2011年3月11日という日付を覚えることは重要か

生きている限りは必ず毎年3月11日を迎えます。

私自身や知人の被害としては、東日本大震災よりも1995年の阪神淡路大震災の方が大きかったのですが、だからと言って3.11の記憶や被害について忘れるわけがありません。これも、生きている限りはずっと覚えていることでしょう。

大変な事態・事件・事象が起きたときに、自分が何をしていたかということは、その事柄自体の一般的な内容と合わせて記憶されるものです。

東日本大震災の時は自宅にいて、突然の長い揺れに驚いてテレビを付けたり、その時外を歩いていた母が揺れに気付いていなかったこと。

阪神淡路大震災の時は早朝で、受験生だったために朝6時起きの習慣が付いていたので目が覚める瞬間の強烈な縦揺れに遭遇したこと。

9.11同時多発テロの時は夜、NHKニュースを見ていて、あのビルに2機目が突っ込んだ瞬間も放送されていたこと。

地下鉄サリン事件の時は父の田舎に帰省していてそこでテレビを見ていたこと。

JR尼崎線脱線事故の時は仕事中で、業務しながらずっとネット情報を見ていたこと。

私の場合はこんな感じですが、もっと年配の方でしたら、8月15日の終戦の日の朝や、アポロの月面着陸やケネディ大統領暗殺の時、あるいはオイルショックやニクソンショック、あさま山荘事件の時などでの記憶もあるでしょう。

ただ、同時代的に物心ついた状態でその事件事故などの記憶がある人と、その後に生まれてニュース・教科書的な記憶に留まる若い人とでは、記憶の仕方が異なります。自分が体験していないことの記憶は、強烈なインパクトを伴いません。

東日本大震災が起きたのは何年何月何日か?という歴史の設問やクイズの問題があったとして、記憶が強く残っている人にしてみれば、わざわざ問うほどのことではないと思う一方で、そうでない人にしてみたら2011年も3月11日も数字としてただ単に覚えているかいないかという難問になってきます。

これは不謹慎とか無知とかという話ではなくて、人の記憶はそういうものなのです。

そして、世代間の断絶が自然と生まれ、いずれは全ての人が知識的記憶としてしか覚えなくなります。どうしたってそうなります。

数字だけで覚えるようになると、どうしても記憶は曖昧になりますし、東日本大震災が起きたのは2010年なのか2011年なのか、あるいは2021年なのかということが分からない人だって数十年後には出てくることは間違いありません。それを非難するのも無理筋です。

よく、こういう災害や大事件については「語り継ぐこと」が大事と言われます。しかし、聞く方はどうしたって勉強的に聞くことになります。真剣味が無くてもしょうがありません。

第一、若い世代には新しい大悲劇が存在しています。それこそ、戦争の記憶は無いが東日本大震災の記憶がある世代は、今の日本人の大半を占めています。

教訓として残せる記憶、将来の安全・平和につながる記憶、そして今の時代ならではの「フェイク」ではない記憶を残していくことくらいしか、悲劇を同時代的に味わった人には出来ないのではないでしょうか。すくなくとも、偉そうに若者に訳知り顔で教えたって共感も関心も持たれないのですから。

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