ショートショート「看板」

 一人の中年の男が、場末のバーのカウンター席に腰を下ろして飲んでいた。

「なあ、マスター。いいかげん、店の前にあるあの看板、変えたらどうかね?」
 常連客らしいその男は、カウンターの中で静かにグラスを拭いているマスターに、そう話しかけた。バーカウンターには、オレンジ色の暗い光が上から照らされていた。
「またその話ですか、お客さん」
 マスターはうんざりした様子で、手を止めずに答えた。
「いや、いつもの話になっちまうけどな」
 グラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した男は、滔々としゃべり出した。
「だってさ、このバーだけの問題じゃないけどよ、今はどこもかしこも人型ロボットだらけだろ。生身の人間の気配ってものがすっかりなくなっちまった。わずかに残っている人間が地球上からいなくなったら、いったいどうなるんだろうな、この世の中は。まあ、そういう頃には俺もいないだろうけど」
 男はマスターの後ろにある、かなりの量と種類の酒類を一つ一つ眺め、言葉を続けた。
「ともかくだ。この店の中だって、俺とマスターのほかには、人っ子一人いやしない。そりゃあどんな街のどんな店でもだ。全てがロボット優先の世の中になってるんだ。こんな状況の中で、いつまでもあんな看板を掛けておいても、しょうがないと思うんだが……」
 話しながらも男は、次々と注がれるアルコールを体内に収めていった。
 そして、客の男に合わせて自分でも飲み始めていたマスターも、次第に自らの胸の内を語り出した。
「しかしですね、お客さん。確かに今の状況は嘆かわしいことですし、うちの看板が時勢にマッチしていないのはよく分かっています。でも、だからこそ、私はあの看板を下ろしたくないのです。あれは私の希望でもあり、人類の未来の灯火でもあると思うのです。私は考えを変えるつもりはありません。世の中から人間がなくなれば、この店もなくなるでしょう、少なくともあの看板は。だからこそ、ずっと掲げていたいのです」
 いつしか、マスターは涙を流していた。自らの話が自らの心を強く打っていた。そして客の男も同様に、頬を濡らしていた。
 二人は泣いた。寂しげなバーの中で、ただ二人きりで泣いた。時折聞こえる機械音のほかには、二人の嗚咽しかしなかった。

 やがて涙も収まり、心も落ち着いた客の男は立ち上がった。
「ああ、ちょっと感傷的になったかな。じゃ、マスター、お勘定」
 マスターも平常心を取り戻して応対した。
「はい、ビール3ガロンにウイスキー角瓶で5本でしたね。ツケにしておきますよ。また来てください」
「そうか、ありがとう」
 男は礼を言って、店のドアを開けた。その時、店の中を振り返った。店の奥の、明かりもないところに、腰のソケットに壁から出ているチューブを差し込み、燃料を補給しているロボット達がいた。
「どうされました?」
 マスターが尋ねた。
「いや、なんでもない。ごちそうさま」
 男は外に出て、ドアを閉めた。男は店の看板を見た。そこには、

バー『アンドロイド』
    ロボットの方でもお気軽に

と書かれてあった。
 男は、嫌な気分を振り払うかのように、時速六十キロメートルで走って、夜の闇に消えていった。

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