ショートショート「かたくな」

 引っ越しも済んで、新社会人として新しい街で暮らし始めた私は、ある日、帰りの通勤電車の中である年老いた男性を見かけた。そのとき、私は席に座っており、男性は立っていて、他に空いている席も見当たらなかったので、自分の席を譲ろうとした。
「あの、どうぞこちらにお座りください」
「いや、大丈夫ですよ、ありがとう」
「でもお疲れのようですから……」
 だが、その人は遠慮してというかむしろ断固として座ろうとしなかった。まだ若いつもりでいて、私の申し出を不快に感じたのかと思ったが、そのような気色は見えなかったので、不思議に思いながらも、その場はそのまま私が座り続けた。

 またある日、今度は都心部の地下鉄の車内でも同じ男性をたまたま見かけた。今度も私が座っており、彼は立っていたが、先日と異なるのは電車内がかなり空いていたことだった。さすがに今度は席を譲るなどとは言い出すつもりはなかったが、じっと男性を見ていた。彼は、じっとドアのそばに立ったままだった。別に外の景色など見えないし、車内広告を読んでる風にも見えなかった。

 さらに別の日、私鉄の駅から自宅近くまでのバスの車内で、あの男性を見かけた。ひょっとしたら私のアパートの近所の人かもしれない、と思いつつ見ると、やはりイスには座っていない。電車に比べるとバスの中で立っているのはかなり辛いはずなのだが、空いている席に座る気配はなかった。

 そして今日、残業で夜遅くに帰宅途中、自宅近くの道であの初老の男性に出会った。すれ違う際にどちらからともなく会釈をして別れようとしたが、その時、私のポケットからペンがこぼれ落ちた。私も彼もそれを拾おうとしてぶつかり、彼が勢いよく尻餅をついてしまった。その時大きな声を上げて痛がったので、私は驚いて駆け寄った。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか? 腰を打ったみたいですけど……」
「ああ、だいじょ……、いたたた」
 かなり強く打ったみたいで、立てそうになく見えた。
「困ったわ、周りに人も見当たらないし……。すぐに救急車を呼びますわ」
 うめき声を上げる男性を見ながら、急いで携帯電話で救急車を呼んだ。責任を感じて私も救急車に乗り込んだ。担架に乗せられた男性はまだ痛がっていた。救急隊員に事情を聞かれたので説明していると、男性が何かを伝えたがっているようで、隊員が、
「どうしました? 苦しいですか?」
と訪ねたら、男性曰く、
「痔が……」

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