出張先のY市で突然の強い雨に遭った裕二は、一軒の文房具店の軒先で雨宿りをしていた。店は閉まっており、気兼ねはしなかった。
「しかし参ったなあ。いきなり集中豪雨になるとは。傘も持ってないし、どうしよう」
早めに仕事が終わり、宿泊先へ帰る途中の災難に、彼は自らの用意の無さを嘆いた。
雨は、強く激しく降り続いていた。道筋には、前も後ろも開いている商店はなかった。道の遠い先は、雨で霞んでぼやけていた。
ますます勢いをつけて降る雨に、裕二は舌打ちした。このままでは動くに動けない。かといってここで釘付けにされてもたまらない。幸い風がないので、雨が斜めに吹き込むことはなかったが、一張羅はすでにずぶ濡れだった。ホテルはまだかなり遠い。タクシーを拾えそうな大通りまで走ろうとした時、彼は目の前に変わった光景を見つけた。
それは、灰色の柱に据え付けられた信号機だったが、色がおかしかった。本来の青黄赤といった色合いではなく、ただ茶色一色なのである。黄信号が激しい雨でぼやけて見えているだけかとも彼は思ったが、青や赤のランプまで黄色なはずがない。故障して修理中の布でもかけられているのかとも考えた。しかし、目を凝らしてみると、茶色の部分が細かく動いていた。布でも黄信号でもないとなると、一体どういうことだと彼は気になってしょうがなくなり、思わず身を乗り出した。さらに閉まっている文房具屋の軒先から出て歩いた。すでに豪雨によって数メートル先の物でさえ霞んで判別しにくくなっていたので、雨に打たれるのも構わず、信号機の真下まで寄っていった。
裕二は首を上に向けて、茶色の信号を凝視した。大粒の雨が顔を激しく叩いた。次第に目の焦点が合ってきて、ぼやけた景色がはっきりしてきた。彼は、茶色の信号の正体を知って仰天した。
信号の丸いランプ一面に、無数の蛾が集まっていた。蛾は、幾重にも重なり合い、青黄赤の灯りが全く見えなくなっていた。
ワサワサと小さくうごめきランプ上にとどまっている蛾を見て、裕二は呆然としていた。口を開けたまま顔を上げているので、雨が口の中に入ってきたが、気にならなかった。しかしまだ彼の精神は理性を保っていた。
一体なぜ蛾がこんなにも多く、信号機に群がっているのか。誰かがイタズラで、ランプの表面に蛾が好んで集まってくるような液体なり匂いなりを付着させたのか。それは大雨でも容易に流れないような物体なのか。
そこまで冷静に類推した裕二は、このまま信号が蛾たちによって塞がれていたら、この道を通る人や車にも迷惑だろうと思った。信号機を地面と結びつけている柱を、彼は何度も叩いたり揺さぶったりして、蛾を追い払おうとした。だが、それで離れた蛾は数匹に過ぎず、全く信号の色に変わりはなかった。雨はまだ、強く降っていた。
裕二は周りを見回した。蛾をどけるために信号機に向けて投げるような物を探した。信号機の柱から十メートルほどのところに、ゴミ箱があり、そこで空き缶を見つけた。彼は両手に一つずつ空き缶をつかんで戻ってきて、もう一度茶色の信号を見上げた。
裕二は大きく振りかぶって、信号機に向かって空き缶を投げた。青信号であるはずのところに強く当たった。その直接的衝撃と間接的振動によって、蛾は次々とランプから飛び立った。裕二は、やった、と思ったのもつかの間、再び我が目を疑った。蛾の去った丸いランプの部分に、人間の顔があったのだ。
「うわあっ!」
裕二の思考は混乱していた。思わず尻餅をついた裕二は、ランプから離れた無数の蛾の群れから数匹、自分に近寄ってくるのを見た。
裕二は体を震わせながら走り始めた。もう一つの空き缶は握りしめたままだった。
ひたすら走った彼は、前方に大きな黒い傘を差している男の姿を見つけた。全力で走っているため、ぐんぐん近づく。数メートルの距離になった時、裕二はその男に声をかけた。
「た、たすけてください。蛾が、信号に、人の顔が……」
息を切らしながら助けを求めた裕二は、もう一個の空き缶を使うことになった。傘をずらしてこちらを向いた男の顔が、蛾で埋め尽くされており、思わず缶をその人間に向かって投げてしまった。信号機の時と同じように、蛾がバラバラと散っていった。裕二は歯をガチガチ鳴らしながらそれを見ていた。
その男に、顔はなかった。首と髪に挟まれていたのは、青信号のランプだった。緑色の光を発しながら、男がさらに裕二に近づいてきた。裕二は再び走り出した。
もはや雨のことなど、裕二の意識からは全く消え失せていた。走っていると交番があった。
ドアのガラス越しに中をのぞいたが、警官はいないようだった。奥にいるかもしれないと思った裕二は、交番の中に入ることにした。たとえいなかったとしても、とにかく安全に思える場所に身を置きたいと思った。中に入り奥に向かって、裕二は声をかけた。奥からコツコツと革靴の音がした。これで安心だと思った裕二は、そばの椅子に腰掛けた。
警官が姿を現した。裕二は三度、肝をつぶした。警官の制服に身を包んだその人間の顔には、やはり無数の蛾が重なり合っていた。
「ひいっ!」
思わず悲鳴が出た。それを聞いた警官らしき男は、裕二に駆け寄ってきた。
「どうしました? 何か大変なことでも?」
男が発した声につられて、蛾たちが一斉に飛び散った。制帽と制服の間には、黄色の信号ランプが鎮座していた。
それを見た途端、裕二の心は限界に達した。
「うわああああっ!」
裕二は叫び声をあげながら、交番から飛び出した。
「危ない! 飛び出すな!」
後ろから声をかけられてますます、裕二は勢いがついた。自らの顔を両手で覆って、大雨の中を走り出した。雨で足が滑って体が一瞬、浮いたところに、トラックが通過した。裕二ははねられ、数メートル横に吹っ飛び、雨に濡れたアスファルトに落下した。幾たびか転がり、仰向けの状態で裕二は静止した。両手両足を広げて、完全に停止した。
顔面が血まみれになっていた。まだ血は出続けており、真っ赤だった。その赤い顔に、無数の蛾が飛来した。茶色の顔になった。雨はまだ、強く降っていた。
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