グレタ・ドゥンベリさんの演説に対する反応よりも大切なこと

スウェーデンのグレタ・ドゥンベリさんの国連演説を受けて賞賛したり批判したり色々と議論が巻き起こっています。あれよりも無茶苦茶なことを言っているトランプ大統領がこの3年間受けてきた反応に比べたらそれほどでもないので、世間一般の人にしてみたらそれほど重要でもないのかも知れません。

あるいは、学生(高校生)なら勉強するのが本分のはずだ、という意見もありますが、今の勉強が将来地球が破滅したら無駄になるのですから、今の地球を破滅させないでくれ、と若い世代が要求するのは至極当然かなとも思います。

個人的には彼女を持ち上げて自分の意見を投影している大人達の方が酷いと思います。

前にこんなnoteを書きました。

https://hrsgmb.com/n/n65737c4c5ccf

ここでは、マスメディアが取り上げる一般人の意見がそもそも正しいという前提がおかしい、ということを書きましたが、それは今回のグレタ・ドゥンベリさんの演説も同じです。彼女の演説に対して行うべきは、その中にある現状認識や将来への提言が果たして正しいか、正しいならそれをどうやって実行すべきか、ということを議論することです。決して彼女個人のパーソナリティや経歴などをあれこれ言うのを優先させるべきではありません。それは批判的意見だけではなく、彼女を賞賛する側に関してもそうです。持ち上げるにしても内容を褒めるべきであって、「まだ若いのに」とか「勉強をかなぐり捨ててまで訴えた」ことをあまり取り上げるべきではないでしょう。

マスメディアにしろリベラルな人にしろ、どうも自分の意見を自分の意見として出すのではなく、他人もこう言っているよ、だから自分の意見も正しいよ、という展開がお好きなように思えます。

民主主義国家では基本的に多数決で物事が決まっていきます。だからといって多数決で何でも決めていくのは「数の暴力」だといってそれこそリベラルが保守を批判するときに使う言葉ですが、それはブーメランのように返ってきます。他人が自分と同じ意見を持っているからといって、そしてそれが多数だからといってその意見が正しいとも限りません。

以前にも春秋左氏伝から逸話を紹介しましたが、今回は成公七年の11条目にある、
「晋の欒書、師を帥いて鄭を救う」
の箇所を少し引用します。

この時、晋という大国の宰相だった欒書は傘下の鄭の国が楚に攻め込まれたところを救援し、次いで楚の属国の蔡に攻め込んだところで楚との決戦になりそうになりました。多くの大臣や将軍(当時は大臣が軍を将として率いていました)が開戦を望みましたが、わずか3名の将が無理な戦を諫め、欒書がそれを飲んだことで引き揚げになりました。
その際に、欒書に対して好戦派の将が
「なぜ多数の願いに従わないのか。宰相は民の願いを汲み取るべきであり、十一人中わずか三名の反対を受けて引き揚げるのはおかしい」
と言うと、欒書は
「どちらも良い意見の場合に多数に従うのだ。良い意見は多数の民を支え手である。反対の三名はいずれも大臣として国を支えている。その三名で十分多数と言えるのだから、開戦に反対の意見に従っても良いはずだ」
と言って退けました。

作家の宮城谷昌光さんは、この場面を小説の中で取り上げ、至言と絶賛していました。まさにそうです。多数決そのものは直接的に善悪を判断しません。あくまで意見の賛同者の数を競っているだけです。

多数決に基づく民主主義は、国民や市民一人一人が善悪を判断した上で、多数決に参加するのであれば大きな間違いはしないはず、という前提で成り立っています。

自分の意見が他人と一緒だからといって、そしてその数が多いからといって、その意見の善悪そのものが判断されるわけではありません。

これはリベラルにも保守にも言えることです。

本当に正しいことはなにか、正しい意見はどっちか、どうすれば正しく物事を進めて行けるのか。

議論すべきはそこにあります。決して意見を言っている人間の外見や、経歴や、立場をあれこれ議論することが優先ではありません。

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