1979年に始まったソ連によるアフガン侵攻は、翌80年モスクワ五輪の西側諸国のボイコットを引き起こしました。日本も当然西側の一員としてボイコットに加わり、それは波紋を呼びました。次いで1984年のロス五輪への東側諸国の報復ボイコットにつながり、政治とスポーツの関係性について大きな汚点ともなりました。
しかし、今まさに起きているロシアによるウクライナ侵攻に対するスポーツ界でのロシア拒否の反応は、ほとんど反対の声も無く当然のこととして受け止められているように思えます。
冬季北京オリンピックでは、中国批判の流れはあれど、選手参加は認めて政府首脳は参加しない政治的ボイコットに留まりました。それでも、中国の件にしろロシアの件にしろ、スポーツが政治に振り回されているのは確かですが、どうしたって現代スポーツと現代政治を完全に分離は出来ません。
近代国家におけるスポーツ(日本における体育)は、国家統合・徴兵のために政府に利用されましたが、20世紀後半の現代国家では、福祉的に健康増進・長寿のための振興や、ビジネス的な巨大産業として発展してきました。
そしてスポーツにお金を出す政府と大企業は、自由民主主義国家において国民及び消費者の意向を無視するわけにはいきません。ロシアの侵略行為に対して政府や大企業が否定するのと同様に、スポーツ界も金主と連動して動くことになります。かくて、スポーツ界がロシアにNOを突きつけることになります。
この一連の動きを、「スポーツを政治が利用している」という観点から批判もされることがあります。その見方は確かに一面を正しく捉えていますが、あくまで一面であり逆の面では「政治をスポーツが利用している」のです。
政治に関わる行為をスポーツ側がすることにより、スポーツの地位が国内的にも国際的にも認められることになります。もしスポーツ界が、ウクライナ侵攻を認めたり、あるいは無かったことのように扱ったりすれば、社会的に存在価値を失いかねません。だからこそ、スポーツは声を上げて侵略を非難せねばならないのです。
今回のロシアによるウクライナ侵攻に関連して、スポーツ界がロシアを拒否する運動は、スポーツが政治を利用して平和を促すための行動です。すなわち、まさに今、「平和ではない」状況だからこそ実施される手段であり、これによりロシア軍及びプーチン大統領の非を高らかに非難するための修辞的行動です。
もちろん、プーチンにして見ればチャンピオンズリーグの決勝の舞台がモスクワから強制的に変更されたとて、ウクライナに伸ばした食指を引っ込めるわけがありません。スポーツ界がロシア軍を物理的にシャットアウトすることなどは不可能です。
だからこそ「修辞的」ではあるのですが、意味が無いことではありません。
もし万が一、ロシア国内(あるいはベラルーシなど)でのスポーツ参加している間に情勢がさらに緊迫化すれば、国際色豊かなスポーツ選手達は人質になりかねません。
あからさまに人質だとロシア側が表現しなくても、例えば監禁された上で公には亡命を求めていると発表される可能性だってあります。捕まった人間を脅迫し、撮影したビデオメッセージを世界に公開する手法は、イスラム国などがさんざんやってきています。
スポーツ界におけるロシア排除の動きは、プーチン信奉者でないロシア人スポーツ選手にとっては悲劇でしかありませんが、その悲劇を起こしたのは誰かということに気付かせる一助にはなるでしょう。ただ、あくまで政治・軍事・外交・経済においてプーチンの野望を打ち砕いてこその一助であることに代わりはありません。
新型コロナの混乱がまだ終息を迎えない中での、世界の安全保障の危機を起こしたロシアとプーチンは、100年後には非難と極悪のレッテルを貼られる歴史が待っていることは言うまでもありません。しかし、この惨劇を終わらせるには今まさに生きている人間が覚悟を持ってロシア軍とプーチンを止めるしかありません。
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