Wikipedia引用なんて可愛いものかもしれない

私の勝手な想像ですが、今年、もっというとこの数ヶ月間において、大学教員の間で学生のレポートに関する悩みの質が大きく変化してきたのではないでしょうか。その変化は、デジタル技術の進化と密接に結びついているように思えます。

かつて彼らが頭を悩ませていたのは、Wikipediaからの無断引用でした。学生たちは、何の疑問も持たずにWikipediaの記事をコピー&ペーストし、それを自分の考察であるかのように提出してきました。確かに、その時点でも問題は深刻でしたが、今から思えば、それは比較的対処しやすい課題だったのかもしれません。

なぜなら、Wikipediaからの引用には、はっきりとした特徴があったからです。まず、文体が不自然に変化します。学生の稚拙な文章の中に、突如として洗練された百科事典的な文章が現れる。その落差は、経験のある教員であれば一目で判別できました。また、同じ科目を受講している学生たちの間で、不自然なほど似通った記述や引用が見られることも、重要な手がかりになりました。

しかし、2024年の今、状況は一変しています。生成AIの普及により、レポート作成の「お手伝い」は、はるかに高度化し、かつ発見が困難になってきました。

特に警戒すべきは、部分的な利用です。全文をAIに生成させる場合、それはそれで不自然さが目立ちます。ところが、序論だけ、結論だけ、あるいは特定の章だけというような部分的な利用の場合、その発見は途方もなく困難になります。さらに、最近の生成AIは文体の模倣も得意としています。学生の普段の文章に近い調子で文章を生成することも可能なのです。

ある大学の調査では、提出されたレポートの30%以上に何らかのAIの関与が疑われるという結果が出ています。しかも、その多くが部分的な利用だというのです。これは、氷山の一角に過ぎないかもしれません。

しかし、より深刻な問題は、この状況が学術研究の世界にも及びつつあることです。プロの研究者による論文でも、AIの不適切な利用が疑われるケースが報告されています。実際、最近では信頼性の低い論文の撤回が相次いでいるといいます。

考えてみれば、研究者にとって、論文の本数は重要な評価指標の一つです。特に若手研究者は、限られた時間の中で成果を出すことを求められます。そのような状況下で、AIという「便利な道具」が存在するとなれば、その誘惑に駆られる人が出てくるのも、ある意味で自然なことかもしれません。

問題は、そのような「似非研究」を見分けることが、従来の手法では難しくなってきていることです。AIは、既存の研究論文を学習データとして、それらしい論文を大量に生成することができます。形式的には完璧で、一見すると学術的な価値があるように見える論文が、今後ますます増えていく可能性があります。

これは、学術界における一種の「インフレーション」と呼べるかもしれません。かつての商業出版では、「重版出来」が作家の誇りでした。しかし、電子書籍の時代において、その言葉は徐々に意味を失いつつあります。同じように、論文の「数」自体が、研究者の評価指標として意味を失う日が来るのではないでしょうか。

いくつかの学会では、すでに新しい評価基準の検討を始めています。量的な評価から質的な評価へ。これは、AI時代における学術界の生存戦略の一つになるかもしれません。

究極的には、私たちはAIとの新しい関係性を構築していく必要があります。AIを、考えるためのツールとして使う。答えを出すためではなく、より良い問いを立てるために活用する。そのような使い方が、今後ますます重要になってくるでしょう。

Wikipedia時代の剽窃対策は、すでに確立された手法があります。しかし、AI時代の「真贋」を見分ける目は、まだ私たちの手元にありません。その意味で、今の状況は過渡期と言えるでしょう。新しい技術と、それに対応する新しい倫理。その両者が確立されるまでの道のりは、決して平坦ではないかもしれません。

しかし、そこで立ち止まるわけにはいきません。技術の進歩は、常に新しい課題を私たちに突きつけてきました。その都度、私たちは知恵を絞り、対応策を見出してきたはずです。AI時代の学術研究においても、必ずや新しい指針が見えてくるはずです。そう信じて、試行錯誤を続けていくしかないのではないでしょうか。

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