暴力において正義と悪は区別が付かない

秀岳館高校の問題は、あると言えば多くの学校でもあることなのだと思ってしまいます。もちろん、昔よりは部活での体罰・暴力は減っているとは思いますが、令和の時代でもまだまだ残っていることは残念です。

生徒達が体罰を拒否していないからという理由も、体罰をする側がよく使う言い訳です。指導のためにやむを得ないとか、悪いことをした(ミスをした)相手が認めているから涙を流しながら暴力を振るっているのだ、と言います。

しかし、指導する側とされる側で明確に立場が異なり、上下関係が存在する中で、「相手が体罰を振るわれることを認めている」という理屈がどれほど信用できるのか、という問題が出てきます。指導者側としての立場によって、暴力容認を強要しているのではないか、という疑念は尽きません。

法律的なことを言えば、暴行・暴力は親告罪ではありません。相手が許していてもダメなものはダメです。

DV、家庭内暴力でも似た図式があります。暴力を振るう側を、振るわれた側がかばいます。依存、あるいは共依存関係にあると、その点においては正常な判断が出来ません。「自分が悪いから暴力を受けるのだ」という、自分への加害行為を被害者側が正当化してしまいます。

体罰だろうと暴力だろうと、アカンことはアカンのです。

さらに恐ろしいのは、保護者側が部活指導者に対して、我が子への体罰を容認する向きがあることですが、これは今回の事件だけではなくて日本中の部活においても同じことでしょう。もちろん大半の保護者は認めないでしょうけれど、部活だろうと何だろうと保護者が体罰を容認したら子どもは逃げる場所が無くなりますよね。

「自分が正しくて相手が間違っているから暴力を行う」ことが正しいかどうか、というのは古今東西、未来永劫、人類が抱える問題なのだと思います。

内情はどうあれ、表向きはロシア軍によるウクライナ侵攻は、「間違っているウクライナを正しいロシアが咎める」という理屈を建前にしています。

SNSでの誹謗中傷も、
「相手が間違っているから悪を指摘しているだけで自分は正しい」
という自己正当化の下に書き込まれます。

国家権力は暴力装置によって維持されますが、その行使には厳しい法的制限が存在します。だからこそ国民がそれに従っているのですが、その行使が無法状態になれば革命の芽が出てきます。

正しい暴力と悪い暴力には本質的に違いが無く、区別することは根源的には不可能です。正しい暴力も悪い暴力も、行使する側は正しさの下に実行します。そのため、正否の判断は法律に基づいて行われているかどうかしか出来ません。法的根拠があるかどうか、あるいは法的制限を逸脱しているかしていないかということで判断します。

国内法によって立つ政府を維持するための暴力装置を国内法で根拠を与えるのは自家撞着にも思えますが、最大多数の最大幸福を求めればそうせざるを得ないのでしょう。

問題は、原則的に自力救済の関係にある国際社会においてです。国際間の暴力装置は本来、国連軍が担うはずですがそんなもまあ、アメリカがやったようなことをロシアがやってはいけないのはなぜか、という理屈があるのは認めますし、「領土拡張の意図があるかないか」だけでアメリカの武力行使を認めてロシアのそれを悪と決めつけるのも難しいですが、ウクライナにしてみたらどうしたって対抗するしかありません。

ウクライナが抗戦するのを否定する人って、根本的には体罰容認派なんでしょうね。

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