法的な罪、道徳的な罪、SNS上の罪

法的な罪は、罰を与えられることで社会的には赦されることになります。もちろん前科がつきますし、罪を犯す前と全く同じ人生を歩むことは出来ないでしょうが、罪が残ることにはなりません。それは、被害者(あるいはその遺族・関係者)が赦していなくても、司法によって裁かれ、罪を償ったらそれで「法的な」罪は終わります。

加害者がその罪に対して謝罪の気持ちが一片も無かったとしても、刑法上の上限の刑罰を科されれば終わりです。出所してしまえば謝罪しようがしまいが、法的には罪を犯していない人と同様の権利を得ます。

また、罪によっては時効もあり、その時効を過ぎたら刑罰を科すことが出来なくなりますし、裁くことも出来ません。

その一方で、道徳的な罪には当然ながら時効はありません。その加害者と被害者がこの世に存在する限り続くどころか、それら当事者が他界した後でも、その人たちを知る人が生きていれば道徳的な罪は永遠に残ります。歴史的な事件・事故であれば、文字や写真・映像によってその記憶と記録はずっと継がれていくことになります。

道徳的な罪を償うことが出来るかどうかは、当然ながら裁判所や政府が赦すということもなく、ただ、被害者が赦すかどうかだけにかかってきます。被害者からの赦しを得るには、加害者側の謝罪、態度、償いなどが必要な事は当然ですが、被害者側の気持ちにかかるところが100%です。

そう言えば、日本語では一文字で「罪」と書きますが、英語では「sin」と「crime」に分かれます。前者が宗教的・道徳的な罪、後者が法的な罪に分かれます。

「sin」は宗教上の罪、すなわち神の教えに反したことへの罪であり、赦しを求める先は神です。そのため、その神の教えに関わる教会や聖職者に対して罪を告白します。ルターの宗教改革で槍玉に挙げられたカトリックの贖宥状も本来はそのためのものです。

日本においては道徳的な罪は神に対するものではなく、法律上の裁きにかからないものが対象になるのでしょうが、だからといって罪そのものが軽いわけでもなく、対処を誤れば一生あるいは永久に罪が残ることになります。

そう考えると、道徳的な罪の方が難しいでしょうか。法的な罪に関しては弁護士に任せてしまえる気楽さはあります。

あと一つ、現代においてはSNSを始めとするインターネット上における罪もある気がします。匿名の状態で書き込みによる罪を得たら、誰に赦しを乞えば良いのか。謝る対象・罰を与える対象がいないと、赦しを得ることも出来ません。

特定個人や組織に対する罪ならともかく、不特定多数に対する罪となると、法的な罪のように罰を与える者も無く、道徳的な罪のように赦す被害者もいません。SNSの運営側からのアカウント削除、BANはまた違う気がします。

まあ、SNS上で自分が罪を犯したと自覚する人なんて、まずいないのかも知れませんがね。

SNS上の罪は、法的な罪と道徳的な罪の悪い意味でのハイブリッドであり、対処出来るようになる人類はもう少し後の時代に生まれるのでしょうか。

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