「あなたは何をもって自分の存在を正当としますか?」

誰もが自分を他人に受け入れて欲しいという気持ちが多少なりとも存在します。自己顕示欲にしろ名誉欲にしろ、程度の差こそあれ、何らかの形で周囲や社会に受け入れられることを求めるのは社会的動物としては当然の本能です。
「自分はそんなことない、自分はありのままでいいのだ」
という人も、そういう人間であるとして周りに認められることを求めています。

自分が自分として存在することは、もちろん社会に認められなくても存在できますが、社会から隔絶した存在として生きるにしても、衣食住なり電気ガス水道代なりを賄うには収入や財産が必要で、そのためには誰かと関わりながら生きていかざるを得ません。

アイザックアシモフの名作、「黒後家蜘蛛の会」シリーズでは、会食に呼ばれたゲストに対してメンバーが、
「あなたは何をもって自分の存在を正当としますか?」
と質問します。ゲストは、自分の職業を中心に社会への関わりをもって、自分の存在を正当とするものとして回答します。そこでは必ずしも、自分が社会の役に立つ人物として押し出すわけではありません。自分が自分の存在を正当とする、言い換えれば自分のことをどのように客観的に見ているかという話になります。

自分に対して過剰に低い評価を与えてしまうと、自信喪失どころではなく、自分を精神的にも物理的にも痛めつけてしまい、大いなる悲劇にもつながりかねません。決して自分を見下す必要はないのですが、だからと言って逆に過大評価をしてしまうと今度は他人に迷惑をかけることになります。

自分に対する自分の評価が、社会から得られる評価よりも高すぎると、自分に社会から認められていないと考えてしまいます。それが自分に向かって自己を高める努力への動機付けに生かされるのであれば、むしろ良いことなのですが、悪い方向に向かうと自分を認めない社会への破滅的な衝動につながってしまいます。

対象が社会全体でないとしても、例えば会社、学校あるいは家庭内で不遇な扱いを受けている、と思い込み、自分を認めない人たちへの逆恨みを募らせ、さらに自分を追い込んでいくと、待っているのは悲劇です。

退けられ、不遇だからといって、それに対して暴発してとんでもないことをしでかしてしてしまえば、その不遇さが実は正しかったということになります。社会やその人が所属するコミュニティが、そんなとんでもないことを起こすような人を、その人が求めるポジションから退け、まともに処遇しなかったのは当然だ、という判断になるのです。

以下は、春秋左氏伝 文公二年の条にある逸話です。

古代中国春秋時代、晋の国に狼瞫(読みは「ロウジン」)という武に長けた人がいました。彼が国一番の勇者の証しである車右を拝命していたものの、名門の乱暴者が彼に取って代わってその地位に付き、そのことに対して狼瞫は、自らの勇気を侮辱されたとして当然ながら怒りました。
しかし、その怒る狼瞫に対して、彼の友人が
「お前と一緒に騒動を起こして、あの人事を手配した奴らを倒そう」
と誘いました。しかし狼瞫はそれに対して、
「死んでも不義な場合は勇とは言えない。国のために働くのを勇という。(中略)上の人が自分を見損なっていても、反乱を起こしてしまえば、結局自分を見抜いていたことになる」
といって断り、次の戦で先陣切って勇敢に攻め込んで戦死しました。そして、軍全体が彼に続いて敵陣に攻め入り大勝しました。

他人からの評価や、社会や組織からどのように受け入れられているか、ということに不満を持つのは良くあることです。しかし、その憤懣の噴き出し方を間違えればただの失敗者・反逆者になりますが、気持ちの持ちようでは大なる成功をもたらすのだ、ということを心に留めておけば、大きな間違いはしないでしょう。

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