ショートショート「権利の価格」

どの国も資本主義化が行き過ぎてしまった。貧乏なのは自己責任。モノを買えないのも自己責任。権利を買えないのも自己責任。誰も助けてくれない世の中だ。

西暦20XX年、世界は超資本主義社会になった。あらゆるものが商品となり、生きるために必要な権利さえも金銭で取引されるようになって久しい。

休日? もちろん買うものだ。額に汗して働いた後、体を休める権利さえも富裕層の手に握られている。逆を言えば、貧乏人は休む暇もなく働き続けなければならない。だが、皮肉なことに、その休日を売ることもできるのだ。生活に困窮した者は、貴重な休息を金に変え、明日への糧を得る。

愛する人と結ばれる権利、結婚。新しい命を授かる権利、出産。これらも当然、購入しなければ叶わない。そして、売ることもできる。金に目が眩んだ者は、愛する伴侶との未来を、我が子の誕生を、富裕層に売り渡す。

極めつけは「死」。人生の終焉を迎える権利さえも、この社会では商品と化していた。死は安らぎではなく、高額な商品なのだ。金のない者は、朽ち果てるまで生き続けなければならない。国家や大企業は、彼らを労働力として搾取し続ける。延命措置を施され、意識が朦朧とする中でも、機械のように働き続けるのだ。

「ああ、死にたい」

薄暗いアパートの一室で、俺は呟いた。窓の外には、ネオンが煌めく未来都市が広がっている。だが、目に映る景色は、人の心を躍らせるものではなく、ただ灰色に染まっていた。

貧しい家庭に生まれ、幼い頃から権利の売買を目の当たりにしてきた。結婚、出産、そして死。どれも俺の手には届かない、高嶺の花だった。

この超資本主義社会で、何とかして生きてきた。学もコネもない以上、エリート的なホワイトカラーの仕事なんて就けやしない。かといって、非人道的な働き方が、本人の希望という建前で強制されるブルーカラーの仕事もとてもじゃないが無理だ。

なんとか、社会の隙間のような仕事を続けながらも、自分が自分でなくならずに、自我を保ち続けたことが出来た理由は、「書くこと」だった。

若いうちから社会の矛盾を鋭く批判を文字にしてきた。この超資本主義社会の闇を暴き、人間の尊厳を取り戻すための、自分の内面から溢れ出た魂の叫びだった。

しかし、俺にはその記事を発表する権利がない。この社会では、小説にしろノンフィクションにしろ、あらゆる文章を発表する権利さえも、高額な商品として取引されているのだ。

「こんな世の中、間違っている」

人生の集大成とも言える文章を、ようやく書き終えた。この完成した批評を、路地裏の闇に捨てるわけにはいかない。俺の持てる財産を全て投げ打って、「発表の権利」を購入するのだ。たとえ、それが俺の人生を破滅させるとしても。

手続きを終え、震える手で記事を投稿する。数分後、俺の書いた記事は、インターネット上に公開された。反響は、想像をはるかに超えるものだった。人々は、俺の言葉に共感し、社会の不条理に憤りを感じた。

しかし、その喜びも束の間だった。巨大な権力を持つ国家や大企業は、俺の行動を黙って見過ごすはずがなかった。やつらは、俺を「社会秩序を乱す者」として、厳しく罰することを決めたのだ。

理由は当然ながら、
「国家に対して批判する権利」
「特定の企業に対して批判する権利」
を購入せずに批判したからである。

俺は、全ての財産を没収され、身柄を拘束された。俺に残されたのは「生きる権利」だけであり、「死ぬ権利」を買う金がない以上、自ら死ぬことすら許されない。

拘束された施設の中で、過酷な強制労働に従事させられた。その労働の目的も、精神や肉体を痛めつけるためのものではない。これもまた当然ながら、かつて購入しないままに行使してしまった、
「国家に対して批判する権利」
「特定の企業に対して批判する権利」
の代金を支払うためだった。

そしてまたこれも当然のことながら、未使用の権利行使に伴う遅延利息と賠償金は、日々の強制労働では賄えないものであり、永遠に俺の借金は増えていく。

過酷な労働に精神も肉体も限界に達したとき、急に目の前が真っ暗になった。意識が薄れゆく中で、ようやくこのクソみたいな社会からおさらばできる喜びを感じつつ、永遠に気を失った。

当然のことながら、俺は幽霊もあの世も信じていない。天国なんかあるわけがないし、そもそも生きていた社会が地獄だったのだ。

生まれてから死ぬまでのことを思い出しつつ、俺は、生きていた頃の年収に匹敵する運賃が掲げられた看板を見上げながら、三途の川を前に立ち尽くしている。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA