遅くて間違うことが人間の価値になる

AI、コンピュータ、ロボットによって仕事を奪われるという怯えを持っている人は多いでしょう。実現するかどうか分からない脅威を喧伝することで報酬を得ているような人はどうしたもんかと思ってしまいますが、実際に奪われる人は出てくるでしょう。それが予測通りなのか、あるいは予測より多いか少ないかは別として。

電卓の普及後にソロバンは仕事現場から姿を消し、ワープロの普及後に字の綺麗さは求められず、コピー機の普及によって謄写版も無くなりました。

何かが新しく生まれれば何かが消えるのは世の常です。AIに取って代わられる仕事も人類の長い歴史の一ページに過ぎません。

コンピュータには普通の人間と比べて、正確かつ速いという圧倒的な利点があります。逆に言うと、その辺を持ち味としているビジネスパーソンは、それだけだと仕事を奪われてもおかしくありません。実際には、現時点でのコンピュータはそこまで自律的ではなく、人間の方もそれだけの人なんていないので、正確で速い人は職場で重宝されます。

しかし、いずれはあらゆる面でAIが人間を超えてしかも便利に使えるようになるのは間違いありません。そうなれば正確さや速さを得意としているだけでは人間は価値を証明できなくなります。

むしろそういう時代になれば、遅くて間違いをすることが人間としての価値になるんじゃないでしょうか。

かつて銀塩写真の登場によって、絵画の情報伝達機能や描写・写実的価値は一気に意味をなさなくなりました。しかしそれでも一世紀半を経過した今でも、絵画にも、絵を描くという行動にも価値は存在します。

レコードの登場によってプレーヤーさえあれば、いつでもどこでも変わらない音楽を楽しめるようになりましたが、近年ではコンサート・ライブの価値は見直され、むしろ高騰してきているくらいです。

絵画も音楽も、写真やレコードに比べれば過去の再現性という観点から見ると劣るはずですが、逆にその劣っていることが新たに価値として認められています。

間違わないことはコンピュータに任せて、人間はゆっくり間違えて訂正することが人間とAIの共存する社会において、人間の果たすべき役割になるはずです。

AIが人間の仕事を奪ったとしても、奪われた理由の真逆のポイントにおいて、人間としての存在価値は出てくるんじゃないでしょうか。

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