ヒューマニズムというと、本来は「人文主義」として人間の在り方を中性的キリスト教観から解放した人間性そのものを重視する考え方でしたが、幾多の変遷を経て、現代日本では「人道主義」としての使い方の方が多いかも知れません。今の時代に「ヒューマニズム」を口にするのは弱者救済を目的にする時くらいでしょう。
どちらにせよ、人間を大事にする・重視する在り方ですが、行き過ぎると、あるいは道を逸れると人間中心主義になります。人間「中心」主義と言おうと、人間「至上」主義と言おうと同じことですが、人間中心主義は現代の環境問題の中では批判の的となっていて、さすがに地球も自然も全て人間様のものだと大見得を切る人はいなくなりました。
ヒューマニズムを「人間を大事にする」と解釈するのは良いとしても、「人間『のみ』大事にする」と解釈されると、ややこしい話になってきます。「人間」以外は大事ではないのか、「人間」だけ幸せなら良いのか、という攻撃待ったなしです。
「ヒューマニズム」を無理に悪意を持って解釈した場合の、対義的な概念に当たるのが、環境保護や動物愛護など、人間を取り巻く世界や地球全体を大切にする思想になります。しかし、その地球環境の保護にしたって、あくまで「人間のために」行っていることです。誰も地球や自然や動物の意思など知り得ません。
現在及び未来の「人類」のために環境を保護しましょう、と言うより他ないはずで、そうなると悪い意味での「ヒューマニズム」=「人間中心主義」と大差なくなります。自然を保護するにしても、自然のために自然を保護すると言うよりも、人間のために自然を保護すると言う方が素直な理屈になります。
極言すれば欲望に忠実なエゴイストな理屈の方が他人にとっては理解しやすいのです。利他主義は社会性動物として必要な概念ですが、生存のための欲望と対立する利他主義は成立しません。善良な人であれば、生存のために苦しむ弱者と、人類に消費される自然の狭間で懊悩することになります。
悩むのが一人だけならそれで済みますが、複数いれば善良な人同士での対立が生まれ、さらに問題が複雑化していきます。民主的な先進国で起きている、環境保護と人道主義に揺れる政治的不安定化はここに起因します。
逆から見れば、だからこそ、悪人同士は限定的な結束を作ることが出来るのでしょう。善良な一般人の結束は脆いものです。打算と欲望で動く悪人の方が悪人から見ても相手の欲するものが分かりやすいのです。まさに今、世界的規模で見受けられる独裁者同士の同盟がまさにそれに当たります。
善良な人たちがその独裁者同盟に相対するには、自らの結束を固めて揺るぎないものとして、相手側の悪が行き着くところを見定めることです。人事を尽くして天命を待つ、という言葉は、個人だけに適用されるわけではないのです。
コメントを残す