平繁無忙の何でも書くブログ

  • 武士の主家への忠誠心とプロスポーツ選手のチーム忠誠心

    今の時代では野球でもサッカーでも、プロ選手がより良い条件を求めてチームを移籍するということは当たり前になりましたが、90年代のJリーグ始まりの頃や、あるいはその頃やそれ以前のプロ野球では金のために移籍するのか、という非難はよくありました。

    職業としてプレーして、評価が年俸の形で示される以上は、より高い金額を提示するチームと契約をするというのはある意味当然です。むしろ高い評価を他からもらっても移籍しない場合の方が、何からの理由が存在します。

    プロスポーツの世界だけではなく、今の日本ではヘッドハンティングなりあるいは普通の転職市場経由なりで、より高い給料を求めて会社を変える人も多くなりました。

    昭和のサラリーマン勤めが「宮仕え」と言われていた頃からすると隔世の感がありますが、チームや会社を変えることに対して拒否反応を示す人にしてみれば、これまで所属していた組織に対して忠誠心は無いのか、という非難につながります。

    さて、この「忠誠心」ですが、イメージしやすいのは武士道において、侍が主人・主家に抱くものではないでしょうか。

    その武士像も、忠誠を第一にするような武士が当然とされたのは江戸時代からです。特に5代将軍綱吉の時に儒学を奨励したのも大きかったはずです。

    もちろん、江戸時代以前の武士に忠誠心が無かったわけではありません。戦国乱世の中で滅びゆく主家の殉じた家臣やその一族も当然ながら多数いました。ただ、そのような武士以外に、滅びる前に仕える先を変えたケースもたくさんありました。

    そもそも江戸時代のような殿様と家臣のような関係は戦国時代の後半、分国法などが整備されてその地域のトップとその地域にいる豪族・土豪などの武士との関係性が整理されてからの話です。

    仕えている中で不遇だったり、同格の武士と揉めたり、あるいは敵方から調略されたりして裏切ることはどこでもあったことでした。

    裏切り、独立、寝返りなどで元いたところと戦うのは当たり前ですが、その戦いの結果、敗れてまた元のところに戻って仕える、支配権を認めるというのもよくあった話です。

    現代人の感覚からすると、戦で命のやり取りをするまで揉めているのに、また元のところに戻ることがあるというのも不思議な感じです。その時代の武士はそういうものだ、と思うしかありません。

    そもそも源頼朝の頃でも「御恩」と「奉公」がセットだったわけで、御恩が無ければ奉公もありません。元寇後に奉公に報いきれず武士層の苦境に対して、幕府の執権を握っていた得宗家が対処しきれなかったから後醍醐天皇が付けいる隙が出たのです。

    その歴史を思えば、野球だろうとサッカーだろうと、球団やクラブから正当に評価されていない、もっと上手にやれると思ったプロ選手が移籍するのは全く当然のことです。そして移籍した選手がまた移籍して元のチームに戻ることもおかしくありません。

    ただ、最初の移籍後の直接対決でその選手にやられて痛い目に遭ったことがあれば、ファンやチームメイトは複雑な気持ちかも知れません。

    まあ何が言いたいかというと、移籍した選手と対戦することが合っても、また戻ってくるかも知れないのでブーイングなどはそれなりに抑えましょうということです。

    今のガンバだと宇佐美・パトリック・倉田・井手口・菅沼ですかね。国内移籍で戻ってきたのはパトリック・倉田・菅沼ですね。

    他にも期限付き・完全含めてガンバから移籍した現役選手はたくさんいますが、まあお手柔らかにお願いします。また戻ってきたら応援するので。

  • Twitterで失敗する人、酒を飲んで失敗する人

    Twitterで失敗する、炎上する、やらかしてしまう人は後を絶ちません。わざとやっている炎上商法ならそれはそれでしょうがないのですが、書き込んで炎上した後に消したり言い訳したり火に油を注いだりしてしまい、余計に事態が大きくなってしまうこともよくあります。

    そもそも、「Twitter」というのはあくまでつぶやき(tweet)なのですから、人に聞かれたら困るヤバいつぶやきは書き込んではいけないはずです。そういうのは頭の中か鍵のかかる日記にしまい込んでおくに限ります。外に出してはいけません。

    何でもかんでも思ったことを書き込むということは、自分の頭の中に浮かんだことを人前で全て言葉にするようなものです。

    また、他人が書いたtweetに絡んだり他人に晒したりということもそうそうすべきではありません。道ですれ違った人や電車で隣にいる人の独り言に対して文句を言いませんよね? まあ中にはそんなことをする人もいるかも知れませんが、tweetに対して反応する人と比べたら圧倒的に割合は少ないはずです。

    Twitterで思わず、うっかり、気の緩みで書き込んでしまったことで炎上とか犯罪行為とかになってしまった後、実はその書き込みは本心からではないので許して欲しいということが認められるでしょうか?

    似たような問題として、酒を飲んでの失敗があります。

    アルコールで酩酊して、ついうっかり、気が大きくなって、思ってもみなかったことを発言してしまった、行動してしまった結果、事件や事故になってしまったけれど、本来の自分が起こしたものではないので、という言い訳が許されるでしょうか?

    飲酒して酔っ払った結果やらかしたことに対しては、大目に見る人もいるでしょうけれど、現実の犯罪行為や事故にまでなってしまったら、許す許さないもなく、逮捕なり何なり厳しい現実をみることになるはずです。

    Twitterでも、ついうっかり書いてしまったとか後で言い訳するくらいならそもそも書くな、と言いたくなりますが、tweetにしろコメントにしろ、二段階で書き込めるような機能があった方が良いかもしれません。

    書いたものが見直す間もなく掲載されるよりも、一瞬でも時間を置くことでやっぱり止めた、と気分が変わることもあるはずです。

    もちろん、その代わりに使い勝手は確実に悪くなるデメリットもありますが。

    どちらにせよ、どんな書き込みでも、その内容を人前で言えるのかどうかという判断を持った方が良いと思います。

  • 無形のものにお金を払う習慣、有料のアドバイス

    形あるモノにお金が必要、ということは分かりやすいです。箕面の山にいる猿ですら、観光客からコインを取って自販機で飲み物を買うくらいです。物体と貨幣を交換しているわけです(もちろん猿に貨幣の概念はないでしょうけれど)。

    その一方で、形のないモノにお金を払うということは、慣れない人は未だにいると思います。

    弁護士の初回相談で30分5000円かかると聞いて、高いと思うか当然と思うか、人によって分かれるのではないでしょうか。さすがに安いと思う人はあまりいないと思いますが。

    病院だって、問診だけで終わって薬(処方箋)も出ないで費用を払うことに満足できる人がどれくらいいるでしょうか。

    そういう資格が必要な士業や医者の業務だけではなく、どんな仕事でも無形の部分もまずあります。それらに必要な無形のサポート費用は、対象となる商品やサービス料金に明示されているか、もしくは見えない形で盛り込まれているわけです。

    モノが売れない時代になると、見た目の値段を下げるためにそういう無形のサポートにかかるコスト(と料金)は削られます。説明書・サポート電話などはすぐに思いつくでしょう。

    かつては安いだけの商品は安物買いの銭失いでした。逆に言うと、安くない商品にはサポートも含まれていたわけです。

    顧客への訴求のために安さが重要な現代では、サポート費用を盛り込まない価格設定になっています。

    その商品なりサービスを上手に利用するためには、消費者側が知識を得るか、誰かのサポートを得るか、何らかの手間暇が必要となります。今の時代ならたいていのものはネットで検索すれば、誰かのブログか動画が見つかるでしょうし。

    安い代わりに自分もしくは誰かの知識が要る、ということを理解出来ない人は、そもそも売り手側やメーカーに対して、アドバイスや設定など無形のサポートが無いことに文句を言うことになります。

    多分、人間関係でのサポートも同じな気がします。

    昔の日本では、同僚や上司が仕事終わりに一杯飲みながら無料で相談に乗っていました。むしろ相談する側が相談に乗ってもらっている人におごってもらうケースも多かったのではないでしょうか。

    ステレオタイプな見方ですけれど、こういう場合のコストは、その人たちがいる組織、つまりは企業が終身雇用・年功序列で成立させている人間関係ですから、その組織運営のコストの中に盛り込まれていることになります。上司も部下も同僚も、終身雇用・年功序列の中ではお互いにサポートし合うことがメリットを生むわけですから、相談する・相談に乗るインセンティブが存在します。

    終身雇用・年功序列が成り立たない現代では、人間関係のコストも給与からは切り離されています。その代わり、企業活動の外において、コーチングやメンター制度で資格や役割として明確にすることで資本主義社会に組み込まれています。

    無形のサポートは無料で行われるのが当然だと思う人は、人間関係のサポートも相互扶助ではなくて、自分が一方的に助けてもらえるものと思っているかも知れません。

    モノを買うにしろ、人間関係にしろ、無形のモノが無料で存在しているわけではない、ということは、常に頭に留めておきたいですね。

  • WindowsよりMacを選ぶ理由が変わってきているかもしれない

    少し前までは、映像・画像編集などデザイン系のクリエイティブな作業をするならMacと言われていましたが、今ではAdobeを始めWindowsへのソフトウェア側の対応もほぼ問題なくなり、またたいていの利用環境がクラウドベースになりつつあることもあって、Macじゃないとダメ、というような作業はもはや無いと思います。

    もちろん、macOS・iOSアプリの作成にはMacは必須ですが、それはまた別の話でしょうし、マイクロソフトの開発統合環境でもある程度までは作成可能です。

    さらには、高性能を要求するゲームに関して言えば、MacよりWindowsの方が環境を整えやすいでしょう。価格性能比の問題もありますが、それ以上にOSレベルでのサポートの違いもあります。大半のMacは自由に内部をいじれないため、要求が年々重くなるゲームに対応してスペックをアップしていくために、Macでは買い直しが必要となる一方でWindowsの自作機やBTO機なら構成変更もたやすいです。

    こうなってくると、Macの方が良い場面というのが減ってきていますが、個人的にはまだ大きくMacがリードしていると思えるのが、フォント・スケーリングの対応です。端的に言うと、文字が綺麗かどうかです。

    映像・ゲームと比べて文字表示に特別な性能を求める人は少数だと思いますが、文字が綺麗な方が、読みやすい方が良いのは当たり前です。どれくらいの費用をかけてどれくらいの綺麗さを求めるかが人によって差が出るわけですが、Macを使い始めてみると、やはりWindowsの文字表示には不満が出てきます。

    もちろん、長い間使ってきたWindowsでの表示にも慣れていますので、耐えきれないほどではありませんが、MacやiOSでのRetina表示は良いものです。フォントの問題もありますが、スケーリングがまだまだWindowsは綺麗になるのは条件が限られている気がします。

    昔話をすると、20年ちょっと前くらい、パソコン自作ブームが起きていた90年代後半から2000年頃にかけて、ビデオカードの性能でゲームや映像表示だけではなく文字表示にも差が出ていました。

    2D表示で鳴らしたのはMatrox社のMillenniumシリーズでした。高速スクロールとキリッとした表示が有名でした。一方、ビデオ映像の柔らかさや見やすさではATIの3D Rageシリーズでしたね。All in Wonderみたいにテレビチューナー内蔵のものがあったくらいです。また、3DゲームといえばVoodooでした。

    こんな話をしているとインターネット老人会とか言われそうですが、それくらい、ビデオカードによって得意不得意がありました。今でも派手なゲームやモニター出力の数などで差はありますが、2D表示のためにビデオカードにこだわる人はいないでしょう。

    文字表示の綺麗さはビデオチップの性能の問題ではなく、OSの設計思想の問題となっているわけです。

    WindowsとMacの文字の綺麗さの違いを、それぞれの創業者のビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの個性の違いに帰結させてしまうと、ありがちな紋切り型の結論になってしまいますが、今のWindowsがどこまでMacの綺麗さに近付いていけるか、ということも見ていきたいと思います。あまり変わらない気もしますが。

  • 文字情報のコピペ、画像情報のスクショからその先へ

    今の若者は何でもスクリーンショットをとって共有し合っている、という話を聞きます。

    こんな書き出しで始めている時点で、自分が時代についていけていないオッサンだと告白しているようなものですが、今のオッサン世代は物心ついたときからスマホをいじっている世代ではありません。10代や20代のある程度の年齢になってから、スマホではなくパソコンに触れてデジタル情報を作ってきた世代です。

    パソコンで情報をやり取りするのは、メールにしろ掲示板にしろSNSにしろ、マウスとキーボードでの操作が前提です。そこでは自分がコピーして誰かに伝えたい内容を、マウスとキーボードによってコピーアンドペーストすることで、他人と共有することが出来ます。マウスならドラッグして右クリックしてコピーしてペースト、キーボードならカーソル位置からシフトキーを押しながら十字キーで選択してCtrl+cでコピーしてCtrl+vで終わりです。いちいちスクリーンショットを撮る必要はありません。

    そもそもパソコンではスクリーンショットは結構面倒です。キー操作なりマウス操作なりで画面をキャプチャして、その画像をフォルダに保存して、そしてその画像を貼り付け、という作業は、たいていの場合、コピーアンドペーストよりも手間暇がかかります。

    逆に、スマートフォン上ではコピペの方が面倒です。スクショはボタン操作だけで一瞬で出来る一方、小さい画面でタッチで文字を選択していくのはストレスがかかります。

    スクリーンショットの便利さがコピペの不便さと、スマホにおいてはパソコンとひっくり返っているわけです。

    コピペの場合、リンクをそのままクリックできたり、受け取る側の表示デバイス、画面サイズなどに応じて可変で表示されるメリットはあります。その一方で、コピー元での内容から改変されていてもすぐには気付けない可能性もあります。

    逆に、スクショの場合は完全にただの画像ですので、そこからリンク経由で飛ぶことも出来ませんし、画像として表示するため受け取る側で見づらい可能性もあります。逆に、送信側が見たものそのままを相手に渡せる、いわば改変の可能性が少ないというメリットもあります。

    これはそれぞれ良い悪いがあるというよりは、機械の特性によって望ましい手段が変わるということですし、人の好みもあると思います。

    ただ、コピペの時は常に改変の意識があるように思います。気にしない人、100%信じる人もいるでしょうけれど、簡単に書き換えられるコピペは受け取る側にも意識をさせます。

    一方でスクショの場合は画像を編集して改ざんするのはコピペほど楽ではありません。もちろん、最近はフォトショップに限らず、画像編集の容易さは向上し、また違和感も見る側に抱かせずにイジることも出来ます。ですので、信頼性の高いスクショを捏造できれば、コピペ以上に影響を与えることが出来ることになります。

    結局は、コピペだろうとスクショだろうと、見たものをそのまま信じるな、という話に帰結してしまうのですが、そうはいっても人情として常に疑い続けるというのも難しいでしょう。

    さらに今は短時間動画の時代でもあります。TikTokも含めて、今後もこの流行はそうそうすぐには廃れないでしょうし、コピペやスクショよりもさらに直感的・本能的な影響力があります。

    動画の改変・改ざん・捏造というのは、当然ながら文字や画像を書き換えるよりも難易度が高くなります。ただ、出来ないわけではありません。特に今ではディープフェイクといわれる、AIを利用した動画偽造が簡単になりました。

    これを用いれば、例えば大統領でも芸能人でも、社会的影響力が強い人がとんでもない暴言を吐いている映像を作り出すことも出来ます。

    音声も必要ですが、それこそ今では人工的に作れますし加工も映像以上に簡単です。ノイズ混じりで元々音質が悪いように見せかければ、本人の声ではないことに気付くのがさらに難しくなります。

    ディープフェイクがポルノだけで使われているのなら、被害者はその対象者だけですが(もちろんそれも重大な人権侵害ですが)、紛争地域やテロ、民族問題・宗教問題などで偽動画を悪用されたとしたら、それによる莫大な被害が出る恐れもあります。

    技術が進歩すればディープフェイク動画を見破ることも可能になるでしょうけれど、進歩はディープフェイク側にも恩恵をもたらします。結局はイタチごっこになるだけでしょう。また、動画が拡散される前にフェイクであることを見破って再生が禁止されるのならともかく、拡散しきってからフェイクであるとどこかが公表したとしても今度はその主張自体が人々に信じてもらえないかも知れません。

    フェイクニュースも同じですが、フェイクニュースがフェイクだと判明しても、そのニュースを信じ続ける人はそれなりに存在します。

    まさに、「人は自分が信じたいものを信じる」ことの証明になりますが、ディープフェイク動画がそれに拍車をかけるようになるのでしょうか。

    これからの世界を生きていく中で、文字情報と画像情報に加えて、動画も容易に信用してはいけない時代であることは、メディアリテラシーとして間違いなく必要な要素になるはずです。

  • 2020年10月18日J1リーグガンバ大阪&ガンバ大阪U23DAZN観戦の感想

    ガンバのトップチームは水曜の試合で横浜F・マリノスと引き分け、連勝はストップしてしまいました。ただ内容的には悪くなく、チームの好調は維持できているようです。

    今日はそのトップチームとU23チームの両方の試合が1時間ずれて行われますが、まずはU23が先に始まります。

    対戦相手はガイナーレ鳥取です。ガンバから完全移籍したGKの田尻がスタメンです。同じく元ガンバのフェルナンジーニョは少し前に怪我してしまったのが残念です。

    ガンバU23の方は前節2ゴールの唐山が警告累積のため出場停止。その代わりに最近トップであまり出番の無かった川﨑が戻ってきてFWの位置に入りました。前節素晴らしいゴールを決めた中村仁郎も先発です。唐山だけではなく塚元・松田・黒川もいないですね。もしかしたらトップ帯同でしょうか? 

    そしてトップチームのメンバー発表では、怪我したらしい昌子の代わりに菅沼がCBに入りました。注目の控えには、黒川・松田に加えて塚元が初のメンバー入りとなりました。唐山は残念ながら今日はお休みですね。

    まずはU23の方から。

    さてキックオフ。いきなり攻められて一森が相手を倒して開始15秒でPKを取られます。もはやここまで来ると開始直後の失点が様式美みたいになってしまっています。一森が飛んだ方向は合っていましたがボールに全く届かず試合開始から一失点しているような状況で始まりました。

    その後は落ち着いてというか守備も出来てきましたが、そもそも1−0でリードされているので良い守備をしているとも言えません。

    ただ、時間が進むにつれてボールを持つ時間も長くなっていき、アタッキングサードにも少しずつ侵入回数が増えてきました。

    鳥取もガンバDFが持っているときに強めのプレスをかけてきますので、そこをくぐれるかどうかというところでガンバの攻撃・鳥取の守備が上手く行くかどうかの分水嶺になっています。

    しかし攻めていても決定的なシュートまでは持っていけず、攻めあぐねるという状況が続きます。37分CKからの流れで川﨑のミドルシュートが初のシュートだったでしょうか。

    40分にはロングパスに抜けだした高木が決定機を得ましたがシュートは大きくバーの上。前節もですがシュートが枠に飛ばないですねえ……。

    43分にはタビナスのパスミスからタビナスの裏を取られてシュートまで持っていかれます。CBの相方が奥野ですので、タビナスの守備の負担が多いこの試合でタビナスのミスが出るとキツいですね。

    結局1-0のまま前半終了となりました。

    ハーフタイムの交代は無く後半開始。49分にはエリア内に持っていった伊勢のシュートもありました。一点負けている以上は攻めないといけないので、どこかで攻勢をかけざるを得ないでしょう。

    そして60分には菅野がエリア内からインサイドで綺麗に決めて同点。これが初ゴールです。

    どうしてもトップチームの方に目がいってしまって、U23の試合内容まで見ることが出来ません。

    87分にはクロスが流れて鳥取の大久保に決定機がありましたが幸運なことにシュートはファストミートせず。直後88分に中村がエリア内から右足シュート。だんだんオープンな展開になってきたでしょうか。

    93分に川﨑がシュートを打つもリフレクションを田尻がキャッチ。直後に鳥取がエリア内からシュートという決定機でしたが、ブロックしてCKになったところで試合終了。90分トータルの内容としては悪くはなかったと思いますが、開始直後のPKがもったいない試合でした。

    菅野が使えるようになってくるとすると、唐山・塚元・菅野・高木にもしかしたら川﨑も加えたFW争いになるかも知れません。

    次節は日曜日にアウェイでセレッソ大阪U23とのJ3大阪ダービーです。前日のトップチームがホームゲームなので、川﨑・唐山・塚元・黒川・松田といったトップチームで控えに入りそうな選手も、土曜に出なければ日曜にU23のメンバーに入るはずです。しかし、メンバーはどうあれ勝ってほしいです。

    さてお次はトップチームも14時過ぎにキックオフ。

    こちらの方はいきなりCKを取られましたが、その後は落ち着いて守って序盤の失点は無し。

    お互いに一進一退でしたが、16分にパスミスを奪った井手口、アデミウソンとつないで千真のシュートはブロックされました。

    ガンバも大分も相手のミスをついてのカウンター・ショートカウンターでの攻撃が一番効果的な状況です。言い換えるとどっちも遅攻への備えは出来ています。

    24分には右サイドから攻め込み混戦の中でゴール、と思いきやアデミウソンのシュートが倉田の手に当たっていてノーゴール。スローで見るとがっつり右手に当たっていますね。当たってなかったら単なる枠外シュートのコースでしたし、しようがないですね。

    アデ・千真にボールが入ってもそこから攻めるのが上手く行きません。後ろからの押し上げが遅いですかね。

    37分にはセンターサークルで奪われて速攻を仕掛けられますが、最後はパスがヨングォンの足に引っかかってくれて助かりました。

    38分アデミウソンが反転してシュートを打つもGK正面。

    40分辺りから大分の攻撃が活性化します。中盤でのフィルターがかかっていなかったかも知れません。

    このまま前半は0−0で終了。大分の守備も集中していましたので、疲れが出始める後半に宇佐美・パトリックで打開したいところです。多分動くのはガンバの方が先でしょうね。

    と思っていたらハーフタイムでパトリックが千真と交代して出てきました。ボールを最前線で収めて攻めるということが出来ていないので、収めるのではなく最前線をさらに前に進めて相手のDFラインを下げさせるのでしょう。単にDFの裏を取るのも目的だと思いますが。

    開始直後にパトリックに当ててからチャンスを作れましたが、あれは一つの狙いでしょう。

    その後にも井手口のスルーパスに高尾が抜け出すもトラップが流れてシュートは出来ず。あれは惜しい。

    後半開始から攻め続けていますので、パトリック投入の効果は明らかに出ています。この時間帯に先制しておきたいところです。

    55分には抜け出した田中達也が東口を交わしてシュートするも高尾がカバーしてクリア。攻めている時間帯はああいう場面が怖い。

    再び59分には田中にシュートされますが東口が圧巻のセーブ。中盤の井手口と最後の東口での守備の負担が大きすぎる気もします。

    結局後半最初の15分での攻勢で得点出来ず、むしろ二回も大分というか田中に決定的なシュートを放たれているのでまた組み立て直しですね。

    そして宇佐美・矢島が交代出場のスタンバイする中で、64分にCKからギリギリ外れるヘディングシュートを打たれましたが事なきを得ます。

    そして山本→矢島、アデミウソン→宇佐美に交代。山本は悪くなかったと思いますが、疲労も考慮していたのか、より決定的なパスを求めたのかも知れません。

    そして67分にパトリック、倉田、矢島とつないで倉田のシュートはGKに当たりゴールならず。後半開始直後のように代わって入った選手が絡んで良い攻撃が出来ています。

    宇佐美のパスから高尾がゲットしたCKを、宇佐美が蹴ってパトリックが頭で決めて遂にガンバが先制です。

    実況でも言われていましたが、Jナンバーワンのエアバトラーの本領発揮です。

    78分にも右からのクロスを田中が頭で合わせますが高尾・東口で防ぎました。

    81分に大分が一気に四人交代で勝負をかけてきました。守るガンバ攻める大分という構図になるのは間違いありませんが、こういうところでガンバが追加点を取れるとグッと楽になります。

    87分に宇佐美が倉田にパスを通しましたがパトリックとの呼吸が合わず。

    90分に足がつった高尾に代わって松田が入ります。

    93分には倉田に代わってJ1リーグ戦デビューとなる塚元が入ります。

    95分には右からのクロスが大外の大分の選手のシュートにつながりましたが枠の外。

    小野瀬も足がつる展開になりましたが、そのまま試合終了。最近は一得点の試合が続きますが、無失点で勝てました。

    唯一のゴールを決めたパトリックも素晴らしかったですが、個人的にはマンオブザマッチは大ピンチを防いだ高尾だったと思います。あれを決められていたらその後の展開は全く違いました。

    しかし唐山よりも塚元の方がJ1リーグ戦デビューが早く出来たのもちょっと意外ですかね。

    これで勝ち点45、暫定4位に戻り、2位のセレッソとは1試合少なくて勝ち点3差、3位のFC東京とは3試合少なくて勝ち点2差となりました。ナイトゲームの名古屋が勝てなければ暫定4位のままです。

    去年は勝ち点47で7位、一昨年は勝ち点48で9位でしたから今年はかなり良いところまではいけますね。2位は確保したいところです。優勝はまあ、とんでもない状況にならない限りは川崎でしょうから。

    次は24日土曜にオルンガ擁する柏レイソルです。呉屋もいますし守備陣の一層の活躍を期待しましょう。

  • 核関連施設からテレワーク、ワーケーションへ

    核関連施設を作る代わりに巨額の補助金を出す、というのは多分、原子力行政が始まったときから続く伝統というか悪癖というか、過疎化と税収不足に悩む自治体と、人口が多い土地では出来ない施設をどこかに作りたい政府とのある意味癒着で成り立つ共生関係が存在してきました。

    原発関連施設を作ることで、その自治体にお金が下ります。別に原発だけではありませんが、やはり原発は金額が巨大です。そのお金だけでやっていけるくらいです。

    しかし、その代わりというか、土地を提供して施設建設の許可を出すだけで大金をもらえる自治体では、本質的な町おこし・村おこしは行われません。

    そのお金でインフラを整備して、という目算もありますが、インフラはイニシャルコストだけではなくランニングコストも必要です。当然ながら、もともと特筆すべき産業も無く人口も少ない自治体がそういうところに選ばれていますので、ランニングコストを賄えません。そうなると結局は元の木阿弥です。

    こういった補助金を受け取っている自治体と、受け取っていない自治体で、過疎の進行具合に差があるのか調べた研究はあるのでしょうか?

    もし、受け取っている方が過疎・人口流出が進んでいるとしたら、受け取る側の政策も変わると思います。

    第一、規模に見合わない過大なお金を受け取ったとしても、それを狙っている都会のコンサルやらゼネコンやら商社やらの餌食になる未来しか見えません。そういったお金を何に使うか、使い道で何かを作ろうとしても人的資源がありませんので、都会の企業や組織を頼ることになります。

    何か村おこし・町おこしに使おうとするよりも、単純に住民の数で割って現金支給した方が良いかもしれません。そうすれば移住者も増えるでしょうし。

    それで人口が増えてビジネスチャンスがあるとよそから見えれば、勝手に企業がやって店舗も出来て雇用も生まれるでしょう。

    もちろん、そんな絵空事がすんなり実現することも無いでしょうが、生活にギリギリ足りないくらいのお金を配ったり、少し働くだけで生きていけるような町であれば、これからの時代は移住者も出てくるかも知れません。

    コロナ禍によってテレワーク、在宅勤務が珍しくなくなりました、ワーケーションや地方移住を促進する自治体・企業も増えました。

    そういったテレワークは、短期間ならぶっちゃけ、ネット回線と住む場所とコンビニがあれば何とかやっていけます。長期居住するならもっと色々と必要かも知れませんが、多額の費用で観光施設を作るよりは、今の時代は効率よく町おこしにつながるのではないでしょうか。

  • 減反政策と河川氾濫の関係性は?

    今年は今のところ、台風被害が比較的少ない年となっていて、本州への上陸もありません。それでも、台風がなくとも長雨や豪雨災害は起きています。

    そもそも、日本の国土は大半が山であり、そこに大量の雨と雪が降るので、急流かつ水量が多い河川が大陸に比べると多いという地形となっています。

    縄文時代の終わり頃から日本では稲作がなされてきましたが、豊富な水資源が水田に必要な水量を供給することで、広くない国土に多くの人口を養える原因となりました。

    水田を作るためには川から水を引っ張ってくる必要がありますが、これは逆にも作用していて、普段から水田や溜め池に水を誘導することによって、一つの川の流域面積が事実上広がっていることになります。当然ながら水田も溜め池も平らになっていますので、流れは緩やかとなり、大雨によって河川が氾濫することも、水田が出来る前と後とでは全く数が異なっていたはずです。

    もちろん、全く氾濫が起きないわけではないでしょうけれど、水田が無く降った雨が全部そのまま急な流れに乗って海に向かうよりはマシでしょう。

    一方、昨今の環境変化による豪雨災害の急増は、政府の水害対策にも影響を及ぼしました。

    国が水害対策を転換「流域治水」とは… 台風19号被害から1年
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201012/k10012659471000.html

    そこで一つ気になったのは、国の減反政策や農家の減少による水田の耕地面積が減ったことと、河川の氾濫の関係性は無いのか、ということです。

    言い換えると、天然のダム・貯水池的な機能を果たしていた水田が減ったために、河川の水位が高くなり氾濫が増えたのではないでしょうか?

    単なる面積だけではなく、稲の成長に伴い水分も利用しますから、同面積の溜め池よりも消費水量は多いはずです。

    また、都心部だけではなく地方の多くの道や家屋の周辺がアスファルトで舗装されるようになりました。未舗装の土地に比べると、舗装された部分では地面が雨をあまり吸収しないため、そのまま川に戻っていくか、その場で浸水被害の原因となります。

    単なる素人考えですから、実際にはそれほど影響が無いのかも知れません。それこそ昔に比べて、上下水道が整備されたことで、それらの施設や道路に埋め込まれている水道管、家庭やビルにある水道管やタンクにも水は貯えられるようになりました。

    まあ、そもそも降水量、特に短時間での急激な豪雨の増加が一番の原因かも知れません。水田が減ったことが原因だと分かっても、そのためだけに休耕田を元に戻す訳にもいきませんし、新しい環境には新しい政策・対策を立てて防いでいくしかないでしょう。

  • 画面越しではない「おのぼりさん」が一番楽しい旅

    このコロナ禍が続く中、個人的には当分、旅行や遠出をするつもりは全くありませんが、旅行に何の心配も無く行けるようになってほしいものです。

    今は出来るだけオンラインで、バーチャルで、という流れもありますが、旅行についてはただ自分が見たいものを見るだけでは満足できません。それでいいならそれこそ100%、GoogleEarthやストリートビューなどのオンラインで済んでしまいます。あるいは、観光地自体も公式サイトやYouTubeで情報を流して終わりでしょう。

    観光地なり、あるいは観光地では無い場所であっても、旅先では自分が好きなタイミングでものを見ることが出来ます。ネット経由で動画で見るのは、事前に準備されているものだけです。

    目線が固定されていても楽しいものはあるでしょう。例えば、旅行中に電車に乗っていて山やトンネルを過ぎたら海が見えてきたら、たいていの人はワクワクしてくるのではないでしょうか。

    100歩譲って、VR技術を使えば360度すべて自分が見たいものを見たいタイミングで見ることが出来ますが、それでもその場にいる時に味わえる空気や天候、自分以外の人々の喧噪など、旅の楽しさを構成している他の要素は味わえません。

    旅先での思い出として、その場で感じた雲の形やすれ違った人の雑談など、意外と結構覚えているものです。

    目線をあちらこちらに移して、その時その場でしか感じられないものを感じるのが旅の一番の醍醐味だと思います。旅行は計画しているときが一番楽しい、というツッコミは無しで。それは確かにそうなので。

    ともかく、キョロキョロするのが楽しいのです。地元民と比べて明らかに「おのぼりさん」状態であることが、一番旅行を満喫できると思います。

  • 空き地は街の鏡

    私が子どもの頃は街中に空き地がありました。

    草ぼうぼうで子どもがいつも遊ぶスペースだけ、草が生えずに土が露出しているような場所です。

    ドラえもんで出てくる土管のある空き地を想像すればいいでしょうか。私が遊んでいた空き地には土管なんてありませんでしたが。

    そういった空き地も今では無くなりました。

    おそらく、バブル景気による不動産開発が都会の空き地をマンションに変えていったのだと思いますが、景気が悪くなってからも少し空いたスペースがあれば、大なり小なりマンションが建っていきました。

    最近の京都なんかではマンションではなくホテルが建つことも多かったですが、今あるような空き地は、元の建物が取り壊されて、新しくマンションやホテルが建つまで一時的に仮囲いがされているような場所くらいです。

    そして囲いがあるので人は入れず、子どもの遊び場になることはあり得ません。むしろ、囲いの中にいつの間にか空き缶などのゴミが投げ捨てられています。

    空き地は街の鏡だと思います。

    空き地にゴミが捨てられてしまうような街ということです。

    空き地がない街ももちろんありますが、それはそれで自分たちを振り返ってみる余裕がない街と言えるかも知れません。

    多分、空き地のあった時代よりも今の方が余裕が無くなった社会になったのだと思います。

    今回のコロナ禍により、社会情勢や経済的な影響に大きな変化が生まれることでしょう。既に生まれているでしょうけれど、ビルや家の取り壊しも残念ながらあるはずです。

    ただ、今ある建物を壊すのは、現代ではその後に新しい建物を作ることが決まっている場合に行われます。

    その場所を利用したいという買い手が見つからなければ、いわゆる「空き家問題」として認識されているような、空き家・廃屋として存在し続けます。

    空き家もまた街の鏡の一面です。しかし空き地とは違い、遊び場には出来ません。してもいけません。むしろ誰かが勝手に住み着いていたり、放火や事故・事件の温床になりかねません。

    空き家・廃屋が多くなるとしたら、それもその街の状況を物語っていると言えます。

    空き地という余裕も無く、空き家という問題を抱えながら、街はどうなっていくのでしょうか。

  • 農奴制とフェアトレードとモノカルチャー

    中国政府が新疆ウイグル自治区においてウイグル族を強制労働させている、という批判が欧米を中心に強まってきました。

    その中で、新疆で生産されているコットンが強制労働の産物であり、新疆綿を製品に用いているアパレルメーカーも批判の対象になっています。

    日本にも新疆綿というブランドで売っているメーカー、商品が色々ありますが、今後は無くなっていくでしょうね。

    綿の産地は他の地域だとインドなどにもありますが、しかしインドも結構差別の強い地域ですが、「インド綿」には問題はないのでしょうか?

    そんなことを言っていたら何も商売できなくなってしまうかも知れませんが、綿に限らず様々な国際取引で「フェアトレード」が求められている昨今を考えると、農産物の生産者が、先進国で販売者が得ている利益に関われるようになるのは社会的な要請でもあります。

    新疆のような政府による弾圧の一環として行われる労働みたいなものはともかく、割に合わない取引はしなくていいとか、そもそも他の仕事をすればいいのではないかとか、無関係な人からすれば考えてしまいかねません。例えばコーヒー豆の生産などで、大量に先進国の巨大商社がごっそり買っていくのに生産者が貧しさから抜け出せないのなら、別の農産物を作ったり農業止めればいいじゃないか、ということです。

    しかし、ことはそう簡単ではなくて、そもそも他の選択肢が存在しない人にそのような言い方をしてもどうしようもありません。

    フェアトレードが徐々に浸透しつつありますが、そもそも商売、交易、トレードというのは双方が合意して成り立つものです。本来であればわざわざ「フェア」「公正」「公平」という概念が内包されている契約関係です。しかしそれでもフェアではないトレードが存在するというのは、その農民・農業を取り巻く環境に原因があります。

    かつてのヨーロッパ、特にロシアでは19世紀後半まで農奴制が存在しました。もちろんロシアだけではなく、日本を含む他の国でも似たような制度はありました。

    農奴制の問題には、高率の地代を課されたことで貧しかったこともありますが、土地を勝手に離れたり農民であることを辞めたりすることが出来なかったという。農民ではなくなることの自由が無かったわけです。

    それは今でも似たような問題として存在します。

    かつてのロシアの農奴制よろしく、生産者がその作物を育てる農業を止めたら生きていけない環境に置かれています。その作物を貿易商社が買ってくれないと自分や家族を養っていけない社会環境にあるから、安い値段を提示されても売らざるを得ないということになります。

    日本の農協みたいな組織があるわけでもないでしょうし、別の作物への転換も簡単ではありません。その地域、あるいは極端な例ではその国では単一の農作物が外貨を稼げる輸出品として推奨されていれば、それを作らざるを得ませんし、他の作物を買ってくれる商社を探すのも一戸の農家レベルでは無理でしょう。

    結局はその農作物を作っている地域の政府の問題ではあるのですが、世知辛い世の中では国際的な巨大商社の方が国家・政府よりも強い権力を持っている場合があります。権力で押し切られるのではなく、商社と癒着してしまう政府だって存在します。

    そういう、政府にも商社にも搾取される農家、生産者を支えましょうというのがフェアトレードの理念ですが、それにより多少値段が上がっても、トータルで見れば先進国の消費者にも最終的には利益がありますよ、というところをアピールできるかどうかが当面の課題でしょうかね。

  • 日本学術会議と政権の揉め事について

    日本学術会議と政権の揉め事については、一般人にはどれくらいの違法性があるのか分かりませんし、どれくらいヤバいのかは主張している人の思想にも絡んでくるので、公平なジャッジというのがなかなか見えてこないのですが、個人的な感想としては、ニュースで最初に聞いたときには

    「どっちもダセえwww」

    という印象でした。

    政権に文句を言う学者を排除しようとする政権には寛容さや柔軟性が足りないし、学者の側も文句を言う政権が自分を受け入れて当然だという傲慢さとみっともなさが入り交じって見えます。

    そんなに色々言われたくないのであれば、政権側は自分たちに従順な学者を集めて
    「日本御用学者会議」
    でも作ればいい話ですし、学者側もそんな政権による任命が必要なポジションなんてこっちから願い下げだ、と振り払ってほしいものです。

    芸術にしろ学問にしろ、人のお金でやっている以上はパトロンがアレコレ言ってくるのはある程度までは当たり前のことです。

    その一方で、政府としては批判的な意見を全て封じてしまうのも問題です。古代中国の頃から、民の口を防ぐのは川をせき止めるようなものでいずれ決壊する、という言われてきました。

    学校・学問の府における政府批判は政府が身を正すために必要な物です。もちろん全てハイハイと聞かないといけないわけではなく、取捨選択しないといけません。1951年のサンフランシスコ講和会議における全面講和論・単独講和論のように、理想を重視する学者と現実を重視する政治家で考えが異なるのは仕方がありません。

    それでも、政府の現実重視に対するカウンターで別の考えを提示する存在も大切です。教育や学問において理想を言うのは当たり前で、現実だけを教える学校に何の価値があるでしょうか。

    またその一方で、今回の政府の不承認の方針に対して、80年代には事実上全部認める儀礼的なものだった、ということを持ち出して批判する向きもありますが、前例なり判例なりあろうとも社会情勢が変われば別の対応を政府が取るのも当然です。あの頃は中国が日本の安保上の脅威ではありませんでしたし、過去の決定を二度と変えてはならないなんて話はナンセンスでしょう。

    40年前からパラダイムが変わっていない学問分野なんてないでしょうし、それは社会の他の領域でも同じでしょう。

    結局のところ、今回の問題は政治と教育、現実と理想のせめぎ合いということではなくて、もっと卑近な菅政権賛成派と反対派の感情のぶつかり合いが、問題を大きく増幅させているように思えます。

    どちらも折れずにこのまま揉め続けたら、最終的には裁判で決着という話になるでしょうけれど、むしろプロレス的というか、お互いに相手が楯突いてくることを分かってて行動しているように思えてしまいます。もちろんそんなことは無いのでしょうけれど。

    どっちか片方を支持する人から見たら、もう一方はとんでもない無茶苦茶な奴らだ、という扱いになりますが、どちらにも与しない立場からすればどうでもいいような話です。

    私は別に反知性主義でもありませんしアナキストでもないので、学者には学者の立場も考えもあって、政権・政府には税金の管理・使い道の考えもあることは理解しています。ですので、両者ともどこかで落とし所を見つけて折り合ってほしいですが、どうなるんでしょうね。裁判で争ったら最高裁で判決が確定するまでに、菅政権が寿命を迎えているのは間違いないでしょう。