食べ物ルッキズムから考えるルッキズムの許容度

昨今は、ルッキズム批判や「ルッキズム批判」批判が盛んですが、外見が良い人が外見の良さだけで優遇されるルッキズムへの批判は、それなりの説得力があります。ただ、外見が良いこと「だけ」で優遇されているかどうかというのは、判断が付きづらい場合もありますし、また、「外見が良いこと」自体が悪いことのようにまで極端化していくと、今度は「ルッキズム批判」批判に賛同者が増えてきます。

ルッキズムは一切許されない、と主張するのは結構ですが、外見・見目が良い人が悪い人よりも悪い待遇をされたらそれはそれで不公平でしょう。

あくまで公平なら、少なくとも五分五分になって当然です。

外見の良い人が、その中身も良ければ、その人が選ばれて当然だが、それをルッキズムと批判するのもおかしいです。外見の良い人が、中身は悪いのに外見の良さだけで選ばれるのならルッキズムという批判が妥当な場合もあります。

では、外見に差がある2人で、中身の差がどれくらいあれば外見が不利な人が選ばれるのか。あるいはどれくらい外見が良ければ、中身の悪さをカバー出来るのか。

例えば、曲がったキュウリでも真っ直ぐなキュウリと同じなのだから、とはよく言いますが、品種や生産地など外見以外が同じとして、値段が全く同じなら真っ直ぐなキュウリを買いたくなるのはおかしなことではないでしょう。

では、その2本のキュウリの値段が違うなら、どの程度の価格差なら真っ直ぐなキュウリを諦める、あるいは曲がったキュウリを進んで買うでしょうか?

この価格差は、買う人側の事情によって変わります。料理で使うにしても、野菜スティックを作るためというなら真っ直ぐでないといけないため、結構高くても真っ直ぐなキュウリを選ぶでしょうし、千切りや薄切りにするのでどっちでも一緒という人は価格差が少しでも安い方を買うでしょう。子どもにスライサーを使わせる人なら安全のために持ちやすい真っ直ぐなキュウリを買わざるを得ません。

そう考えていくと、現実の人間で、中身が良くて外見が良くない人と、中身が良くなくて外見が良い人のどちらが選ばれるか、という問題は、個々のケースで選ぶ側の事情で、選んだ後の人の利用・起用する内容によって答えが出てくることになります。

人間とキュウリを一緒にするなと怒られそうですが、この辺は社会心理学的な思考実験として、結構面白いと思うのですけれどどうでしょうか?

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