東京オリンピックが終わりました。東京オリンピック「は」終わりましたと言った方が適切でしょうか。まだパラリンピックがありますが、オリンピックと比べると報道量には大きな差があります。日頃、障害者の権利擁護に熱心なマスメディアが、露骨に資本主義の理念に基づいた格差を見せつける、4年に一度の時期でもあります。
パラリンピックでも報道に出てくるのは、日本人選手がメダルを獲得した時です。いわばメダルを取る取らないでまるっきり注目度が異なるわけですが、これはオリンピックの時よりも差があります。オリンピックの方では競技そのものの知名度、人気による差もあります。ポピュラーなメジャー競技の方が、マイナーな競技に比べて報道量に差があるのがオリンピックの方ですが、パラリンピックでは競技ごとの差よりもメダリストか否かで分かれます。
それくらい、オリンピック・パラリンピックにおけるメダル信仰が強いわけですが、スポーツそのものの価値、競技そのものの面白さや醍醐味よりも、メダルの有無の方が重要視されるというのは残酷な話です。
もちろん、実際にスポーツに打ち込む人がメダルを人生の目標にするのは当然のことでしょう。それ自体を批判するつもりはありませんし、メダルを取った人を讃えるのも当然ですが、世間的にメダルorナッシングといった感が見られるのは残念なことです。
スポーツに打ち込んだ結果がメダル獲得になるのは美しいことですが、メダルの有る無しで選手や競技自体が区別されるというのは、スポーツの在り方を歪めていると言えないでしょうか?
このスポーツとメダルの構図は、学問とノーベル賞の構図に似ています。
ノーベル賞批判のよくあるパターンとしては平和賞や経済学賞に対してですが、自然科学に関しても批判があります。ノーベル賞の対象となる研究分野だけが毎年秋にクローズアップされてしまいますし、第一、ノーベル賞を授与する側が必ず正確に研究を評価出来るとも言えないでしょう。それでも、ノーベル賞を取れば特に日本では錦の御旗を獲得したかのような扱いを受けます。
これもメダルと同じく、研究者個人に問題があるわけではありません。その研究者がノーベル賞に値する人生を歩んできたことは間違いないでしょう。
それでも、学問と言えばノーベル賞みたいな印象があるとしたら、それは伝える人と受け取る人の問題です。
ノーベル賞までいかなくとも、現代の大学や研究機関での研究者の雇用は、その人が書いた論文の被参照件数や学術誌への掲載本数によって大きく左右されます。研究の独自性が強ければ強いほど、被参照件数や学術誌掲載は難しくなるはずで、研究者が多い分野に研究者が多いことを理由として研究者が集まるとしたら、学問・学術の在り方としては問題でしょう。
さらに問題は、研究をセンセーショナルなものにするために、不正な論文・実験結果などの捏造を作り出す動機が生まれてしまいます。そしてその不正な論文を参照して不正確な論文が拡大再生産されていく地獄が続きます。これはもちろん極端な例ではあれど、学術界における不正は世界的に問題視されています。
同じように、スポーツ界でも不正、ドーピング問題は未だに断ち切ることは出来ません。はっきり言えば絶対にゼロには出来るわけがない。もしゼロになるとしたら、五輪のメダルに価値がなくなり、プロスポーツ含めて全てのスポーツに対して人々が完全に無関心になる時でしょう。
不正は無くすことが出来ないとしても、不正を生み出しかねない不公平・不公正な構図を是正できれば、五輪だろうと学問だろうと多少はマシな世界に近付いていくはずです。
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