脳貨幣(2)

https://hrsgmb.com/n/nf4b90aa031a2

第二部:上昇気流

第四章:仮想通貨経済圏

 工藤武志がブレインマイニングを始めてから三ヶ月が経過した。二〇四〇年の東京は、夏の猛暑から徐々に秋の気配へと移り変わりつつあった。しかし、社会の変化はそれ以上に急速だった。街中にはニューロン円通貨対応の店舗が次々と開業し、ブレインマイナーの識別マークを掲げる人々の姿も珍しくなくなっていた。

 武志はコーヒーをすすりながら、タブレットでニュースを確認していた。新築の1LDKアパートの朝の日課だった。

「ニューロン円通貨、国際決済手段として初の正式承認。欧州中央銀行が正式取引通貨として認定」

 朝の光が窓から差し込み、清潔な室内を優しく照らしていた。以前の薄暗いボロアパートとは別世界のような空間だ。部屋の片隅には小さな観葉植物が置かれ、キッチンには昨日買ったばかりの調理器具が並んでいる。

 彼のニューロン円カードの残高は既に百万円相当になっていた。三ヶ月で貯まった額としては、彼の人生で前代未聞のものだった。そして何より、その収入は眠っている間に得られるものなのだ。

「信じられないよな」 武志は独り言を呟いた。彼が実験に参加した頃は懐疑的な意見も多かったニューロン円通貨だが、今や世界中で認知され始めていた。その価値を支えるのは、彼のような普通の人々の脳が提供する計算能力だ。

 スマートフォンが鳴り、新しいメッセージを知らせた。高橋からだった。

「今夜、新宿のネオブレインで会おう。大事な話がある」

「了解」 武志は短く返信した。高橋とは定期的に会うようになっていた。彼はブレインマイニングの先輩として、様々な情報やコツを教えてくれる貴重な存在だった。

 シャワーを浴び、新調した服を着た武志は、外出の準備を整えた。ブレインマイナーの識別マークが入った小さなピンを襟に付け、ニューロン円カードをポケットに滑り込ませる。それは新しいアイデンティティの象徴のようだった。

 外に出ると、街の変化が一層鮮明に感じられた。歩道を行き交う人々の中に、首や耳の後ろに小さな青いマークを持つ人が増えていた。マイニングデバイスの位置を示すそのマークは、多くの人がオプションで付けることを選んだファッションアイテムになっていた。それは一種のステータスシンボルとして機能し始めていたのだ。

 街中でも、マイナー割引やニューロ円特別価格を掲げる飲食店や小売店が増えてきた。当初は懐疑的だった店舗側も、ニューロン円通貨の流通量が増えるにつれ、積極的に受け入れ始めていた。政府は税制面での優遇措置を設け、ニューロン円経済圏の拡大を後押ししていた。

 電車に乗り込んだ武志は、車内広告に目を向けた。かつては求人広告や消費者金融の宣伝で埋め尽くされていた空間が、今やブレインマイニング関連の広告に占められていた。

「あなたの眠りをもっと価値あるものに!マイニング効率向上サプリ」「ブレインマイナー専用住宅ローン、頭金ゼロ、審査簡単」「次世代マイニングデバイス予約受付中—効率20%アップ保証」

 広告の隣には、政府の啓発ポスターも貼られていた。「ブレインエコノミー:共に築く新しい日本経済」というスローガンの下、笑顔の家族がニューロン円カードを持つ姿が描かれている。

 新宿駅に到着すると、武志はさらに大きな変化を目の当たりにした。駅前広場には「ニューロン円プラザ」と名付けられた特設空間が設けられ、ブレインマイナー向けの様々なサービスが集約されていた。専用ラウンジ、健康相談所、マイニング効率分析センターなど、三ヶ月前には想像もできなかった施設が並んでいた。

「武志!こっちだ」 プラザの入り口で高橋が手を振っていた。彼の隣には見知らぬ男性が立っていた。スーツを着た三十代半ばの男性で、知的な印象を与える眼鏡をかけていた。

「遅れてごめん」 武志は二人に近づいた。」

「工藤、こちらは佐藤さん。サイベル社のリクルーターだ」 高橋は男性を紹介した。

「初めまして、サイベル社の佐藤健です」 男性は丁寧に頭を下げた。 「高橋さんから、あなたのことを伺っています」

 武志は若干の戸惑いを覚えながらも挨拶を返した。サイベル社。その名前は以前、中原との会話で聞いたことがあった。ブレインコンピューティング技術の最前線を走る民間企業だ。

「場所を変えましょう」佐藤は二人を促した。「詳しい話は、もう少し静かなところで」

 三人は「ネオブレイン」と呼ばれる高級レストランに向かった。入り口では厳重なセキュリティチェックが行われ、ニューロン円カードのスキャンに加え、生体認証も求められた。

「ここは特別なマイナー向け施設なんだ」 高橋は武志に小声で説明した。「一般人は入れない」

 店内は薄暗く、青い光で照らされていた。それはまるで武志が接続時に見る世界を模したようなデザインだった。各テーブルは半透明のパーティションで区切られ、高度なプライバシーが確保されていた。

「お二人とも、ブレインマイニングの成績が非常に優秀とお聞きしています」 席に着くと、佐藤は静かに話し始めた。「特に工藤さんは、最短期間で効率向上を達成した数少ない方の一人だそうですね」

 武志は首を傾げた。「どうして私の成績をご存じなんですか?」

 佐藤は意味ありげに微笑んだ。「我々サイベル社は、政府のブレインマイニングプログラムの技術提供パートナーです。データの一部は共有されています」

 彼はタブレットを取り出し、画面を二人に向けた。そこには複雑なグラフと数値が表示されていた。

「これがあなた方のマイニング効率推移です。平均より遥かに高い上昇カーブを描いています。特に、工藤さんのガンマ波パターンは、我々が探し求めていた理想的な形状に近いのですよ」

 高橋は得意げに武志の肩を叩いた。「だから紹介したんだ。お前、才能あるみたいだぞ」

「才能?」 武志は困惑した。「私は特別なことは何もしていませんが」

「それこそが才能です」 佐藤は熱心に説明した。「多くの人は努力してもマイニング効率を上げられません。あなたのような方は稀です」

 料理が運ばれてきた。一見するとフランス料理のコース料理のようだが、各皿には「脳神経活性化」「マイニング効率向上」などの効能が記されていた。料理の色彩も鮮やかで、特に青と紫のグラデーションが美しい前菜は芸術作品のようだった。

「本題に入りましょう」 食事が進むと、佐藤は声をひそめた。「サイベル社では、政府プログラムよりも高度なブレインマイニングシステムを開発しました。効率は政府システムの約二倍から三倍あり、報酬も同様です」

 武志は箸を止めた。もし、現在の三倍のブレインマイニング報酬があるとしたら、月額の報酬が、彼がかつて正社員だった頃の年収に達しかねない。あまりに魅力的だった。

「ただし、リスクも高くなります」 佐藤は続けた。「負荷が大きいため、副作用の可能性もあります。不眠や頭痛、まれに一時的な記憶障害なども」

「でも報酬が良ければ、それも受け入れられる範囲だろう?」 高橋が武志に視線を向けた。「俺はもう契約したよ。来週から新システムに移行する。稼ぎまくってから引退して、本当の悠々自適の生活に入る」

 武志は考え込んだ。確かに魅力的な提案だった。しかし、ここ数ヶ月で安定した生活を手に入れたばかりの彼には、新たなリスクを負うことへの躊躇いもあった。

「検討する時間をいただけますか?」

 佐藤は理解を示すように頷いた。「もちろんです。ただ、来週までには決断をお願いします。枠には限りがありますので」

 武志は高級レストランの青い照明の中で、自分の将来について深く考え込んだ。ポケットの中のニューロン円カードが、いつもより重く感じられた。

 食事を終え、店を出た三人は「ニューロン円プラザ」の中央広場に立った。夜の新宿の喧騒の中、巨大スクリーンには菅谷首相の演説が映し出されていた。

「我が国のブレインマイニング政策は、予想を上回る成功を収めています。既に四十万人を超える国民が参加しておりまして、関連産業も景気を下支えすることにより、失業率は一五%まで低下しました。さらに、ニューロン円通貨の国際的信用も高まり、新たな輸出産業としての可能性も開けています」

 首相の言葉に、広場に集まった人々から拍手が沸き起こった。その多くはブレインマイナーの印を身につけていた。

「彼らは気づいていない」 佐藤が小声で言った。「政府のシステムには限界がある。真の革命は民間から始まるのです」

 武志は無言で首相の演説を見つめた。三ヶ月前、彼は絶望の淵に立っていた。今や安定した収入と住居を手に入れ、社会の一員としての自尊心を取り戻しつつあった。そして今、さらなる上昇の機会が目の前に示されている。

「考えておきます」 武志は佐藤に告げた。は「来週までに連絡します」

 三人は別れ、武志は一人で帰路についた。電車の窓から見える東京の夜景が、かつてないほど明るく輝いて見えた。彼の人生も、この街のように変わりつつあった。

 アパートに戻った武志は、静かな部屋で深く考え込んだ。ベッドに横たわり、天井を見つめる。かつて埃まみれのアパートで見ていた染みの形とは違い、今や彼の視線は清潔な白い空間に向けられていた。

 彼は無意識のうちに首の後ろを触った。そこにある小さなデバイスが、彼の人生を変えた。そして今、さらなる変化の機会が訪れていた。

「新しいシステムか……」

 武志は目を閉じた。すると、いつものように青い光の空間が意識の中に広がっていった。今夜も彼の脳は、眠りの中で働き続ける。そして明日、彼の口座にはまた新たな報酬が加算されるのだ。

 朝、武志は普段よりも早く目を覚ました。いつもならすぐにニューロン円通貨の残高を確認するところだが、今日は違った。彼は窓辺に立ち、東京の朝の景色を眺めた。高層ビル群が朝日に照らされて輝いている。

「そうだ、母親に電話しよう」

 突然の思いつきだった。彼が実家を出て十年以上が経っていた。最初の数年は定期的に連絡を取っていたが、非正規雇用を転々とするようになってからは、次第に疎遠になっていった。親に心配をかけたくない。そして何より、自分の惨めな状況を知られたくなかった。

 しかし今は違う。安定した収入があり、きちんとした住まいもある。恥ずかしくない生活を取り戻しつつあった。

 彼はスマートフォンを手に取り、久しく掛けていなかった番号をダイヤルした。何度かコールが鳴った後、懐かしい声が聞こえた。

「はい、工藤です」

「お母さん、武志だけど」

 一瞬の沈黙の後、母親の感情が溢れ出た声が返ってきた。

「武志? 本当に? 久しぶりねえ! 元気にしてた?」

「ああ、元気だよ。最近、生活が落ち着いてきてね」

「そう、良かった……」 母の声には安堵の色が濃かった。「あなたのこと、ずっと心配してたのよ。連絡も無いし」

 武志は自分の近況を話した。もちろん、ブレインマイニングの詳細は省略し、「新しい仕事を始めた」という表現にとどめた。それでも母親は喜んでくれた。

「年末には帰省しようと思ってる」 武志は言った。「少しだけど、お土産も持っていくよ」

「まあ、嬉しい!お父さんも喜ぶわ」

 通話を終えた後、武志の心は温かい感情で満たされていた。彼はようやく人間らしい生活を取り戻しつつあるのだと実感した。

 数日後、武志は再び佐藤と会った。今度は六本木の高級オフィスビルにあるサイベル社の本社だった。セキュリティゲートを通過し、エレベーターで五十階に上がる。超高層ビルからの眺めは息を呑むほど美しかった。

「決断してくれましたか?」

 佐藤は広々としたミーティングルームで武志を迎えた。窓の外には東京の街並みが一望できた。

「はい」 武志はしっかりとした声で答えた。「サイベル社のプログラムに参加します」

 佐藤の顔に満足げな笑みが浮かんだ。「素晴らしい決断です。早速、契約書の説明をさせてください」

 書類の山が武志の前に置かれた。政府プログラムの時よりも遥かに複雑な内容だったが、要点は明確だった。マイニング効率の向上と引き換えに、より高い報酬を得る。そして、それに伴うリスクも受け入れる。

「このプログラムでは、新型デバイスに交換する必要があります」 佐藤は説明した。「現在のものより高性能ですが、脳への負荷も大きくなります」

 武志は質問した。「具体的にどのような副作用がありますか?」

「一般的には軽度の頭痛や不眠、まれに一時的な記憶の混乱などです」 佐藤は淡々と答えた。「いずれも一過性で、深刻な健康被害の報告はありません」

 武志は少し躊躇したが、既に決断は固まっていた。彼は契約書にサインをした。

「手術は来週月曜日に予定しています。それまでは通常のマイニングを続けてください」     佐藤は立ち上がり、武志と握手を交わした。「サイベル社の一員として、歓迎します」

 帰り道、武志は複雑な心境だった。政府プログラムからの「転職」は、ある種の裏切りのようにも感じられた。しかし、彼自身の生活を向上させる権利は誰にでもある。それが資本主義社会の基本原則だ。より良い仕事を求めて転職することは、何も悪いことではない。

 週末、武志はニューロン円プラザで高橋と会った。彼は既にサイベル社のシステムに移行していた。

「どうだ?新しいシステムは」 武志は興味深く尋ねた。

 高橋は少し疲れた表情を浮かべたが、満足げだった。「最初の二日間は地獄だったよ。頭が割れるような痛みがあった。でも今は慣れてきた。そして何より……」

 彼はニューロン円カードを見せた。残高表示は政府プログラム時代の二倍以上になっていた。

「マジか」 武志は驚いた。「本当に効率が上がるんだな」

「ああ。ただ、夢が前より鮮明になって、起きた後もその感覚が残る。少し奇妙な感じだな」 高橋は首の後ろを触った。「でも、これだけの報酬があれば文句は言えないさ」

 二人はプラザ内の書店に立ち寄った。「ブレインマイナーの教科書」「効率向上の秘訣」「二〇四一年版 脳経済学入門」など、関連書籍が平積みされていた。武志は「ニューロン円経済圏の未来」という本を手に取った。

「この本、評判いいらしいぞ」 高橋が言った。「サイベル社の研究者が書いたんだ」

 武志は本を購入し、その場のカフェで読み始めた。著者は、ブレインマイニングが単なる経済政策ではなく、人類の進化の新たな段階を示すものだと論じていた。

「人間の脳という究極のコンピュータが直接経済活動に参加する時代が始まった。これは生物学的進化と技術的進化の融合点であり、私たちは『ホモ・エコノミクス・デジタリス』とも呼ぶべき新たな人類の誕生を目撃している」

 武志はその言葉に考え込んだ。人類の進化の次の段階。彼のような底辺労働者が、突然その最前線に立っているという皮肉。エリートという言葉の意味が、ブレインマイニング以前と以後で変わるのかも知れない。しかし、そもそもなぜ自分が、という思いはずっと残っていた。

「なあ、高橋」 武志は本から顔を上げた。「俺たちは本当に正しいことをしているのか?」

 高橋は不思議そうに武志を見た。「どういう意味だ?」

「いや、こうやって自分の脳を売るって、何か変な感じがしないか?」

「売っているわけじゃない、貸しているんだ」 高橋は肩をすくめた。「それに、選択肢がそれほど多くあるわけじゃないだろう?俺たちみたいな人間に」

 その言葉に、武志は黙り込んだ。高橋の言うことは正しかった。彼らのような学歴も特殊技術もない人間にとって、選択肢は限られていた。ブレインマイニングは、尊厳ある生活を送るための数少ない道の一つだった。

「それより、昔の同僚の鈴木を覚えてるか?」 高橋が話題を変えた。「あいつ、マイニング参加資格がなくて、今も苦しんでるらしいぞ」

「えっ、なんで参加できないんだ?」

「持病があるんだ。脳に関わる病気の既往歴があると、リスクが高いからって断られるらしい」

 武志は考え込んだ。確かに政府の説明では、「すべての国民に開かれた機会」と言っていたが、実際には健康上の条件があるのだろう。その事実が、彼の心に小さな疑問を植え付けた。

「ブレインエコノミー」は万人に開かれた機会なのか、それとも新たな格差を生み出す仕組みなのか。武志は今の自分の恵まれた環境と、過去の自分の悲惨さを比べると、新しい貧しさを生む可能性があったとしても、ブレインマイニングから離れる気にはならなかった。

 月曜日、武志はサイベル社の医療施設で新型デバイスの埋め込み手術を受けた。中原とは別の医師が担当したが、手順は前回とほぼ同じだった。ただ、デバイスのサイズはわずかに大きくなっていた。

「このデバイスは前世代のものより処理能力が三倍です」 医師は誇らしげに説明した。「特に、脳波のガンマ帯域をより効率的に利用できるよう設計されています」

 手術後、武志は軽い頭痛を感じたが、我慢できないほどではなかった。彼は指示通りに家で休養した。

 その夜、彼は初めて新システムでの「接続」を体験した。目を閉じると、以前よりもはるかに鮮明な青い光の空間が広がった。それは単なる光ではなく、複雑な立体構造を持った情報の海のようだった。武志の意識はその中を漂い、時に光の塊と交わり、時に情報の流れに身を任せた。

 朝、目覚めた時、彼は強い疲労感を覚えた。まるで一晩中走り続けたかのような筋肉痛のような感覚。しかし、スマートフォンを確認すると、確かに前日の三倍近くのマイニング報酬が表示されていた。

「凄い……」 武志は絶句し、しばらく金額を見続けていた。

 数日間、彼は高橋が言った通りの「地獄」を経験した。頭痛は徐々に強くなり、時に吐き気を伴うこともあった。睡眠の質も低下し、目覚めても疲労感が消えなかった。しかし、ニューロン円通貨の残高は急速に増加していった。

 一週間後、彼の体は新システムに適応し始めた。頭痛は和らぎ、睡眠の質も改善された。そして何より、「接続」時の体験がより鮮明に、より自己制御可能になっていった。武志は青い光の空間で自分の意識をコントロールする技術を磨き、効率を高めていった。

 サイベル社からは定期的にフィードバックが送られてきた。彼のマイニング効率は社内でもトップクラスという評価だった。それに伴い、追加ボーナスも支給された。

 一ヶ月後、武志の住む高級マンションの部屋は一変していた。新しい家具、最新の家電製品、そして壁には本物の絵画まで飾られていた。彼は初めて「贅沢」というものを味わっていた。

 実家にも高額の仕送りを始めた。両親からの感謝の電話に、彼は少し照れくさく応え、「仕事が上手くいってるんだ」とだけ説明した。

 週末にはニューロン円プラザの高級ブティックで買い物をし、ブランド品の洋服を試着した。かつては縁のなかった世界だ。店員たちはニューロン円カードを持つ彼に丁寧な接客をした。

「こちらのスーツはいかがでしょうか、マイナー様。特別な電磁波遮断素材を使用しており、マイニング効率を妨げません」

 武志はその言葉に少し違和感を覚えたが、スーツを購入した。鏡に映る自分の姿は、一年前とは別人のようだった。

 テレビではブレインエコノミーの成功を讃える報道が連日流れていた。失業率の低下、経済成長率の上昇、そして何より「ニューロン円通貨」の国際的地位の向上。日本が世界に誇る新たな輸出品として、ブレインマイニング技術が紹介されていた。

 しかし、その陰で新たな社会問題も浮上していた。「ブレインマイナー階級」と「非マイナー階級」の間の格差拡大、健康上の理由でマイニングに参加できない人々の経済的困窮、そして、マイナーの中でも政府プログラムとサイベル社のような民間プログラムの参加者の間の収入格差といったものが、SNSでもマスメディアでも連日取り上げられていた。

 武志はそうした報道を見ながら、時折罪悪感に似た感情を抱いた。しかし、高級品で溢れる自室を見るとすぐに霧散していた。彼は自分の新しい生活に満足していた。ポケットに入ったニューロン円カードが、その証だった。

第五章:民間企業の参入

「そろそろ、引っ越しを考えてみていかがですか?」

 サイベル社の社員ラウンジで、佐藤健は武志にコーヒーを差し出しながら言った。円形のラウンジからは東京湾が一望でき、午後の陽光が水面を煌めかせていた。すでにサイベル社のプログラムに参加して三ヶ月が経過した武志は、最上級マイナーとしての特権を享受していた。

「引っ越しですか?」 武志は首を傾げた。「今のマンションは気に入ってるんですけど」

「いや、もっと上を目指してもいいんじゃないかと思いましてね」 佐藤はタブレットを取り出し、画面を武志に向けた。「こちらが、シナプス・レジデンスといいまして、サイベル社が開発した、プレミアムマイナー専用のスマートマンションです」

 画面に映し出されたのは、都心に建つ先進的なデザインの高層マンションだった。曲線的な外観は未来的で、全面ガラス張りの壁面からは東京の景色を一望できそうだった。

「マイニング効率を最大化するための特殊設計がされていまして、周囲からの余計な電磁波を防ぐシールド、最適温湿度管理、そして」 佐藤は声を潜めた。「サイベル社の次世代デバイスへの優先アクセス権が与えられます」

 武志は興味を示した。「次世代デバイス?」

「ええ、現行のさらに三倍の処理能力を持つ、革命的なものです。まだ開発中ですが、来年初頭にはリリース予定となっております」

 その言葉に、武志の脳裏に浮かんだのは収入の数字だった。現在でも月に三百万円近くを稼ぎ出しているが、その三倍となれば……。彼は軽い眩暈を覚えた。

「家賃は?」実務的な質問を投げかける。

「月額百五十万ニューロン円ですが、サイベル社の優秀マイナーには補助制度がありますので、工藤さんなら実質半額で住めます」

 武志は窓外の景色を見つめた。波打つ東京湾の水面が、陽光に照らされて煌めいている。彼の人生もまた、波のように上昇を続けていた。底辺から這い上がり、いまや超高級マンションを検討する身分になるとは。

「検討してみますよ」 武志は短く答えた。

 佐藤は満足げに頷いた。「他にも、新しい投資プランを提案いたします。収入の多い優秀なマイナーは、資産運用も考えるべき時期ですので」

 武志の目の前に広がる未来は、かつての彼には想像もできないほど明るいものだった。サイベル社のプログラムに参加して以来、彼の生活は劇的に変化していた。高級レストランでの食事、ブランド服、そして社会的地位も付いてきた。人々は彼をただの失業者ではなく、「プレミアムマイナー」として敬意を持って扱うようになっていた。

 ラウンジを後にした武志は、サイベル社の本社ビルを出て、地下駐車場へと向かった。そこには彼の新しい愛車、最新型電気自動車「ニューロドライブ」が待っていた。発売されたばかりの高級車で、ニューロン円カードと連動する自動運転機能を搭載している。武志がカードをかざすと、車は彼を認識し、ドアが自動的に開いた。

「おかえりなさい、工藤様。ご希望の目的地は?」車内のAIアシスタントが穏やかな女性の声で問いかけた。

「自宅に戻るよ」

「かしこまりました」

 車は静かに動き出し、武志はシートを倒して目を閉じた。最近は常に軽い疲労感があった。サイベル社のデバイスは確かに高い報酬をもたらしたが、代償として脳への負担も大きかった。特に夜間のマイニング後は、頭が重くなり、時に軽い吐き気を伴うこともあった。

 自動運転機能に任せ、武志は静かに考え事をした。佐藤の提案は確かに魅力的だった。シナプス・レジデンスへの引っ越しは、単なる住環境の向上だけでなく、社会的ステータスの象徴でもある。そして何より、次世代デバイスへの優先アクセス権は、経済的にも大きな意味を持っていた。

 街の景色が窓外を流れていく。東京の街並みは、ブレインエコノミーの浸透と共に変化を続けていた。至る所にニューロン円対応店舗の看板が輝き、ブレインマイナーの優遇を謳う広告が目立つようになっていた。一方で、閉鎖された店舗や空きビルも増えていた。非マイナー層向けの従来型経済は徐々に縮小し、新たな二極化が進んでいるようだった。

「工藤様、お電話です。高橋様からです」 AIアシスタントが告げた。

「つないでくれ」

「よう、武志!」 高橋の元気な声が車内に響いた。「今夜、時間あるか? ちょっと面白い集まりがあるんだ」

「集まり?」

「説明するより、来てみた方が早いよ。いつもの『ネオブレイン』の地下フロアだ。九時に」

 武志は少し考えてから答えた。「わかった、行くよ」

 自宅に戻った武志は、シャワーを浴び、着替えた。窓からは東京の夕景が見える。太陽が沈み始め、街の灯りが次々と点灯していく様子は、まるで巨大な生命体が呼吸を始めるかのようだった。

 彼は食事をサイベル社推奨の栄養補助食品で済ませた。味は悪くないが、人工的な印象は拭えない。しかし、これがマイニング効率を上げるのなら、文句は言えなかった。

「ニューロン円通貨残高」

 武志は部屋の中央に立ち、声に出して指示した。すると、壁面に投影されたホログラフィックディスプレイに彼の口座情報が表示された。残高は一千七百八十万ニューロン円。贅沢をしていてもこれだけの貯えが出来るのだから、一年前の彼なら、信じられない数字だった。

「投資ポートフォリオ」

 画面が切り替わり、彼の様々な投資先と収益率が表示された。サイベル社株、ニューロン円指数連動ファンド、不動産投資信託。彼は自分が「投資家」になっていることに、今でも時折現実感を持てないでいた。

「就寝時マイニング効率予測」

 画面には今夜の予測効率グラフが表示された。近日の疲労蓄積により、やや低下傾向にあると警告されている。武志は首の後ろのデバイスを無意識に触った。そこには小さな膨らみがあり、時折微かに脈動するのを感じることができた。

 翌朝九時前、武志は新宿に向かった。「ネオブレイン」は相変わらず多くのプレミアムマイナーで賑わっていた。彼はニューロン円カードをスキャナーにかざし、さらに生体認証を経て入場した。

「工藤様、いらっしゃいませ」 店員が深々と頭を下げた。「高橋様は地下フロアでお待ちです」

 特別なエレベーターで地下に降りると、そこは「ネオブレイン」の表の顔とは一線を画す空間だった。薄暗い照明の中、数十人が円形に座り、熱心に議論している。その多くは首や耳の後ろにデバイスの印を持つマイナーたちだった。

「武志、こっちだ!」 高橋が手を振った。

 彼の隣に着席すると、議論の内容が耳に入ってきた。彼らはブレインマイニングの次の展開について話し合っていた。政府と大手企業の動き、新技術の可能性、そしてマイナーの権利についてなど、かなり重要な話に思えた。

「政府のプログラムでは、マイニング中に収集される脳波データの所有権を持つのは、本人とも政府ともきまっておらず、曖昧なままだ」 年配の男性が語っていた。「しかし、サイベル社の契約では明確に『データはサイベル社に帰属する』と記されている。これは根本的に問題だ」

「でも、そのおかげで高い報酬が得られるんじゃないでしょうか?」 若い女性が反論した。「データを提供する代わりに、より多くの報酬を得る。それは公正な取引です」

 議論は白熱し、様々な意見が飛び交った。武志は黙って聞いていたが、自分でも気づかないうちに議論に引き込まれていた。

「しかし、本当の問題は別にあります」 静かな、しかし芯の通った声が、議論の熱を一瞬冷ました。振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。中原弘子医師。武志が最初にデバイスを埋め込まれた時の担当医だ。

「中原先生?」 武志は思わず声をあげた。

 中原は武志に微笑みかけた。「工藤さん、お元気そうで何よりです」

「あなたは政府プログラムの神経外科医ですよね?」 別のマイナーが尋ねた。「なぜここに?」

「私はもう政府プログラムには関わっていません」 中原は静かに答えた。「私が懸念していた問題点が無視されたため、辞職しました」

 場の空気が変わった。全員の注目が中原に集まる。

「どのような懸念ですか?」 誰かが尋ねた。

「長期的な脳への影響です」 中原は真剣な表情で語り始めた。「特に、サイベル社のような高効率システムでは、脳への負荷が許容範囲を超えている可能性があります。私の研究では、二年以上の継続使用で不可逆的な神経変性が起こり得ることが示唆されています」

 武志は息を呑んだ。不可逆的な変化。それは取り返しのつかない脳へのダメージを意味する。

「しかし、そのデータは政府にもサイベル社にも受け入れられませんでした」 中原は続けた。「短期的な経済効果が優先され、長期的リスクは無視されているのです」

 場は静まり返った。多くのマイナーが不安そうな表情を浮かべている。

「証拠はあるのか?」 ベテランマイナーらしき男性が問いただした。

 中原はタブレットを取り出した。「これは非公式のデータですが、サイベル社の上級マイナー五十人の長期脳波変化です。特に海馬と前頭前野の活動パターンに注目してください」

 画面には複雑なグラフと脳のスキャン画像が映し出された。専門的な内容だったが、明らかに何らかの異常を示していた。

「これは……本当なのか?」 武志は動揺を隠せなかった。

「残念ながら」 中原は静かに頷いた。「しかも、より効率の高いシステムほど、変性のスピードも速いようです」

 その言葉に、武志は胸が締め付けられる思いがした。彼は高効率マイナーとして評価されていた。つまり、脳への負担も相応に大きいということか。ブレインマイニングを始めるときの「可塑性」という言葉を思い出した。

「ただし、これはあくまで初期的な観察結果です」 中原は付け加えた。「より厳密な長期研究が必要なのですが、それが許可されていないのが現状です」

 武志は高橋の顔を見た。彼も明らかに動揺していたが、すぐに取り繕った。

「だからって、今すぐやめるべきだとは思わないぜ」 高橋は強がるように言った。「どんな仕事にもリスクはある。高層ビルの建設作業員や、病院の放射線技師だって危険と隣り合わせだ」

「そうですね」 中原は同意した。「私も即時中止を主張しているわけではありません。極端に効率化したものでなければ、これほどの脳の変化は起きないのですから。私は、マイナーの皆さんに情報を提供し、自己決定権を守ってほしいのです」

 議論は深夜まで続いた。様々な意見が飛び交う中、武志は静かに考え込んでいた。彼の頭の中には良いことばかり話していた佐藤の言葉が蘇っていた。

 午前一時を回り、集会は散会した。武志は中原に近づいた。

「中原先生、少しお話できますか」

「もちろん」 彼女は穏やかな笑顔を向けた。

「私は……」 武志は言葉を選びながら話し始めた。「サイベル社の次世代デバイスへの移行を検討しています。リスクについて、もう少し詳しく知りたいのですが」

 中原の表情が曇った。「次世代デバイス……そうですか。実はそれについても懸念があります。非公式なルートからの情報になりますが、プロトタイプテストでは深刻な副作用が報告されているようです」

「副作用?」

「睡眠障害、記憶の断片化、そして人格変化の兆候まで」 中原は真剣な眼差しで武志を見た。「工藤さん、あなたはすでに十分な収入を得ているはずです。これ以上のリスクを負う必要があるのでしょうか?」

 その問いに、武志は即答できなかった。彼は確かに以前よりも裕福になった。しかし、目の前に示された可能性——シナプス・レジデンス、さらなる高収入、社会的地位の向上——それらを簡単に手放せるだろうか?

「考えておきます」 武志は曖昧に答えた。

「何か判断に迷うことがあれば」 中原は名刺を渡した。「いつでも連絡してください。私にできる限りの情報提供はします」

 帰宅の途中、車の自動運転機能に任せながら、武志は深く考え込んだ。彼の頭の中では、一方では、より豊かな生活への憧れ。もう一方では、健康への不安という、相反する思いが葛藤していた。アパートに戻ると、ホログラフィックディスプレイにサイベル社からのメッセージが表示されていた。

「工藤様、次世代デバイス先行テスターとしてのご招待状をお送りします。限定二十名様のみの特別なオファーです。詳細は添付ファイルをご確認ください」

 武志はメッセージを開いた。そこには次世代デバイスの詳細と、予想される収入増加率が示されていた。現在の三倍以上。さらに、シナプス・レジデンスの優先入居権と、サイベル社株式のオプション付与。途方もなく魅力的なオファーだった。

 しかし、中原の警告も頭から離れなかった。不可逆的な脳の変性、睡眠障害、記憶の断片化、そして人格変化という言葉には恐怖を覚えたのだ。

 彼は窓辺に立ち、夜の東京を見下ろした。無数の光が織りなす都市の夜景。その一部は、彼と同じようにブレインマイニングに従事する人々の住まいからの灯りかもしれない。彼らもまた、同じような選択の岐路に立たされているのだろうか。

 武志はベッドに横たわり、目を閉じた。いつものように青い光の空間が広がる。しかし今夜は、その光景が少し不穏に感じられた。光の粒子の動きがいつもより急速で、時折不規則な閃光が走る。

「これは単なる気のせいか、それとも……」

 考えが途切れ、彼は深い眠りに落ちていった。

 翌朝、武志は頭痛と共に目覚めた。それは珍しいことではなかったが、今日は特に強い。彼はぼんやりとした頭で、キッチンに向かい、コーヒーを淹れた。

 スマートフォンには複数の通知が表示されていた。サイベル社からの催促メッセージ、高橋からの連絡、そして中原からの短いメモが並んでいる。「昨晩はお話できて良かったです。ご判断の参考になれば幸いです」

 武志は決心がつかないまま、サイベル社のオフィスに向かった。今日は定期的なチェックアップの予定があった。

 ビルに到着すると、佐藤が待っていた。彼はいつもより熱心に武志を迎えた。

「工藤さん、おはようございます。昨晩のメッセージは確認していただきましたでしょうか?」

 武志はぎこちなく微笑んだ。「ええ、すごい内容でした。ただ、もう少し考える時間が欲しいです」

 佐藤の笑顔に僅かな緊張が走った。「もちろん、慎重にお考えになるべきです。ただ、先行テスターの枠は限られていますので、来週までにはお返事いただけますでしょうか」

 佐藤の催促に対して曖昧にうなずいた武志が向かった医療検査室では、いつもの医師ではなく、新しい女性医師が待っていた。「松本です」 簡単な自己紹介の後、彼女は武志のデバイスの状態をチェックし始めた。

「調子はどうですか?頭痛や不眠などの症状は?」 機械的に矢継ぎ早に確かめてくる。

「少し頭痛がありますが、まあ普通です」 武志は答えた。本当は最近、頭痛の頻度が増していたが、あえて言及しなかった。

「良好ですね」 松本医師は画面を見ながら言った。「マイニング効率も安定しています。次世代デバイスへの移行適性も問題なさそうです」

 武志は思わず言葉を発した。「副作用のリスクは? 特に長期的な」

 松本医師は一瞬、表情を強張らせた。「公式データによれば、長期的な重大な副作用は確認されていません。一時的な不快感は出ることがありますが、多くの場合、体が適応します」

 その返答は、妙に形式的に聞こえた。「中原先生の研究についてはご存知ですか?」 武志は試すように尋ねた。

 医師の態度が一変した。「中原弘子のことですか? 彼女の研究は方法論的に不十分で、サンプル数も少なく、信頼性に欠けます。公式見解としてはどこの機関も認めていません」

「そうですか」 武志は淡々と応じた。彼女の反応そのものが、何かを物語っているようだった。

 検査を終えて部屋を出ると、廊下で佐藤が待っていた。

「検査結果は良好だったようですね」 佐藤は満面の笑みで言った。「次世代デバイスへの適性も確認できました。ありがたいですね!」

 武志は眉をひそめた。「検査結果をもう知っているんですか?」

「あええ、リアルタイムで共有されるシステムになっていますので」 佐藤は何でもないように言った。「効率化のためですね」

「そうですか」 武志は不快感を覚えながらも、表情に出さないよう努めた。

「それで、オファーについてですが」 佐藤は廊下を歩きながら続けた。「実は先行テスターには特別な特典があります。通常のボーナスに加えて、サイベル社の非公開株式を取得できるのです」

 武志の耳が反応した。サイベル社は近く株式公開を予定していると噂されていた。その前に非公開株を手に入れられれば、莫大な利益が見込める。

「正直に言います」 武志は足を止めた。「私は迷っています。中原先生の警告もあって……」

「ああ、彼女のことか」 佐藤は軽蔑するような口調で言った。「彼女の『研究』は業界内では笑い話になっています。科学的厳密性を欠いた、感情的な主張にすぎませんので」

「でも、彼女は最初からこのプログラムに関わっていた人物ですよね?」

「確かにそうですが、途中で方針に反対して自主的に辞めたのです。言ってみれば、負け犬の遠吠えといってもいいですね」 佐藤は冷たく言い放った。「工藤さん、感情ではなく、事実を見て判断してください。事実は、ブレインマイニングが君の人生を変えたということです。そして、次世代システムはさらなる飛躍をもたらすにちがいありません」

 武志は黙って考え込んだ。確かに、ブレインマイニングのおかげで彼の生活は一変した。底辺から抜け出し、経済的自由を手に入れた。親に仕送りもできるようになった。その恩恵は計り知れない。

「もう一週間、考えさせてください」武志はようやく口を開いた。

「かしこまりました」佐藤は微笑んだ。「ただし、このタイミングを逃すと、これほどのチャンスは二度と無いことをご承知おきください」

 サイベル社を後にした武志は、都内の公園に足を向けた。人工的に作られた小さな森の中、彼は静かに歩きながら思考を整理した。彼の頭の中では二つの声が争っていた。

 一つは、さらなる成功への渇望、シナプス・レジデンスでの優雅な生活、サイベル社の株式による資産形成、社会的地位の向上といったメリット面。もう一つは、健康への不安。不可逆的な脳の変性、人格の変化、そして未知のリスクという、本当であれば取り返しの付かないデメリットを訴える声である。

 彼は公園のベンチに腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。中原の連絡先を見つめる。送信ボタンを押すべきか、それとも佐藤のオファーを受け入れるべきか。

 武志の指が画面をさまよった。彼の意思決定が、これからの人生を大きく左右することになる。

第六章:成り上がり

 東京湾を見下ろす五十階のテラスに立ち、工藤武志は深く息を吸い込んだ。朝日が水面を黄金色に染め上げ、湾岸エリアの近代的な高層ビル群が光を反射していた。彼の背後には、最新鋭の設備を誇るシナプス・レジデンスのペントハウスが広がっていた。二〇四一年の春、武志の人生は頂点に達していた。

「おはようございます、工藤様」

 部屋に戻ると、壁に埋め込まれたAIアシスタントの柔らかい声が彼を迎えた。「本日の脳波状態は最適値の九十三パーセントです。昨夜のマイニング効率は過去最高を記録しました」

「報酬額は?」武志は無造作に尋ねた。

「三百二十七万ニューロン円が口座に入金されました。前夜比一一二パーセントです」

 武志は微かに満足げな表情を浮かべた。サイベル社の次世代デバイス——「ニューロシンカー」——の性能は驚異的だった。彼の首の後ろに埋め込まれた小さな装置は、従来型の三倍以上の効率でマイニングを行い、それに応じた報酬をもたらしていた。結果として、彼の資産は急速に膨れ上がり、いまや総額十億ニューロン円を超えていた。

「今日のスケジュールを教えて」

「午前十時、サイベル社役員会議。午後二時、ニューロン円資産運用コンサルティング。午後六時、大使館レセプション。医療チェックアップは午前九時の予定です」

 武志はシャワーを浴び、高級スーツに身を包んだ。鏡に映る自分の姿は、二年前の彼とは似ても似つかなかった。洗練された外見、自信に満ちた眼差し、そして何より、社会的成功者としてのオーラ。かつては失業者として社会の片隅で生きていた男が、今やブレインエコノミーのエリート層として君臨していた。

「医療チームが到着しました」AIアシスタントが告げた。

 リビングルームには三人の医療スタッフが待機していた。毎朝の健康チェックは、ニューロシンカー・ユーザーにとって欠かせない日課だった。高性能なデバイスは高い報酬をもたらす一方で、脳への負荷も大きい。リスクを少しでも減らすため、そしてユーザーが安心して過ごせるために、定期的な健康管理が必要だった。

「おはようございます、工藤様」 チーフ医師の村田が丁寧に頭を下げた。「早速始めましょうか」

 武志は専用の診察チェアに座った。チェアは自動的に彼の体に合わせて形状を調整し、同時に各種センサーが彼の生体情報を収集し始めた。村田医師はタブレットでそのデータを確認しながら、首の後ろのデバイスを点検した。

「状態は良好です」 村田医師は報告した。「ただ、脳波パターンにわずかな変動が見られます。特に海馬領域の活動が少し低下しています」

「問題ありますか?」 武志は冷静に尋ねた。

「現時点では許容範囲内です。ただ、予防的に脳機能強化サプリメントの増量をお勧めします」

 村田医師は透明なピルケースを取り出し、青と紫の小さなカプセルを数錠追加した。

「この青いのが記憶機能維持用のお薬で、紫が神経保護剤です。一日三回、食後にお摂りください」

 武志は黙って頷いた。彼は医師の言葉の裏に潜む意味を理解していた。「許容範囲内」とは、問題が始まりつつあるという婉曲な表現だった。サプリメントの増量も、その証拠だ。しかし彼は、その事実に向き合うことを選ばなかった。現在の地位と富は、多少のリスクを伴うとしても、守る価値があった。

 医療チームが去った後、武志は専用エレベーターで地下駐車場に降り、待機していた高級電気自動車に乗り込んだ。市街地を抜け、サイベル社の本社ビルに向かう間、彼はタブレットで経済ニュースを確認した。

「ニューロン円通貨、世界基軸通貨の地位に迫る」という見出しが目に入る。記事によれば、マイナーの脳波を活用した暗号通貨「ニューロン円」は、他のどの通貨よりも安定した価値を維持し、国際決済手段として急速に普及していた。既にいくつかの小国では自国通貨に代わって公式通貨として採用され、日米欧の中央銀行も外貨準備としてニューロン円を蓄積し始めていた。

「面白い」 武志は呟いた。彼のような一市民の脳が、世界経済の基盤を支えているという皮肉。しかし、彼自身もその恩恵を受ける側に回っていた。

 サイベル社のエントランスに着くと、セキュリティゲートが自動的に彼を認識し、開放された。社内の人々は彼を見るたびに深々と頭を下げた。武志は一年前、サイベル社の次世代デバイスの先行テスターとして優れた成績を収め、その後、「ブレインコンピューティング事業戦略担当」取締役として、同社の役員に招聘されていた。

 会議室に入ると、すでに役員たちが集まっていた。彼らの多くは従来型の企業エリートだったが、武志のような「マイナー出身者」も徐々に増えていた。事業と利用者の両方を理解できる人材として、彼らの価値は高く評価されていた。

「今日は重要な会議だ」 CEOの河野が会議を始めた。「次世代ニューロシンカー『マークⅡ』の市場投入について最終決定を行いたい」

 大型スクリーンには新型デバイスの仕様が表示された。従来型より三十パーセント効率が向上し、副作用も「理論上は」二十パーセント削減されるという。

「工藤さん、現場のマイナーとしての意見を聞かせてください」 河野が武志に視線を向けた。

 武志は慎重に言葉を選んだ。「効率向上は魅力的ですが、副作用の削減が『理論上』にとどまっている点が気になります。実際のテスト結果はどうなっていますか?」

 研究開発担当の取締役が答えた。「限定的なテストでは良好な結果が出ています。ただし、長期的な影響についてはまだデータが不足しています」

「それでも市場に出すつもりですか?」 武志の質問には鋭さがあった。

 河野が割り込んだ。「競合他社も同様の開発を進めている。今、躊躇してタイミングを逃すと、これまで稼いできた市場シェアを失うリスクがある」

 議論は白熱した。武志は自身の体験から、高効率デバイスの副作用の深刻さを知っていた。朝の医療チェックの結果も気になっていた。しかし同時に、企業の成長とマーケットシェアの維持も重要だった。特に彼自身、サイベル社の株式を大量に保有している身だ。

 結局、条件付きで「マークⅡ」の市場投入が決定された。武志も反対票は投じなかった。

「工藤さん、一瞬ためらっていましたね」

 会議後、河野が武志に近づいてきた。

「マイナーの健康とビジネスのバランスは難しいですね」武志は曖昧に答えた。

「あなたはその両方を理解できる貴重な人材です」 河野は微笑んだ。「だからこそ取締役に招いたのです。ところで、本日の大使館レセプションですが、重要な国際投資家が来日しています。ぜひ良い関係を築いてください」

 午後のコンサルティングを終えた武志は、自宅に戻って夕方のレセプションの準備をした。一流の仕立て屋によるオーダーメイドの礼服に身を包み、高級時計を腕に着けた。

「工藤様、お車が到着しました」 AIアシスタントが告げた。

 六本木の某国大使館に到着すると、華やかなパーティが既に始まっていた。政界、財界、そして国際的な投資家が集う場に、武志も自然に溶け込んでいった。多くの人々が彼に声をかけ、サイベル社の今後について熱心に質問した。

 ドリンクを手に会場を歩いていると、見覚えのある顔に気がついた。かつての職場の同僚、高橋だった。

「武志!久しぶりだな」 高橋が陽気に手を振った。

「高橋、こんな場所で会うとは」 武志は少し驚いた。

「俺も一応、サイベル社の中間管理職になったんだ」 高橋は少し照れくさそうに言った。「もちろん、お前ほど出世してないがな」

 二人は昔話に花を咲かせた。かつて同じ底辺から始まった彼らだが、今はともにブレインエコノミーの恩恵を受ける側にいた。

「あの頃は想像できなかったよな、こんな生活」 高橋はシャンパングラスを掲げた。

「ああ」 武志は微かに微笑んだ。「人生、何があるか分からないものだ」

「ところで」 高橋は声をひそめた。「最近、調子はどうだ?あの副作用とか」

 武志は一瞬、表情を引き締めた。「管理できている範囲だ。君は?」

「俺は普通のマイナーに戻ったからな。高効率システムは使ってないよ」 高橋は肩をすくめた。「だから頭痛も少ないし、記憶障害も軽度だ。ただ、報酬も少ないがな」

 その言葉に、武志は複雑な気持ちを抱いた。高収入と健康のトレードオフ。彼は前者を選び、高橋は後者を重視した。どちらが正しい選択だったのだろうか。

「工藤さん、ちょっといいかな」

 会話に割り込んできたのは、サイベル社の広報担当取締役だった。「あちらの方があなたに会いたがっています」

 指し示された先には、中年の外国人男性が立っていた。「アレクサンダー・クラーク氏です。国際的なファンドグループの実質的な代表で、サイベル社への大型投資を検討されています」

 武志は丁寧に挨拶し、クラーク氏との会話に移った。彼はブレインコンピューティング技術に強い関心を持ち、特に「マイナーの体験」について熱心に質問した。

「あなたのような成功例は貴重です」 クラーク氏は流暢な日本語で言った。「底辺から取締役にまで上り詰めた。まさに『ブレインエコノミー』が約束する社会的流動性の証明ですね」

 武志は形式的な謙遜を示しながらも、内心では誇らしさを感じていた。確かに彼の成功は、新しい経済システムがもたらした機会の象徴だった。

「ただ、一つ気になるのは健康面です」 クラーク氏は続けた。「一部の報告では、高効率マイニングの長期的リスクを指摘する声もありますが」

 武志は表情を変えずに答えた。「どんな新技術にもリスクはつきものです。重要なのはリスクとリターンのバランスをどう取るかでしょう」

 夜も更け、パーティが終わりに近づく頃、武志は少し酔った頭でテラスに出た。東京の夜景が広がり、無数の光の粒が暗闇に浮かんでいる様子は、彼が「接続」中に見る光景にも似ていた。

「素晴らしい眺めですね」

 静かな声に振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。中原弘子医師だった。彼女はエレガントなイブニングドレスに身を包み、ワイングラスを手に持っていた。

「中原先生」 武志は驚きを隠せなかった。「こんな場所で会うとは思いませんでした」

「私も驚いています」 中原は静かに微笑んだ。「今は国立神経科学研究所で働いています。国際共同研究のパートナーとして、このレセプションに招かれたのです」

 武志は彼女を見つめた。以前とは違い、今の彼女は洗練された雰囲気を纏っていた。しかし、その眼差しに宿る真摯さは変わっていない。

「あなたは大成功を収めたようですね」 中原はテラスの手すりに寄りかかった。「サイベル社の取締役。ここまで登りつめるとは」

「ええ、まあ」 武志は少し照れくさそうに答えた。「運が良かっただけです」

「運だけではないでしょう」 中原は首を振った。「あなたの脳波パターンは特異でした。私が最初に気づいた時から、高い適性を持っていると思っていました」

 夜風が二人の間を吹き抜けた。遠くからパーティの音楽と笑い声が聞こえてくる。

「サイベル社の次世代デバイス、使っているんですね」 中原は武志の首の後ろを見た。微かに青く光るインジケーターが、高級デバイスの証だった。

「ええ」 武志は言葉少なに答えた。「報酬は素晴らしいですよ」

「副作用は?」中原の質問は直接的だった。

 武志は一瞬、目を逸らした。「管理できています。医療チームが毎日チェックしてくれますから」

 中原は何も言わず、じっと武志の顔を見つめた。その視線に、武志は少し居心地の悪さを感じた。彼女は何かを見抜いているようだった。

「二年前、私の警告を無視してサイベル社のプログラムに参加しましたね」 中原は静かに言った。「後悔はありませんか?」

「後悔?」 武志は微かに笑った。「ご覧ください。私は今、東京で最も高価なペントハウスに住み、世界的企業の取締役を務め、資産は十億を超えています。何を後悔する必要があるでしょう?」

「そうですか」 中原はワインを一口飲んだ。「それなら良かった」

 しかし、その言葉には皮肉が込められているようにも聞こえた。武志は少し苛立ちを覚えた。彼は中原の警告を無視して成功を収めたのだ。彼女の懸念は杞憂だったと証明したかった。

「最近、何か変わったことはありませんか?」 中原が再び尋ねた。「記憶の問題とか、感情の変化とか」

 武志は言葉に詰まった。確かに、最近は些細な記憶の欠落があった。予定を忘れたり、人の名前が出てこなかったり。また、感情の起伏も以前より激しくなっていた。怒りや焦りが突然湧き上がり、それが唐突に消えることもあった。

「特にありません」 彼は嘘をついた。

 中原はただ黙って頷いた。彼女は武志の嘘を見抜いていることが明らかだった。

「もし必要なら」 彼女は名刺を差し出した。「研究所ではブレインマイニングの長期的影響について調査しています。何かあれば、いつでも連絡してください」

 武志は渋々名刺を受け取った。「ありがとうございます。でも大丈夫です」

「工藤さん!」

 声に振り返ると、CEOの河野が呼んでいた。「クラーク氏があなたとさらに話したがっています。重要な投資判断の前なんです」

「失礼します」 武志は中原に軽く頭を下げ、河野の元へ向かった。

 背後で中原が何かを言ったが、武志にはそれが聞こえなかった。あるいは、聞こえたのに脳が処理しなかったのかもしれない。そのような「小さな欠落」が、最近増えていたのだ。

 夜も更け、パーティは終わりを迎えた。武志は帰りの車の中で、中原との会話を思い返していた。彼女の懸念は本当に杞憂なのだろうか。それとも、彼自身が認めたくない真実があるのだろうか。

 シナプス・レジデンスに戻った武志は、広々としたリビングルームの中央に立った。壁一面のガラスからは、東京の夜景が一望できる。その豪華な空間は、彼の成功の証だった。

「明日のスケジュールを教えて」

「明日は午前中に投資顧問との面談、午後にサイベル社の戦略会議があります。夕方は空いています」

 武志はリビングの一角にある小さなバーカウンターに向かい、ウイスキーを一杯注いだ。高級な琥珀色の液体が、クリスタルグラスの中で揺れる。

「ブレインマイニングによる記憶障害の研究を……」 突然、彼は声を出した。

「ブレインマイニングに関連した記憶障害についての研究結果をお調べしますか?」 AIアシスタントが確認した。

「……いや、キャンセル」 武志は気が変わったように言った。真実を知ることへの恐れが、彼の心を覆っていた。

 彼はウイスキーを一気に飲み干し、もう一杯を注いだ。アルコールの温かさが喉から広がり、一時的な安らぎをもたらす。しかし、頭の奥で鈍い痛みが始まっていた。最近、アルコールを摂取すると頭痛が悪化する傾向があった。

 さらに気がかりなのは、時折見る奇妙な夢だった。青い光の海の中で、無数の声が彼に何かを伝えようとしているような感覚。それは明確な言葉ではなく、むしろ意図や概念のようなものだった。彼はそれをニューロシンカーの副作用の一つとして片付けていたが、その頻度は増していた。

「痛み止めを」

 自動ディスペンサーから薬が出てきた。中原の言葉が頭に浮かぶ。「副作用は?」

 武志はその問いを振り払おうとした。多少の副作用など、彼の成功の前には取るに足らないものだった。彼は痛み止めを飲み込み、寝室に向かった。

 豪華なベッドに横たわり、照明を落とす。天井に浮かぶスター・プロジェクションが、宇宙の星々を映し出している。彼はその光景を眺めながら、今日の出来事を整理しようとした。しかし、思考がうまく繋がらない。断片的な記憶と感情が、脈絡なく浮かんでは消えていく。

「接続開始」彼は囁いた。特別な言葉が、デバイスを完全作動モードに切り替える。

 瞬間、青い光の世界が彼の意識を包み込んだ。以前は鮮やかだった光景が、今では少し歪み、時折閃光が走るようになっていた。それでも、この空間にいる時の武志は不思議な安らぎを感じた。現実世界の悩みや不安が遠のき、純粋な情報の流れの中に身を委ねることができた。

 青い光の中で、武志の意識は拡散していった。彼はマイニング作業を最適化するための特別な意識状態——半ば夢、半ば瞑想のような状態——に入り込んだ。それは彼の特技だった。この能力によって、彼は他のマイナーよりも高い効率を達成していた。

 意識の深層で、彼は中原の言葉を再び聞いた。「後悔はありませんか?」

 武志は光の中でその問いを反芻した。後悔はなかった。彼は成功者になった。底辺から這い上がり、誰もが羨む生活を手に入れた。その代償が多少の健康問題なら、十分に価値のある取引だった。

 光の波が彼の意識を洗い流すように通り過ぎていく。心地よい虚無感の中で、武志は自分自身の正当化を繰り返した。

「自分は正しい選択をした」

 しかし、その言葉が虚ろに響く瞬間があった。

 翌朝、武志は激しい頭痛と共に目覚めた。いつもの医療チームが到着する前に、彼は浴室の鏡で自分の顔を確認した。目の下のクマがより濃くなり、皮膚は少し青白く、髪にも白いものが目立ち始めていた。

「サイベル社のライバル企業から接触がありました」

 プライベート投資顧問との朝食ミーティングで、この報告を受けた。

「『ニューラリンク社』です。彼らは独自のブレインインターフェース技術を開発しており、あなたのような優秀なマイナーをスカウトしているようです」

 武志はコーヒーを啜りながら考えた。「彼らの技術はサイベル社と比較してどうなのか?」

「効率は若干劣るようですが、副作用が少ないと主張しています。特に、脳への長期的ダメージを最小化する設計だとか」

 武志の心に小さな希望が灯った。効率を多少犠牲にしても、健康リスクが低減するなら、検討の価値があるかもしれない。しかし、それはサイベル社への裏切りとも取られかねない。

「詳細情報を集めておいてください」 武志は慎重に言った。「ただし、極秘に」

 午後のサイベル社戦略会議では、競合他社の動向が中心議題だった。皮肉なことに、「ニューラリンク社」の名前も挙がった。

「彼らの技術は我々より劣っています」 技術担当役員が自信満々に説明した。「効率は我々の七十パーセント程度。ただ、『安全性』を売りにしているようです」

「そのアプローチにも一定の市場があるでしょう」 武志は冷静にコメントした。「高リスク・高リターンを好まないマイナーも多いはずです」

「工藤取締役らしくない発言だ」 河野CEOが軽く笑った。「あなたこそ、高リスク・高リターンの体現者でしょうに」

「ええ、私のような無茶な人間がそんなに多くないからこそ、私は今この会議に出る立場になっているのですよ」 武志が自虐を交えた冗談で返すと、会議室に軽い笑いが広がった。武志も一緒に笑ったが、内心では複雑な感情が渦巻いていた。

「次世代ニューロシンカー『マークⅡ』の発表会を来月に控え、我々は業界のリーダーシップを強化すべき時だ」 河野は真剣な表情で続けた。「工藤取締役には、成功事例としてメディア露出を増やしていただきたい」

 武志は静かに頷いた。彼の成功物語は、ブレインマイニングの肯定的なイメージを作るための重要な要素だった。底辺から超成長企業の取締役まで上り詰めた「ブレインエコノミーの優等生」として、彼の存在は多くの潜在的マイナーを引き付ける力を持っていた。

 会議を終え、武志は自分のオフィスに戻った。そこで彼は、以前の同僚だった鈴木からのメッセージを見つけた。

「武志、話があるんだ。時間があれば、連絡してくれないか」

 武志は眉をひそめた。鈴木は彼や高橋と違い、持病のためにブレインマイニングの対象外となった一人だった。かつての同僚たちが次々と「成り上がる」中、彼だけが取り残されたような形になっていた。

 躊躇した後、武志は返信を送った。「今夜、どこで会う?」

 夕方、武志は銀座の小さなバーで鈴木と対面していた。かつての同僚は明らかに痩せ、疲れた表情をしていた。彼の着ている服は安物で、武志の高級スーツとは対照的だった。

「久しぶりだな、武志」 鈴木は弱々しく微笑んだ。「すごい出世したんだってな。サイベル社の取締役だろ?」

「まあ、運が良かっただけさ」 武志は謙遜した。「君はどうしてる?」

「ボロボロさ」 鈴木は率直に答えた。「マイニング不適格者の生活なんて想像できないだろ?今じゃ、非マイナーは二級市民みたいなもんだ」

 武志は黙って相手の話を聞いた。鈴木によれば、経済のブレインマイニング依存が深まるにつれ、参加できない人々の生活はますます厳しくなっていた。伝統的な雇用は減少し、社会保障も縮小。非マイナーは低賃金の単純労働か、政府の最低限の補助金に頼るしかなかった。

「俺は運が悪かっただけさ」 鈴木は苦々しく言った。「あの病気さえなければ、お前や高橋と同じように……」

「何か助けられることはあるか?」 武志は心から尋ねた。彼には十分な資産があった。古い友人を助けることは容易だった。

「金をくれなんて言いに来たわけじゃない」 鈴木は怒りを抑えながら言った。「俺が欲しいのは機会だ。この社会で平等に生きる機会だよ」

 武志は無言で飲み物を見つめた。鈴木の言葉は重かった。彼自身、ブレインマイニングによる社会分断の現実を目の当たりにしていた。マイナーと非マイナーの間の格差は拡大する一方だった。

「実は、頼みがあるんだ」 鈴木は声をひそめた。「『人類を取り戻す運動』って知ってるか?」

 武志は首を傾げた。「何だそれは?」

「マイニングの危険性を訴え、より公平な社会システムを求めるグループだ。彼らは内部告発者を求めている。特にサイベル社のような大企業の内部情報を」

 武志は息を呑んだ。鈴木は彼にスパイ行為を依頼しているのだ。サイベル社の機密情報を漏洩すれば、彼の地位も財産も、すべてを失うことになる。

「鈴木、それは……」

「頼むよ、武志」 鈴木は切実な表情で言った。「君には影響力がある。変化を起こせる立場にいるんだ」

 武志は困惑した。昨日までの彼なら、即座にこの提案を拒否していただろう。しかし今、中原との対話や自身の健康状態の悪化を考えると、単純に拒絶できなくなっていた。

「考えておく」 彼はようやく言葉を絞り出した。

 別れ際、鈴木は小さなデータカードを渡した。「連絡先だ。決断したら、ここに接触してくれ」

 帰り道、武志の頭の中は混乱していた。彼は豪華な車の中で、窓外の東京の繁華街を見つめた。輝く看板の多くには「ニューロン円決済対応」の文字が躍っていた。その光景は、彼が作り上げた新しい経済システムの成功を象徴していた。

 同時に、その繁栄の陰で苦しむ人々の存在も、否定できなくなっていた。鈴木のような非マイナー、そして彼自身のような健康リスクを抱えるマイナーたち。

 シナプス・レジデンスに戻った武志は、テラスに出て夜風に当たった。東京の夜景が目の前に広がる。彼は高みに登り詰めた。しかし、その頂点で彼を待っていたのは、予想外の孤独と葛藤だった。

 彼はポケットから二枚のカードを取り出した。一つは鈴木から受け取ったデータカード。もう一つは中原の名刺。

 彼の頭に激しい痛みが走った。もはや日常的になった症状だ。痛みを堪えながら、武志は再び東京の夜景を見つめた。彼の成り上がりは、まだ終わっていなかった。しかし、その行き着く先は、かつて彼が思い描いていたものとは、大きく異なるかもしれなかった。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA