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  • 万博公園へのアクセス向上妄想計画

    先日、吉村大阪府知事が現在のホテル阪急エキスポパーク跡地を中心とするエリアに、関西最大級のアリーナを建設する計画があることを発表しました。

    このアリーナは室内スポーツだけではなく、音楽ライブやその他イベントにも利用できる多目的なものになりそうですが、興味深い計画になりそうです。

    大阪のアリーナとして有名なのは、京セラドーム大阪や大阪城ホールがパッと思いつきます。あとは難波の中央体育館でしょうか。人口比率的に言ってこれが多いのか少ないのか分かりませんが、音楽業界がCD売上ではなくライブ売上に力を入れるようになった昨今では、もっとハコがあってもいいのではないでしょうか?

    大阪市内に集中させた方が客入りや アクセス面ではいいかもしれませんが、北摂地域にもあってもいいでしょうし、万博公園が大きく変わりゆく様を見るのも面白いです。

    広大な万博公園には、すでに自然公園、博物館、サッカースタジアム、ショッピングモール、観覧車があり、そこに大きなアリーナが加わるのもバランス的にはいいと思います。その代わり宿泊施設が無くなってしまいますが、その辺はまあ近隣のホテルに泊まってもらう、ということで。

    さてそのホテル、あるいは自宅と万博公園の往復で必要になる交通機関ですが、これはかなり厳しい状態です。

    すでに周辺道路は周辺住民の日頃の利用に加えて、観光客の移動でもマイカーやバスで利用されているため慢性的に渋滞しています。

    そもそも万博公園まで来る公共交通機関がモノレールしかないからこそ、マイカーで来ようとする人が多くなるという悪循環もあります。

    そしてこの大阪モノレールですが、4両編成で普段の本数もそれほど多くないため、 パナソニックスタジアム吹田での試合開催時にはかなり混雑します。現時点では臨時ダイヤで対応しているところですが、これに目の前にあるアリーナから満員の客が駅に流れ込むと駅の機能がストップしかねません。現状でも多めに客が入った試合後には、万博記念公園駅は入場制限がかかり、駅前のスロープを越えてエキスポシティ付近まで行列が出来ます。

    今のは元々、将来の利用者増加に対応できるように6両編成にできるようになっているそうですが、モノレールを6両編成にしてもピーク時はやはり足りないはずです。

    4両編成が6両編成になれば輸送量は1.5倍になりますが、吹田スタジアムと新設アリーナが同じ日の同じ時間帯にイベントを終えて客が出てくると、さばかないといけない乗客は2倍になります。

    ガンバの試合では、スタジアムの近くに住んでいるサポーターも多いので試合後に徒歩や自転車で帰る人も結構いますが、アリーナでの音楽ライブでは、公園近辺に住んでいる人の割合はガンバサポーターよりもかなり低いはずです。吹田スタジアムと同じ収容人員としたら、吹田スタジアムからモノレールに向かう人の数よりも、新設アリーナからモノレールに向かう人の数の方が多いでしょう。そうなると、モノレールの混雑は2倍以上になるはずです。

    モノレール1編成の輸送力が弱いことだけが問題ではなく、モノレールの路線そのものもJRとの乗り換え駅がないのが問題です。モノレールは東から辿ると、
    門真市駅で京阪と、
    大日駅で地下鉄谷町線と、
    南茨木駅で阪急京都線と、
    山田駅で阪急千里線と、
    千里中央駅で北大阪急行(地下鉄御堂筋線と)、
    蛍池で阪急宝塚線と、接続が出来ます。
    また、大阪空港駅ではもちろん飛行機へのアクセスとなります。

    ただ、こうして見たら分かる通り、乗り換え可能な路線は私鉄・地下鉄だけです。JRはありません。宇野辺駅で降りてJR茨木駅まで歩くことは不可能ではありませんが、あれを乗換駅と言うのはかなり無理があります。

    つまり、JR沿線から万博公園まで行くのが面倒だということです。乗り換えを繰り返すくらいならマイカーで・・・と考える人が多いことも、万博公園の周辺道路や駐車場が混雑する理由でしょう。

    そこで、アクセス向上妄想計画です。冒頭の導入部がかなり長くなってしまいましたが、大阪メトロ(旧大阪市営地下鉄)今里筋線を北方向に延伸することを個人的に求めて妄想してみます。

    具体的には、乗換駅のない井高野駅で行き止まりになっている今里筋線を、万博記念公園駅にまで延伸します。途中の駅も当然ながら作ります。

    井高野から北に進みますと、阪急京都線の正雀駅とJR京都線の岸辺駅が出てきます。この両駅は駅名が異なり乗り換え通路がつながっているわけではありませんが、かなり近接しています。その中間地点に地下鉄の駅を作り、乗り換え用の出入り口をそれぞれの駅構内に作れば、阪急とJRの乗り換え利用者の通路代わりにもなります。

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    近くには大阪学院大学もありますし、岸辺駅北西側には近年、「健都」として国立循環器病研究センターや吹田市民病院が移転してきました。大阪市内や北摂地域からこれら医療施設へのアクセスを容易にするのは延伸費用を税金で負担する一つの理由にも出来るでしょう。

    岸辺・正雀駅での途中駅の次は山田市場付近でしょうか。イズミヤ方面ではなく岸辺駅からそのまま北西に進んで名神高速下から伸ばすルートもあり得るでしょう。

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    個人的に一番欲しいのが吹田スタジアム前駅ですが、樫切山北交差点からスポーツ広場にかかるくらいの場所でないと、万博公園駅との距離が近すぎるでしょうし、近隣住民の利用も難しいでしょう。

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    そして最後にモノレール万博記念公園駅との乗り換えになる駅ですが、駅の出口がモノレール駅・アリーナ前・EXPOCITY前くらいにあればいいでしょうか。

    さて、こうして吹田スタジアム前に駅が出来ることで、スタジアムから万博公園駅までとぼとぼ歩く必要が無くなります。特に車椅子利用者やお年寄りなどは階段を上らないルートを通ることが出来ますが、それでもかなりの距離があります。バスに乗れば、という解決策も、車椅子でバスに乗るだけでも大変です。

    もし今里筋線がこのように延伸されれば、モノレール、JR京都線、阪急千里線に囲まれた地域(以下の赤色で囲ったエリア)のアクセス向上、活性化にもなるはずです。このエリアは陸の孤島のようになっていて、バス・自家用車がないと生活が大変です。

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    また、この延伸で、新大阪駅から岸辺駅経由で万博公園まで楽に行けます。北大阪急行の千里中央駅経由よりかなり早くなりますので、遠方からの観光客の利便性も向上します。

    何度も言いますがこれは開くまで個人的な妄想でして、鉄道や地下鉄、構築物の常識を踏まえたものではありませんので、全く不可能なのかも知れませんが、大規模アリーナが出来れば今以上に大変な混雑になるでしょう。

    こういう妄想は「今里筋線 延伸」で検索すると私よりはるかに詳しく検証している方もいるので、わざわざ書くのもあれですが、具体的なルートよりは今の時代に合わせた需要の方面から書いたつもりです。

    需要と言うよりは大混雑という切迫感の方が強いですが、このご時世にこういった妄想を現実にするには、「作った方がいいよ」ではなく「作らないと大変なことになるよ」という少し脅迫じみた要望があった方がいいのかもしれません。

  • グレタ・ドゥンベリさんの演説に対する反応よりも大切なこと

    スウェーデンのグレタ・ドゥンベリさんの国連演説を受けて賞賛したり批判したり色々と議論が巻き起こっています。あれよりも無茶苦茶なことを言っているトランプ大統領がこの3年間受けてきた反応に比べたらそれほどでもないので、世間一般の人にしてみたらそれほど重要でもないのかも知れません。

    あるいは、学生(高校生)なら勉強するのが本分のはずだ、という意見もありますが、今の勉強が将来地球が破滅したら無駄になるのですから、今の地球を破滅させないでくれ、と若い世代が要求するのは至極当然かなとも思います。

    個人的には彼女を持ち上げて自分の意見を投影している大人達の方が酷いと思います。

    前にこんなnoteを書きました。

    https://hrsgmb.com/n/n65737c4c5ccf

    ここでは、マスメディアが取り上げる一般人の意見がそもそも正しいという前提がおかしい、ということを書きましたが、それは今回のグレタ・ドゥンベリさんの演説も同じです。彼女の演説に対して行うべきは、その中にある現状認識や将来への提言が果たして正しいか、正しいならそれをどうやって実行すべきか、ということを議論することです。決して彼女個人のパーソナリティや経歴などをあれこれ言うのを優先させるべきではありません。それは批判的意見だけではなく、彼女を賞賛する側に関してもそうです。持ち上げるにしても内容を褒めるべきであって、「まだ若いのに」とか「勉強をかなぐり捨ててまで訴えた」ことをあまり取り上げるべきではないでしょう。

    マスメディアにしろリベラルな人にしろ、どうも自分の意見を自分の意見として出すのではなく、他人もこう言っているよ、だから自分の意見も正しいよ、という展開がお好きなように思えます。

    民主主義国家では基本的に多数決で物事が決まっていきます。だからといって多数決で何でも決めていくのは「数の暴力」だといってそれこそリベラルが保守を批判するときに使う言葉ですが、それはブーメランのように返ってきます。他人が自分と同じ意見を持っているからといって、そしてそれが多数だからといってその意見が正しいとも限りません。

    以前にも春秋左氏伝から逸話を紹介しましたが、今回は成公七年の11条目にある、
    「晋の欒書、師を帥いて鄭を救う」
    の箇所を少し引用します。

    この時、晋という大国の宰相だった欒書は傘下の鄭の国が楚に攻め込まれたところを救援し、次いで楚の属国の蔡に攻め込んだところで楚との決戦になりそうになりました。多くの大臣や将軍(当時は大臣が軍を将として率いていました)が開戦を望みましたが、わずか3名の将が無理な戦を諫め、欒書がそれを飲んだことで引き揚げになりました。
    その際に、欒書に対して好戦派の将が
    「なぜ多数の願いに従わないのか。宰相は民の願いを汲み取るべきであり、十一人中わずか三名の反対を受けて引き揚げるのはおかしい」
    と言うと、欒書は
    「どちらも良い意見の場合に多数に従うのだ。良い意見は多数の民を支え手である。反対の三名はいずれも大臣として国を支えている。その三名で十分多数と言えるのだから、開戦に反対の意見に従っても良いはずだ」
    と言って退けました。

    作家の宮城谷昌光さんは、この場面を小説の中で取り上げ、至言と絶賛していました。まさにそうです。多数決そのものは直接的に善悪を判断しません。あくまで意見の賛同者の数を競っているだけです。

    多数決に基づく民主主義は、国民や市民一人一人が善悪を判断した上で、多数決に参加するのであれば大きな間違いはしないはず、という前提で成り立っています。

    自分の意見が他人と一緒だからといって、そしてその数が多いからといって、その意見の善悪そのものが判断されるわけではありません。

    これはリベラルにも保守にも言えることです。

    本当に正しいことはなにか、正しい意見はどっちか、どうすれば正しく物事を進めて行けるのか。

    議論すべきはそこにあります。決して意見を言っている人間の外見や、経歴や、立場をあれこれ議論することが優先ではありません。

  • 人類の発明トップ10!

    人類(あるいはヒト)の発明トップ10と言われて何を思い浮かべるでしょうか?

    個人的には、順位を付けずに
    火、言葉、文字、数字、暦、服、家、武器、車輪、舟
    としたいです。

    火・・・火によって食べられるものが飛躍的に増えました。また動物を遠ざけることも出来ますし、何より夜にも活動時間を増やすことが出来るようになりました。後のガス、電気などは火の延長線上にあると言えるはずです。

    言葉・・・もちろんヒトだけではなく、多くの動物では音や動作でお互いにコミュニケーションを取っています。しかし言葉の多様性と複雑さはヒト独自のものであり二足歩行するようになって喉(声帯)をコミュニケーションにフル活用できるようになったことが大きいです。

    文字・・・前述の言葉を何らかの媒体に書くことによって、時間的あるいは空間的に声が届かない相手にも情報を伝達することが出来るようになりました。これは文明・文化の基礎の基礎でもあります。

    数字・・・文字に近いですが数字によってモノを数える・測ることが出来るようになりました。それは食料の生産や保管から分配に貢献し、商業や行政機構や軍隊には欠かせません。10進法を非常に分かりやすく表現できるという点ではアラビア数字が最も重要でしょう。

    暦・・・太陰暦にしろ太陽暦にしろ、暦の発明によって農業に飛躍的な発展をもたらしました。後に出てきますが舟を用いた航海でも季節風が重要であり、それにも暦が大きな役割を果たしています。

    服・・・当たり前ですが動物は服を着ません。自分の体毛と脂肪によって寒さや雨から体を防ぎます。ヒトが服を毛皮や木の皮、葉っぱなどから作り出したことによって、寒い地域でも活動できるようになりました。

    家・・・前述の「服」とも近いですが、家によって風雨と寒さをしのぐことが出来ます。それだけではなく食料の蓄積も出来、養える家族も増えたはずです。家の発明による定住化が文明や王権の始まりになりました。

    武器・・・武器はもともと狩りで獲物を捕らえるところから発明・発展したはずです。そこから人々のあいだでの争いにも用いられ、集落の併合が続いて巨大化した集落から古代国家に発展していきました。

    車・・・車輪と車軸の発明により、人や物の移動が簡単に出来るようになりました。これにより移動距離も増え、活動限界が伸びることによって前述の集落の併合にも大きな影響を与えました。

    舟・・・歩いて行けるところに速く楽に着くことが出来るのが車ですが、舟はヒトが歩いていけない場所に到着することが出来る発明です。その意味では飛行機はあくまで舟の延長線上にあるもので、だからこそ「Airport」「空港」という言葉が出来たはずです。

    いかがでしょうか?

    もちろん他の方にしてみれば、あれがないとか、これはいらない、という意見もあるとは思います。例えば宗教とか活版印刷とかインターネットとかを入れる人もいるでしょう。

    実際に何が入るのかで言い争うつもりはなく、人類の歴史とその後の発展はどのように起きたのか、ということを再確認するのもたまにはアリじゃないですかね。

  • 2019年9月28日J1リーグ第27節セレッソ大阪対ガンバ大阪試合観戦の感想

    泣く子も泣き叫ぶ大阪ダービーin長居です。今年の前半に行われた吹田での大阪ダービーは、大幅にスタメンを入れ替えたガンバが倉田のゴールで1−0の勝利を収めました。狙うは連勝。

    さて、キックオフ3時間ほど前に鶴ヶ丘駅についてアウェイ側の入場口へ・・・と思いきや、セキュリティの人に「あちらの方に並んでいますので」と言われて向かってみたら、とんでもない列がありました。第二スタジアムの南側を超えて、自然植物園も超えてさらに向こう側というか長居公園の南側をほぼ半周してようやく待機列の最後尾に。

    それなりに時間と体力を使ってようやくスタジアムの中へ。毎年長居に来る度に思いますが、セレッソさんはアウェイサポをたった一つのゲートで出し入れするの止めてくれませんかね。特に今年はガンバ側の客数増やしたんだし。

    天候は晴れ時々曇り。事前の天気予報では降水確率が50%となっていましたが、ほぼ晴れ手いました。暑い。

    ガンバのスタメンは前節から2名変更。累積警告の小野瀬に替わってスサエタが中盤右サイドに、前節殊勲のゴールを決めた渡邉千真がパトリックに替わってワントップに入ります。

    そして前半開始。中盤での相手のドリブルを止められないなあと思っていたら、中央から左に展開されてのクロスをあっさりブルーノメンデスに決められて失点。

    そしてガンバ左サイド深い位置からセレッソのFKで今度はヨニッチに決められて2失点目。前半11分であっさり2−0です。これはひどい。今シーズン最悪の試合の入り方が大阪ダービーで出るとは。

    どちらも三浦のポジションがおかしいような気がします。さらに二点目はゾーンで守っているのに三浦の場所がぽっかり空いてしまいました。

    その後は2点リードしているセレッソが無理に出てくるわけはなく、基本的にガンバペースでボールを持てますがシュートまではなかなか行けず。宇佐美が2本枠内シュート打ったくらいでしょうか。

    今の4バックと中盤の構成であればボールを保持することは難しくないでしょう。問題はそこからシュートまでもっていけないことです。これは鳥栖戦にも共通する問題としてありました。ミドルシュートが非常に少ない。また相手のライン裏に放り込むシーンが少ない。これも鳥栖戦の前半と同じです。

    前半のうちに1点は返しておきたかったですが結局そのままハーフタイムに。

    1点取り返していればメンバーはこのままでもいいけど、2点差なら替えるべきだろうと思っていたのですが、2点差なのに選手交代無しのまま後半開始。

    そして試合を決めた3失点目。セレッソが縦に簡単に入れてきたボールを三浦が奪われ、クロスに対して藤春が対応を間違って水沼に先に入られて決められました。

    3点目取られてから慌ててパトリックとアデミウソンを投入しましたが35分で3点というのはあまりにキツい。当然のようにその後も得点は出来ず、さらにコンチャを入れて3バックにして、アディショナルタイムにアデミウソンが強く蹴ったクロスがジンヒョンの手を弾いてゴールに入りました。

    結果的にこのゴールでただ単に完封負けではなくなっただけで、試合そのものは言い訳しようのない惨敗です。何をどう言いつくろっても擁護できないくらい。アウェイゴール裏はなんというか怒りというよりも無力感の方が強かったかも知れません。

    次戦、スタメンが大幅に変わっても驚かないレベルの敗戦です。直接的に言いますと、東口・三浦・遠藤・宇佐美がスタメンから外れても驚きはないです。それどころか監督交代しても「ふーん」というくらいの感情しか湧いてこないかも知れません。

    一方、鳥栖対浦和の6ポイントマッチは終了間際のPKで引き分けという色々物議がありそうな結果に終わり、そのおかげでまだ鳥栖とは3ポイント差が残っています。しかし、まだ危険な状況にあることに変わりません。同じく残留争いをしている名古屋は監督が替わりました。あそこも色々と内部に問題を抱えていそうな感じに見えますが、多分、他サポから見たらガンバも同じように見えるでしょう。

    正直な話、準決勝に勝ち上がっているルヴァンカップどころではありません。リーグ戦と合わせて札幌との三連戦という日程になっていますが、怪我や疲労のことを考えると少なくともルヴァンカップの2試合はスタメンを大幅に入れ替えた方がいいかもしれません。あるいは、(小声で)新体制で迎えてチームを固めるいいタイミングになるのかも・・・。

    リーグ戦残り7試合のうち、残留争いの直接対決が、湘南・仙台・松本・浦和と4試合もあります。

    果たして、ガンバは本当に変わることができるのか。

  • 改憲と護憲とお人好しと悪事と。

    自分が思っていること・望んでいることがかえって逆の結果に結びつく、というのはままあることです。

    私はすこし天邪鬼ですので、他人の主張を目にしたときに裏返して考えてしまう癖がついているのですが、改憲論議を見るときにいつも思ってしまうことがあります。

    改憲派は憲法改正のハードルを下げることを主張しています。いわゆる憲法96条の改正手続きの問題です。

    https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION#263
    第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

    読んで分かる通り改憲するにはかなり厳しい条件があります。人によっては日本の改憲の条件が厳しすぎる、と言う人もいますが、これはその国毎によって様々ですし、そもそも硬性憲法か弾性憲法かの違いもあるし、英国法と大陸法の内容も違いもありますし、ただ単にどこそこの国ではこのように憲法が用いられているから日本もそうすべきだ、と言える問題ではないと思います。それは改憲・護憲双方に言えることです。

    さて、この3分の2以上の賛成が必要ということですが、いわば33%のラインで拒否権が存在するということになります。これはちょうど株主総会で議決に対する拒否権のラインと同じですね。個人的にはあまりにも高すぎる、というほどのラインとは思いません。8割や9割必要であれば異常だと思いますが。

    さて、この改憲のハードルを下げることは当然、右寄りの人にしてみれば憲法9条の条文変更に即つなげることが出来るので賛成なのでしょうし、左寄りの人にしてみれば戦争の話につながるので反対、ということになるのでしょう。

    しかし、この改憲のハードルを下げることはその時代・社会における政治情勢で強い意見が通りやすくなる、ということであり、その情勢が平和主義に極端に傾けば、自衛隊自体の廃止すら憲法に記載することも出来るという理屈もあり得ます。あるいは共産党のように将来的に天皇制を廃止したり共産主義社会を導入することも憲法に盛り込むことがしやすくなります。つまり、憲法改正をしやすくするのは過激な意見にこそメリットがあるわけで、そしてそれは右寄りだけではなく、左寄りの方にも同様に効果があるのです。

    改憲派・護憲派の双方は自分が主張していることが相手にとって利益になり得る、ということ頭の片隅に置いておいてほしいものです。

    あと、戦争や軍隊に関して現状の危機を論じること自体を否定的に見る人もいますが、そもそも戦争は当事者双方が楽観的なときに発生します。平たく言うと、「戦争に勝てる」と思うから戦争するのです。逆に言うと、悲観的に情勢を捉えている国は戦争を出来るだけ回避しようとするはずです。戦っても勝てないのであれば戦争にならないようにしなければなりません。それが相手国への譲歩なのか、自国の軍備増強なのかは議論してみないと決められないでしょう。

    平和を愛するのであれば平和を維持する方法を考えるべきであり、ではどうやって維持するかという話をするときに平和のことだけ考えればいい、というのはトートロジーでしかありません。攻め込まれたときの対応を行わないのは攻め込まれる可能性を増やすことでもあります。

    はっきり言ってしまえば、語弊があるかも知れませんが、お人好しは悪事を誘発するという点で罪悪でもあります。自分がだけが被害を受けるのではありません。相手に悪事を働かせるほどのお人好しはある意味両方を傷つける存在でもあります。

  • AMラジオの代わりのFMラジオの代わりは?

    AMラジオの終了、正確にはFMに転換することがほぼ決まりました。

    AMラジオが終わるとき
    https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1909/04/news023.html
    総務省の有識者会議にて、ラジオのAM放送を終了し、FM放送への転換を可能にするよう検討が進められている。これは今年3月に、民放連が要望を出したことから検討が始まったもので、容認する方向で決まりそうだ。

    AMラジオがなくなるということで寂しいという意見だけではなく、さらには災害時の情報提供が難しくなるという意見も目にしました。テレビと比べるとラジオは受信に必要な電力が少なく、乾電池はもちろん、手持ちサイズのソーラーパネルでも充分ですし、災害用ラジオでは手回し充電で聞けるようになっています。電気が使えない状況でも聞けるAMラジオは貴重です。それは総務省の報告書にもはっきり記されています。

    放送ネットワークの強靱化に関する検討会 中間取りまとめ(案)
    http://www.soumu.go.jp/main_content/000228537.pdf
    第1章 災害時を中心とした放送の役割
    1 災害時における放送の重要性 平成23年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島沖を震源としたマグニチュード9.0の巨大地震が東北地方を襲った。地震発生から30~50分後 に東日本の太平洋沿岸に押し寄せた、最大遡上高約40m、遡上距離約50k mにも及ぶ巨大津波は観測史上最大級のものであり、この巨大地震と津波によ って、東北太平洋沿岸は壊滅的な被害を受けた。
    この未曾有の大災害において、NHK及び民間放送事業者におけるテレビ・
    ラジオ放送ネットワークの果たした役割は次のとおりである。
    (後略)

    そうは言っても上記の記事にあるように、AMラジオを今後も続けていくのは経済的に難しいです。いっそのこと、radikoのネット配信に全振りしてしまえば経費的には楽になるでしょうけれど、インターネットが使えない状況になったら終わります。配信側もしくは受信側のどちらかが使えない状況になるとダメということです。

    それなら日本国内のネット回線をWi-Fiと携帯回線でたっぷり冗長化することでカバー出来るのではないか、と思いますが、ネット利用は国内だけで完結出来ません。少し前に、Googleの人為的ミスで日本でのネット通信に障害が発生して大きな問題が起きたことがありました。

    なぜ起きた? 総務省が検証報告「グーグル発大規模ネット障害」のメカニズム
    https://www.businessinsider.jp/post-160018
    2017年8月15日、日本国内で大規模なインターネット接続障害が発生した。LINEやモバイルSuica、楽天証券などのサービスが一時アクセス困難な状況になり、国内外に大きな混乱が広がった。
    (中略)
    グーグルへのヒアリングによると、同社は8月25日12時22分、誤った経路情報をネットワークプロバイダー各社に配信。その原因は、トラフィックエンジニアリングの作業で、つまり人為的ミスだった。

    日本の国内から配信するradikoを日本の国内で受信するにしても、外国(主にアメリカ)からの影響はありますので、自然災害だけではなく例えば戦争などによってネット回線が使えなくなる、ということもあり得るわけです。

    そうなるとやはり放送波を用いたラジオが欠かせないわけですが、残るFMラジオは送信設備が小規模で済む代わりに受信可能範囲が狭くなります。それは大規模自然災害時に、狭い地域に必要な情報をきめ細かく提供できます。しかしそれは諸刃の剣であり、送信設備そのものがその災害被害を受けた場合にその地域全体が情報が遮断されてしまいます。

    さらに、地域発信の情報だけでは災害時に必要な情報はカバーしきれません。より広域の自治体あるいは政府からの情報も必要ですが、その情報を地域FMまで届かせる手段が必要です。

    AMラジオをFMで同時放送――災害対策、受信機普及カギ(デジタル図鑑)
    https://messe.nikkei.co.jp/ss/i/news/131872.html
    これに対しFM放送は電波の受信範囲はAM放送よりも狭いが、送信所が津波の被害を受けるリスクは小さい。電気雑音にも比較的強く高音質だ。
     そこで総務省は難聴・災害対策としてAM放送局によるFM波による同時放送「FM補完放送」を推進。2014年からはテレビの地上アナログ放送の終了に伴い空いたV―Lowと呼ばれる周波数帯の一部をAM放送局に割り当て、「FM補完中継局」の予備免許を交付している。あくまで「補完」の位置づけでAMとFM波で放送内容は同じだが、各局は今後音楽コンテンツの拡充など音質がよいFM放送も意識した番組編成に動くとみられる。

    いわゆるワイドFMで情報が届きやすくなりますが、そもそものその大元の情報を地域の放送局までどうやって届かせるのか。電話もFAXもインターネットもつながらなくなった時、どうなるでしょうか?

  • インターネットは革命か?

    先日、初めてDiDiというタクシー配車サービス(アプリ)を使いました。

    日頃はタクシーを利用することはなく、そこそこ距離があっても歩く習慣がありますが、病院からの移動でタクシーが待機していなかったこともあって呼んでみました。

    呼んだタクシーが到着するまでの間に、病院で待機するタクシーが来てしまい、タクシー乗り場に立っていたこともあって紛らわしい状態になってしまいました。

    あっ、すいません、乗れないんです、予約車呼んでいるので

    幸い、私の後ろからすぐにその待機列のタクシーに乗り込む人がいたのでその運転手にも嫌な思いをさせずに済みましたが、待つ場所は考えないといけないですね。

    初めてDiDiを使った感想としては使えるときは便利だな、というごく平凡なものですが、使えない場所、あるいは呼んでもなかなか来ないときは結局迷うところです。大通りなどに出て流しのタクシーを自分で捕まえた方が早い場合もあるでしょうし、いったん配車が決定してこちらに向かっている間に別のタクシーを捕まえたとしたら、元のDiDiで呼んだ方はキャンセル料がかかってしまいます。

    支払面ではアプリ上で登録済みのカードで引き落としになるのは間違いなく便利です。現金を使わなくて済むので一万円札しかないときにお釣りでが無いとかいう双方が困る状況もあり得ませんし、社内でのカード(あるいは電子マネー)払いにしても数十秒は時間がかかります。それらの支払いの手間が一切無しで、目的地に到着したらすぐに降車出来るというのは急いでいるときには助かるはずです。

    すがに日本中のタクシーがDiDi対応というのは無理でしょうけれど、他の配車アプリも含めてどれかに対応してくれて、配車アプリ経由で呼んだわけではないタクシーでも支払だけでも利用出来るのであればもっといいんじゃないでしょうか。

    運転手側からしたら、
    「お釣りはとっておいて」
    というアクションがなくなりますからこの点はマイナスでしょうけれど、お金のやりとりでの時間が省略されるのは運転手側にとってもメリットでしょう。その代わり、ある程度はITに強くないと利用出来ないとは思います。配車アプリは排他的に選ぶことになっているのかどうか分かりませんが、もしそうだとしたら運転手側・タクシー会社側にとってはどれを選ぶかはギャンブルにもなりますね。

    ちなみに配車アプリは世界中でここ数年、すごい勢いで広がっていますが、その走りとも言えるUberあるいはLiftなどは本来はプロのタクシーではなくいわゆる素人が自分の車でお客を乗せて走るライドシェアサービスです。日本ので白タク行為が法律で禁止されているので、上記のDiDiのように既存のタクシー業界に乗っかかるような形で展開されています。

    日本の規制が厳しすぎる、という意見もあるかも知れませんが、そもそも本家のUberなどが利用者に受け入れられた大きな理由は、
    ・タクシーの数が少ない
    ・料金のぼったくりがある
    といったことがあるはずです。逆に言えば、タクシーの数が多くて料金も適正な国や地域であればライドシェアサービスは出番がなくて当然です。タクシー業界は保護されていますが規制もされています。価格や地域の規制と引き換えに、政府が白タクを禁止しているのは理にかなっています。もちろんタクシー業界にも問題はあるでしょうし、消費者側の不満もあるでしょうけれど、完全にライドシェアサービスを自由化してタクシー業界が破綻させることが本当に消費者の利益になるのか。その点は疑問があります。

    同じようにAirbnb(エアービーアンドビー)といった民宿サービスも、
    ・ホテルが少ない
    ・料金設定に問題がある
    という国や地域であればその存在が正当化されるのは無理もありません。しかし、宿泊施設と値段が問題なければ、これも規制の対象にならざるを得ません。日本の場合で言うと、客室数はあったとしても季節的要因で値段の上下が大きかったり、あるいは今の京都のように観光客が多すぎて部屋数が足りないような場合は、民宿サービスはある程度正当化されるのではないでしょうか。この辺はタクシー業界に比べると既存業界に対して規制も保護も少なめになっている代わりに、昔から民宿の存在があることとやはり釣り合いが取れていると思います。

    これらライドシェア、民宿サービスなどはIT企業、ITを利用したサービスではありますが、世の中に革新的発展、革命を起こすような仕組みとは言えません。既成の構造に対してIT技術で価格破壊を起こしてその差額を利益にする仕組みです。だからこそ、世界中で後発企業が続出できるわけです。Uberの仕組みはUberでしか実現出来ないわけではなくて、アプリやシステム自体を作るよりも協力者を探す方が大変ですから、パイの取り合いになり赤字覚悟でサービスを展開して完全にレッドオーシャンになってしまっています。

    こういったサービスだけではなく、そもそもインターネットそのものが革命なのか、という疑問も沸いてきます。Amazonや楽天に代表されるネットショッピングは確かに便利ですし既存の社会構造を破壊しましたが、通信販売自体は昔からあります。郵便サービス・電信電話サービスが整備された19世紀から20世紀にかけて整備された通信販売そのものの概念の方が革命的でしょう。

    あるいは、Googleやかつてのinfoseekなどの検索サービスは確かに革命的かも知れません。しかし、そのサービスを支える広告という概念もこれまた昔からあります。産業革命以後、商品の供給が需要を大きく上回るようになり、どうやって商品を売り込むかという問題が発生したときに広告業界が生まれました。インターネットは広告の表示方法に一つの手段を追加しただけとも言えます。

    ブログやSNSはどうでしょう。個人が世界中に意見を表明できるようになったと言えば革命的かも知れません。しかし、これも活版印刷や電信電話、郵便のサービス成立によって、語句小規模ながら誰でもお金さえあれば出来るようになりました。インターネットの成立によって出来るようになったというのは難しいのではないでしょうか。

    IT技術を用いるITベンチャーは社会に革命を起こしている、と思いがちですが、既存の業界における非効率性から生じるギャップに手を突っ込んで、効率化してその差額を利益にしているものが大半だと思います。本当に革新的・革命的なサービスというのはそんなになく、19世紀・20世紀に生まれた概念の方が世界を変えてきたのではないかと思います。

    本当にIT技術が世界に革命を起こすのは、数十年後あるいは十数年後のAIの決定的な普及でしょう。人間が動く必要が無くなったときに社会はどうなるのか。それまでのIT技術はその序奏に過ぎないのかも知れません。

  • ウィーン・モダン展を観てきました

    大阪は中之島にある国立国際美術館で開催されている特別展に行ってきました。

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    ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
    https://artexhibition.jp/wienmodern2019/

    リンク開くといきなり悪夢に出てきそうな画像が表示されますが、タイトルになっているクリムトとシーレは後半の方に展示されています。

    18世紀の啓蒙の時代におけるウィーンから、19世紀のウィーン会議、48年の革命、万博などを経て20世紀までを展望する内容でした。

    美術批評などは出来ませんが、多分初めて観たエゴン・シーレの作品は何というか揺れ動いているモノを無理矢理固定化させているような感じがしました。言葉が適切かどうか分かりませんが、観る者の気持ちを不安定化させることで訴えかけるようなものでしょうか。

    一方のクリムトはこんな風に写真撮影可になっている目玉作品が展示されていました。

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    ちなみにこの特別展に限らず、入り口にある展示リストが日本語・英語・中国語・韓国語(ハングル)とそれぞれ用意されていました。作品横の説明書きも4カ国語で表示されていました。

    中国嫌い・韓国嫌いの人が、こういった多言語表示について批判的な意見を言うことがありますが、個人的には隣の国の言語での表示があるのはそれほど変なことではないとは思います。日本語より大きく書かれていればどうかとは思いますが。

    こういった特別展を開催することが出来る国というのはそれほど多くないかも知れません。であれば、こういった展覧会を観光の目玉とする美術ツーリズムも今後は重要になるのではないでしょうか。

    日本の進んだ医学を目当てにする医療ツーリズムが既に存在感を示していますし、日本の伝統的な建築物や美術品目当ての観光客も多いと思いますが、世界中から芸術作品を集めて展示する特別展も、日本独自の芸術的観点から着目したものであれば、インバウンドの呼び水になるのではないかと思います。

    ただ、日本各地の空港が美術館・博物館のある都市部と離れているケースが多いことが問題かも知れません。いっそのこと、大きな空港の敷地を利用してミュージアムをそばに建設するとか、あるいは空港内自体に作ってしまってもいいんじゃないですかね。

    例えば関西国際空港だったら対岸のりんくうタウンの敷地に建ててしまうとか。そうなると逆に都市部に住んでいる住民が行きづらくなってしまうかな。交通機関の混雑や道路の渋滞も招きかねないですかね?

  • 商業ジャーナリズムが抱える本質的な矛盾

    マスメディアの嫌韓、韓国批判がかなり強くなってきました。

    右寄りの人からすれば伝えて当然のことであり批判ですらない、と言うかも知れませんし、左寄りの人からすれば今のメディアは強烈に保守化しているように見えるでしょう。これはどちらもそれぞれの立場から見ればそのように見えるものでありどちらの見方が正しい化という問題ではありません。

    しかし、大半のマスメディアは確たる信念を持って現状の報道を行っているわけでもなく、2000年代前半のように韓流ブームが起きれば(正確に言うと「自分たちが韓流ブームを起こせば」)、韓国礼賛の情報をこれでもかとぶち込みます。そして視聴者が飽き、韓国との関係が悪化すれば今度は現在のように韓国蔑視の情報をまたもやこれでもかとぶち込みます。

    結局のところ、大半のマスメディアは売らんかな・観られんかなの目的が第一にあって内容を決定しています。もちろん利益を上げることと継続して行くことが株式会社の目的ですからそのこと自体はしょうがないのですが、「金儲けを最優先に内容を決めている」ということを認めていないことが問題です。

    いっそのこと、金儲け優先主義ということを公言してしまえば、新聞にしろテレビにしろそれを見る人・買う人はそのことを理解して割り切って情報を取得するでしょうし、報道の公平性や平等性なども問題にはなりません。何せ利益になるかどうかが判断基準なのですから。

    新聞各社にしてもそれぞれ右から左までそろっていますが、思想信条が先に存在して新聞社が出来上がったわけではなく、他者との比較や売上をベースに何を書くべきかをを長年かけて出来上がったことから報道内容が決定されています。戦前と戦後の朝日新聞の違いを見れば分かるでしょう。

    そういった新聞やあるいは雑誌などは買わないと読めません。断片的にはキュレーションメディアで読むことは出来ますが、主張が売上にダイレクトにはすぐには響いてきません。

    一方テレビでは、放送される番組の主義主張は視聴率に直結し、その視聴率は広告営業に直結し、最終的にはテレビ局の売上・利益に直結します。そのため、放送内容は次第に過激化・先鋭化していくのは自明のことです。他局よりも目立つように、他局よりも過激さを追求することで、視聴率を稼ぐことに躍起になります。

    もちろん、そういった過激な主張は局内外の批判を浴びやすいですし、BPOや場合によっては総務省からの規制や圧力もあり得ますが、テレビ局が利益を上げるために存在している以上は放送停止を罰則として適用しない限りは、過激化による視聴率獲得競争を防ぐ手立てはありません。

    総務省による放送停止処分などを話題にするとそれこそ報道の自由が脅かされるという問題が出てきますので、それ以外の手段としては、報道やそれに類するワイドショーなどの番組の視聴率測定を禁止するか、その番組内でのコマーシャルそのものを禁止することでしょう。大企業や政府、政党によるCMが流れている報道番組(これについては新聞も同じですが)にまともなジャーナリズムが存在すると考える方が無理があります。

    韓国の件だけではなく、例えば、テレビでは情報番組というよく分からないジャンルの番組では、勝ち組だのセレブだの富める者を褒めそやしているのに、その前後にあるお堅いニュース番組では貧富の格差の拡大を批判し問題視するという、子どもでも分かるような矛盾を平然と放送しています。そもそも、できるだけ正しい内容を伝えようとするニュースと、できるだけ金儲けをしようとする商業記事・番組が混在していることにこそ矛盾を感じざるを得ません。

  • 言葉の壁があるからこその外国文化体験

    英語が世界の共通語となりつつあります。そして、日本人も英語をもっと話せるようになるべき、という理屈は確かに理解出来ます。英語を話せるようになることで世界中に行くことが出来ます。また日本に来る外国人に対しても英語でコミュニケーションを取ることも出来るようになります。

    そうは言っても、世界中の人々が英語を話すようになると、そもそも外国旅行の醍醐味の一つが減るのではないかと思います。言葉の壁があること、お互いの言葉が理解出来ないところからお互いに言葉を学ぶことというのも、外国に行くことの一つの魅力だと思うのですが、どうでしょうか? 言葉の違いは文化の違いでもあり歴史の違いでもあります。

    もちろん言語の違いイコール文化の違いとはならない場合もあります。同一言語でも文化が異なることも多いですし、逆に一つの文化の中に複数の言語が存在することもあります。しかし多くの場合、国家の違い、文化の違い、言語の違いというのはそれぞれが密接につながっています。パスポートを使って外国に行き(EU圏内だと不要ですが)、自分とは異なる言葉を話す人と出会い、初めて接する文化を体験する、ということが外国旅行の意義というか意味でもあると思います。

    言葉が文化に対して影響を与える一面があることは確かだと思います。特に現代ではインターネットの普及により、英語によるコンテンツを同時にアメリカでも日本でもスリランカでもガーナでも南極でも見ることが出来るようになりました。その影響力は計り知れないものがあります。すぐに全世界で同じ影響と結果が発生するとは限りませんが、少しずつ同質化していくことでしょう。英語を使えるメリットと英語を使えないデメリットを考えると、英語を話せなくて良いと考えられる人、団体、政府というのはまず存在しないはずです。

    既存メディアが同時代を解釈する以上のスピードでネットコンテンツの普及は進んでいきます。世界中の人がNetflixで同じドラマを見ている時代になりつつあるということは、社会や人間の違いにどのような影響を与えるのか。

    同じものを見たからといって同じ人間が出来るわけではありません。それぞれ解釈の違いはありますし、育っている文化も違います。しかし、同じものを見ているのだから同じ意見を持つはずだと短絡的に考えてしまうとすれば、かえってトラブルが増えてしまうのではないでしょうか。

    「自分はこう考えているのだから他人も同じように考えるはずだ」
    という浅慮によってかえってもたらされてしまうトラブルというのはよくあります。

    英語の共通語化という便利さの享受と引き換えに、他者との違いを認識できなくなるとしたら、意識して相互理解をしようとしなくなってしまい、お互いへのリスペクトも無くなってしまうのではないでしょうか。

    将来的に、高性能な自動翻訳機が普及して、会話時に言葉の違いによるタイムラグはほぼ無くなると思います。いっそのこと英語の共通語化よりも自動翻訳機の方が言葉(とそれに伴う文化)の保存が行われてマシなのかも知れないとすら思います。

  • 「生の声」が事実とは限らない

    生の声、という表現をよく聞きます。「生の声」とは言っても実際には発言だけではなく、手紙やメールなどもあり得ますので「声」という表現はあくまで比喩的なものでもあります。

    一般的にはマスメディアなどで、そのメディアの意見ではなくて一般人の意見として取り上げられます。実際にはそのメディアの思想信条に沿わないものは取り上げられないので、純粋に一般的な意見とは言えないものではありますが、メディアの主張よりは一般人寄りの主張として捉えられがちです。

    また、そのメディアによって加工されていない情報として「生の声」というのは重要視されます。当然ながらリアルタイムなものであり、その問題の当事者であればなおさらです。歴史用語で言えば「一次史料」ということになりますね。

    そしてこの「生の声」を取り上げるマスメディアは、「これが市民の本当の意見であり〜〜は重要視するべき!」という主張を展開していくわけですが、上述の「一次史料」として見た場合、大きな問題が実はあります。

    それは、一次史料は必ずしも事実を伝えているとは限らない、ということです。

    歴史学での一次史料とは、例えばその事件が起きたときに見聞していた人の日記や手紙となりますが、日記にしろ手紙にしろ本当のことを書いているとは限りません。

    例えば手紙であれば、書いた人が受け取る人に対して伝えたいことを書くものであり、自分が見聞きした事件などを正確に嘘偽りなく書いているという保証はその手紙内にはありません。他の一次史料などと比較して正確だと「推定できる」ところが限界です。

    「日記は自分しか読まないものだから嘘を書かない」と思うかも知れませんが、そもそも日記を書いた人が当該の事件などを正確に把握しているとは限りません。見たものを正しく解釈していないかも知れないですし、誰それから聞いたという話にしても聞き間違ったかも知れませんし、聞いた話が嘘だったかも知れません。

    もちろん、だからといって一次史料が信用できないということにはなりません。嘘・思い違いも含めて事件の同時代に生きる人の感想や解釈そのものに価値があります。なぜその人が嘘を書いたのか、勘違いしたのかということまで検討することで新たな歴史的事象に光を当てることにもなります。また、一つ一つの史料の信頼性が低くても、複数の一次史料を組み合わせることで高度な推論を組み立てることも出来ます。

    そういった史料批判をすることでようやく、一次史料を使用することが出来るのですが、さて翻ってマスメディアが取り上げる「生の声」というのは、その声を上げた人が嘘も勘違いもないものでしょうか?

  • 上野公園に三国志展と松方コレクションを見に行きました

    先日、ルヴァンカップ準々決勝第2戦FC東京対ガンバ大阪を見に上京した際に、ついでというかスタジアムに行く前に上野に寄りました。

    https://hrsgmb.com/n/n58091c266462

    京にはこれまで何度も来ていたけれど、上野に来るのは初めてです。台風15号が接近する中、天候が不安でしたが羽田空港に朝着いて、モノレールとJRを経由して上野駅で降りたところ、快晴でした。むしろ暑すぎる。台風到来前の特有の蒸し暑さですね。

    お上りさん状態で上野公園をキョロキョロしながら歩き、まずは国立博物館へ。

    お目当ては三国志展です。

    https://sangokushi2019.exhibit.jp

    この国立博物館での開催の後は、関西は無くて九州国立博物館での開催になるので何かの都合があれば見たかったところにちょうどガンバの試合もあったので良かったです。

    国立博物館に入るところの行列が結構あって驚きましたが、チケット売り場も多くてそれほど時間をかけずに入れました。しかし展示されている平成館の前にも行列があり、朝とはいえさすがに日曜日ですね。

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    中に入るとやはり混雑していますが、子ども連れも多く普通の博覧会・美術展なんかとは違いますね。また、ここでは展示物の写真撮影可となっていて、この辺も異なるところです。

    展示カテゴリの最初に、該当する横山光輝の三国志のページが拡大されて掲示されていました。

    日本人にとって三国志というのは、いわゆる歴史書の「正史」の他に、フィクションも追加された「三国志演義」、昭和に書かれた吉川英治の「三国志」やそれを元にした横山光輝の漫画「三国志」、NHKの人形劇「三国志」、コーエーのゲーム「三国志」など、時代とジャンルを問わず様々に派生してきましたが、正史も演義も漫画も網羅した博物展となっていてこういうところも珍しかったのではないでしょうか。

    NHKの人形劇三国志で用いられた、川本喜八郎作の人形もいくつも展示されていました。アラフォー・アラフィフあたりのオッサンホイホイになっていた気がします。私も含めてですが。

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    最後、グッズ売り場も大混雑でしたが、川本喜八郎作の人形をフィギュアで有名な海洋堂が復刻したミニチュアモデルフィギュア(1個540円)を買いました。諸葛亮でした。

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    さて、国立博物館から出てきましたが、まだ試合開始時間までは時間があるので、もう一つの目的の国立西洋美術館で行われている松方コレクションにも行くことにしました。

    https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019matsukata.html

    三国志展も松方コレクションも9月で終わりなので本当に良いタイミングでした。

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    チケット売り場で並んでいる間にスコールのような雨が降っていましたがそれはいったん忘れて中に。

    作品のリストは上記リンク先にあるので個別には書きませんが、有名な芸術家の名前が並んでいて驚かされます。モネ、ロダン、ミレー、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、ドガ、マネ、マティス、藤田嗣治などなど。戦前の日本が先進国だったであろうことはこの豊富なコレクションからも見て取れるのではないでしょうか。

    ちなみに展示物の最初にデジタル技術を用いて推定復元されたモネの睡蓮が巨大モニターに映し出されていて、展示の最後にはその復元前のボロボロになった同じ作品の現物がありました。

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    松方コレクションの一部は購入した欧州で保管されていたものもあり、それがナチスドイツの戦火に巻き込まれて散逸してしまい、ようやく見つかったときには保管状況の悪さからとてつもなく劣化していたわけですが、今回の松方コレクションの展示のメインテーマはこれだったのでは無いかと思います。

    明治期からの殖産興業で豊かになった日本人が美術品を買い、
    第二次世界大戦中のナチスドイツによる侵略と収奪から逃れるために隠され、
    戦中戦後の混乱の中で重要な美術品でさえ散逸され、
    見つかった時には汚損されていたが修復し、しかし破損している部分はそのまま残すことで、この一連の流れがモネの一枚の絵に集約されて表現されることになりました。

    もちろんモネ自身の意図とは全く関係ないことではありますが、一枚の絵が20世紀の悲劇の歴史をその中にとどめる形となり、それはまた美術品に不朽の価値を付け加えることになりました。完璧に保存された作成当時のままの美術品とは全く異なる魅力、人の心に訴える力を、このモネの半壊した作品は永遠に持つことになったのです。