脳貨幣(1)

第一部:システムの夜明け

第一章:目覚めの時

 工藤武志は埃まみれの畳に横たわり、天井のシミを見つめていた。三十五年の人生で培った全ての財産が、この六畳一間のアパートに詰め込まれていた。あるいは詰め込まれていた、と過去形で表現するのが正確かもしれない。明日の正午には、家賃三ヶ月分の滞納を理由に、彼はこの住処からも追い出されることになっていた。

「クソッタレが」

 虚空に向かって吐き捨てた言葉は、陰鬱な部屋の空気に吸い込まれ、何の反応も返ってこなかった。エアコンはとうに壊れ、窓を開ければ東京の灼熱が容赦なく流れ込んでくる。二〇四〇年の夏は、過去最高の猛暑を記録していた。気候変動対策はとうに手遅れとなり、日本の夏は亜熱帯さながらの湿度と熱波に覆われていた。

 ふと目を向けると、壁に取り付けられた安価なホログラム・ディスプレイが鈍く光を放っていた。武志は身を起こし、声で起動コマンドを発した。

「ニュース」

 ディスプレイには政府広報チャンネルが映し出された。髪を綺麗に整えた四十代の女性アナウンサーが、人工的な笑顔で語りかけてくる。

「本日、菅谷新政権は『ブレインマイニング構想』と名付けられた画期的な経済政策を発表しました。これにより、慢性的な労働力不足と深刻な格差問題の同時解決を目指すとしています」

 武志は鼻で笑った。政治家の綺麗事など、もう何度聞いたことだろう。非正規雇用を繰り返しながら三十五年を生きてきた彼にとって、政府の新政策など何の意味も持たなかった。十五年前の大学卒業時には、労働者不足という売り手市場だったため、まだ少しばかりの希望があった。だが、AIの急速な発展と産業構造の変革は、彼のような中途半端な能力の人間を容赦なく労働市場から押し出していった。

 日本自体も、二〇世紀後半のバブル崩壊から続く、「失われた五十年」から未だに抜け出せず、インフレとデフレを繰り返しつつも経済は低迷したままだった。

「本構想は、国民一人ひとりの脳とクラウドコンピューティングを接続し、その演算能力を暗号通貨の『マイニング』に活用するという画期的なものです。国民はこれにより、基本的な収入を得ることができます」

 武志は思わず身を乗り出した。アナウンサーの背後に浮かぶホログラフィック映像には、人間の脳と光るネットワークが繋がる様子が描かれていた。

「さらに詳しくお伝えします。政府発表によると、『ブレインマイニング』とは、人間の脳の未使用部分をネットワーク化し、特に睡眠中の脳波を活用して暗号通貨の計算処理に利用するシステムです。これにより生成される国家管理の暗号通貨『ニューロン円』は、参加者全員に分配され、新たな形のベーシックインカムとなります」

 労働をせずとも収入が得られる。武志はその言葉に、一瞬だけ希望を見出した。だが次の瞬間、冷ややかな現実感覚が彼を包み込む。「どうせまた政治家の誇大妄想だろう」と彼は呟いた。

 しかし、映像は続いていた。菅谷首相自身が画面に現れ、断固とした表情で語りかけてくる。

「この政策は、現代の深刻な社会問題を根本から解決するための革命的な第一歩です。失業率二十五パーセントという未曾有の危機的状況の中、生活保護受給者数は過去最高を更新し続け、社会保障費は国家財政を圧迫しています。ブレインマイニング構想は、膨れ上がる社会保障費を抑制しながらも、すべての国民に尊厳ある生活を保障する画期的な制度です。単なる給付型の福祉ではなく、一人ひとりが社会に貢献しながら報酬を得る新たな形の相互扶助システムを構築します。憲法第二十五条に定められた生存権を二十一世紀の文脈で再解釈し、すべての国民に尊厳ある生活を保障するためのシステムを構築します」

 武志は眉をひそめた。政府広報でこれほど具体的な政策が語られることは珍しい。ニュースはさらに続く。

「初期の実験参加者は来週から募集を開始します。希望者にはスクリーニング検査の後、接続デバイスが無償で提供され、試験的なマイニング報酬が支払われます。世界初の試みとなる本政策について、専門家からは賛否両論の意見が出ています」

 画面は複数の識者のコメントに切り替わった。まず中年の経済学者が現れる。「これは単なる現代版の『シニョリッジ』、つまり通貨発行益の再分配です。しかも個人のプライバシーと脳という人間の本質に関わる部分を商品化するという倫理的問題をはらんでいます」

 続いて若い神経科学者が意気揚々と語る。「人間の脳は使われていない潜在能力が膨大です。特に睡眠中の脳波は、適切に方向づければ膨大な計算能力を発揮できます。この技術は人類の進化における次なるステップになり得るでしょう」

 暗号資産に詳しい解説員が続ける。「政府発表では、このブレインマイニングによって得られる計算能力を、政府系の研究所での処理以外にも、民間企業、さらに将来的には外国にも計算能力を貸し出すことも想定しているそうです。暗号資産にも使われているブロックチェーン技術は三〇年来のものですが、ついに人間の脳を利用するところまでやってきたことになります」

 さらに高齢の憲法学者が厳しい表情で語る。「憲法第十三条の幸福追求権と第二十五条の生存権を根拠にするならば、このような形での国家による生活保障は一定の合理性を持ちます。しかし同時に、個人の思考の自由や尊厳に対する侵害となりかねない側面も否定できません」

「実験参加者には前払いで月額二十万円相当のニューロン通貨が支給される見込みです」

 その言葉に、武志の思考は凍りついた。二十万円。無職の彼にとって途方もない金額だった。

「応募方法の詳細は政府公式サイトをご覧ください」

 武志はポケットから古びたスマートフォンを取り出した。電池残量はわずか十二パーセント。充電器は先週、電気代を払えずに止められた電力の犠牲になっていた。彼は急いで政府サイトにアクセスし、「ブレインマイニング実験参加者募集」のページを開いた。

 応募フォームは驚くほど簡素だった。氏名、年齢、住所、連絡先、そして現在の雇用状況のみ。特に選考基準は記載されていない。「すべての日本国民に機会を」というスローガンが画面上部に踊っていた。

 武志は迷わず情報を入力した。送信ボタンを押した瞬間、彼の胸に奇妙な高揚感が広がった。それは長い間忘れていた感覚だった。

 生活保護の申請書類は、一ヶ月前から彼の引き出しに半分記入されたまま放置されていた。何度か記入を試みたが、その度に筆が止まった。詳細な資産調査、親族への扶養照会、定期的な面談による生活監視等々。それらの言葉が頭をよぎるたびに、彼の自尊心が傷ついた。何よりも、まだ身体は動いて十分働ける状態なのに、「生活保護を受ける」というのが嫌だった。

 一方、このブレインマイニングは違った。「実験参加者」という言葉には、まだどこか尊厳が残されている気がした。単なる施しではなく、自分の脳という資源を提供する見返りとしての報酬。そこには不思議な均衡があった。二十万円という金額は、現在の生活保護基準を上回っていた。政府にとっても、純粋な給付よりもリターンのある形での支出の方が税金の有効活用になるのだろう。

 応募完了の通知が表示されると同時に、彼のスマートフォンは力尽きた。画面が暗転し、再び部屋は薄暗闇に戻った。武志は畳の上に横たわり、天井のシミを見つめ直した。しかし今度は、そのシミの形が何か意味を持つように思えた。明日、彼は追い出されるかもしれない。しかし、その先には何か新しいものが待っているかもしれないという微かな可能性が、彼の心に灯っていた。

 外では、東京の喧騒が続いていた。人工知能が運転する無人タクシーの静かな走行音、配達ドローンの羽音、そして相変わらず人間で溢れる繁華街の騒音。その全てが、かつてないほど鮮明に武志の耳に届いた。

 変革の時代の足音が、確かに近づいていた。

第二章:新たな希望

 予想外の出来事は、往々にして人生の転機となる。工藤武志にとって、それは応募から僅か三日後に届いた政府からの通知だった。「工藤武志様、あなたはブレインマイニング実験第一次参加者として選出されました」

 スマートフォンの画面に表示された通知を、武志は何度も読み返した。彼の古びた端末は、コンビニの電源を借りて何とか復活させていた。アパートからの追い出しは、大家の一時的な慈悲により一週間延期されていたが、それでも時間の猶予はほとんどなかった。

 東京の片隅にある漏れ落ちた公園のベンチに腰掛けた武志は、深呼吸をした。七月の蒸し暑い空気が肺を満たす。汗が背中を伝い落ちる不快感すら、今は心地よく感じられた。彼にとってはそれは生きている証拠だった。

「なぜ俺が選ばれたんだ?」

 自問自答に対する答えは明白だった。彼のような底辺層こそが、この実験の理想的な被験者なのだ。失うものが何もない人間である。社会的地位も、安定した収入も、家族との繋がりもない。文字通り、脳だけが唯一の資産である人間でなければ、これほどまでに前衛的な政策に本気で参加しないと思われているのだろう。

 公園の向かいにある大型ビジョンでは、ブレインマイニング構想に関する議論が連日放映されていた。武志は立ち上がり、その映像に近づいた。

「この政策は人間の尊厳を根本から破壊するものです!」

 画面では、白髪の哲学者が激しく主張していた。「脳は単なる臓器ではなく、人間の『自己』そのものです。それを商品化し、計算機として利用するという発想は、近代以降築き上げてきた人間の尊厳という概念を根底から覆すものです」

 司会者が冷静に問いかける。「しかし、参加は強制ではなく、あくまで自発的なものです。個人の自由意志に基づく選択ではないでしょうか?」

 哲学者は反論しつつ、苦々しい表情を浮かべた。「飢えた人間に食べ物を差し出して『自由に選べ』と言うのと同じです。現在の社会状況を鑑みれば、これは事実上の強制に等しいと言わざるを得ない」

 場面は変わり、経済評論家のパネルディスカッションに移り、中年の女性が熱心に語る様子が映し出された。「この政策の核心は、新たな形のシニョリッジ、つまり通貨発行益を国民に直接還元する仕組みです。従来の中央銀行による通貨発行と異なり、一人ひとりの国民が通貨発行に関わることで、富の分配がより公平になる可能性があります」

 隣に座った若い経済学者が反論する。「しかし、その基盤となる暗号資産自体の価値は何によって担保されるのでしょうか? 政府の信用だけでは、国際的な通貨として認められるには不十分です」

「それこそがブレインマイニングの革新性です」 別の専門家が答える。「この通貨の価値は、参加者の脳が提供する計算能力によって裏付けられます。分散したブロックチェーンの計算による情報処理そのものを貨幣とするのは、多くの暗号資産、仮想通貨に共通するものですが、その計算自体を、人間の脳という究極のリソースに基盤を置いた、初めての通貨なのです」

 映像を見つめながら、武志の頭には様々な疑問が浮かんでいた。自分の脳が何かの計算に使われるとはどういうことなのか。痛みはあるのか。自分の思考や記憶は守られるのか。しかし、それらの疑問を上回る現実があった。飢えと路上生活という、目の前に迫った現実と、それからの脱却をもたらす収入だ。

 翌朝、武志は新宿区の高層ビルの前に立っていた。「ブレインマイニング研究所」と書かれた看板が、最新技術を象徴するようなデザインで輝いていた。入口の自動ドアが開き、彼を迎え入れる。

 受付では若い女性が待っていた。彼女は明らかに人間だったが、その完璧な笑顔と動きには何か人工的なものを一瞬、感じさせた。「工藤様、お待ちしておりました。まずは基本的な検査からさせていただきます」

 彼は白い廊下を通って検査室へと案内された。そこでは医師と技術者が待機していた。血液検査、脳波測定、心理テスト。次々と進む検査に、武志は黙って従った。

「工藤さんは理想的な候補者です」 検査を終えた医師が笑顔で告げた。「脳の可塑性が高く、接続デバイスとの相性が良いと予測されます」

「可塑性……」

「はい、言い換えると、脳の活動する領域が、この新しいブレインマイニングに適応しやすいということですね」

 その言葉に、武志は複雑な感情を抱いた。褒められているのか、単に実験に適した素材として評価されているのか判断できなかった。

 次に彼は別室に案内された。そこには、灰色のスーツに身を包んだ、年配の男性が待っていた。「内閣府ブレインマイニング推進室の室長、佐々木と申します。この度はご参加いただき、ありがとうございます」

 佐々木は丁寧に頭を下げた。その礼儀正しさに、武志は少し緊張が和らいだ。

「このプログラムの詳細を説明させていただきます」 佐々木は透明なタブレットを手に取った。「ブレインマイニングとは、個人の脳とクラウドコンピューティングを接続し、その演算能力を暗号通貨の計算処理に活用するシステムです」

 タブレットには複雑な図が表示され、佐々木はそれを指し示しながら説明を続けた。「基本的な仕組みはこうです。あなたの頭部に微小なデバイスを埋め込みます。これは脳に直接接触するわけではなく、脳波を読み取り、特定の信号を送る程度のものです。このデバイスを通じて、あなたの脳は政府管理のクラウドコンピューティングと繋がります」

 武志は思わず首に手を当てた。「埋め込むんですか?」

「はい、ですが心配は無用です。一センチにも満たない大きさで、局所麻酔で十分、痛みもほとんどありません。現在使われている医療用インプラントよりもはるかに小型です」

 武志の不安をよそに、佐々木は説明を続ける。「このデバイスによって、特に睡眠中の脳波を活用します。あなたが眠っている間、デバイスは脳の未使用部分を暗号通貨の演算処理に活用します。これにより生成された『ニューロン円』通貨があなたの口座に入ります」

「自分の思考や記憶は……大丈夫なんですか?」武志は不安を隠せなかった。

「完全に安全です」 佐々木は断言した。「このシステムはあなたの意識や記憶には一切アクセスしません。利用するのは、あなたが通常使用していない脳の処理能力だけです。例えるなら、アイドル状態のコンピュータの演算能力を借りるようなものです」

 武志はゆっくりと頷いた。完全には納得していないものの、今の彼に選択肢は限られていた。

「そして最大のメリットは、これです」 佐々木はタブレットに新しい画面を表示させた。「マイニング報酬として、月額二十万円相当のニューロン円通貨があなたの専用口座に入ります。今日の契約締結後、初回は前払いで支給されます」

 二十万円。その額面が武志の目の前に実体を持って現れる。これで家賃の滞納分を払い、新しい生活を始めることができる。

「署名をお願いします」佐々木はデジタル契約書を差し出した。「なお、この実験は最低六ヶ月の参加が条件です。途中で辞退された場合、初回の前払い金は返還していただくことになります」

 武志は契約書をスクロールした。専門用語と法律用語が並ぶ長大な文書だ。しかし、彼にはそれを細部まで理解する余裕も能力もなかった。彼は生体認証で同意の署名をした。

「おめでとうございます、工藤さん。あなたは正式にブレインマイニング実験の第一次参加者となりました」 佐々木は満足げに微笑んだ。「手術は明日の午前中に予定しています。それまでに、お手持ちのスマホにお送りさせていただいたパンフレットをご一読ください」

 武志は厚手の資料を受け取り、建物を後にした。東京の雑踏に戻った彼の胸には、不安と期待が入り混じった感情が渦巻いていた。

 彼のスマートフォンには、件のパンフレットが届いていた。そして、明日には彼の頭部に未知のデバイスが埋め込まれる。それは恐ろしいことであると同時に、奇妙な解放感をもたらすものでもあった。

 街角の大型ビジョンでは、相変わらずブレインマイニングに関する熱い議論が続いていた。だが今、武志にとってそれは他人事ではなく、自分自身の物語となっていた。重い足取りながらも、彼の心には微かな希望の光が灯っていた。あるいは、それは単なる諦めの副産物かもしれないが。

第三章:接続

 消毒液の匂いが鼻腔を刺激した。工藤武志は白い天井を見上げ、首の後ろに感じる微かな痛みを意識していた。手術は既に終わっていた。たった二十分。彼が想像していたよりも遥かに短時間だった。頭蓋骨を開くような大掛かりな手術ではなく、首の付け根にごく小さな切開を施して、米粒ほどの大きさのデバイスを埋め込むという簡易なものだった。

「不快感はありませんか?」 白衣を着た若い女性医師が問いかけた。彼女の名札には『中原弘子・神経外科』と記されていた。

「いえ、かすかに違和感があるくらいです」武志は首をゆっくりと動かしてみた。「思ったよりずっと……普通です」

「良かった」 中原は微笑んだ。「このデバイスは最新のナノテクノロジーを用いて開発されたものです。埋め込み後は体内組織と徐々に同化し、数日後には違和感すら感じなくなるでしょう」

 武志は椅子に座り、中原から渡された小さな鏡で自分の姿を確認した。首の後ろに絆創膏が貼られているだけで、外見上の変化はほとんど見られなかった。

「では、次は接続テストを行います」 医師は透明なタブレットを手に取った。「このボタンを押すと、デバイスがアクティベートされ、あなたの脳とリンクしてあなたしか使えない固有のデバイスになります。最初は少し奇妙な感覚があるかもしれませんが、危険はありません」

 武志は緊張した面持ちで頷いた。中原がタブレットの青いボタンに触れる。瞬間、武志の視界に微かな閃光が走った。それは痛みではなく、むしろ記憶の中の夢見心地のような感覚だった。

「どうですか?」 中原が尋ねる。

「説明しづらいですが……」 武志は言葉を探した。「頭の中に別の空間が広がったような、そんな感じです」

「正確に言えば、あなたの脳の認知範囲が拡張されたのです」 医師は興奮を抑えきれない様子で説明した。「このデバイスは脳幹に近い部分に設置され、そこから神経系を通じて大脳皮質と連携します。あなたの脳とクラウドコンピューティングのインターフェースとなるわけです」

 武志はその説明を半ば理解しながらも、自分の内側で起きている変化に集中していた。閉じれば、確かに何か別の次元が開かれたような感覚があった。それはまるで、今まで気づかなかった部屋を自分の家の中に発見したような不思議さだった。

「すごい……」 武志が思わずつぶやいた言葉に、中原は満足げに頷いた。

「次は実際のマイニング機能をテストします。深呼吸をして、できるだけリラックスしてください」

 武志は指示に従った。呼吸を整え、心を落ち着かせる。すると、閉じた目の裏に青い光が広がっていくような感覚を覚えた。それはやがて複雑な幾何学模様へと変化していき、彼の意識は徐々にその模様の中へと引き込まれていった。

 意識が沈み込む感覚。しかし、完全に消えることはなく、ある種の拡張された状態へと移行していくような感覚。それは夢と現実の間のような、しかしどちらとも異なる第三の領域だった。

 一瞬、武志の意識の奥に奇妙な違和感が走った。まるで自分以外の何かが、その青い空間の隅に潜んでいるような錯覚。しかし次の瞬間、その感覚は消え去り、彼はそれを単なる初回接続の緊張からくるものと解釈した。

「工藤さん、聞こえますか?」

 中原の声が遠くから響いてくる。武志はゆっくりと目を開けた。彼の視界には通常の部屋の光景と、同時に青い光の残像が重なっていた。

「あの感覚は……何だったんですか?」武志の声は少し掠れていた。

「あなたの脳がクラウドコンピューティングと初めて同期した瞬間です」 中原は嬉しそうに答えた。「予想以上に良好な接続状態です。通常、初回は軽い抵抗を示す例が多いのですが、あなたの脳は非常に受容性が高いようです」

 それが褒め言葉なのか、それとも単に実験台として優れているという評価なのか、武志には判断できなかった。しかし、確かに彼の内側で何かが変わり始めていることは感じられた。

「この感覚に慣れるには、少し時間がかかるでしょう」 中原は続けた。「特に最初の一週間は、不眠や頭痛などの副作用が出る可能性もあります。それらは全て正常な適応過程の一部ですので、心配しないでください」

 武志は首を触った。絆創膏の下のデバイスの存在が、今や彼の一部となり始めていた。

「では、最後の設定です」 中原はタブレットを操作した。「実際のマイニング機能は、今晩から自動的に開始されます。特に睡眠中に最も効率的に機能します。あなたは普通に眠るだけで構いません」

 中原は最後の調整を終えると、武志にパンフレットを手渡した。「こちらにデバイスの扱い方や、何か問題が生じた場合の連絡先などが記載されています。今後六ヶ月間、月に一度の定期検診がありますので、その際に何か問題があれば相談してください。なお、同じ内容が書かれたデジタルパンフレットもスマートフォンに送信しています」

 武志はパンフレットを受け取り、頭を下げた。

「それと、これも」 中原は小さなカードを渡した。「あなたの専用ニューロン円口座のアクセスカードです。既に初回分の二十万ニューロン円が入金されています。一般の暗号通貨取引所や指定された銀行窓口で日本円に換金できます。または、ニューロン円対応の店舗で直接支払いにも使えます」

 武志はその小さなカードを見つめた。透明なプラスチック素材に青い神経回路のようなパターンが浮かび上がっている。このカード一枚が、彼の生活を根本から変えるものになるのだ。

「それでは、今日はこれで終了です」 中原は笑顔で武志を見送った。「どうぞお大事に。そして、新しい生活を楽しんでください」

 研究所を後にした武志は、渋谷の雑踏に戻った。周囲の人々は無関心に行き交い、誰も彼の中で起きた革命的な変化に気づいていないのだと思うと、少し誇らしげな気分になった。

 武志は足早に最寄りの銀行に向かった。窓口でニューロン円カードを提示すると、若い行員は少し驚いた表情を浮かべた。

「あ、ブレインマイニング実験参加者の方ですね。少々お待ちください」

 数分後、自分の口座に二十万円が入っていることを確認し、そのまま自分が住むアパートの家賃支払い口座に滞納家賃の支払いを済ませた。帰宅すると、大家の態度は一変していた。

「工藤さん、振り込み確認しましたよ。景気が良くなったみたいですね。就職でもしたんですか?」

「ええ、まあ……新しい仕事を始めました」 武志は曖昧に答えた。さっきは誰も知らない雑踏の中では誇らしげだったのに、いざ知っている人を前にすると、ブレインマイニングに参加していることを言うのが恥ずかしくなった。

 アパートの自室に戻った武志は、銀行で滞納していた電気代も振り込んでいたので、早速、エアコンのスイッチを入れた。冷たい風が部屋に広がり、久し振りに夏の暑さから解放された彼は安堵のため息をついた。

 その夜、武志はコンビニで普段より少し贅沢な弁当を買い、ビールを一本開けた。喉を流れる冷たい液体に、彼は小さな幸福を感じた。明日からはもう少し良い食事をしよう。栄養バランスの取れた食事。彼の脳は今や貴重な資源なのだから。

 床に横たわり、スマートフォンでニュースを見ていると、やはりブレインマイニングの話題で持ちきりだった。第一次実験参加者の募集が予想を上回る応募者数を集めたこと、世界各国が日本の動向を注視していること、医学界からの懸念の声、そして経済専門家による熱い議論も変わらずあった。

「今回のブレインマイニング構想は、人類史上初めて人間の脳を直接経済活動に組み込む試みです」 画面の中の経済学者が語る。「これは資本主義の新たなステージへの移行を意味するかもしれません。人間の最も本質的な部分である思考能力そのものが、資本となる時代の幕開けです」

 武志はスマートフォンの電源を切った。彼は歴史的な実験の一部となっていることに、奇妙な高揚感を覚えた。それは彼のような社会の底辺にいる人間には縁遠かった感覚だった。

 眠りにつく前、彼は首の後ろにあるデバイスを再度確認した。そこに埋め込まれた小さな機械が、彼の寝ている間に働き、お金を生み出す。何とも不思議な時代になったものだ。

 眠りに落ちる直前、武志の意識の奥底に青い光が広がるのを感じた。今度は初回テストの時よりも穏やかで、心地よささえ感じる光だった。彼の意識はその光の中に溶け込み、やがて深い眠りへと導かれていった。

 夢を見ていた。いや、それは通常の夢とは異なるものだった。彼の意識は広大なデジタル空間を漂うように浮遊していた。数えきれないほどの光の粒子が彼の周りを飛び交い、それらは時に複雑なパターンを形成し、時に拡散していく。武志はその光景を、驚きと共に見つめていた。自分の脳内で起きていることなのか、それともデバイスを通じて見ている何か別のものなのか、区別がつかなかった。

 朝、武志は驚くほど爽快な目覚めで目を開けた。記憶の中には奇妙な夢の断片があり、同時に普段よりも頭がクリアに働いているような感覚があった。彼はベッドに起き上がり、窓から差し込む朝日を眺めた。東京の景色が、昨日までとは少し違って見えた。

 スマートフォンを手に取ると、新しい通知が届いていた。ニューロン円口座アプリからの自動メッセージだ。

「おはようございます、工藤様。昨夜のマイニング活動による報酬が口座に反映されました:六千七百二十ニューロン円(約六千七百二十円相当)。本日もよろしくお願いいたします」

 武志は画面を見つめた。たった一晩で六千円以上。自分が眠っている間に、彼の脳は働き続けていたのだ。この調子なら、これからも毎月二十万円という金額も現実味を帯びてくる。

 朝食を摂りながら、テレビをつけると、政府広報チャンネルでブレインマイニングに関する特集が放送されていた。

「ブレインマイニング参加者数が一ヶ月で十万人を突破しました。この勢いが続けば、年内に生活保護受給者数を上回る見込みです」 アナウンサーが明るい声で伝えている。「財務省の試算によれば、ブレインマイニングへの移行により、年間約二兆円の社会保障費削減効果が期待できるとのことです。削減された予算は、保育や教育、医療など他の重要な社会サービスに再配分される予定です」

 画面は菅谷首相のインタビューに切り替わった。「ブレインマイニングは単なる社会保障費の削減策ではありません。国民一人ひとりが社会に貢献しながら生活の糧を得る、新たな形の『参加型福祉社会』の実現なのです。『与えるだけの福祉』から『共に創る福祉』へ。これが我々の目指す社会像です」

 政府は「私たちの脳で日本を救う」という大規模なキャンペーンを展開し始めていた。街中のポスターには「マイニングは愛国的選択」「あなたの脳が税金を節約します」といったスローガンが躍っている。徐々に社会は変わり始めていた。

 彼は久しぶりに衣服を全て洗濯し、自分自身も丁寧に体を洗った。鏡に映る自分の姿は、首の後ろの小さな絆創膏を除けば、見た目上は何も変わっていなかった。しかし、内側では確かに何かが変わり始めていた。

 一週間後、武志は初めてニューロン円対応店舗に足を踏み入れた。パンフレットに載っていた、渋谷の一角にある近未来的なカフェだ。「ブレインエコノミー」と名付けられたそのカフェは、ブレインマイニング参加者向けの特別メニューを提供していた。

「いらっしゃいませ、ニューロン円カードをお持ちですか?」 若い店員が笑顔で迎える。

 武志はカードを差し出した。店員は小さなデバイスにそれをかざすと、画面に「検証済み:工藤武志様」という表示が現れた。

「ブレインマイナー特別セットはいかがでしょうか? 脳の活性化に効果的な栄養素を含んだ食事と、マイニング効率を高める特製ドリンクがセットになっております」

 武志は頷いた。テーブルに座り、周囲を見回す。店内には彼と同じようなカードを持つ人々がちらほら見られた。彼らは皆、新しい経済体系の先駆者たちだ。武志は不思議な連帯感を覚えた。

 食事が運ばれてきた。彼はフォークを手に取り、食べ始めた。味は予想以上に良く、久しぶりに本格的な食事を楽しんだ。

「工藤さん?」

 突然、背後から声がかけられた。振り返ると、懐かしい顔があった。かつての職場の同僚、高橋だ。

「久しぶりだな、元気にしてたか?」 高橋は気さくに椅子に座った。「噂じゃあ、お前もブレインマイニングやってるって?」

 武志は少し戸惑いながらも頷いた。「ああ、先週から始めたんだ。高橋も?」

 高橋は首の後ろを指さし、笑った。「俺は第一段階の実験グループだよ。お前も選ばれたんだな。良かったじゃないか」

 二人は近況を語り合った。高橋もまた、長期の失業状態から這い上がろうとしていた一人だった。彼はブレインマイニングに関する様々な情報を持っており、武志に多くのアドバイスをしてくれた。

「最初の一ヶ月は体に慣れるのが大変らしい。特に睡眠の質が変わる。夢を見ている時間が長く感じるはずだ」

 武志は驚いて頷いた。「ああ、確かに。すごく鮮明な夢を見るようになった」

「あれは夢じゃなくて、脳がマイニング作業をしている時の感覚なんだそうだ」 高橋は説明した。「慣れてくると、その中で自分の意識をある程度コントロールできるようになる。そうすると、マイニング効率が上がるんだ」

 武志は興味深く聞き入った。高橋の話によれば、意識的に「青い光」の領域で過ごす時間を増やすことで、マイニング報酬を増やすことができるという。それは一種の自己訓練のようなものだった。

 話を終えて別れる頃には、武志の心は新たな可能性で満ちていた。彼はニューロン円カードで会計を済ませ、カフェを後にした。

 その日から、武志の生活は徐々に変化し始めた。毎朝、彼は前夜のマイニング報酬通知を確認することが習慣となった。高橋に教わった技術を試すだけではなく、合わせて、睡眠の質を高めるために枕やベッドにこだわったり、睡眠前にアロマやストレッチなどをし始めると、最初は六千円前後だった日額もグングン上がっていった。

 一ヶ月後の定期検診で、中原は武志の進捗に驚いた表情を見せた。

「工藤さん、あなたのマイニング効率は実験参加者の中でもトップクラスです。何か特別なことをしていますか?」

 青い光の空間で意識を保つ訓練や、睡眠前のリラクゼーション法などを武志は少し誇らしげに説明した。中原は熱心にメモを取った。

「素晴らしい。あなたの脳は本当に受容性が高いですね。このデータは研究の大きな助けになります」

 検診を終えて研究所を出る時、武志はふと足を止めた。入り口で白衣姿の中原が、スーツ姿の男性と熱心に会話していた。男性のIDカードには「サイベル社」のロゴが見えた。

「彼の脳波パターンは非常に興味深いです。特に睡眠中のシータ波とガンマ波の同期率が……」

 武志は立ち止まることなく通り過ぎた。しかし、耳に入ってきた断片的な会話が、彼の心に小さな不安の種を蒔いた。自分はただの実験台なのか。それとも、新しい時代を切り開く開拓者なのか。

 そんな思いを抱きながらも、彼の日常は着実に改善されていった。栄養バランスの取れた食事、清潔な生活環境、安定した高収入。人間らしい尊厳を取り戻しつつあるという実感が、彼の胸を満たしていた。

 二ヶ月目に入ると、武志は思い切って新しいアパートに引っ越した。以前のボロアパートから程近い場所だったが、部屋は格段に良く、窓からの眺めも開けていた。ニューロン円通貨で三ヶ月分の家賃を前払いした時、不動産屋の男性は敬意を込めた視線を向けた。

「ブレインマイナーの方ですね。最近、お客様が増えています」

 深夜、武志は新居の窓から東京の夜景を眺めていた。遠くに見える高層ビル群の明かりが、まるで彼が夢で見る青い光の粒子のように煌めいていた。彼の脳内では、目に見えない革命が静かに進行していた。そして社会の中でも、彼のような人々を中心に、静かな変革の波が広がりつつあった。

 ポケットの中のニューロン円カードが、かすかに温かく感じられた。

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