平繁無忙の何でも書くブログ

  • 人間が動かせるのは「触手」ではなく「食指」です

    Yahoo!ニュースを見ているとこんなニュースが出ていました。

    電通などコロナで広がる本社売却 進む都心オフィスの空洞化、外資も触手
    1/24(日) 10:00配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/c27d81e0f5773343f439e07bc196a638e861e986

    「触手」と「食指」を混同するのは非常に良くある間違いなのですが、大手新聞でもやってしまうようです。

    食指とは人差し指のことで、語源は古代中国春秋時代にあります。中規模な国だった鄭の国にいた貴族の一人が、ある時に勝手に自分の人差し指が動いた時に、「いつもこういう時は美味しい物にありつける」と同行の貴族に言ったことから、「食指が動く」という慣用句は「食欲がそそられる」「手に入れようとする」という意味で使われるようになりました。

    余談ですが、その時にこの貴族を疎ましく思っていたその国の君主が、ごちそうであるスッポンスープをその貴族に嫌がらせで与えず、それに怒った貴族が鍋の中にあった残り物を人差し指ですくって食べて帰宅し、さらに君臣間で揉めてしまい、最終的にはその貴族が中心になって君主を亡き者にしてしまいました。

    そういう故事の後日談まで考えるとあまり縁起の良い例えではないのですが、それはともかく、「食指」を音だけでなんとなく覚えている人が、軟体動物やモンスターにだけあるはずの「触手」と間違ってしまうことがよくあります。

    上記の産経の記事も同様ですが、1日2日経っても修正されませんね。もしかしたらそのうちしれっと修正されているかも知れませんが、Yahoo!ニュースやNewsPicksのようなキュレーションメディアだけではなく、産経系列のiZAでも訂正されていませんので、もしかして中の人は誰も気が付いていないか誰も読んでいないかどっちかなんでしょうか。

    電通などコロナで広がる本社売却 進む都心オフィスの空洞化、外資も触手 
    2021.1.24 07:49
    https://www.iza.ne.jp/kiji/economy/news/210124/ecn21012407490002-n1.html

    記事を書いた人と記事にOKを出した人のどちらも間違っているのでなんだか残念ですね。

    記事の中身は、コロナ禍によって経営状況が悪化した大企業が都心部の大規模な不動産を処分し、一方でコロナ禍の影響が小さかった外国の大企業がそれらを購入してしまうのではないかという日本の先行きを不安視する内容でしたが、そもそもその記事を書いて掲載している新聞社ががっつり日本語を間違っていることの方が先行き不安ですよねえ。

  • 北海道開発の可能性

    日本は土地が狭く、大半が山地で平野部が少ないため、これから新規で大規模開発できるような場所はない、と思いがちです。しかし、それはおそらく本州に住んでいる人間の意見であって、北海道に在住あるいは縁がある人はそうでもないでしょう。

    北海道には今なお広大かつ人口密度の低い平野部が存在します。

    日本が国家として北海道の大地を手に入れたのは明治時代になってからですが、同じ平地であっても本州の平地とは人口密度には大きな開きがあります。大自然を破壊しろとは言うつもりはありませんが、自然と共存できるような居住地・農地や開発用地としての利用であれば、本州の山を削るよりは自然への影響は少ないでしょう。

    そもそも日本の人口が今後は減少の一途をたどるので、無理して北海道を開発する必要がないという考えもあるでしょうけれど、今後の地球温暖化に歯止めがかからず、気温がひたすら上がっていくのであれば、日本全体で見て南の地域での居住が不可能になる可能性もあり得ます。

    温暖化で住みづらくなる地域は世界全体で見ても膨大な面積になるはずですが、日本列島は南北に長いことがその点では有利になるかも知れません。寒くて多くの人が住むのが難しかった地域が、温暖化によってかえって住みやすい気候になるのであれば、高緯度地域への移住が進むでしょう。

    北海道自体がそもそも広大な面積を有していて、北海道の東西の幅は東京大阪間の距離に匹敵します。北海道新幹線はようやく函館までつながったところで、札幌までの延伸でも時間がかかっているレベルですが、本格的に北海道に大量の人口が流れ込んだら北海道内新幹線もあり得ないとは思いません。

    第二青函トンネルの構想もまだ政府レベルではありませんが、私案レベルでは存在しています。本当にどうなるかはともかく、今の青函トンネルが本格的に構想されたのは洞爺丸事故からです。そのような悲劇や災害をキッカケになってほしくはありませんが、必要性が誰の目にも明らかになれば、第二青函トンネルにしろ北海道内新幹線にしろ求められるでしょう。

    あまりに北海道が豊かに開発されてしまうと、そこに一番近い国の皇帝っぽい独裁者が狙ってくるかも知れませんが、それくらい温暖化が進んでいれば、サハリン・千島列島・アリューシャン列島・シベリアなども開発しやすくなっているはずですので、軍事力の行使によって強奪するよりも、北海道を抱える日本と上手くやって、極東地域の全体的な開発を進めた方が得策だ、と思わせるようになればいいんですが。

  • パソコンへのソフトウェアインストールをコントロールするという難題

    AppleSiliconを搭載したMacでは、iOSアプリも利用出来ます。ただし、全てのiOSアプリをインストール出来るわけではなく、あくまで開発者側が許可したものだけです。一応は、アプリのファイルそのものを抜き出してインストールするという、Appleが認めていない方法を使えば利用出来ましたが、今度のmacOSアップデートが来ると無理になるようです。

    まあそりゃあ、Appleとしてもアプリ提供側としても、想定している利用法以外は認めたくないのは当然でしょう。

    その一方で、彼らとは逆の立場であるユーザー側にしてみれば、自分が望むものは何でもインストールしたがるものです。

    ハードウェア・OS・ソフトウェアまで管理しているAppleのMacでも、ソフトウェアをインストールする・させないというせめぎ合いがあるくらいです。パソコン用OSのもう一方の雄であるWindowsではそれは特に顕著です。

    そもそもWindowsの大きな利点に膨大なソフトウェア資産があります。少々古いソフトウェアでもWindowsで動いて当然、と使う側も思っています。極端な話、複雑ではないプログラムであれば、最新のWindows10でもWindows95時代のソフトウェアをインストールして利用することも可能です。

    しかし、当然ながらあまりに古いソフトウェアや、質が低いアプリケーションにはセキュリティホールだってあるでしょうし、Microsoftとしては現行のWindows10で動作確認取れているものだけを認めたいところでしょう。

    それを実現する方法としてWindowsにもアプリストア(Microsoftストア)が存在します。まああまり使っている人は居ません。公式のアプリストアというのは、iPhone・AndroidやあるいはmacOSでは見慣れたものですが、Windowsではいまいち普及していません。

    当たり前ですが、Windowsで何かソフトウェアをインストールするならインストールするためのファイル(.exeファイル)を直接実行するのが一般的です。かつてはFDやCD・DVDなどのメディアから、今ではブラウザで検索して直接そのアプリの公開元のサイトからダウンロードしてからエクスプローラなどでダブルクリックして実行して、インストールします。

    アプリストアで目的のアプリを見つけてインストールボタンを押す方が楽と言えば楽ですが、一番の問題はそもそもアプリストアに目的のアプリがある可能性が少ないことかも知れません。あとはそもそもアプリストアで検索してインストールする、ということ自体を考えない・知らない人も多いでしょう。後者の理由の方が大きいかも知れません。

    iOSでは脱獄という非公式な利用をしない限り、アプリストア以外からのアプリインストールは出来ません。Androidも設定変更すれば簡単にできますが、一応はAndroidのデフォルト設定ではiOSと同様に、何でもかんでもインストールは出来ないようになっています。

    アプリケーションの同時利用だって、スマホ・タブレットではせいぜい画面2分割・3分割程度でしか使えませんが、パソコン(Windows・Mac)では性能が追いつく限り何十個でも同時にソフトウェアを起動して画面上に配置できます。

    限られたアプリを限られた使い方で使用するモバイルデバイスと、自由にインストール出来るアプリを自由な使い方で使用するパーソナルコンピュータには、依然として大きな違いが存在するわけです。

    この状況は今後も変わらないでしょう。変えられるとしたらまさに今のMacのようにソフトウェアを動かすCPU(SoC)自体が変わるタイミングしかありません。

    一応は、WindowsもArmベースのCPUで動く試みを続けていますが、どこまで本気になれるか微妙でしょう。Microsoftにしろ各PCメーカーにしろ、x86ベースから動く理由がAppleほどありません。これまでやってきたビジネスモデルを転換するメリットよりもデメリットの方がまだ大きいはずです。

    Appleは、垂直統合のビジネスモデルがあるので、自社開発のSoCで高いパフォーマンスと高いコストパフォーマンスを生み出すことが出来るので、ソフトウェアを乗り換えることが出来れば後は高い利益が残るだけですが、WindowsPCメーカーにとっては競合はMacではなく他のPCメーカーですので先手を切って移行すると最初に損失が積み上がるのが目に見えています。

    踏み切るなら、Surfaceを抱えているMicrosoftが一番最初でしょう。というか既にArmベースのWindows10を搭載したSurfaceは存在していますが、所有してバリバリ使っている人を探すのは、いまだにWindowsPhoneを使い続けている人を探すくらい難しいです。

    前述の通り、Windowsの利点は過去の膨大なソフトウェア資産を使い続けることが出来ることですので、x86アプリ(32ビット・64ビット両方)をWindows on Armでも自由に使えるようにならないと、ユーザーだろうとメーカーだろうとこれまで通りのWindowsを求め続けるでしょうね。

    Macの方は、Appleが多分、いずれは自由なインストールを認めずApp Storeオンリーの利用にしたがっているとは思いますが、それをやると一気にユーザが離れかねない懸念もあるでしょう。ブラウザベースのサービスが増えてウェブアプリ全盛期が来ると、そうすることも出来なくは無いでしょう。ただそれならChromebookで十分ですよね……。

  • 文系にも学問としての再現性を!

    理系は理論的、文系は感情的といった捉え方をする人がいます。

    人がいる、程度ではなく結構割合としても多いようにも思えますが、実際の学問としては当たり前の話ですが、文系だろうが理系だろうが理性に裏打ちされた理論に基づいて成り立っています。

    というか、科学というもの一時期、文系学部廃止論みたいな話題がありましたが、今は完全に消えましたね。誰が言っていたんでしょうか?

    個人的には、本当にそれを実践するなら文科省を初めとする官庁でまず文系学部出身者を全員クビにしろよ、と思っていたのですが、さすがにそんな事態にはならず良かったです。

    文系学部とひとくくりにしても、人文学系・社会学系やその他最近では様々な学部学科が増えてきました。文系理系にまたがるようなものも結構あって、文理の境目が曖昧にはなりつつありますが、依然として大学やあるいは個人の特性の話の際に「文系」「理系」をネタにすることはよくあります。

    根拠のない血液型性格判断みたいな単なる世間話レベルで文系理系の話をする程度であればどうでもいいのですが、中には本気で、理系人間は何でも論理的に考えて数字で判断して、文系人間は感性豊かで感情で判断する、という捉え方をする人がいます。そう考えてしまう人が結構割合としても多いようにも思えます。

    実際の学問としては当たり前の話ですが、文系だろうが理系だろうが理性に裏打ちされた理論に基づいて成り立っています。というか、科学というものは再現性によって成立します。

    文系だって理論に基づく推論と実証を繰り返すことが必要だと教育段階で教えるべきだと思うのですが、文系の科目はどうも理論的に誰もが同じ結論に至る再現性はあまり重要視していないように思えます。

    地理歴史などはほぼ記憶してそれを答えるので人による差はないですが、国語はどうも人による差をむしろ積極的に推奨しています。解釈が積み重ねられて洗練されている古文漢文は問題に対する答えは誰でも変わりませんし、感性についてもあくまで過去の人が持っているものを学ぶので答えに差はありませんが、現代文、特に小説や随筆の取り上げ方は感覚のみになっていないでしょうか。

    もちろん感性も感情も感覚も独自性も個性も特性も必要ですが、文章を読み取って学問としての再現性を確認する訓練は国語にも必要です。

    国語がそもそも感覚的に教えるものではありませんし、読書感想文なんていらないと思っています。筆者がどのように書いたのか、なぜこのような書き方をしたのかを論理的に考えるような勉強は不要なのでしょうか?

    理系の学問でも情熱は必要です。文系の学問でも統計分析は必要です。文系と理系の違いなんて学問としては本当はありません。単に大学の内部を分けているだけだと思っておけばいいんです。

  • 成長していく物語を楽しむ気質

    韓国のアイドルやグループに比べて日本のアイドルがショウビズとしては未熟という意見を見かけます。

    専門的に見ている人がそう言うのであればそうなんでしょうけれど、そもそもファン層が完成されたプロフェッショナル感を求めているのかというとそうでもないのではないでしょうか。

    成長していくのを自分が支えるんだという気持ちの方が強いというか、そうでなければご当地アイドルや地下アイドルを応援するモチベーションにはならないですよね。

    未熟なものが好きということからロリコンショタコン呼ばわりもされるでしょうけれど、むしろ成長していく対象を応援している共通性をナラティブとして団結しているところもあると思います。

    多分、育っていくところを楽しむというのは、ごく一部の日本人だけにあるものではなくて、結構共通していて、例えばプレミアリーグとJリーグだってレベル的には大きな差はありますが、Jリーグのコアなファンはたくさん存在しています。その一方でDAZNがUEFA CLの放送をしれっと取り止めたりしている点を考えると、放映権料に見合った視聴数は日本のDAZN契約者層では稼げなかったのでしょう。WOWOWがその代わりに拾えたようですが。

    また、プロ野球はおろか社会人野球や大学野球よりもレベル的には劣るはずの高校野球にも膨大なファン、視聴者がいます。

    最高のもの、ハイレベルなものだけを認めるスタンスよりも、これから成長していくもの、今まさに成長しているものに対して気持ちを揺さぶられるというのは、日本人には感覚的に理解出来そうです。

    この点を、「日本人は農耕民族だから農業のように自分が好きなものが育っていくところが大好きなんだ」というクソみたいな文化論で解説してしまうと台無しになってしまいますが、他国の文化的にはどうなんでしょうか。

    ある一定のレベルを超えていることを鑑賞の最低条件とするのではなく、一定のレベルを超えていこうとする過程を鑑賞することを楽しむ気質も結構ポピュラーなものであって、どっちも好きな人が好きなものを楽しんでいる分にはいいんじゃないですかね。

  • 中国の覇権野望は潰える

    中国がアメリカに覇権をかけて挑むのは早すぎたはずです。元々、2050年を重要な年としていたのに、2010年代の習近平が仮面を捨てて公然とアメリカと争う状態にしてしまったのは、後に失敗と見なされると思います。

    中国の国家としてのGDPは日本を抜いて二位になりましたが、国民一人当たりのGDPでは先進国とは言えません。そこに到達するまでにアメリカとの戦いに突入してしまうと、経済的には勝ったり負けたり続けて順調な経済成長をこれまで通り行えるとは限らなくなりますし、軍事面でも負担が増えます。

    冷戦終結後、アメリカ合衆国が唯一の超大国となりました。軍事面で悩むのは90年代から2000年代にかけては中東と旧ユーゴスラビアくらいでした。しかし、2010年代に入りリーマンショックからいち早く抜け出た中国が、東アジアと東南アジアにおいて既存の平和秩序に挑戦し始めました。時を同じくして、プーチンがソ連時代の勢力圏とシリアでもロシアのプレゼンスを高め、積極的かつ巧妙に介入して切り取り始めました。

    東南アジアでは中国の軍事力に立ち向かえる国家は存在せず、直接国境を接する国とはそれなりの関係を築いていますので、ASEAN諸国が一致団結して中国と対抗することはあり得ません。

    しかし、冷戦後にフィリピンが不要になった米軍を追い出すように撤収してもらったものの、中国の南沙諸島領有問題が出てきて、再びアメリカとフィリピンの軍事的な連携が緊密になってきました。

    また、東アジアでは韓国・日本・台湾がアメリカと連携して中国と真っ向から対抗できる戦力と経済力を持っています。台湾も韓国も親中国と親米の政権が入れ替わりますので状況によっては、中国の仕掛けで骨抜きに出来るかも知れませんが、日米安保は強力です。

    その日米安保も民主党政権時代においては、少し揺らぎ始めましたがこれもまた尖閣諸島での中国漁船衝突事件によって、日本国民を反中に追いやってしまったことで、その後の安倍政権の長期化を招いて日米安保もさらに強固なものにしてしまいました。

    結局、鄧小平の韜光養晦路線を続けて国力を蓄え、国際的立場を強化してきたのに、そのベールを脱いで野心をむき出しにするのが早かったと言えるでしょう。

    今後も中国が経済力を増大させて、軍事費も合わせて増やしていけば短期的にはアメリカと西側世界にとって危険な存在になり得ることは間違いありませんが、長続きはしません。

    20年代後半から人口が減少し始め、急速な少子高齢化が進んでいくとGDPの成長率は落ちてきます。特にお得意さんだったアメリカとの関係が悪くなれば尚更です。

    そんな中で軍事支出がこれまで以上の割合で増やしていけば、軍事費のGDP比率が急速に増えることになります。その先は20世紀後半のソ連のように見えている未来です。

    そうかといって、人口動態をすぐに改善は出来ません。アメリカのように移民を受け入れ、移民が大企業のCEOや政府要人になれる国家でもありません。

    自由と法の支配がなく、国際間の貿易の不公正があり、移民もないため才能の流入もない中国経済がいつまでも伸び続けることはありません。

    第一、共産党や政府の幹部がその子弟と財産をアメリカやカナダに送っているのは、彼ら自身すら自国の未来を信頼していない証しでしょう。

    逆に言うと、中国は共産党支配を緩め、自由と公正に基づく商業活動を行い、軍事費の増大を抑え、国内の貧富の格差を縮小するような政策を実行すれば、そのうち勝手にアメリカ合衆国に代わって世界の覇権を握ることも出来るでしょう。広大な国土と資源、人口を最大限に生かせば追いつける国は無いはずですが、そもそもそのような政策を採用することが最大の困難でしょう。

  • 安く買えたものを自慢する気持ち

    大阪の人は自分が買ったものが思ったよりも安いということに価値を置きます。もっと言うと安いことが一番の価値です。言い過ぎかも知れませんが、そういう面は結構あります。

    じゃあなんでそうなるかというと、多分本当は「安くて良いものはほとんど無い」ということを分かっているからではないでしょうか。

    安くて良いもの、というのは基本的にはありません。

    ・高くて良いもの
    ・高くてダメなもの
    ・安くてダメなもの
    の3種類だと思っておくべきです。

    もちろん、安くて良いもの、と思えるものに出会うことはあります。しかし、それはなぜかも考えておいた方がいいでしょう。ほとんどの場合、それは自分が気にしていない部分のコストがカットされているだけです。そのコストカットされている部分を妥協出来ない人からすれば、それは安くてダメなものになります。

    言い換えると、高くて品質が低いものはそれなりによくありますが、安くて品質が高いものはめったに存在しません。

    非対称性が存在するわけですが、高くてダメなもの、いわゆるぼったくりを掴まされたら悔しいものです。その逆、安くて良いものを見つけたら自慢したくなるというのは、自然な心理かも知れません。

    単に人に自慢したいだけでもあるでしょうけれど、高いぼったくりをかいくぐって賢い買い物をした、ということが自慢の種になります。

    そう考えると、逆にお高くとまった人が高くて良いものを買って自慢することの方が変というか、それは買い物の上手さを自慢しているのではなくて、単に金持ちであることを自慢しているだけですよね。

    まあ、そんなことを指摘したら単に貧乏人の僻みと言われそうですが。

  • 土器の文様の理由

    日本にしろ日本以外にしろ、石器文化の後に土器の文化が現れます。日本史では縄文式土器、弥生式土器と習ってその後は志賀島の金印の話とか、続いて邪馬台国、次いで古墳時代と進んでいきますが、まず土器についての素朴な疑問があるのですが、そもそもなんで土器に縄目とか文様を付けたのでしょうか?

    祭祀のためという理屈は分かります。そういう土器は当たり前ですが信仰に関わる神や動物や何らかの対象が描かれています。

    それ以外にもただの文様っぽい土器もありますが、それら自体は祭祀に直接使われたものとは言えないでしょう。

    ド素人が思うに何らかの区別のためだと思いますが、それは数千年前の土器に限らず現代でも家庭や職場で紛らわしくないように、色や形が異なるコップを使い分けたりします。

    コップのフチ子さんみたいなものがないなら、形や色や文様で使い分けするしかありません。

    土器が作られていた時代に個人所有がどれだけ進んでいたのかは分かりませんが、必ずしも個人所有でなくても、家族や小集団で所有している土器を、その他の集団と区別するだけでも意味はあるでしょう。

    完全に土器の所有と利用がその集団内で平等であれば区別を付けなくても良いでしょうけれど、少し個別の所有が進み、しかしその土器を設置している場所が他の土器と一緒であれば区別は必要です。

    さらに社会が進展して、個人あるいは家族の所有する土器をその家族が住む家屋(テリトリー)内に保管するようになれば、文様で区別する必要はありません。

    あるいは、同じような形で作った土器でも、入れる中身が異なれば文様を変える意味はあります。米や麦などの穀物、木の実や豆、水だって入るでしょう。中身をいちいち確認しないと外からでは分からないというのは不便です。

    もう一つ考えられるとしたらメッセージでしょうか?

    人から人(あるいは集団から集団)に渡す土器に描くことでメッセージ性を持たせることもあったかも知れません。

    メッセージであれば、人から人よりも人から神への祈りの方が強かったでしょうか。

    土器や金属器には、人が読めない内側に文字や文様が記されているものもありました。それは他ならぬ神などの信仰の対象に捧げられたものと言われています。

    それ以外にも縄文土器なら持ちやすさや耐久性を高める理由があったとされています。

    これらの理由が単体か、複合的に発生して土器の区別が付けられていたのだと個人的には思っていますが、理由を確定することは出来ないでしょうね。

  • 在宅勤務は育児に悩む家庭を救えるか

    ワンオペ育児、特に母親側のワンオペが多く負担が偏っている問題は、今では広く知られるようになりました。

    かつてはそんな問題なかったと言う人もいますが、そもそも今の社会情勢や家庭環境自体が昔とは大きく異なっています。

    男性側の無理解や社会の無関心にも問題は確かにあるでしょうけれど、そもそもの問題は家事・育児を夫婦二人だけで行おうとする難しさがあります。

    核家族化、特に実家と離れて暮らす家庭が増えたことで、家事育児の負担を夫婦だけでこなさないといけなくなりました。

    昔はそれこそ夫婦とその片方の親、あるいはもっと大きな家族や近所に親類が住んでいれば、何かの時に子どもを預けたり、育児の相談をしたりも出来ます。

    近代以降、特に戦後は労働者の環境を法律で守ることが当たり前となりました。労働時間や労働日数もそれより以前よりははるかに減りました。家庭で見ると、夫・父として家庭のために外で働く男性は、法律によって一定時間に労働が抑えられている一方で、妻・母として家事と育児に専念している専業主婦は土日朝夜関係なくオペレーションが続きます。

    20世紀後半の夫婦と、それ以前の夫婦との大きな違いはここにあると思います。かつては外での仕事も休みはあまり無く、働くことは辛いことでした。それでも自分と家族が生きるためには必要であり、そのために家の用事を全て女性に任せざるを得ず、かといって女性側も男性側がそれだけ働いていることは理解していたことで成り立っていた関係でした(何の不満も無かったとは言いませんが)。

    夫の労働時間が減っても妻の家事時間が減らなければそりゃ喧嘩もするに決まっています。

    また、共働きでも結局女性側に負担が偏ってしまうのですからどうしたって夫婦のみでの家事育児には無理もあります。それに加えて保育所不足という問題もあります。

    もっと昔と比べると、仕事場と家庭が同じ場所もしくはすぐ側にありました。それならもし何か家事や育児にトラブルがあってもサポート出来なくもないです。

    公共交通機関が発達し、仕事場から遠い場所に家を構えることが当たり前になりました。その方が、都会で暮らすよりも生計に余裕が生まれるからです。その代わり、通勤時間の増大による夫側の家事育児参加時間の減少というデメリットも生まれました。朝早く家を出て、夜遅くに戻ってきたら家事にも育児にも参加出来るわけがありません。

    もちろん昔はみんな自宅で仕事していたというわけではありませんが、その代わりに今よりも多くの人数が家族として一緒に生活していたため、妻(母親)一人の負担は相対的に少なかったはずです。

    一人っ子の多さにしても同様で、今は子どもが増えるとその分、経済的負担に加えて育児負担も増えますが、兄弟姉妹が多かった時代であれば、上のきょうだいが下の幼い子の面倒を見るものでした。

    戦後に地方からの移住者が都会に増え、そこで結婚して家族になっても核家族となります。さらにその子ども世代たちはアングロサクソン的な、子どもは成人したら家を出るのが当たり前という意識によって、さらに核家族の家庭が増加していきます。かつては家にいても仕事が無い、生活が苦しいから成人したら実家を出たのに、倫理観によって脱実家が大人の条件と見なされるようになりました。

    それに平行して女性の社会参加、共働き家庭が増加することにより、家事や育児についての負担が限界を迎えたのが現代なのでしょう。

    何か一つの対策で、家事育児の負担軽減や少子化問題の解消なぞ出来ないでしょうけれど、もしかしたらコロナ禍の不幸中の幸いとして、増えた在宅勤務・テレワークがその問題解決の一助になるかも知れません。

    テレワークを認めている企業側の理解が前提ですが、自宅で仕事をしながらの家事・育児が出来るようになれば、夫婦間の負担の偏りの解消にもなるでしょう。そう簡単な話でもないとは思いますが、遠く離れた職場にいるのと、扉一枚隔てた部屋にいるのとでは全く違うでしょう。

    自宅で仕事をする親を見ながら育つのは、子どもにとっても悪いことではないでしょう。仕事とは何か、働くとはどういうことか、ということを間近で学べます。

    コロナ禍が起きて良かったなどと言うつもりはサラサラありませんが、これを機に何か良い方向に変わることが出来るものがあれば、ためらうべきでもないでしょう。

  • キャリアメールの終焉が見えてきたか

    先日KDDIがauの新料金プラン povo を発表しました。それ以前にプレスリリースされていたdocomoのahamo、SoftBankのSoftBank on LINEと合わせて、三大携帯キャリアがこの春に出す新料金プランが揃いました。

    月間データ容量20GB&5分通話無料で2,980円という点では三社とも同一ですが、auだけ最安値は2,480円だという宣伝をしたことで、また総務大臣がお怒りですがさすがにこの怒り方は若干理不尽なのかなとも思います。

    それはともかく、この三社の新料金プランは総務省や菅政権の意向が大きく反映していることもあって値段が最重要視されています。

    それ以外にも基本的にオンライン申込であること、ahamo以外はeSIM対応だとか、家族割りの対象だったりそうでなかったり、共通点とか違いとか様々ありますが、各キャリアが本当はもっと早くしたかったことが一つ入っていると思います。

    今回の三社の新プランでは、携帯電話会社が提供するメールアドレス、いわゆるキャリアメールがいずれも使えません。

    そもそも利用者自体が減り続けているはずのキャリアメールのサービスを維持するのは、各携帯会社にとっても負担になります。

    個人的にはキャリアメールはもはや歴史的な意味を終えたと思っていますが、まだ利用している人はもちろんいます。

    キャリアメールは迷惑メールが多すぎたためにスパム対策がキツくなり、かえってPCからとかウェブサービスからのメールが届かないことも多く、そのためにいちいちホワイトリストを設定しないといけないとか使いづらくなってしまいました。

    キャリアメールが迷惑メールのターゲットになってしまったのは、リアルタイムに閲覧されることが多く、デバイスに対して確実にプッシュ配信されるという、業者側からの利点があったからですが、それもGmailなどのクラウドメールサービスが登場したことで、キャリアメールならではの利点ではなくなりました。

    キャリアメールもまだまだ存在していますが、キャリアメールじゃないといけない場面というのがキャリアメール間のみでのメールくらいでしょうし、それだってスマホであればGmailやiCloudメールが使えます。第一、大半の人は知人とLINEなどを使ってやり取りしていますので、メールサービス自体が少なくともパーソナルユースではコミュニケーションツールではなく、ウェブサービス登録用のツールとなってしまっています。

    そうはいっても急にキャリアメールを終了するわけにもいきません。それこそ総務大臣が顔を真っ赤にして怒り狂いそうですが、こういった新料金プラン、特に安さの代わりにキャリアメールは使えませんよ、という引き換え条件があるのなら、今後は少しずつキャリアメール利用者が減っていくのではないでしょうか。

    その代わりのメールアドレスが海外企業のウェブメールというのはそれなりに不安がありますが、いっそのこと総務省が国民全員にメールアドレスを作成して配布したらいいんじゃないですかね。さらにはマイナンバーに紐付けてしまいましょう。

    携帯電話が国民にとって重要なインフラだというなら、メールアドレスも重要な個人属性だと思いますが、一生使うメールアドレスも存在してもいいんじゃないでしょうか?

  • Parlerを排斥する自由、トランプを支持しない自由

    Parlerというサービスを怖いもの見たさで始めたのが2ヶ月弱前の話なのですが、検閲・モデレーションを行わないという方針が過激主義者の温床になる理由ともなっていました。そして遂に先日、Parlerのウェブホスティングを行っているAWSから排除され、アプリもAppleやGoogleから排斥され、その他決済サービス会社などからも拒絶されるようになり、事実上Parlerというウェブサービスは現状では存在しなくなりました。

    Parlerの排斥が自由の侵害に当たるのかどうかは結構微妙だと思います。Parlerの存在意義である「何でも意見・思想を発出する自由」、そして「Parlerのようなウェブサービスが存在する自由」と、「民間企業がサービス提供を自由に行える、つまり特定の相手を拒否する自由」が衝突しているわけです。「民間企業が誰かのアカウントをBANする自由」はそもそも、思想の自由を制限するものなのか、それとも特定の思想を忌避する思想の自由を認めるものなのか。マトリョーシカみたいな話になってきてしまいますが、商業的自由が広汎に認められるはずのアメリカであれば企業の方が最終的には優先されるのではないでしょうか。

    単にクラウド上のサーバが維持できなくなるだけなら、ローカルに設置したサーバでなんとかできなくもないでしょうけれど(サーバにかかる負荷や設置・運用費用は別として)、決済や広告関連のようにサーバ以外でもウェブ上から追放されてしまったら運営は立ち行かないでしょう。ドメインそのものはまだ生きているというか、ICANNとかレジストラからは消されていません。さすがにそこまではされないですかね。

    ただ、ParlerがOSのプラットフォーム、クラウドサーバ、決済システムなどありとあらゆるサービスから削除されたのは明らかに先日のトランプ大統領支持者達による連邦議会侵入事件を受けてのものです。TwitterやFacebookからトランプのアカウントが削除されたのも同様の理由ですが、それなりにアメリカ国内では受け入れられているのでしょう。もちろん、ウェブサービスが制限するのは問題という非トランプ支持者の人もいます。そうは言っても今回の議会襲撃でトランプのライト支持層はそこまではやり過ぎだと判断して離れたのではないでしょうか。

    秋にあった大統領選挙時に有権者の半分弱がトランプを支持していた状態とはかなり変わったのではないかと思います。

    まだ20日のバイデン大統領誕生まで何が起こるか分かりませんが、とりあえずはバイデン政権は始まります。しかし、状況としてはバイデン支持が増えたというよりもトランプ支持が明確に減ったと言った方がいいでしょう。

    バイデン政権が誕生してもそれでアメリカ社会が安定するとは思えません。先の選挙の不正がどうこうということではなく、そもそもトランプ大統領が2016年の選挙で勝ったこと、特に共和党の大統領候補になれたことの原因が残っています。

    かつてオバマ政権を苦しめたティーパーティー運動はトランプ大統領ではなくペンス副大統領を生みました。副大統領だったバイデンももちろんよく覚えているはずですが、これから始まるバイデン政権の4年間で、ティーパーティー運動とトランプ復権運動との戦いが始まります。遅くとも来年の中間選挙までに対策を立ててそれらの運動が盛り上がらないようにしないと選挙で負けてしまい、オバマ時代に何度も起きた連邦予算の債務上限問題が復活するでしょう。

  • サブスクリプションやジレットモデルのIT業界における限界はあるか

    スマートフォンやタブレットではまず必要ありませんが、一般的にパソコンではセキュリティソフトが必要とされています。

    良くあるのがマカフィーとかウイルスバスターといったところで、自作ではなくメーカー製PCを購入したときにはまず何らかのセキュリティソフトがバンドルされているでしょう。

    しかし、そもそも、Windows10で一番素直(変な挙動をしない)なセキュリティソフトがWindows10内蔵のWindowsセキュリティとも言われています。確かGoogleChromeの開発チームが言っていたはずです。OSに入っているのですから当然と言えば当然ですが、Chromeブラウザにも変な影響を与えないのでしょう。

    そうは言ってもそれでは安心できない人、人とは違って怪しい行動をしちゃう人はサードパーティ製のセキュリティソフトが必要となります。

    大半のセキュリティソフトは、1年や3年などのサブスクリプションとして支払が必要です。インストール出来る台数も1台とか3台とかですが、一度インストールしてもアンインストールやライセンス利用解除などを行えば、別のPCにもインストール出来ます。

    その一方で、ソースネクストには違うタイプの支払をする、2種類のセキュリティソフトがあります。どちらも一般的なセキュリティソフトとは異なり、期限のあるサブスクリプションタイプではなく、インストールしたデバイスが利用出来る限りいつまでもサポートされます。このソフトはスマホやタブレット版も対象となっています。

    つまりセキュリティソフトには、期限固定でデバイス制限のないサービスと、デバイス固定で期限のないサービスのどっちがいいか、という選択肢が存在します。

    どっちがいいかは人それぞれだと思います。パソコンにしろスマホにしろ、どんどん乗り換えていったりする人は当然ながら期限があるけどデバイス制限がないタイプの方がいいですが、逆にデバイスを買い替える期間が長い人は、期限がない方が良いに決まっています。

    PC時代ではデバイスを毎年買い替える人はごくわずかでしたが、スマホ時代ならそれほど珍しくはありません。そう考えるとソースネクストはこれについては上手い商売だと思います。

    しかし、自作PCの場合はどうやって判別するのでしょうかね。Windowsのライセンス認証のように一部のパーツが共通であれば認められるのか、それともインストールしたWindowsが使える限り、デバイスを入れ替え、HDDやSSDもクローンコピーしてOKとなるのか。個人的には自作PCは持っていないので検証しようもないのですが。

    ともかく、なんでもかんでもサブスクリプションでの支払システムが整備されているようなサブスクリプション全盛期のような様相になってきましたが、それが嫌な人にとっての選択肢があるのは良いことでしょう。

    ただ、期限で区切られた利用権ということではなく、利用するためには継続的に支払い続けないといけないものとしては、プリンタのインクビジネスがITデバイス界ではもっとも早いものだと思います。もちろん、昔のビルの一角を巨大なコンピュータが占めていて、利用時間ごとにお金を払って使っていた時代なんかは別ですが。あくまで個人向けで言えばプリンタインクは身近に思いつくものでしょう。

    プリンタ本体は安く売られているけれど、それを使い続けるにはメーカー純正品のそれなりのお値段のインクを使わないといけない、というのは、プリンタメーカーの代表的なビジネスモデルです。

    互換品のインクも大半のプリンタに存在しますが、それを使って故障するとメーカー保証が効かないというデメリットもありますので痛し痒しですね。ただ、結局本体が安いのですからまた新品を買えばいいのですけれど、地球には優しくないですね。

    互換インクと言えば先日、互換インクメーカーのエコリカがキヤノンを訴えましたが、訴訟の行方はどうなるでしょうか。

    なんとなく個人的には、こういう裁判はアメリカなら互換インクメーカー側が勝ちそうにも思えますが、そもそもアメリカのゼロックスとかHPとかが始めたビジネスモデルのはずですので、そうでもないのでしょうか。

    ITデバイスに限らなければ、いわゆるジレットモデルと言われる、カミソリの柄と刃をバラ売りにして、刃をずっと買わせ続けるという仕組みです。

    まあカミソリの刃だったら単価も安いですし、互換品を使うと柄が壊れるということも無いでしょうから問題にはならないでしょう。

    先述のエコリカ・キヤノンの裁判では、互換インクをプリンタが認識できないようにしたことが問題になっています。カミソリとは理屈が異なりますので、今後の動向が気になります。これでエコリカが負けると互換インクのビジネスは成り立たなくなるかも知れません。縮小するプリンタ市場でメーカー側が利益を確保しやすくなるでしょうけれど、それによって逆に一気に市場が冷え込む可能性もあります。

    安いインクが使えなくなるならプリンタそのものを自宅に所有せず、コンビニでの印刷で済ませたり、家庭内でのペーパレス化(年賀状印刷を止めるなど)が加速してしまうことも予測されます。

    メーカーにしてみたら納得出来ないでしょうけれど、多分、このビジネスモデル自体の限界なのでしょう。いくつかのメーカーは大容量インクモデルを出してきて、このプリンタインクビジネスから脱却しようとしています。

    かつてのMicrosoftは、Windowsのアップグレードで売上を上げていましたが、新品にしろアップグレードにしろ費用を嫌うユーザーが海賊版などで不正利用を行い、それによって被害を受けるユーザーが増えてしまっていました。

    それだけが理由ではありませんが、今のMicrosoftはWindowsの売上は収益の柱から外してしまいました。Windows10の大型アップデートは毎年2回ありますが完全無料です。小型のタブレットやUMPCなどでは無料で提供しているようですし、今のサティア・ナデラ体制では完全に儲け方が変わりました。

    そろそろ、プリンタ業界も変わっていく頃合いなのでしょう。