少し前の話ですが、パリ五輪後のメダリストによる首相表敬訪問で、室伏広治スポーツ庁長官がブレイキンの湯浅選手に対して、軽々しい失礼発言をぶちかましたことで炎上したことがありました。
スポーツ選手が適切にリスペクトされないのは、日頃のテレビ番組等を見ていればよくあることではありますが、今回はやらかしたのが自分自身がアスリートで、というか日本陸上界・日本スポーツ界においてレジェンド級の人だったことを考えると、これはそもそも日本の社会において、相手のことを思わない挨拶が無意識的に広がっている証拠なのではないか、とも思えます。
室伏長官も自身が選手の時には、散々に失礼な無茶振り発言を食らってきた立場のはずなんですけれど、結局立場が変われば同じ人でもこういうことを言ってしまうことになってしまうのでしょうか。
ものすごく極端なことを言うと、メダリストによる首相表敬訪問なんて、メダリスト側も面倒だなと思いますし、首相の側だって「これで支持率爆アゲ!」なんて思う脳天気馬鹿でない限りは、日々こなす仕事のごく一部に過ぎません。スポーツ庁長官としては日頃はあまり無い出番だと思って張り切ったのかも知れませんけれど、ここでウィットに富んだ発言をしたところで翌日には世間からは忘れ去られるものです。
首相表敬訪問というのは、それを行ったこと自体にのみ意味があって、そこで交わされた会話なんて誰も求めていません。
特に当たり障りのない、社交辞令的ななんということもない、何も中身のない挨拶をお互いに交わして、ただ時間が過ぎ去れば良いだけの行事のはずなんですけれど、なんかその場を楽しい場にしようと思ってしまったのか。
しばらく前に、「挨拶をしない自由」に関して炎上した若者が話題になっていましたが、中身のない挨拶を不誠実に思って嫌う気持ちは分からなくもないです。
ただ、人と人とのコミュニケーションなんて、いつでも誰とでも中身の充実した意味のあるやり取りなんて出来るものではありません。なんということもない、大して意味の無い、後に残す必要もない言葉を交わすだけでも、コミュニケーションとしては成り立ちます。
いわゆる非言語コミュニケーションとは若干異なりますが、コミュニケーションを行うこと自体に意味があります。
よくある天気を話題する会話なんてその最たるもので、実際の天気の話自体はどうだってよくて、コミュニケーションを行うことによって、お互いの関係性を再認識出来ることの方が重要です。
挨拶にしろコミュニケーションにしろ、当たり障りのない、特にウィットに富んでない、どうということもない会話を交わすのも、現代社会にとっては一つの能力、才能になったのかも知れません。
どうでもいい行事のどうでもいい会話には社交辞令で中身のない話でいいのです。中身を求めるから失敗して面倒が起きるのです。
そのうち、社交辞令検定なんて出来たりして。
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