまた今年も開幕戦は勝利できませんでした。

     試合自体は勝ち負けはつきものですからしょうがないものの、1点差の試合結果以上にサッカーの内容には両チーム間で大きな差がありました。
     マリノスは攻守に洗練されていて、スペースの使い方やボールの回し方についてガンバとはかなりの差がありました。守備でもハイラインを後半途中までハイラインを保ち続け、ガンバのFW陣を無力化していました。この辺はポステコグルー体制を昨年の残留争いの中でも継続したことが生かされているのだと思います。また、ショートパスだけに頼るのではなく、昨年に比べるとアーリークロスなど縦に速い展開も増えたように思えます。
     一方ガンバの方は攻撃も守備も個の力に頼りすぎかな、という気がします。マリノスに比べると属人的と言えるでしょうか。新加入のキム・ヨングォンと三浦弦太、東口の3人ともアジアカップメンバーだったため、キャンプに遅れて合流しましたからまだ連携が取れていないのかも知れません。昨年までの三浦・ファビオ・東口の3人は2016年からほぼずっとレギュラーでしたから、やりづらいというよりはまだ慣れていないといってもおかしくありません。それに加えて今野ではなく高がボランチでしたから、中盤及び中央の守備にほころびが出るのはある程度予測はつくはずでした。
     肝心のボランチですが、試合後の宮本監督のコメントによると、
    https://www.jleague.jp/match/j1/2019/022307/live/#coach
    まだ今野のコンディションが100%ではなかったため、高を起用したということでした。しかしこの試合を見る限り、高が下がった後にボランチに入った倉田の方がマシだったと言えるのではないでしょうか。そもそも倉田はレンタル先の千葉でアタッカーにコンバートされるまではアカデミーからずっとボランチでしたし。
     今野がいないところに別の選手をただ当てはめても機能しないことは昨年の時点で分かっていたはずでした。だからこそ守れるボランチをこの冬に補強するのかと思っていましたが、ボランチは矢島をレンタルバックしただけで陣容は変わりませんでした。この後も補強無しで行くのであれば、今野がいない場合のフォーメーションや戦術を練り直す必要があるでしょう。今野の代わりは今野しかいないことは、昨年の9連勝を見れば明らかだと思います。

     試合そのものの感想としては以上ですが、一つ言及せざるを得ない点があります。天候が良く、土曜日で、アウェイ客の多い横浜F・マリノスを相手にした開幕戦なのに、パナソニックスタジアム吹田の入場者数は27,064人でした。キャパシティの68%ほどです。動員策に失敗したのか、昨年の低迷が尾を引いているのか、さらに別の理由があるのか分かりませんが、この観客数には経営陣は危機感を覚えなければ嘘でしょう。
     選手や監督による試合でのミスは次の試合で適切に頑張れば取り戻せます。強化部の補強におけるミスは夏の移籍期間で補うことも可能です。しかし、経営で失敗を犯してしまうとリカバリーするには数年間を要します。この後のガンバは、今シーズンどうこうの問題ではなく、これからの数シーズン(あるいは十数シーズン)を占う経営上の問題解決状況に注目せざるを得ないでしょう。

  • 2019年J1リーグ開幕戦:セレッソ大阪対ヴィッセル神戸戦の感想

     2019年2月22日に行われた、セレッソ大阪対ヴィッセル神戸の開幕戦はボールをキープして慎重に攻める神戸と、カウンターアタックとセットプレーで得点を目指すセレッソという、サッカーの世界では非常によくある典型的な構図で行われました。
     実際の詳細な内容については私自身は丁寧に分析する能力はありませんので書きません。また、セレッソが勝ったからといってじゃあこれで今年の神戸がダメか、セレッソはバラ色かと言えばそういうわけではないでしょう。
     ただ、セレッソとしては新監督での初戦としては上々のできだったのではないでしょうか。特に後半途中に札幌から獲得した都倉を投入してから前線が活発化し、神戸ディフェンスが崩れはじめたところでのコーナーキックから先制できましたので、ボールキープされることも含めて、試合前にロティーナ監督が描いていたゲームプランとかなり近かったのではないかと思います。
     一方、ヴィッセルとしては残念な開幕戦となりました。フライデーJリーグの開幕戦としてかなりメディアの注目度が高かったのに、というのもありますが、そもそもJリーグ運営側がビジャ・イニエスタ・ポドルスキーの3名を抱える神戸にメディアの注目を集めてやろう、という意思が見え見えのマッチメイキングでしたので、神戸側が望んでいた形の開幕戦だったかどうかは分かりません。
     しかし、結果はともかく神戸の初戦を観る限りの問題点は明らかです。ボールポゼッション率を高めて試合を有利に運ぶ、という理屈は理解出来ますしかなり実行できていますが、最終的に誰が得点するのかがはっきり役割分担できていないところがあります。
     FCバルセロナのティキタカを目指すヴィッセル神戸ということで、一昨年にポドルスキー、昨年にイニエスタとリージョ監督、そして今期からビジャを加入させました。しかし、神戸はなぜ決定的なストライカーを前線に配置しないのでしょうか。憧れのバルサにはメッシという不世出のフォワードがいます。どんなにボールをつないでも点をきっちり取ってくれるフォワードがいないと、セレッソ戦のようにいつかどこかでやられます。

     また、FWだけでも解決できないかも知れません。バルセロナのティキタカとは異なるかも知れませんが、風間八宏監督の理想もショートパスを丹念につないでゴールを目指す形ですが、川崎フロンターレでは大久保嘉人が、そして今の名古屋グランパスでは元セレソンのジョーがいるにもかかわらず、川崎時代は優勝できず(その後の鬼木監督が2連覇!)、名古屋では残留争いに苦しみました。ショートパスによるポゼッションサッカーに絶対的なフォワードがいても理想的な結果につながるとは限りません。今のヴィッセル神戸は理想から2段階低い状態なのかも知れないのです。

     さらにいうと、ポゼッションを高めることと守備の手当てをしないのとは違います。堅い守備が無ければ、ボールを失うのが怖くなり、さらにシュートを打たなくなってしまいます。前線や中盤に華々しい世界的知名度を持つ選手を獲得するのも一つの在り方ですが、ガッチリ守れて、中盤や前線にいいパスを供給できて、セットプレーから得点できる理想的なセンターバックを獲得する方が先ではないでしょうか?
     先のアジアカップで吉田と冨安が日本代表のセンターバックコンビを組みましたが、日本人で優れたセンターバックはそう多くはありません。Jリーグでいうと浦和の槙野やガンバの三浦、FC東京の森重などでしょうか。どこも神戸に移籍させることはないでしょうから、神戸はこのポジションにこそお金をかけて外国人選手(欧州にこだわることなく)を手当するべきでしょう。

  • 気軽な社会貢献(ポイント寄付と献血について)

     社会貢献と言われると気持ち的にハードルが高く感じられがちです。かなり意気込んでいないと出来ないようでもあるし、大したことではない助けなんか社会貢献というほどではないと構えてしまうこともあると思います。
     町中・駅前などで行われている街頭募金ですとか、日本テレビ系列で毎年8月に行われる24時間テレビでの募金に例え少額でも寄付するのであればそれも社会貢献の一つです。お金を募金するのは・・・とためらったり、募金箱に入れるのが抵抗がある、という人には、貯まった各種ポイントを災害支援や慈善事業などに寄付するサービスもあります。

     私が過去に利用したことがあるポイント寄付サービスは以下の2つです。

    Yahoo!ネット募金
    ponta環境社会貢献コース

     これらは常時、いくつもの社会貢献活動にポイントを利用することが出来ます。どちらも1ポイントから、1ポイント単位で寄付することが出来ますから、貯まったそばからどんどん寄付することも出来ますし、ある程度貯めてからまとめて寄付することも可能です。
     どの他にも、楽天のポイントやドコモのポイントなども大規模災害が起きたときに支援活動として寄付が出来るようになることがあるようです。
     こういった、言い方は悪いですが身銭を切らない寄付・社会貢献活動も手軽に出来るようになっていますので、気が向いたときに考えてみてはいかがでしょうか?

     もう一つ、私自身が行っている社会貢献としては、献血があります。

    日本赤十字社|献血する

     献血がどのように行われるのか、献血不可能な人はどのような人かなど、詳細が書かれてありますので、興味を抱いた方は上記リンクをお読みください。
     献血できる場所として、常設では各地の赤十字病院や血液センターの他に、大手商業施設や公共施設に献血ルームが設置されています。そういった場所が近くにない、なかなか行く機会がない場合は、献血バスが来ている場所に行く、という方法もあります。これも上記リンクから都道府県毎に献血バスが利用出来るスケジュールを確認出来ます。大半の人にとって常設の献血ルームよりも近所で献血できる可能性は高いと思います。
     献血ルーム・献血バスやキャンペーンによって、献血時にもらえる・利用出来るサービスは異なりますが、それ以外にも簡単な血液検査もしてもらえます。肝機能や赤血球などの数値も無料で測定してもらって、結果はハガキで郵送されますし、メールアドレスを登録すればウェブ上でも献血後数日で確認出来ます。社会貢献と身構えるよりも、無料で血液検査してもらえるサービスを利用するんだ、くらいの気持ちでもいいかもしれません。

    ※もちろん、上記リンクにもあるように、献血する側にもリスクはあります。リスクを理解・覚悟した上で献血をするようにしてください※

     水泳の池江璃花子選手が白血病を患っていることを発表した後、骨髄バンクへの問い合わせや登録が急増したそうですが、骨髄移植そのものは提供者側も入院や後遺症のことを考えるとかなり大変です。ドナーとして型が合致してもいざ手術まではいけない人もいるそうです。辞退してしまうのはしょうがないと思いますが、それ以外にも手助けする道はあります。白血病治療に限らず、それこそ病気に限らず、手術には輸血が必要な場面が数多くあります。骨髄移植は出来なくても、骨髄バンクに登録しなくても、献血の形で社会に貢献できる道があるということも知ってほしいです。

     とりあえず今回は二つの社会貢献活動を取り上げましたが、世の中には無数の社会貢献が存在しますから、出来る人が無理せず気負わず自分なりに自分らしくやっていけば、少しずつ世の中が良くなっていくと思います。

  • チケットの転売対策は徹底したデジタル化しかない

     歌手のライブやスポーツイベントなどのチケット転売問題について色んな人が色んな意見を言われていますが、個人的には防ぐ仕組みを構築しない限りは防げないと思います。言い換えると、転売可能なチケットを売っている限りは転売されてしまうのはしょうがないです。チケットを買い占めて高額で転売する行為に関しては、そもそも昔からダフ屋という形態で存在していました。興行主や警察はもちろんダフ屋の存在を公的には認めないながらも、しぶしぶというか存在自体を完全に抹殺するところまでは求めていませんでした。ある程度はダフ屋による二次的販売行為によって、空席が埋められるというメリットが興行主にはあったからです。ダフ屋も当然リスクがありますし、実際に会場周辺で警察による摘発に注意しながら買取と売却を行っていましたから、それほど効率がいいボロ儲け手段とまではいかないものでした。
     しかし、このIT技術・インターネットが発展した現代社会においては、転売行為者にとってはチケットの入手と転売の手間暇が激減した上に、摘発されるリスクもかなり減ったために、高額転売行為が非常に容易に行えるようになりました。その結果、昔に比べるとダフ屋行為が激増して今のような社会問題化したという流れがあります。
     この、「テクノロジーの進化」によってチケット転売問題が生じたわけですが、この問題を解消するには同じく「テクノロジーの進化」によるしかありません。

     話しは少し飛びますが、例えば新幹線の指定席券を転売することは非常に簡単です。チケット自体には購入者の氏名が書かれているわけではありませんし、ICチップもQRコードもありません。しかし利益目的で新幹線のチケットを高額で転売している人はいません。何故でしょうか? 新幹線自体の本数が非常に多く、需要に比べて供給が少ないわけではないですから、わざわざ値段が高く設定された切符を買う必要がないからです。しかも、購入時期によって大きく値段が変わるわけではありません(お得な切符は存在しますが割引率は大して高くありません)。最悪、自由席券を購入して立って移動することも出来ます。
     また、一方で飛行機の座席指定済みチケットを転売する人もいません。当たり前の話しですが、飛行機のチケットを発券する際には必ず氏名が記載されます。逆に言うと、新幹線のような発券の仕方で飛行機のチケットを運行会社が販売していたら、誰だって搭乗日よりもはるか前に安い値段で購入して、直前に高値で売却しようと考えるでしょう。それが出来ないのは、チケットを使用する人を確定させて販売しているから転売出来ないのです。

     つまり、高額転売を防ぐには二つの方法があります。一つは新幹線的に、供給を増やす(さらには自由席もある)状態にすること。もう一つは、そもそも転売出来ない形で一個人に特定して販売すること。転売可能なチケットを転売することを完全に禁止するのは、自由資本主義の観点から見ると相当問題があります。高額で転売出来るということは、そもそも元のチケットの販売価格が低すぎるために、市場で均衡が取れていないということですから。
     方法が二つあるといっても、ライブやスポーツイベントでチケットの供給自体を大幅に増やすというのは現実的ではありません。会場のキャパシティや出演者・選手の体力の問題とかありますから、売れているから開催回数をそのまま増やすという解決策は採りづらいです。となると、そもそも転売出来ない形での発券ということになります。ここで、最初に出てきた「テクノロジーの進化」が必要です。
     進化といっても特に大した話ではなく、発券時に個人を特定する形で発券すればいいだけですから、チケット発行時に個人情報・支払方法で制限をかけることで対処できます。もう既に行われていることではありますが、この方法を徹底して発展させるしかありません。ネット障害・停電などでデジタルチケットの確認が出来ない恐れがあるという弱点は存在しますが、事前に印刷したQRコードを、会場出入り口のバッテリー駆動できる端末で読み込んで確認(事前にデータをローカルで保持しておく)という対策はそれほど困難ではないと思います。デジタルチケットであれば、同額やダウングレードでの席変更や、キャンセル分の主催者側でのリセールも容易でしょう。
     転売対策だけではなく、主催者にも客側にもメリットがある形での販売方法の変更であれば、どちらも納得出来るのではないでしょうか。

  • 一枚岩は弱さの象徴である

     よく、「一枚岩」という言葉が組織や集団の結束の高さを表す言葉として用いられます。そういう言葉を使用する場面で本当に結束力が強いのかどうかはともかく、ある組織が完全に一つのみでの意志統一をしているのであれば、その組織は強いというよりも弱い(より正確にいうと「脆い」)と思っています。比喩ではなく本当の一枚岩は、一つヒビが入ると全体に裂け目が広がって崩れてしまいます。一方、例えばお城の石垣のように複数の石や岩で出来ているものや、お風呂場のタイル壁なんかを想像してみれば分かりますが、一つ壊れてもその箇所だけ交換すれば強度は維持できます。全体を交換・補修する必要はありません。これは比喩ではなく物理的な話しですが、組織や団体も似たようなものだと思います。小さい集団ならともかく、多数が所属するような大規模集団であれば、完全にまとまっているよりもある程度緊張関係にある方が組織は長続きするはずです。

     自民党の石破氏がしばしば安倍政権批判を行って、しばしば物議をかもしていますが、個人的にはこういった党内から起こる批判はむしろ自民党自体の強さ(時の政権の強さではありません)を示すものだと思っています。

     かつての自民党は、1950年代後半から1980年代にかけて壮絶な党内抗争がありました。いわゆる55年体制の下での鳩山一郎内閣の後、石橋湛山→岸信介→池田勇人→佐藤栄作→田中角栄→三木武夫→福田赳夫→大平正芳→鈴木善幸→中曽根康弘と政権が受け継がれていきましたが、そのほぼ全ての自民党総裁選において派閥の内外における合従連衡が行われました。総裁選のためだけではありませんが、金権政治と批判され、派閥の存在イコール腐敗の象徴のような扱いも受けていました。

     しかし、その一方で政権がいろいろな理由で立ち行かなくなり倒れた後、すぐに自民党内で別の政権を立てることが出来たのも、倒れた政権を構成していた派閥を批判していた別の派閥が存在していたからとも言えると思います。いわゆるシャドウキャビネットが別派閥に当たるということです(実際には閣僚まで決まっていたわけではありませんが)。社会党その他の野党では政権を担うほどの勢力が無かったからですが、自民党内で悪くいえばたらい回し、よく言えば保持し続けたのは派閥のおかげだったということです。さらにいうと、自派閥から抜けて社会党に入る議員などまずあり得ませんが、対立派閥に入る可能性はもちろんありますから、内閣からすると野党からの批判よりも自民党内の対立派閥からの攻撃の方が厳しい場面もあったはずです。

     派閥争いが激しく、「一枚岩」では無かったからこそ、自民党内で政権を維持し続けることが出来たのです。そんな55年体制も90年代前半に自民党内の対立が行き過ぎてしまい、新党さきがけ・新進党・日本新党など自民党を飛び出した議員達が野党を形成することによって終わりを迎えました。それから細川護熙→羽田孜と続いた連立政権が短命で終わった後に自・社・さきがけによる連立政権、ついで自・自・公連立、自・公・保連立、自公連立政権と続いて行きましたが、党内に対立者が存在しなくなった自民党が政権を失う、という形は2000年代にも繰り返されました。

     小泉内閣時代における、いわゆる郵政選挙と呼ばれた衆院選で小泉総裁が郵政民営化に反対した議員の選挙区に刺客を立てるという形で、強引に自民党内を粛正しました。そして小泉内閣以降の政権では、安倍晋三→福田康夫→麻生太郎と一年ごとに交代していったあげくに民主党に政権を奪われました。

     派閥抗争が激しかった時代とは異なり、対立者が党の外に出て行ってしまった自民党は政権を二度も失ったのです。これは決して偶然ではなく必然的なものです。内閣の寿命というのはそれぞれですが、いつか時代に合致せずに終焉を迎えます。その際に、時代や状況に合わせて方向修正することが出来るのは、前政権に批判的な実力者のみです。

     結局のところ、内部抗争が激しすぎて反対者が出て行ってしまっても組織は弱体化するし、内部抗争が起こらないほど上が下を締め付けすぎても弱体化します。政党だけではなく、大企業や国家レベルでも同じようなことが言えるのではないでしょうか。もちろん、危機的な状況で対立すべきではありませんし、また軍隊などでも内部対立イコール全滅ということから禁止が当たり前の場合もあるでしょうから、全てのケースで言えるわけではないと思いますが、「一枚岩」という言葉で組織的結束をアピールする場面に出くわすと、個人的にはものすごく胡散臭いというか、あんまり長続きしないんじゃないかな、という感想を持ってしまいます。組織内部の中心にいる人はいいでしょうが、中心から外れた周縁にいる人に取ってみたら、「一枚岩」をアピールされると結構微妙な気分になるんじゃないでしょうかね。大きい組織で完全に同質な集団というのは洗脳でもしていない限り無理ですし、そもそも洗脳する側とされる側がいるのであれば同室ではありませんし。「一枚岩」的な団結というのはどうしたって無理な概念だと思います。

  • ノーベル平和賞受賞のその後

     ノーベル平和賞によって平和はもたらされるのでしょうか?

     1925年に取りまとめられたロカルノ条約を経て、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツが国際連盟に加盟することになり、事実上の戦後処理終結を評価されて、条約成立に貢献したフランス首相のブリアン、ドイツ外相のシュトレーゼマンが翌26年にノーベル平和賞を受賞しました。前年には同じくこの条約締結に関わった、イギリス外相のチェンバレンも受賞していますので、いかにこのロカルノ条約が重要なものであったかを示している証拠と言えます。ヨーロッパ諸国にとって、ヨーロッパの中央部に位置する大国ドイツをどうやって封じ込めることが出来るか、どうやって国際協調の中に組み込むか、ということが大事だったわけです。ロカルノ条約の前後も、国際連盟や反戦運動などに貢献した人々にノーベル平和賞が授与されていましたが、残念ながらその十数年後にはこの国際連盟や多国間協定・条約の甲斐もなく、封じ込めたはずの当のドイツ率いるナチス及びヒトラーによりヨーロッパは再び大乱に覆われました。
     一方2012年のノーベル平和賞はEU(ヨーロッパ連合)そのものに与えられました。平和なヨーロッパというのはまさに悲願であったわけですから、EUという組織がその平和を象徴するものとして遇されることは問題ありません。しかし、ヨーロッパの平和はEUによってもたらされたものではありません。第二次世界大戦後、多くの人々や組織が関わった様々な条約・協定・団体によって少しずつ積み上げられて成し遂げられたのがヨーロッパの平和です。第二次世界大戦後にヨーロッパ全体が常に平和だったわけではなく、長期間にわたる冷戦があり、さらに冷戦崩壊後に旧ユーゴスラビア地域では内戦が続きました。万人が納得するものではないにせよ、なんとか紛争を収めて平和な状態を作り出したからこそ生まれたのがEUだったはずです。まとめると、EUの設立がヨーロッパの平和に貢献したというよりも、ヨーロッパの平和がEUの設立に貢献したというべきでしょう。
     もともとノーベル平和賞は同時代における政治状況の影響を受けやすい賞ではあります。2012年当時はギリシャの経済破綻によりEURO脱退が取り沙汰されていた時期ですから、統一ヨーロッパというイメージを喧伝する目的があっての平和賞受賞という政治的理由があってのことだったのかも知れません。

     しかし、1920年代のノーベル平和賞が示しているように、ノーベル平和賞がその後の平和も保証してくれるわけではありません。これがこの文章の冒頭の疑問に対する答えです。ただしその逆、つまりノーベル平和賞は必ず失敗する、というわけでもありません。
     ざっと見るだけでも、1996年に東ティモールの平和に尽力したシメネス・ベロとジョゼ・ラモス・ホルタが受賞しましたが、2002年に東ティモールは共和国として独立を果たしました。1991年にアウンサンスーチーが受賞した後、ミャンマーは軍事独裁政権であることを止めました。ヨーロッパにおいても、長く続いた北アイルランド独立紛争絡みでは何人ものノーベル平和賞受賞者を出しましたが、今では北アイルランドやイギリスでは独立を訴えるテロは起きていません。南アフリカのネルソン・マンデラや、ポーランドのレフ・ワレサの受賞も成功したケースといっていいでしょう。
     もちろん、北朝鮮の核開発や中東和平など、受賞したのに結局元の木阿弥になってしまっているようなケースも存在します。ノーベル平和賞自体には拘束力があるわけではありません。先述のアウンサンスーチーに関していうと、事実上のミャンマーの最高権力者でありながらロヒンギャ虐殺が止まらないことを理由にノーベル平和賞を剥奪すべきではないか、という議論もあります。しかし、そもそもノーベル平和賞そのものが何か平和をもたらすわけではありません。平和に関する貢献をした人や団体に授与されるものですから、順序が逆です。

     果たして、ノーベル平和賞を受賞したEUがこの後どうなるのか。イギリスが離れるのはもう間違いない状況です。ロシアはウクライナに圧力をかけ続けながら、ベラルーシにも手を出しそうな勢いです。東西からヨーロッパ統一に対する反発を受けている状況ですが、ノーベル平和賞がEUにもたらすものは残念ながら何もありません。EUが、ヨーロッパに住む人々が、改めて平和に対して何が出来るかということから、再度何らかの形でノーベル平和賞を受賞するような状況を作り出すことが出来るのならば、先のEUによるノーベル平和賞受賞にも将来的な意味が出てくるのではないかと思います。

  • 反対の反対は賛成という無責任(もしくはマイナス×マイナス=プラス?)

     日本にいるとあまりベネズエラのマドゥロ政権を支持する声を聞くことは少ないのですが、ニューズウィークのこの記事によると、アメリカ国内における左派、社会主義者の中にはマドゥロ大統領を擁護するような人達もいるそうです。

    独裁者マドゥロを擁護する「21世紀の社会主義」の無責任

     外国からの援助物資を軍隊で堰き止めるような暴挙を行い、飢えて苦しむ自国民を見殺しにしようとしている独裁者に賛成する社会主義者というのは存在自体が矛盾している気がしますが、彼らにとってはアメリカ合衆国という資本帝国主義の権化、さらにはトランプ大統領というアメリカファーストの急先鋒に対して抵抗している存在であれば、木や石でも有難い存在なのでしょうか。

     かつて、特に20世紀のアメリカは、ソビエト連邦、中華人民共和国、北朝鮮やイランなどアメリカに対抗する存在と戦っているのであれば独裁者であろうと擁護し、支援していました。
    1979年のイスラム革命で親米政権を追い出してイスラム主義国家になったイランに対抗するために隣国イラクのサダム・フセインを積極的に支持し、イラン・イラク戦争を誘発しました。また、北朝鮮と対立していた韓国の朴正熙も、その政権奪取に至るクーデターや政権維持のための弾圧にアメリカは目をつぶり、軍事支援や経済支援(これは日本もですが)を行っていました。中国から台湾に逃れた蒋介石もかなり苛酷な政治体制を敷いていましたが、アメリカは対中国のために支持していました。

     今の社会主義者を名乗る、反米主義者、反資本主義者も結局は前世紀のアメリカ中枢の裏返しなのでしょうか。歴史は繰り返しているのでしょうか。
    もしそうであれば、今後のベネズエラは、台湾のように現状維持され続けるのか、韓国のように後に民主化されて左右勢力による政権交代が繰り広げられるのか、それとも、イラクのようにいずれ支持していたはずのアメリカと揉めて粉砕され、テロと内戦が横行する混迷と絶望に支配されるのでしょうか。

     繰り返しますが、前世紀のアメリカは、共産主義よりはマシだと思って独裁者を助けていました。そして今の大半の社会主義者は、帝国資本主義よりはマシだと思って独裁者を擁護しています。この後の結果はどうなるでしょうか?

     幸いなことに大半の国は独裁者を非難しています。しかし、ベネズエラのマドゥロ政権に対して、中国はその前任のチャベス時代から大量の資本投資を行っています。そして今はロシアが反米の橋頭堡としてマドゥロ政権に軍事的支援を行っています。かつてのアメリカーキューバーソ連のような三角関係が築かれつつあります。1960年代のキューバ危機の頃に比べると、アメリカとロシア(ソ連)の間の国力や軍事力には大きな差がついていますが、中国を足すとバランスが取れてしまいます。中国がベネズエラに艦隊を派遣する可能性はまず無いとしても、アメリカがキューバを陥落させられなかったように、アメリカがベネズエラに軍隊を派遣しても制圧は難しいかも知れません。
     しかし一方で、今のベネズエラはチャベス・マドゥロ両政権の経済的な大失敗により国民が疲弊し、軍隊の一部も離反しつつあります。周辺諸国も反マドゥロでほぼ固まっています。グアイド国民議会議長を掲げて速やかに政権移行して親米、親西側諸国の政府を作ってしまえば、案外うまくいくかも知れません。しかし、それには少なくとも、アメリカ国内において相当数の支持があってのことだと思いますが、トランプ憎しの左派勢力が反発してしまうと、アメリカの介入も中途半端になってシリアのような状況になってしまうのではないでしょうか。

  • 健康的な生き方に対する未来効用の少なさ

     健康に気をつける、あるいは健康的に生きる、ということは難しいことです。少なくとも、現代人にとっては悩みの種の一つでしょう。

     徹底して健康的な生活を営むように努力する人もいれば、暴飲暴食喫煙何でもござれといった破滅的な暮らしをする人もいますし、ほとんどの人はほどほどに健康的かつ不健康的な生活を悩みながら送っていると思います。その中でも、より健康的な生き方をしている人から見たら、不健康な暮らしをしている人の行動が命を縮める危険な行動のように見えるでしょうし、逆に不健康よりな生活をしている人から見たら、健康に気をつけている人の行動が無駄に思えるのではないでしょうか。

     この健康・不健康を巡る思想的分断が何故起きるのかというと、当然のことですが人それぞれ寿命が異なるからです。何をどうしたら長生きできるのか早死にしてしまうのかが確実には分かっていないのです。言い換えると、健康的な生活がもたらす未来の効用(インセンティブ)が少なすぎる、ということです。
     毎日タバコを100本吸っていても100歳まで生きる人もいれば、ものすごく健康に気をつけていても若くして亡くなることもあります。もちろん、多くの人で長期的な調査をすれば、健康的な生活と不健康な生活による死亡年齢の差が出てくるのだとは思いますが、個人レベルで保証されるデータではありません。今、白米に替えて雑穀米を食べたら寿命が3日延びる、という明白な神の啓示をもらえるわけではありませんし、科学的データがあるわけでもありません。好きなもの・食べたいものを自由に食べられないことによる精神的なストレスによってかえって寿命が縮むかも知れません。

     無論、健康がもたらすメリットとしては長寿だけではありません。痩せたらモテるかも知れませんし、太っていると息切れしたり頑丈なベッドが必要になったりというメリット・デメリットが健康・不健康には確かに存在します。しかしそれらのメリット・デメリットは別にいいや、と考えてしまったら、後は健康的な生活をするインセンティブや義務感は存在しなくなります。
     逆に言うと、健康的な生き方を政府や各種団体が世間に勧めようとするならば、健康・不健康による将来のメリット(長寿)・デメリット(短命)ではなく、現在におけるメリット・デメリットを取り上げてアピールするべきです。現世利益を重視すべきです。遠い将来の体の不調ではなく、現時点に近い将来の不利益を取り上げることによって、アピールされる側(国民・一般大衆)にとっても切実さが増すのではないでしょうか。

  • 豊かさと民主的さの不都合な非比例関係

    ※写真と本文はあまり関係ありません

     中華人民共和国(以下、中国)が経済発展し国民が豊かになれば民主的な国家になる、と欧米のリベラルな人達は90年代から00年代にかけて信じていましたが、今ではそれが幻想に過ぎなかったことを痛感しています。国家全体のGDPで日本を抜き世界第2位になりましたが、習近平体制になってからは民主化・人権擁護の観点から見ると明らかに後退しています。

     「衣食足りて礼節を知る」という言葉(正確にはちょっと異なるというか、色々言い方がありますが)は中国に昔からあることわざですが、少なくとも現在の中国共産党が支配する中国には当てはまりません。共産党から見たら儒教的概念は憎むべき反動保守勢力の金科玉条なのでかえって逆のことをしているのでしょうか。それならそれで世界各地の大学に孔子学院を中国国民の税金を費やして作り続けていることに矛盾するんですけどね。

     そもそも、現在の中国はまだ豊かではないという見方も出来ます。GDP総体としては世界第2位になりましたが、国民一人あたりのGDPでは8,000ドル前後ですから、まだそれほど高くありません。というか真ん中とまではいいませんが豊かとは言えないでしょう。

     だからまだ民主化できないのだ、という意見を言う人もいるかも知れません。しかしこの、「国民一人あたりのGDP」で測った場合、上位層には民主主義国家というよりも資産管理国家がランクインしてきますが、中位層には原油や鉱物資源などにより豊かさを享受できる国家が入ってきます。そしてそれらの国で欧米人が思い浮かべるような民主的な国家は少ないです。

     すなわちどういうことかというと、「国家の豊かさや国民生活の豊かさ」と、「その国が民主的である」ことにはほぼ関連性がない、ということになります。
    この事実は一部の、自身の理想を尊いものと思っている人にとっては不愉快な結論です。

     逆の言い方をすると、民主的であろうとなかろうと、国家が経済発展するときには発展するのだということになります。リベラル派に取っては辛い事実かも知れませんが、国家は民主的でなくとも豊かになることが可能です。

     「不都合な真実」という言葉はよく使われますが、まさにこの「民主的でなくても豊かになれる」という事実は「不都合な真実」に当てはまるのではないでしょうか。別に独裁国家を擁護するつもりはさらさらありませんが、これまでのリベラルの甘い予想は捨てて、民主化要求と経済発展支援はまるっきり別物だという前提で対応していかないのだと思っています。

  • 閉鎖的なインターネットという矛盾を実験するロシア

     ロシアがいざというときのために、ロシア国内のインターネットを国外と切り離して存在できるような実験をするそうです。

    ロシアが「国内のインターネットを国外から切り離す」実験を行う予定

     記事には、外国(まあまず想定しているのはアメリカだと思いますが)からのサイバー攻撃に対して防衛するために行うとありますが、よくそんなこと考えるな、というかインターネットを閉じたら意味ないだろう、という気がしないでもありません。保守的な傾向がある国にしてみたら、それほど突飛な考え方ではないのかも知れませんが、少なくともアメリカ合衆国において、インターネットを国境で遮断するという発想は、SFの世界でしか考えないでしょう。

     開かれない国は衰退していきます。しかも、恐ろしいことに自分たちは衰退しているということに気付かないままです。それはロシア自身がかつてのソ連時代に経験したはずなのですが、人の記憶というものは時が経つと変化していくもののようです。喉元過ぎれば熱さを忘れるとは言いますが、かつてソ連時代にあれほどの耐乏生活を送っていたにもかかわらず、そして冷戦終結後の90年代に経済の大混乱があったのにもかかわらず、昔は良かったと考える人が今のロシアには結構いるのでしょうか。

     ロシアだけではありません。すでに中国はグレートウォール=万里の長城と称される国家レベルでのファイアーウォールを整備済みです。中国国民が開かれた外の世界の開かれた様々な議論を目にすることで様々な意見を持つことを中国共産党は恐れ、拒否し、弾圧しています。

     インターネットではありませんが、江戸時代の日本も似たようなものでした。鎖国というキーワードは今の歴史学ではあまり的確な表現ではないそうですが、徳川幕府は長期間に渡り比較的閉ざされた対外政策を取りました。16世紀においては(当時は分からなかったこととはいえ)世界有数の戦力(火縄銃)を保持していましたが、19世紀まで軍事的技術の発展はなく、火力や海洋戦力においてアメリカ合衆国の艦隊に大きく劣ることになりました。まともに海軍力を保持していれば、浦賀沖にやってきたペリー率いる艦隊を撃退までは行かなくともストップしていたはずです。

     昔であれば、閉ざされた国家の衰退が顕著に現れるのはまず経済力、次いで工業力でした。経済活動が停滞し、それによって技術の発展が遅れて工業に反映されていくといった感じでしたが、今のグローバル化社会だと、インターネット遮断によって国内に閉じこもった場合、国民のイノベーションへの意欲が減退するのではないでしょうか。

     1980年代の日本や韓国、台湾などの国々が猛烈にアメリカ合衆国の経済利益を奪っていっていた時代の後の1990年代にIT技術とインターネットによって再び世界の覇権を経済的にもイノベーション的にも奪い返しました。インターネットは開かれているからこそ強力なものでありますし、そもそもの存在自体が開かれているものです。さらにそもそも論を言うと、「インターネット」という言葉自体が複数のネットワークを結びつけるという意味なのですから、閉じたネットワーク(「イントラネット」とはまた違った意味づけになりますが)にしてしまったら短期的には国家的利益が出るかも知れませんが、長期的には間違いなく国民におけるイノベーションやIT技術の発展の沈滞という報いを受けると思います。そしてそれは相対的に、開かれているアメリカ合衆国の勝利という結果に結びつくのではないでしょうか。もちろん、その時点でアメリカ合衆国が閉じていないことが前提ではありますが。

     そうなったとき、日本はどちらの側に位置しているでしょうか? 個人的には開かれている方に位置して欲しいですし、そうしないと同じく停滞・沈滞の報いを受けることになると確信していますが、果たして、日本は開かれている国であり続けられるでしょうか? 目の前の短期的な利益に溺れず、長期的な視野に立って国家を運営し続けられるでしょうか?