大学入試の改革が結局、英語民間試験の見送りに加えて記述式解答の見送りも決まったことで、実質今とあまり変わらないということになりました。
計画倒れというか見通しの甘さというか、文科省や改革推進してきた人達の失敗として非難されていますが、最悪の事態は避けられたという見方も出来るかと思います。
思い出すのはゆとり教育の失敗です。ゆとり教育の掲げた理念自体は良いものだと思いますが、現実に適用する中で理念がゆがんで骨抜きになったことで結果的に失敗と見なされて撤回されることになりました。
結局ゆとり教育が導入されていた長い期間はなんだったのでしょうか。
特定の誰かが責任を取ることもなく、結局のところ何十年もかけた失敗として歴史に残るだけとなってしまいました。
今回の大学入試改革も一歩間違えればそうなっていたかも知れません。実際に動き始めてしまうと、やっぱりダメかも、と思っても中止するのも大変です。英語民間試験にしろ記述式解答にしろ、導入前のギリギリのタイミングで何とか中止出来たのは良かったと思います。
もちろん、それらのための対策を立てていた受験生やその保護者、高校や私教育現場などは急な方針転換にはたまったものではないでしょう。それらの人達は文科省らに文句を言う権利はあると思います。
ただ、あくまで全国統一の試験で採用されなかっただけで、英語4技能や記述式解答などの勉強をして損になることはありません。英語の必要性は言うに及ばず、記述問題も国公立大学二次試験や一部の私立大学の試験では存在するわけですから、受験生・大学生として大事なものです。
もう、決まった以上はあれこれブーたれるよりも勉強したもの勝ちになるでしょう。
今回の入試改革撤回については「不公平」が理由とされました。英語民間試験については都会と地方での受検しやすさに差があるとされ、記述問題についても採点基準の一貫性を取れないということで、不公平だから撤回するべき、という理屈でした。
不公平な入試は確かに問題ですが、完全に公平かつ平等な試験というのも非常に難しい問題です。昨年の医学部入試の不正事件もありましたが、試験を複雑化すれば不公平さが出てきますし、不正が入りやすくなります。
一番不正のしようがないのは、全員が一回だけのマークシート式の試験を受けて全ての合否結果を決定する仕組みでしょう。記述問題の曖昧な採点や、面接による下駄や恣意的な基準も存在しなくなります。もちろん、それによって測定できる能力に限りが出てしまうので痛し痒しです。
オリンピックの選手選考なんかでも、一発勝負で決めてしまえばその結果自体で揉めることはないでしょう。逆に複数回の選考大会で総合的に判断するとか、選考大会の結果を参考にしてどこかの組織で決定するとか、単純な結果だけでは決定しないことによってむしろ不公平感や不透明感が増してしまいます。
そのタイミングで怪我していたとか、一発勝負での選考による弊害も確かにあるとは思いますが、そもそもオリンピックも一発勝負の大会なのですから、選考も一発勝負とするのは理にかなっていると思います。実際に選ばれる立場の人にとってはそうではないかも知れませんが。
公平性を重視するのか、多様な選考を認めるのかというのは、そもそも対立的な概念だと思います。一発勝負オンリーではそれでこぼれてしまう有能な人を逃してしまいますが公平性は確保できます。一方で多様な選考方法を認めれば、ややこしさが増すだけではなく、不正や合否の操作をしかねません。そこまで考えると大学入試だけでなく、例えばオリンピックの選手選考なんかもそう。
に関してはこれはもはや文科省レベルの問題ではなく、日本という国はどうあるべきか、という国家戦略的な問題になってくるような気がします。
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