平繁無忙の何でも書くブログ

  • 行列の美味しい店よりも、すぐに食べられるそこそこの店を選ぶ

    皆さんは評判のお店に並んで食事をすることがありますでしょうか?

    私は無理でして、並ぶくらいならそこそこの味のお店でいいや、となってしまいます。数十分、あるいは数時間並んでそういうお店での食事をする人のことをもはや別の人間種なんじゃないかと思うくらいです。

    評判のお店に長時間並ぶのは、美味しい食事をしたいというモチベーションの他に、SNS上での承認欲求を満たすためのネタを得るため、という理由もあるんじゃないのという、下世話な勘ぐりもしてしまいますけれど、並んでいる人全てがそうだということもあり得ません。やっぱり、美味い飯というのはそれだけ人を惹きつけるのでしょう。

    ただ、私自身がそこまで食事にこだわりがないというだけのことです。この辺は、趣味嗜好の問題でもありますが、それよりも時間の使い方の方が理由かも知れません。店の前に並ぶ時間を他に使いたいという欲求の方が、美味欲求や承認欲求より、私においては重要な位置に存在しています。

    まあ、ただ単に貧乏舌である程度以上の味の良し悪しがそんなに区別付かないというだけかも知れません。絶妙かつ微妙な味の優劣などが分かる人は、その分食事においては充実した人生を送っているのでしょう。その一方で、舌が肥えてしまうとそこそこのレベルには満足できなくなるでしょうから、お金も時間もかかることでしょうし、それはそれで良し悪しですよね。

  • 「お金が無い」なんて誰が言う?

    「お金が無い」

    この言葉、実に様々な場面で耳にするものです。

    ランチの会計時、同僚の「あ、今日お金無いや」から、テレビのドキュメンタリーで映し出される貧困層の「本当に、お金が無くて…」まで多種多様です。

    しかし、一口に「お金が無い」と言っても、その言葉の持つ意味は、発言者の状況によって大きく異なります。そして、その違いを理解することが、現代社会における格差や支援のあり方を考える上で、非常に重要です。

    まず、冒頭で触れられているように、「手持ちの金がない」という状況について考えてみましょう。これは、財布の中に現金が足りないという、極めて一時的な状態を指します。旅行先で思わぬ出費が重なった、ATMに行くのを忘れていた、など理由は様々でしょう。だが、これは本来の収入や資産とは関係がありません。銀行口座には十分な残高があるかもしれませんし、クレジットカードで支払うことも可能かもしれません。つまり、「手持ちの金がない」は、あくまでも一時的な不便さを示す言葉であり、深刻な貧困状態とは一線を画します。

    次に、「稼ぎがない」という状況についてです。これは、学生や専業主婦(主夫)、高齢者など、定期的な収入を得ていない状態を指します。確かに、定期的な収入がなければ、自由に使えるお金は限られます。子どもがお小遣いを使い果たして「お金が無い」と言うのも、ある意味で真実です。しかし、彼らの多くは、経済的に支えてくれる家族や、年金などの社会保障制度によって生活が成り立っています。つまり、「稼ぎがない」状態は、「お金が無い」というよりも、「自由に使えるお金が限られている」という表現の方が適切でしょう。

    そして、最も深刻なのが「本当にお金がない」という状況です。これは、生活を維持するために必要な最低限のお金すら不足している状態、すなわち「絶対的貧困」を指します。衣食住に困窮し、教育や医療を受けることもままなりません。このような人々は、社会的なセーフティネットからこぼれ落ち、自力での脱出が極めて困難な状況に置かれています。

    ここで、忘れてはならないのが「相対的貧困」という概念です。これは、その国や地域の大多数の人々と比較して、経済的に困窮している状態を指します。絶対的貧困のように、生命を維持することすら困難な状況ではないかもしれません。しかし、教育や文化活動など、社会生活を送る上で必要な機会が制限されることで、将来的な格差の拡大につながる可能性があります。

    さらに、近年注目を集めているのが「効果的な利他主義」という考え方です。これは、限られた資源を最も効果的に活用し、最大限の幸福を実現することを目指す哲学です。この観点から見ると、例えば、年収100万円の10人に100万円ずつ支援するのと、年収200万円の20人に50万円ずつ支援するのとでは、前者を優先すべきだとされます。なぜなら、より困窮している人々に支援を集中することで、より大きな効果が期待できるからです。

    しかし、この考え方には批判もあります。例えば、先進国で発生した自然災害の被災者への支援は、「効果的な利他主義」の観点からは優先度が低くなる可能性があります。なぜなら、彼らは途上国の貧困層と比べれば、相対的に裕福であると見なされるからです。しかし、災害によって一瞬にして全てを失った人々の苦しみは、収入の多寡では測れません。

    このように、「お金が無い」という言葉の背後には、様々な状況や問題が隠れています。そして、それぞれの状況に応じた適切な支援や対策を講じることが、格差の解消や社会全体の幸福度向上につながります。

    人は、「お金が無い」という言葉を軽々しく使ってしまいます。

    しかし、究極的に「お金が無い」人が、どのような状況に置かれているのかを想像している人はほぼいません。

    真に支援が必要な人々に、適切な支援が届くような社会を築いていくことが、「お金が無い」という言葉を、冗談めかしてでもなく、使い方がちょっと間違っているようなかたちでもなく、本当に「お金が無い」状態の困窮した人を減らしていくことにつながります。

    「お金が無い」という言葉の多種多様さは、現代社会の縮図なのかもしれません。

  • 指示待ち人間教育と指示待ち社会人

    Xなどでしばしば、学校のテストの採点がおかしいというネタがバズります。

    指導要領に杓子定規な解釈で採点した結果、どう見ても合ってるやん、という解答がバツになっている写真がネットにアップされると、共有されると共にコメント欄で、教師の問題として取り上げられます。

    もちろん教師に問題がないとは言いませんけれど、指導要領自体にも問題はあるのでしょう。

    そういうバズる採点結果の中で、
    「もっと上の学年で習うはずの方法で解答したために答えは合っているが間違い扱いされてしまう」
    というものがあります。

    文部科学省としても教育委員会としても学校・教員としても、教えてないやり方で解かれても困るということなのでしょうし、それをOKにしたら塾などの私教育の競争が過熱してしまう、という面もあるのでしょう。テストは普段の授業の理解度の確認ということも理解出来ます。

    ただ、間違いにしてしまったらそれはそれで、「教えてくれる存在」が「教えてくれるまで」待つ「指示待ち人間」を生み出すことになるんじゃないでしょうか。

    もちろん、正解しているなら何しても良いという同様に駄目でしょうけれど、一律に正解を不正解扱いにするのも結局、教員の教えを待たずに自分の力で考えたことを否定することになってしまい、それは教育と言えるのか、と思ってしまいます。

    昔から、社会に出た新社会人が、上司に何か支持されるまで自分からは何もしない「指示待ち人間」として批判されることがありますが、そういう人が目立つというのは、実際の現実社会では「指示待ち人間」が少数派だからこそです。

    指示待ち人間を強制する教育を受けて育った社会人の大半が指示待ちではないのは奇跡なんじゃないですかね。ただ単に、みんな学校で真面目にしてなかっただけかも知れませんが。

  • 天然や養殖とは言わない肉、天然・養殖にこだわる魚

    以下のnoteに書いたように、私は平日の昼食の大半を焼き魚定食にしている焼き魚大好き中年男性ですが、

    https://hrsgmb.com/n/n6e191f5ca978

    先日の献血での血液検査でも、ALTやらγGTPやらは平常値で安心しました。さすが魚と褒め称えたくなります。

    さて、そんな焼き魚大好きオッサンとしては、当然ながら魚は天然に限る!ということもなく、養殖物だろうと冷凍物だろうと何でもOKです。そんな違いが分かるほどの舌を持ち合わせておりません。

    ただ、冷凍して解凍した魚か、冷凍していないままの魚かについては、骨の柔らかさでだいたい分かる気がします。一度冷凍した魚は焼いた直後でも骨が硬いんですよね。

    ともかく、焼き魚は個人的にはそこそこの美味しさで安い方がありがたいものですが、やっぱり実際の値段でも世間的な評価でも、天然物の方が良いものだとされています。

    安定供給される養殖物の方が値段が安いのは当然かも知れませんが、味の良し悪しは養殖物だからといってそんなに劣るとは思いません。好みの問題もあるでしょうし。

    そもそも、魚介類は天然・養殖で区別して、たいていの場合は天然の方が美味いと言われますが、肉類、特に牛肉豚肉あたりは天然やら養殖やらの言葉を使うことはありません。せいぜい、鶏肉で放し飼いにしている地鶏が美味いというくらいです。牛や豚の野生の原種の肉なんて、実際に食べたら食肉用の牛肉豚肉と比べると歴然として不味いはずです。

    昨今はジビエが流行りですが、目新しさもあるのでしょうし、独特の味の肉をたまに食べるからジビエが美味いとか言われるだけであって、毎日は食べようとは思わないはずです。もっと美味い牛や豚の肉がスーパーでもっと安く手軽に売られているのですから。

    牛や豚などは長い年月を掛けて人間が品種改良してきたからこそ、現代の肉の美味さにつながっています。養殖の魚が牛肉や豚肉のような扱いをされていないのは、品種改良がそれほどされていないからでしょうか?

    完全に自然・野生とは隔離して飼育できる家畜と比べると、養殖でも海において育てないといけない魚は、給餌や品種改良の自由度が低いのかも知れません。

    出来ればもっと養殖中心になってもらい、美味くて安い魚が安定的に供給されるようになれば、来るべき世界的な食糧危機にも少しは対応出来ると思います。

    それよりも先に、人工肉ならぬ人工魚肉の開発の方が早いのでしょうかね。

  • 牛丼屋は店員不足をセルフサービスで賄う時期に来ている

    混雑時に牛丼チェーン店に行くと、当然ながら牛丼店の割に長く時間が掛かります。さらに、昨今の人手不足により、日によっては急にバイトが少なくなったために注文から提供までかなり時間がかかることもあります。客単価が同じなのに客一人当たりの滞在時間が長くなってしまうと、店舗側の機会損失になりますし、客側にとっても不便です。

    お昼時など特に、早く食べて早く店を出て職場に戻らねばならない社畜にとっては、提供時間の早さを求めて牛丼チェーン店に行ったのに、食べ始めるまでに時間が掛かったら本末転倒です。

    そう思うと、牛丼チェーン店さんには、早く提供するシステムの方に舵を切ってほしいのですが、どうなんでしょうね。薄利多売は儲からない時代ですから、高価格・高付加価値の方向に行くんでしょうか。

    旨い・早い・安いの三拍子が牛丼チェーン店(というか吉野家)の代名詞だったはずですが、メニューの細分化と高付加価値化によって、料理自体の提供時間はファミレスよりは早いけれど、昔に比べるとそうでもないよね、という感覚があります。

    「早さ」を志向するお客さんの需要を埋めるのは、立ち食いうどん・そば店になったのでしょう。

    今の牛丼チェーン店に行くと、少なくとも大阪市内では店員の大半が外国人労働者です。メニューの多さや支払の手間暇を考えると、個人的にはもう牛丼チェーン店は食券&セルフ回収システムの導入をするしかないんじゃないの、と思ってしまいます。

    食券については、なか卯と松屋は導入していますね。多種多様な電子マネー・QR決済がありますし、店員の負担や時間的には、食券でいいやんと思うのですが、そうとも言えない事情がチェーン店側にはあるんでしょうか。

    セルフ回収(食べ終わったら自分で食器類を運ぶ)のも次の客が空いている席にすぐに座れるメリットがありますので、導入してほしいのですけれど、やはりこちらも店側(というか本社)にとってはそうもいかない理由があるんでしょうかね。

    極端な言い方をすれば、牛丼チェーン店に行くときに店員の丁寧な接客とか清潔感とかは求めません。さっさと食べて出ていくだけです。

    既にそれらを導入している系列あるいは店舗もあります。自宅から一番近い松屋はそうですね。ただ、今の松屋はタッチパネル式の食券販売機のインターフェイスが致命的に使いづらいので、アレはアレで問題だろうとは思いますが。

    ともかく、牛丼チェーン店としては、Eat and Goの客だけ相手にしていても儲からないのかも知れませんが、とはいえ、ゆっくり時間をかけて美味しい食事に1000円以上払うのなら、牛丼チェーン店ではなく他の店に行きますよ。

  • 「好き」の反対は「無関心」って本当?

    よく、好きの反対は嫌いではなく無関心だ、とか、あるいはアンチも好きのうちとか以前は言われていました。最近もいっているかも知れませんが、どちらかというと昭和的発想でしょう。

    ただ、昨今のSNSなどでの度の過ぎた誹謗中傷を見かけるに、果たして本当に「好き」の反対が「嫌い」ではないのか、「アンチ」も「好きのうち」ではなく単に「嫌い」なだけではないのかと、疑問に思います。

    もう少し細かく見ると、「好きの反対は無関心」とか、「アンチも好きのうち」という言葉で言われている「無関心」「アンチ」は、あくまでその「好き」な対象に関わるかどうか、もっと言うと消費行動としての対象にしているかどうかを議論の俎上に上げているわけです。

    そこでは「無関心」や「アンチ」の心的内容は消費行動的には関係ないものとして取り扱われています。だからこそ、無関心な人は好きな対象に対して消費者たり得ず、逆にアンチは消費者として関わった上で文句を言うので好きのうちに含まれています。

    しかし、感情行動的に見れば、好きの反対は嫌いでしかなく、無関心は反対にはなりません。アンチも好きには含まれず、対局に位置します。

    嫌いだからこそ、アンチだからこそ、文句、悪口、罵詈雑言を浴びせます。

    昨今の社会は感情の時代と言って差し支えないほどになっていますが、消費行動的な「好きの反対は無関心」「アンチも好きのうち」という昭和的スローガンは、20世紀の資本主義経済的な発想だったのでしょうか。

    逆に、感情主義全盛期にさしかかりつつある現代人にとっては、「嫌い」「アンチ」だからこその誹謗中傷が当然となってきているでしょうか?

  • 科学は敗北するか?

    2024年11月、ドナルド・トランプ次期大統領は、ワクチンに懐疑的な立場で知られるロバート・F・ケネディ・ジュニア氏を保健福祉省の長官に指名しました。 この動きは、科学界や公衆衛生の専門家たちの間で大きな波紋を呼んでいます。

    ケネディ氏は、これまでにワクチンと自閉症の関連性を主張するなど、科学的根拠に乏しい情報を広めてきた経緯があります。彼の指名は、科学的事実に基づく公衆衛生政策の後退を懸念させるものです。

    この状況は、中世ヨーロッパにおけるキリスト教会の支配下で、古代ギリシャ・ローマの知識が軽視された時代を想起させます。当時、宗教的権威が科学的探求を抑圧し、知の停滞を招きました。現代においても、宗教的信念や政治的イデオロギーが科学的事実を否定する動きが見られることは、歴史の教訓を無視する危険性を孕んでいます。

    特に、キリスト教福音派や極右勢力が科学を否定する傾向は、気候変動問題や進化論教育の場面で顕著です。これらのグループは、宗教的・政治的信念に基づき、科学的コンセンサスを否定することがあります。その結果、政策決定において科学的根拠が軽視され、社会全体の利益が損なわれるリスクが高まります。

    しかし、人類が再び科学を捨て去るかどうかは、私たち一人ひとりの行動にかかっています。科学的リテラシーを高め、批判的思考を養うことが求められます。また、科学者や教育者は、一般市民との対話を深め、科学の重要性を伝える努力を続ける必要があります。

    歴史は繰り返すと言われますが、同じ過ちを繰り返さないためには、過去から学び、現在の行動に反映させることが重要です。科学の否定は、社会の停滞や後退を招く可能性があります。私たちは、科学的探求と知識の蓄積を尊重し、未来への道を切り拓いていく責任があります。

  • Wikipedia引用なんて可愛いものかもしれない

    私の勝手な想像ですが、今年、もっというとこの数ヶ月間において、大学教員の間で学生のレポートに関する悩みの質が大きく変化してきたのではないでしょうか。その変化は、デジタル技術の進化と密接に結びついているように思えます。

    かつて彼らが頭を悩ませていたのは、Wikipediaからの無断引用でした。学生たちは、何の疑問も持たずにWikipediaの記事をコピー&ペーストし、それを自分の考察であるかのように提出してきました。確かに、その時点でも問題は深刻でしたが、今から思えば、それは比較的対処しやすい課題だったのかもしれません。

    なぜなら、Wikipediaからの引用には、はっきりとした特徴があったからです。まず、文体が不自然に変化します。学生の稚拙な文章の中に、突如として洗練された百科事典的な文章が現れる。その落差は、経験のある教員であれば一目で判別できました。また、同じ科目を受講している学生たちの間で、不自然なほど似通った記述や引用が見られることも、重要な手がかりになりました。

    しかし、2024年の今、状況は一変しています。生成AIの普及により、レポート作成の「お手伝い」は、はるかに高度化し、かつ発見が困難になってきました。

    特に警戒すべきは、部分的な利用です。全文をAIに生成させる場合、それはそれで不自然さが目立ちます。ところが、序論だけ、結論だけ、あるいは特定の章だけというような部分的な利用の場合、その発見は途方もなく困難になります。さらに、最近の生成AIは文体の模倣も得意としています。学生の普段の文章に近い調子で文章を生成することも可能なのです。

    ある大学の調査では、提出されたレポートの30%以上に何らかのAIの関与が疑われるという結果が出ています。しかも、その多くが部分的な利用だというのです。これは、氷山の一角に過ぎないかもしれません。

    しかし、より深刻な問題は、この状況が学術研究の世界にも及びつつあることです。プロの研究者による論文でも、AIの不適切な利用が疑われるケースが報告されています。実際、最近では信頼性の低い論文の撤回が相次いでいるといいます。

    考えてみれば、研究者にとって、論文の本数は重要な評価指標の一つです。特に若手研究者は、限られた時間の中で成果を出すことを求められます。そのような状況下で、AIという「便利な道具」が存在するとなれば、その誘惑に駆られる人が出てくるのも、ある意味で自然なことかもしれません。

    問題は、そのような「似非研究」を見分けることが、従来の手法では難しくなってきていることです。AIは、既存の研究論文を学習データとして、それらしい論文を大量に生成することができます。形式的には完璧で、一見すると学術的な価値があるように見える論文が、今後ますます増えていく可能性があります。

    これは、学術界における一種の「インフレーション」と呼べるかもしれません。かつての商業出版では、「重版出来」が作家の誇りでした。しかし、電子書籍の時代において、その言葉は徐々に意味を失いつつあります。同じように、論文の「数」自体が、研究者の評価指標として意味を失う日が来るのではないでしょうか。

    いくつかの学会では、すでに新しい評価基準の検討を始めています。量的な評価から質的な評価へ。これは、AI時代における学術界の生存戦略の一つになるかもしれません。

    究極的には、私たちはAIとの新しい関係性を構築していく必要があります。AIを、考えるためのツールとして使う。答えを出すためではなく、より良い問いを立てるために活用する。そのような使い方が、今後ますます重要になってくるでしょう。

    Wikipedia時代の剽窃対策は、すでに確立された手法があります。しかし、AI時代の「真贋」を見分ける目は、まだ私たちの手元にありません。その意味で、今の状況は過渡期と言えるでしょう。新しい技術と、それに対応する新しい倫理。その両者が確立されるまでの道のりは、決して平坦ではないかもしれません。

    しかし、そこで立ち止まるわけにはいきません。技術の進歩は、常に新しい課題を私たちに突きつけてきました。その都度、私たちは知恵を絞り、対応策を見出してきたはずです。AI時代の学術研究においても、必ずや新しい指針が見えてくるはずです。そう信じて、試行錯誤を続けていくしかないのではないでしょうか。

  • 生成AIは自ら考えない者を助く?

    「自分で考えなさい」

    私たちは幼い頃から、この言葉を何度となく耳にしてきました。家庭、学校あるいは職場など、多くの状況でいつも言われるような言葉です。いつの時代も若者は、自分で考えないとか、マニュアル人間だとかいったレッテルを貼られて、そのついでにこの言葉を言われてきたものです。この言葉は、大げさに言えば、「自律した人間」になるための重要な教えとして、私たちの価値観の形成に大きな影響を与えてきました。

    しかし、生成AI時代の到来により、この「自分で考える」という行為自体の価値が、大きく変容しようとしています。

    今までnoteに書いた文章に、何度か、

    テクノロジーは困難を解決するためにある

    と書いてきました。それは生成AIにも同様に適用されるものではありますが、「考えること」を「困難」と見なすのは、これまでの常識からの考えると難しいように思われます。

    とはいえ、これまでの人類は既に、様々なものを自分自身が行うのではなく、機械(コンピュータ)に任せてきました。

    移動は自動車や電車に。
    計算は電卓に。
    筆記はワープロに。
    記憶はコンピュータに。
    情報検索は検索エンジンに。
    道案内はカーナビに。

    これらのテクノロジーと同じように、

    思考は生成AIに。

    という時代が始まりました。

    ここで重要かつ注意が必要なのは、生成AIを効果的に活用できる人とできない人の違いです。

    これまで自分で考えて行動に移してきた人にとっては、思考の一部を生成AIに委ねることに抵抗感があるでしょう。

    それは「自分で考える」という子どもの頃から根付いてきた習慣が、むしろ足かせになっているからです。既にそれなりに成功したポジションにいたり、それに近付いている人ならなおさら、「自分で考える」ことが当たり前だと思っているでしょう。

    完璧な答えを自分の中で完結させようとする。
    細部まで考え抜こうとする。
    安易に他人を頼らない。

    これらの特性は、従来では大きな強みでした。しかし、これからの生成AI時代には必ずしもそうとは限りません。

    対照的に、生成AIをうまく使いこなしている人々には、逆に「適度に委ねる力」を持っているはずです。

    完璧を求めすぎない。
    細部にこだわりすぎない。
    AIの出力を受け入れ、それを土台に発展させていく。

    これは決して「考えることを放棄する」ということではありません。むしろ、「どこまで委ねるか」という新しい形の思考が求められています。

    重要なのは、「考えない」ことではなく、「何を考えるか」を考えることです。
    生成AIに委ねられる思考と、人間にしかできない思考を見極めること。
    そして、その両者を効果的に組み合わせていく能力こそが、これからの時代に最も求められるものです。

  • 武は人に必要なもの、文は人間に必要なもの

    「文武両道」という言葉は、元はその名の通り学問と武芸のどちらにも優れている様を表す言葉ですが、現代日本において使われるシーンとしては、学生や生徒が勉強もスポーツも出来る場合によく出てきます。

    学問と武芸をもっと抽象的にすると、人の身体的な能力と頭脳的な能力に変換出来るでしょう。そしてそれはどちらも人にとって必要なものです。

    身体的な能力がないと、人が「ヒト」=「ホモ・サピエンス」になることはなかったでしょう。人類が生き残って来られたのは、「武」があってこそです。

    その一方で、ヒトが社会を形成し、発展してきたのは「文」によるものです。社会の運営に必要なルールや制度を運用し安定させるには間違いなく頭脳的な能力が必要です。

    人間が生き残り、社会を作っていくには、トータルで見れば「文武両道」でないといけないのです。

    ところで、「文」の文字には意味が複数あります。読みかたも、ふみ、あや、ブン、モンなどと分かれています。

    複数ある意味には、文字や言葉以外にも、飾り、模様、学問や芸術・教養などがあります。社会を作るには文字や言葉があって当たり前ですが、文とは飾りであり、人間が社会を生きるためには必要なものです。

    昨今では教養の必要性は説かれなくなりました。専門的、実践的、現実的な学問ばかりが重要視されていますけれど、生きるために必要なものだけしかなければ人間とは言えないでしょう。

    教養=文があってこその人間であり、文=飾りをなくした社会の行く末がどうなるか。

    結構分かりきった未来だと思うのですけれどね。

  • 宅建士の登録実務講習を申し込んだ

    しばらく後にしようかなと思っていた登録実務講習ですが、1月に受講することにしました。年末年始の時間にダラダラと必要なテキスト読みしておけば楽かなと思ったことと、夏頃まで待ってしまうと、むしろ受講しやすい講座・教室が無くなってしまうのではないかという懸念があったからです。

    Google検索で出てきた中で、
    日本宅建学院【日本ビジネス法研究所】

    https://bho.co.jp/

    を選びました。特にそんなこだわりがあるわけではありませんが、大阪での会場がエルおおさかということで、自宅からは梅田よりも天満橋の方が楽なため、こちらにしました。また、修了証が当日発行、日程変更も無料で出来るというのはありがたい。安いけれど日程変更不可、というところもありましたので、その辺は好みですね。

    実際には、エルおおさかで登録実務講習を開催している業者は何カ所もありました。なんでなんでしょうね。大阪府宅地建物取引業協会が徒歩5分くらいという近さだからなんでしょうか?

    ともかく、

    https://bho.co.jp/jitsumu/jitsumu.html

    こちらのページから申し込み、振り込みも済ませてしまえば後は待つだけです。日曜夜に申し込んだところ、月曜朝にはメールでの連絡があり、火曜には資料がレターパックライトで到着しました。

    中身は、
    ・スクーリングの案内(兼受講者票)
    ・登録実務講習テキスト
    ・通信演習課題&解答解説
    ・DVD
    ・勉強の要領について
    でした。

    よく調べずに申し込んだため、動画講義がWeb上ではなくDVDだとは思っていませんでした。

    DVDかあ、プレイヤーは今は持っていないし、PCに接続する外付けドライブはあるけれど、接続するの面倒くさいな・・・。

    と思っていたら、「勉強の要領について」に

    また、DVDは登録実務講習でご勉強する概要を説明したものです。
    PC等でご覧になれない場合、登録実務講習テキスト等に全て書かれておりますので、問題ございません。

    と書かれていました。・・・? 何のために・・・? 分かりやすいんでしょうか。

    ともかく、DVDはわざわざ見なくても良いらしいので、テキストをちゃんと読んで課題を解いておきます。

  • 「罰ゲーム化」が進むサッカーW杯開催

    FIFAが先日、2030年及び2034年大会の開催地について発表しました。

    2030年の男子ワールドカップはスペイン、ポルトガル、モロッコの3ヶ国共催となりました。この3ヶ国は隣接(スペインとモロッコはジブラルタル海峡を挟みますが)していて、それほど離れていません。2026年北中米大会よりは移動距離が短くなるはずです。

    しかし、この3ヶ国に加えて、ワールドカップ100周年を祝うためにウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチンの南米3ヶ国でも開幕戦として1試合ずつ開催するそうです。

    いや、6ヶ国共催やん。しかも10,000万キロくらい離れてるで。

    この南米での試合に出るチームは、その後の移動が大変過ぎます。100周年記念というなら、そもそも南米で開催したらええやん。出来る南米の国が無かったのかも知らんけど。

    ともかく、2030年大会は試合間の移動に悩むチームが最低6チームはいるはず。

    次に、同じFIFA臨時総会で2034年大会の開催地がサウジアラビアになるという発表もありました。2022年大会に続いて、アジア(但し中東)での開催となりました。

    サウジアラビアについては、独裁国家による人権侵害に関して懸念があるということで、かなり以前から批判されていましたが、結局FIFAが強行した形になります。まあカタールでやったんだからサウジアラビアでも良いでしょ、という気はしますが、カタールよりもサウジアラビアの方がかなりイスラム教的な戒律が厳しく、外国人観光客に対する締め付けも異なります。

    カタールやUAEなんかは、現地のムスリムはともかく、外国人観光客に対してはそんなに厳しくなくて、酒類も飲めます。しかしサウジアラビアではほんのごくわずかな例外を除いて、外国人(非ムスリム)でもアルコールを飲めません。アルコールって元はアラビア語由来なのにね。

    それ以外にも外国人観光客の服装にも厳しく、肌が露出する服装をしていると逮捕されることもあります。酷暑と日焼けの対策として全身を衣類で覆うのは理にかなっていますが、守らない人が出てきてトラブルに発展することが容易に予想できます。

    ともかく、FIFAがサウジアラビアを選んだ以上はそこで実施するのでしょうけれど、出場48ヶ国に拡大して、スタジアム要件もかつてより大幅にグレードアップしてしまった次回以降のワールドカップは、開催できる国が限られます。1ヶ国で開催するなら、サウジアラビアのように政府が国民の意思に関係なく支出してスタジアムを建設出来るような国でしか無理でしょう。

    ちなみに、FIFAワールドカップ招致手引書によると、開催国としてのスタジアム要件には、こんなものがあるそうです。
    ・収容4万人以上の会場が12カ所必要
    ・準決勝は6万人以上が観戦可能な規模の競技場で行う
    ・開幕戦と決勝戦は8万人以上が観戦可能な規模の競技場で行う
    ・スタジアムの屋根が客席を覆う範囲、控室の設備、観客が利用する場内のトイレ、バリアフリーなどに至るまで細かい条件がある
    ・総試合数は80試合

    ・・・日本の単独開催は永久に無いでしょうね。

    FIFAのサイトにあった、サウジアラビアの入札評価報告書によると、スタジアムのプロポーザルも出ていました。15個のスタジアム提案のうち、既存のものは4つ、建設中が3つ、計画段階が8つでした。9万人超が1つ、7万人超が1つ、後は全て4万人台なので、招致手引書の要件を満たしています。https://digitalhub.fifa.com/m/51d8a13714827f1d/original/FIFA-World-Cup-2034-Bid-Evaluation-Report.pdf

    2030年の入札評価報告書もありました。https://digitalhub.fifa.com/m/1213a790af2911ab/original/FIFA-World-Cup-2030-Bid-Evaluation-Report.pdf
    こちらでは、スタジアムは20個提案され、
    11万人超が1つ
    10万人超が1つ
    7万人超が4つ
    6万人超が2つ
    5万人超が4つ
    4万人超が8つ
    であり、既存(改築中含む)のものが19個あり、まだ出来ていないのが11万5,000人収容予定のスタジアムだそうです。カサブランカに出来るらしいですが、ワールドカップ後どうすんだろうと勝手に心配してしまいます。

    さて、FIFAは人口の多い中国に本大会出場を果たしてもらいたいと願っているでしょうけれど、2002年大会の後は実現出来ていません。現在開催中の2026年大会予選では、アジア枠が増えたこともあり悪くない位置にいますが、なかなか厳しいでしょう。いっそのこと開催国にしちゃえば良いと思うのですが、中国自身が立候補しない以上はどうしようもありません。

    今後の人口増加のことを考えると、アフリカ諸国での開催が見込まれてしかるべきなんでしょうが、今度は収容人員以外のスタジアム要件や交通網、インフラなどが問題になります。スタジアム12個というのは、事実上、それだけのインフラが揃っている都市が12個あること同義ですので、アフリカでも1ヶ国ではなかなか難しいのではないでしょうか。

    そうなると、これからは共催がデフォルトとなり、たまに1ヶ国開催されると言う感じでしょうね。どこの国の政府も、まともな思考回路を持っていたら1ヶ国開催なんてやりたくないでしょうけれど。